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2011年6月の10件の記事

2011年6月27日 (月)

母の願い

「自分の子どもを石川遼のような人物に育てたいがどうしたらよいか」という質問がセミナーで一番多く寄せられる。石川遼のどういう点を育児に活かしたいのですか?と聞くと

①言葉遣いの正しさ

②一つのことに打ち込んでいる

③上昇思考の高さ

と返ってくる。

それでは教えましょうと言って、その対応法をお母さんたちに伝えているが、大切なのはその根拠をしっかりと持っておくことですよ、と添えることにしている。なぜならば、子どもたちがスポーツではなく、違う分野に興味を示した場合の対応が変わってくるからである。三つの点の根拠にあるもの、すなわちお母さんたちの心の中にある願いこそが子どもたちの人生を形づくっていく源になるからである。

2011年6月21日 (火)

仕事

 さまざまな幸福論の書物には、仕事イコール幸せと書いてある。自分の仕事を見いだせた人は幸せであるが、見いだせない人はどうすればいいのだろうか。

仕事を見出せないから本を読んでいるのである。しかしその方法については書いてない。書物とは、見いだせた人たちが書いたものだからだ。

反対に、暗中模索時代にいる人も、悩んでいる人の活路を見いだすことはできない。今の仕事の価値感を一切捨てて、本人の暗中模索時代ととことん付き合える人だけが相談相手になれるのである。要するに、ああでもない、こうでもないと、とめどない話に寄り添ってあげられる人のことである。マラソンでいえば伴走者がそれに相当するだろう。この場合、伴走者が「私ならこうする」と言わないことだ。それは伴走者の価値観であって、本人のものではないからだ。

どうしたらいいだろう、という問いかけには「あなたならどうしたい?」と返すこと。返された本人は、投げかけた問いが自分に戻ってくるので、仕方なくもっと深く考えるようになる。そのようにして鏡になってあげることが、本人をより成長させるきっかけになるのである。

2011年6月16日 (木)

目標

 将来どんな人生を歩むかという指針を与えるのが父である。教師になれ、科学者になれ、医者だ弁護士だとその職種はさまざまだが、親自身がなりたくてもなれなかったことか、自分の価値観で提案したことがほとんどである。これらの指針は一つの目標に過ぎず、あくまでも参考だ。

たとえば、サッカー選手になれ、と親が言ったとしよう。子どもにとって親の一言は絶対だから必死にサッカーに打ち込む。親も提案した手前、応援もするだろうし道具の購入にも積極的となるだろう。子どもはこうしてサッカーを続ける場合もあるが、センスや体力面から「これは自分には合わない」と感じることもある。そこで他のスポーツを試みる。それでも違和感を覚えれば、選択の分野を変えていく。このようにして子どもたちは思考錯誤を重ねながら自分を見出していくのだ。サッカー道具がお蔵入りすることもあるかもしれないし、親の欲望を満足させない場合もあるだろうが、試食の時期であるから受け入れるべきである。

どもはこうして自分に合うか会わないかの見極めをつけていく。たったひとつの指針がその子の人生を決定することもあるが、一度決めたからといって無理なものは無理ということも当然のことながらあるうる。親は目標の一つを指し示し、承認と賞賛を与えるだけでよい。自分で決めたり、見切りをつけることも自主性を育てる大事なチャンスなのである。

2011年6月15日 (水)

父と娘

16歳の娘は私と腕を組んで歩くんだ」と話している父親の話を耳にした。知り合いとすれ違うと「援交か?」と疑われることもあるという。この父親はこの娘の母親、つまり妻との仲がうまくいっていないのだ。妻も娘に父親を押し付けていることになり、正常とは言い難い。

夫婦は常に仲睦まじくあるべきだ。夫婦の仲が良いと、子どもは間に入っていくことができず、仕方なく他の異性を探し求めることになる。これが正常。

娘にとって父親の話題、経験、人脈、経済力は、彼女と同世代の男性とは比較にならず、物足りなく感じてしまうのだ。

こうして育てられた子は将来、普通の男性にはまったく関心を示さず、男性社会で同僚と肩を並べて活躍するキャリア・ウーマンの道を歩むことになるだろう。

お父さんダサイ、くさいといわれるのが正常ということになる。能なしでは父親失格だが、尊敬されつつ距離を置くくらいがよい。娘を恋人にしてはいけない。淋しさを慰めてくれるのは妻ひとりである。

2011年6月14日 (火)

注意引き行動

 40代母からの相談。中学2年生の男の子が自宅の駐車場の真ん中に自分の自転車を置く。保育士である母が勤務を終えて車で帰宅するたびにこの自転車が邪魔なのだ。そのたびに車から降りて脇によけてから車庫入れする。そのうちに気づいてくれると思っていてもなかなか脇に置いてくれないという。どうしたらよいかという相談。

 私はお父さんは不在がちで、お母さんとのコミュニケーションも取れていませんね、と確認したところ、夫は単身赴任で海外に居るとのこと。自分も一日中仕事で不在がちであると答えた。

 あなたのお子さんは母にかまってもらいたがっています。お母さんのまなざしを欲しているのです、と解釈したところ、自分は仕事から帰ってきて食事を用意しては、また夜間仕事に出かけるので、子どもと接する時間などはないという。これは注意引き行動と言って、大きくなると自分に注目して欲しいなどと言えないかわりに、わざと母の目を引く行動をとること。すなわち注目して欲しいという心理状態を表わしている。宿題をやったくらいでは注目されないといった場合、子どもたちはしばしばこうした行動に出る。それでも注目してくれなかったり、注意してくれないと、行動はさらにエスカレートしますよ、と答えた。

ちゃんと注意してあげること、こうしておいてほしい、その理由はこうだと筋道を立ててこちらの要望を伝えることが大切だ。怒るのではない、冷静に対処し、こちらの考えを伝えることを提案した。

子どもたちはお母さんのまなざしの中でしか成長できないということをこの子は訴えている。目をかけ、声をかけ、声を聞いてあげることで子どもたちは人として成長していくのだ。

2011年6月13日 (月)

父の出番

子どもが塾で友達のペンケースを隠してしまったことから相手の子とのトラブルが発生し、母親がたびたび謝罪してもいやがらせがやまず、とうとう通塾禁止となってしまった。母親は塾を換えればいいのか、勉強が嫌いでこんなことをしたのかなどと子どもの問いつめても笑って答えないという。

私は勉強の問題ではありませんよ、対応を間違えるといやがらせはエスカレートしますよ、と説明したが、その後学校でもトラブルを起こしたという。塾、学校などは子どもにとっては「社会」だ。この世界は父の世界である。お父さんはこんな時のためにいるのだ。

2011年6月11日 (土)

恋愛

 高校生たちとすれ違うたびに、彼らの話題が耳に飛び込んでくる。勉強、先生、恋の話、これがベスト3だ。前二者は本人に課せられた「役割上」仕方あるまい。ではなぜ若者は恋の話をするのか。身を焦がしてしまうので胸に秘めてはおけないのだ。友達に恋の話を聞いてほしいのだ。そうしないと、自分の身が焼き尽くされてしまうからである。異性など人口の半分はいる、などというのは野暮であって、かれらは青春の真っただ中にいるのだ。

身を焦がす恋愛の経験が豊富にある人たちがいる一方で、そんな経験がないか、もしくは禁止されてきた人たちがいる。その人たちはある共通した趣味をもち、そして行動する。

恋の経験があるからこそ、人の悩み、苦しみ、痛みが理解できるのではないか。そんな話の数々を受容し、共感と理解の心で聞いてあげられる人になってほしいものである。

2011年6月10日 (金)

敏速・適格・オールOKで対応する

子どもたちからの申し出には敏速・適格・オールOKで対応することが大切だ。自分専用の自転車を買ってほしいといったらすぐに買うことが原則。お母さん方にこういう対応法を説明すると、かえってくる声は「わがままになりませんか?」というもの。むしろわがままになってほしい、と私。自分を出すようになってきた証拠だから、即受け止めてあげることです、と説明する。

主張しない子の方が問題だ。お母さんがわがままと受け取るか、自己主張と受け取るかで、この子の将来が決まるといってよい。無理に拒否すると、この子の心の中に、主張すると相手の拒絶に出会う、という言葉が刻み込まれる。でも欲しいものは欲しい、「欲しい、欲しい」が積もり積もって山のようになる。将来、自分でかせげるようになった時、その時の不満を取り返そうと過剰に買ってしまう。しかしその時代に得たものではないからさらに買う。しかしやはり違う…という反復行為をする。これが買い物依存症だ。過剰に地位や金銭にこだわるのもそうである。小さい時の要求の額は大人の比ではない。小さなうちにそれを叶えてあげることで、両親や他人への信頼感を得ることになるのである。

2011年6月 7日 (火)

 昆虫学者の話によると、地面を歩きまわっている蟻の総数のうち働いている蟻は3分の1にすぎないという。あとの3分の1はただ歩いているだけ、残りの3分の1はどこかでじっと固まっているのだという。理由は簡単、全員の蟻が働いてしまうと蟻の巣はエサだらけになってしまうからという。

そこで、よく働く蟻だけを集めると、その中でもやはり3分の1の蟻だけが働き、歩きまわるだけの蟻、サボる蟻という3分の1ずつの比率になるというのだ。

 人間社会にたとえてみよう。皆で会議室の机を片づけるとする。部屋に机が10台あり、この中に30人いたとする。この机を片付けるには10人で済む。10人が作業にあたってしまったら、他の10人は手伝う気はありますよという態度をとる、すなわちウロウロ係を演じる。残りの10人はただ眺めるだけとなる。もし全員が作業にあたったら机のとり合いになるか、ぶつかり合って混乱することになる。

そこで眺めるだけの人達だけに集まってもらい、別の会議室の片づけを頼めば、この人たちは生き生きとやってくれること間違いなしだ。

社会人全員が働いたら、仕事の奪い合いになってしまうのだ。その混乱を防ぐために、サボる連中は「仲間に仕事を与えるために」サボることになる。サボる人も社会が円滑に運営されるためには、重要な存在なのである。

2011年6月 6日 (月)

子どもの願い

 アパートの駐車場から小さな子どもの泣く声が聞こえる。2歳になる女の子が保育園に入れられるのだ。女の子はママ、ママ!と叫びながらしがみついている。パパはその子を引き離そうとする。力の差は歴然、しがみついている子の指を一本ずつ引きはがしているのだ。これこそ「母性剥奪」の現場にほかならない。文字通り「剥がされて」いるのである。引き離された子どもはクルマとともに保育園へと走り去った。この儀式は毎朝繰り返され、1週間後にはとうとう泣かなくなった。2週間後には自分で車に乗り込んでいく姿が認められたが、その動作はいかにも緩慢だ。あきらめたのである。

これは泣き叫ぶ(抗議)、泣かなくなる(絶望)そして無気力になる(離脱)という一連の心理の流れを表わしている。

子どもにとって両親とは、最初に出会う他人である。その人物が自分の要求を聞き入れてくれなかったとしたら、この子は将来、他人への親密感、信頼感を得ることはないだろう。表向き、信頼しているように振舞うが、心の底では疑い深い人になるだろう。

 この子は第2子。上の男の子も同じように剥奪させられているのだ。同じ両親のもとで養育された子どもは、同じように育てられる。この両親も同じように母性喪失している可能性があるのだ。子どもたちは要求している、というより叫んでいる。いつもママと一緒に居たい、と。

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