空海「字声実相義」を読む(2)
(原文)文字の所在は、六塵その体なり。
(読)文字の在りかは、色・声・香・味・触・法の認識対象がその本質である。
(解)言葉は六つの認識対象に存在します。順に眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という六識の対象です。そのため六境ともいいます。塵の字を用いている理由は私たち凡夫がこれらの認識による煩悩にとらわれているから。すなわち、人の持ち物を見てうらやましく、悪評を聞いてガッカリし、いやなにおいをかいで不快を感じ、味で惑わされ、体の不調で元気が出ず、心が燃えない…。こんな悩みの中にドップリ浸ってしまったら大変です。こんな時、古人は「六根清浄、六根清浄」と唱えて悩みから脱却しようとしました。とらえ方を変えて、人のものを見ても、自分には似合わないかもしれない、努力して将来手に入れよう、と考えたり悪評も評価のうち、ととらえたりすることだって可能です。それらの悩みの発生源が文字そのものだというのですから、私たちは便利さと悩みを同時に手にしているのです。ラカン流に言えば「人間は言葉に寄生されている」ことになります。脱却する方法はアンナ・フロイトが発見した「自我防衛機制」を発令すること、とは言いながらも「似合わないかも…」と合理化して考えてしまうところが人の人たるゆえん。そんなものを見たり聞いたりしても何にも感じなくなる。それは仙人の境地に至った人だけに可能なことです。