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2011年11月の6件の記事

2011年11月25日 (金)

オウム事件

 オウム事件は先日の裁判によって一応の決着を見たが、多くのクライエントから「あの宗教に入ってしまう心理とは何か」「頭脳明晰な彼らがなぜそのような愚かな事件を起こすのか」としばしば聞かれた。
一言でいえば、彼らは主体性のない人たち、といってよいだろう。
地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺人事件などで殺人罪などに問われ、18日、最高裁で死刑維持の判決を受けたオウム真理教元幹部の中川智正被告(49)は、教団による事件の全公判が終結してから、新聞社に語った言葉には、彼らの主体性のなさが如実に表れている。
彼の語ったところでは、「このような事件を起こしてしまった理由を松本死刑囚の口から語ってほしい」というものであった。
ここには、自分で判断することができず、何事も他者によらなければ、決断することができない精神構造のぜい弱さが浮き彫りにされている。
主体性欠如者は、他人に操作されやすいのだ。もともと自分が無いところに、強い教えが侵入すると、あっという間に侵略されるてしまう。
自分が空虚なので、そこに他人の教義を持ち込まないと、生きている実感がしない。
自分をコントロールすることもできないので、他人に操作してもらうことによって、辛うじて自分の存在感を得る。
精神的にはからっぽの状態である。だから、自分の意見を述べようとしても、何も語れない。
それが「松本の口から語ってほしい」という言葉に表われているのだ。
頭脳明晰な人たちは、知識が豊富なだけで、単に知っているだけ。
知識とは本に書いてあることだが、世間では知識の豊富な人が頭脳明晰者と言われる。
本当の知とは、決断し、判断する能力のこと。
知識と知は全くの別物である。
彼らは幼いころから、命令指示のもとで育てられたのだろう。
命令指示があるうちは活き活きしているが、卒業し、自分で目標を立てなければならなくなると、急速にうつ状態になる。
目標を自分では立てられない彼らにとっては、大海に投げ出されたようなものだ。
そこに、強烈な命令指示を出す人物が目の前に現れると、途端に引っぱられてしまうのだ。
その命令が善であろうと、悪であろうと、構わない。誰だっていいのだ。
子育てでは、命令指示なしで育てるように、と、お母さん方に言っているのは、何でも自分で決められる子に育ってほしいからだ。
素直な子は、命令に従うのが得意なので、大人にとってはいい子である。
それが危ない。主体性欠如者が、長じてからの虚しさを埋めようとして善悪を考えず、他人の命令に従ってしまう精神構造を形成しやすいことを、中川智正被告は語っている。

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2011年11月17日 (木)

いじめ

 いじめる側にもいじめを受ける側にも、同じ葛藤がそれぞれの無意識には存在する。いじめる側は強さで相手を攻撃する。いじめる側の無意識には弱さが存在する。一方、いじめを受ける側は弱さが前面にある。それは「もし内在化されている凶暴さを出してしまったら爆発的なエネルギーを出すだろう。だから蓋をしておこう」となる。両者は鏡である。攻撃を加える側から見ると、弱い自分を相手の中に投影してしまって、消してしまいたくなり、それが相手への攻撃という形で一挙に噴き出してくるのだ。逆に、攻撃された側は、今まで無理やり抑えていたエネルギーの蓋が外れてしまい、一挙に爆発することになる。いじめられた子が逆にいじめっ子を殺してしまう事件の原因は、実はここにあるのだ。

 

2011年11月15日 (火)

まなざし

 目は心の窓だ。両親からのまなざしの受け方によって、温かいまなざしの子にも育つし、険しい目をした子にも育つだろう。温かいまなざしのもとで育てられた子は、人にも温かなまなざしを向けられる。逆に「お前なんかおまけ」などという目で見られて育てられた子は、人を見る時にも、この人も、きっとおまけなのだろう、と、見てしまうことになる。たまたま、目と目が合った瞬間に、自分をにらんだように感じる人は、その人自身が、非難のまなざしの中で育てられたことを意味している。人を人と感じられないために、人を道具のように利用しても、何も感じないのだ。感じていたら、そんなことはできなくなるのだ。搾取しても平気である。人が、自分のことを温かなまなざしで見つめてくれている、と感じることができる人は、幸せな環境の下で育てられてきたことになる。子どもたちには、温かなまなざしを掛けることが大切である。

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2011年11月 7日 (月)

失敗の心理

 失錯行為の例として次のようなものがあげられるだろう。ある人が手紙を書いたものの、数日間机の上に置きっぱなしにしてしまった。気がついて投函したものの、宛先を書き忘れていたので返還されてきた。宛名を書いて出しに行ったところ、今度は切手を貼っていないことに気づき、とうとうこの人は、どうしてもこの手紙を出したくないことに気がついたという。

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2011年11月 2日 (水)

間違いの心理

 日常生活で、何度も同じ間違いをしてしまうことがあったら、その行為に何らかの無意識が働いていないかを考えてみる必要があるだろう。どうしてもその人の名前が覚えられない、手紙のあて先を書き間違えてしまうなどといったことが無いだろうか。失錯行為は、本人のせいではなく、無意識がおこなった技であることを認めてしまえば、何だこんなことだったのかと思うことが多いものである。

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2011年11月 1日 (火)

遅刻の心理

 Aさんはあるフラワーアレンジメントの一日講習会に誘われたのだが、行きたくはない。乗り換えの駅に早めに着いたので、喫茶店に入って時間をつぶそうと思いついて入れば、友人がいるではないか。時間調整にはうってつけの相手が見つかったと思い、いろいろな話をしているうちに電車の発車時刻はとっくに過ぎ、遅刻するはめに。これこそが無意識がなせるといえるだろう。第三者が考えれば、行かなければいい、となるが、どんな人にも社会とのつながりがあることはいうまでもない。公と個との板挟みの中で人は暮らしているのだ。参加しないと、何か言われるのではないかという勝手な思い込みが、人をして遅刻という行動化へと導くのだ。

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