成功も失敗も
なでしこジャパンがスウェーデンに3-1で勝った(7/14)。前半、澤の守備ミスから先制点をあげられたことをバネとして澤は見事に、同点ゴールを押し込んだ。守備の失敗が彼女に勝利への意欲をかきたてたのだ。
よく「失敗は成功の母」というが、これでは「失敗」が前提になってしまう。失敗を恐れないためには、失敗も成功もすべてまるごと受け入れることだ。子どもたちがテストや試験に失敗しても「それでいいのだよ」のひと言で受け入れる心を両親は持つことが大切である。
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なでしこジャパンがスウェーデンに3-1で勝った(7/14)。前半、澤の守備ミスから先制点をあげられたことをバネとして澤は見事に、同点ゴールを押し込んだ。守備の失敗が彼女に勝利への意欲をかきたてたのだ。
よく「失敗は成功の母」というが、これでは「失敗」が前提になってしまう。失敗を恐れないためには、失敗も成功もすべてまるごと受け入れることだ。子どもたちがテストや試験に失敗しても「それでいいのだよ」のひと言で受け入れる心を両親は持つことが大切である。
目も見えず、聴覚もまだ十分とは言えない新生児が母をどのようにして知覚するのか。それは匂いであるといわれている。赤ちゃんの家庭に漂うあの匂い。それ赤ちゃんにとって心地よいのだ。母が抱きあげてくれる居心地の良さと共に、母であることを認知する。その繰り返しの中で居心地のよさと共に母を記憶する。それは安心の基準となり、母と他者とを区別する重要な情報となる。だから養育者は母一人、と決めておくことが望ましいのだ。いろいろな人に抱っこされると赤ちゃんが混乱するからである。臭覚に対する敏感さ、安心感への信頼を養うために母の匂いの重要性にもっと気づくべきであろう。
今までいないと思っていた人が突然姿を現わすことがある。恋心を告げられた時、えっ、こんな人が同学年にいたの?などがそれである。いたけれどいない。これを関係性という。この場合両者には関係性が無かったということになる。
関係性の最初は誕生である。子と母との関係性の始まりである。まなざしと、声掛けと、スキンシップによって関係性は強く結ばれる。恐いまなざしや「わがままを言う子はうちの子じゃない!」などという言葉のもとでは絆は生まれない。親の言葉は強く子供の心に残る。子どもをまるごと受け入れる。それでいいのだよ、生まれてきてくれてありがとうという気持ちをズーッと持ち続けることである。母の愛は永遠といわれる由縁である。
クライエントのエピソード。昼寝をしていたらとなりの部屋から祖母と母親の話し声が聞こえる。自分が飼っている黄色いセキセイインコの色を非難しているという。他の話は一切聞こえず、その話だけが耳に飛び込んできたという。「寝ていても聞こえるのですか?」には「もちろんです。壁に耳ありの証明ですね」と私は答えた。人の悪口は一切言わないことだ。プラスのことだけを会話の中で使うべきなのである。
子どもはすべての話を聞いている。遊んでいようが、食事中、果ては睡眠中でさえ大人の話を聞いている。
家庭には第三者を入れないのが原則である。ひとを招待して家庭の葛藤を回避する場合もある。それはいっときの気休めにしかすぎず、葛藤はいずれ回帰してくるだろう。第三者の名前を出すことも同様に避けるべきである。この子が父親の会社に行ったときに「あんたが○○?」と呼び捨てにした例があった。これでは人を尊重するとはなにかを学ぶことができない。
言葉を覚える以前から子どもは大人の話を聞いている。もちろん、母のおなかの中にいる時からも聞いているのだ。生まれてきてくれてありがとう。承認と賞賛の言葉をかけられながら育てられることが理想である。
人間関係の基本は安心・安全・信頼である。これらは二人の間に関係性が生じた時にのみ得られるものである。同じ電車に乗り合わせたり、道ですれ違っても、そこに関係性が生じなければ、相手はただそこにいる人にすぎない。ところが会社の同僚、地域の会員などとのつながりが生じた瞬間に、その人との間に関係性が生じる。
この世に生れて最初に結ぶ人間関係は母子関係である。この母子関係が人と人とのつながりを結んでいく上での最初の関係だ。その関係の確立に失敗したらどうなるであろうか。泣いても母乳を与えられない、抱っこしてくれない、見つめてくれない、施設に預けられるといったことが日常的になれば、この子は成長してから人を信頼しないようになるだろう。男性ならば女性恐怖症になる可能性は高いといわざるを得ない。常にあたたかな母子関係を保つことが、その人の今後の安心・安全・信頼を得る基本になることは間違いがないのである。
写真家A氏は独特のアイディアと迫力のあるシャッターチャンスによって一世を風靡した写真界の鬼才だ。広告会社の写真部に勤務していたが、自分の写真を撮影したいという願望のもとに退社。しばらくは妻が働き、夫は街の風景を撮るために歩き回る生活が続いた。ところがある写真コンクールで最高賞を受賞してから生活が一変する。仕事が増え、時代の寵児として躍り出たのである。それと同時に妻の体調が悪化、亡くなってしまった。
この妻は夫を支えるために生きた人といえよう。長生きのためには、生活安定の実現後は、次の目標を設定すればよかったともいえよう。
働かない夫の面倒をよく見て尽くす女性がいる。昼も夜も働く女性の姿がある。その姿に悲壮感はなく、むしろ生き生きとしている。女性の側からすると「この人はわたしがいなければ生きていけない」というものである。男性は女性に依存し、女性は男性からの依存に依存している、これを共依存と呼ぶのである。
ここで男性が少しでも自立の意志をみせようものなら、女性は自分の存在価値がないと感じてますます男性を自立させないようにする。男性は女性の機嫌を損ねないようにますますダメ男になっていく。夫を自分の生きがいにしてはならない。男性は男性の、女性は女性としてのそれぞれの生き甲斐を見つけるべきなのである。
父とは審判員である。子どもと母親、兄や姉と弟や妹たちのどちらにも依怙贔屓することなく意見を聞きながらルールに違反した場合には指摘することだ。ゲームに審判員がいなかったらどうなるだろうか。互いが互いを主張して、ボールが線を出た、出ないという争いとなるだろう。
子どもがお母さんの料理に対して悪態をつくようなことがあったら「おれの大事な妻に何を言う!」とひと言いえば済む。子どもたちが甘えているのか、軽視しているのかはその場で判断する、まさに審判だ。
単身赴任で父不在の場合はどうするか。妻が「あなたたちのお父さんはすごい人」とだけ言う。不在を語ることで逆に存在を証明することになるからである。そのためには夫婦円満であるあることが望まれる。
ダブル・バインドは子どもたちを無気力にする。例えばこうだ。「勉強しなさい」と言いながら「天気が良い日は外で遊びなさい」という。勉強のポイントをつかみ始めた子は天気が良くても勉強し続けるだろう。宿題をやり終えれば、天気が悪くても外に出たくなるだろう。要するに、やる、やらないはすべて自分で決める、これがポイントである。
二重拘束されるとどうどうなるか。どちらもすることができず、体が縛り付けられたように動かなくなってしまう。拘束とはよくいったものである。寝ていれば寝ていることを受容し、夢中になっていれば夢中を承認する、これだけで子どもたちは自律性を身につけていく。
本質だけを見つめる、とはいいながら「うだるような暑さ」を「気温40度です」と言ったり、「煮え湯を飲まされる」に対して「本当に飲んだのか」と問い返しでもしたら話のわからない人といわれてしまうだろう。真実を告げるよりも、偽りを述べることの方がかえって力があるのだ。
20年以上も前、赤軍派によるJR○○駅襲撃事件があった。翌朝の新聞を見て腰が抜けるほど驚いた(これも言葉のあや)。新聞には「彼らはまず最初に西口を襲撃し、ついで東口に移動して自動券売機数十台を破壊した」と書いてあった。実際には、東口の自動券売機はその当時3台しかなかったのだ!記事として「3台を破壊し」では彼らの過激さは伝わらない。新聞は真実を述べるのが使命、一体真実はどこにあるのだろうか。
群馬県のある町に個人の美術館がある。東京からもバスで大勢の観客が訪れる名所だ。館内に入ると、作品を見る観客の様子が違う。作品を見ながら泣いているのだ。作品は、花などの絵を描いた余白に自由詩が書いてあるもの。例えばこんなふうにである。「何か大きな仕事をなし終えて心が満たされた一日と、何も得ることがなくただ何となく過ぎてしまった一日と、どちらにも価値を見出せる人間になりたい」他にも母を読んだ詩が多いので女性客には好感を持たれるのであろう。花は女性性を表わすから、男性の中の女性性(アニマ)を、書くという作業を通して自分の生を残そうという意欲の表れだ。
我々はこの世に何を残すことができるだろうか。ただ食べ、生きて死んでいくだけの人生でよいのだろうか。それも一つの人生であろう。何となく生きてしまった人生にも何か残すことがあるとすればそれは何だろうか。