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2012年6月の30件の記事

2012年6月30日 (土)

気づき

カウンセリングは気づきの場面を提供するところである。人が、自分自身に気づくことには、無意識であるがゆえの困難さがある。カウンセラーはその部分にはあえて踏み込まない。
 ところが、対話を重ねて行く中で、カウンセリングが停滞したようにみえる時、一瞬の沈黙が訪れる。その沈黙を破るような話を語り出した瞬間、一挙にカウンセリングが進展することがあるのだ。
 そのときに何が起こっているかと言うと、無意識に蓋をしてあったものが一挙に取り払われるのである。
 「そうか、自分はそういうことで悩んでいたのだな」。胸のつかえが取れた瞬間である。
 心の中にもやもやしていたもの、自分でも分からなかった悩み、葛藤が姿を表わす。それを語った瞬間それらは雲散霧消し、今までとは全く違った自分が現われてくるのである。
 朝日が山の稜線できらりと光るような光景が、カウンセリングルームに現われる。次の瞬間、数秒前までの自分とは違った自分が現出するのである。
 この進歩、この感動こそが向上心の証明そのものである。

2012年6月29日 (金)

ヒーロー

子どもたちはヒーローものが大好きである。戦隊ものをはじめ、サッカーや野球のヒーローなどにあこがれる。女の子なら、アニメーションのヒロインや、歌手、モデルに自分を投影して過ごしている。
 彼らのあこがれているのは外側であるが、その中身を「言語」に置き換える能力はまだ持ち合せてはいない。
 その中身は、「闘い」であり「獲得力」「守り」「結束」という「力」に象徴されるものであり、「美」「装」という感性に訴えるものを内包している。
 彼らは、口々に「強そう?」「かわいい?」と聞く。大人たちからの承認と賞賛によって、「力」や「美」として象徴されるものを自己の中に取り入れていくのだ。子どもたちが持っている「無限の可能性」とは、このことを指しているのである。 

2012年6月28日 (木)

自己治癒力

人には、自分で治そうとする自己治癒力がある。いけないと知りつつ、今まで通りの生活を送ってしまうというのは、先の目標が見いだせないからである。
 なぜ見出せないかと言えば、見ようと言う意志が抑圧されているからである。汝、見てはいけない、向上してはいけないという、蓋がされているのである。
 その蓋とは、幼少時代からの習慣である。その蓋を取り外し、自由に振る舞えるようにするのがカウンセラーの役割である。
 蓋をとれば気持ちが楽になる。楽になれば何でも語れるようになる。語れば動き出す。重い機関車も、動き出せば慣性に従って楽々と走れるようになる。
 その快適さは、とどまっていたときとは比べ物にならない。その快感を味わった人だけが本当の「自由」の意味を理解することになるのである。

2012年6月27日 (水)

癒し

人は、話を聞いてもらうだけで癒されていくのである。自分の話にコメントを加えることなく、経験談もなく、ただ聞いてもらうことで、心の平安を取り戻すことができるのである。
 ところが、お茶飲み話しでは、本心を語ることができず、相手の話によって悩みや打ち明け話は同量となってしまう。
 激励の言葉や、人の成功談が自分の中の「気おくれ感」を増幅させてしまうことにもなりかねない。
 その場合、100%聞いてもらうことを、あらかじめ相手に伝えておくことが必要である。その相手は、利害関係に左右されず、他言しない人であることも大切な条件のひとつである。

2012年6月26日 (火)

気に病む

人の心は傷つきやすいくできている。他者のさりげない一言で落ち込んだり、反対に有頂天になったりする。人から、「そんなことぐらいで・・・」と言われただけで、気に病んでしまうことが多い。
 その時、心の傷付きから逃れるために、それを聞かなかったことにして、自我を防衛している。しかし、無意識的には、他者の言葉は心の中に侵入してしまっている。これがストレスの核となって、その後の心配事のきっかけになるのである。
 傷ついた心を解消するには、他者から言われた言葉を人に聞いてもらうことである。「そんなことがあったのですか」と、真摯に耳を傾けてくれる人を身近に持つことが、心の健康にとって重要なことである。

2012年6月25日 (月)

要求

子どもの要求に応えるのが大変で、朝から晩まで、要求が続きます、と訴える。「要求しないお子さんの方が問題ですよ」に、その場は納得されるのだが、現実に返るとまたまた元の黙阿弥の様子。
 要求しない子は、良い子を演じているだけで、心の中は、不満でいっぱいである。
 子どもたちが要求するものは、それそのものではなく、その向こう側にあるものである。それは、ほかでもない「母」である。「抱っこして」に、抱っこで答えればそれで済んでしまうことなのだが、「際限がないので、自分の方がまいってしまう」のである。
 「母の確認作業をしているのですよ」「これだけ答えてくれるのなら感謝しよう、というところまで徹底的に付き合ってみましょう」と説明している。
 「母は常に応えてくれる」を学習すれば、成長後、「親の言うことに常に応えてくれる」、これは事実である。

2012年6月24日 (日)

欲望

欲望を語る人は生きている。欲しいもの、行きたい場所、したいこと・・・語り始めたらとどまるところを知らない。
 反対に、欲望のない人たちは、「何も語ることがありません」と言う。欲望があれば、おのずと語り始めるはずである。
 かつて、彼らの欲望は禁止によって蓋をされてしまったのである。取り下げられた口惜しさは、心に深く刻み込まれ、もう何も語るまい、という決意を固める結果となる。
 そのときの欲望を、彼らは自分でも気づくことはできず、導くべき水路がない場合、そのエネルギーは誤った吹き出し口から、一気に噴き出すことになる。
 彼らは、「時に大声で叫びたくなります」とか、「胸の中がざわざわします」などと言うのは、この辺の事情を物語っている。
 「思いついたことを何でも語ってください」と促すのは、欲望の水路づけをするためである。語ることができれば、つかえが取り払われ、「思い切り言えてすっきりしました」と心が軽くなるのである。
 語り続けるまで、根気よく待ち続けること、これも、カウンセラーの大切な役割である。
 

2012年6月23日 (土)

生きがい

人は、いつ頃から生きがいを抱くようになるのだろうか。生まれる前からサッカーに興味を抱いていたり、勉強が好きだったとは考えにくい。
 そう考えると、誕生直後から他者の欲望を書きこまれていたと考えるほかはない。「サッカー選手になってくれたら」「勉強のできる子であれ」と。
 もともと欲望を持っていない子どもたちは、その言葉に従ってさまざまなことに自分を投入していく。
 その中で、他者から褒められたことを「快」と受け止め、不快なことは排除して、「快」感情を得えられたものだけを、その後の生きがいとしているのである。
 たった一つでもいい、褒められたことがあるかを思い出してみることだ。それが今日の趣味や、人生訓、生きがいの基礎になっているからである。
 

2012年6月22日 (金)

反抗

子どもの反抗は自己主張である。子どもの心の中の、「こうしたい」欲望と、「かくあるべし」という親の欲望とが衝突しているのである。この闘いは、どちらか一方が主張を取り下げるまで際限なく行なわれる。この闘いに勝利者はいない。
 多くの場合、子どもが屈服する形で終わることが多く、闘いが再三再四に及べば、子どもは自己主張することを諦め、「こうしたい」欲望を抱かなくなる。
 一見、家庭の平和が回復したかのように見え、親の威厳が示されたとも感じられる。
 ところが、子どもが「いい子」を演じることで、闘いを回避しているにすぎず、子どもの心に抑圧された欲望の火種は残されたままとなる。
 自己主張を受容してあげることで、子どもの主体は完成に向かって前進していく。本人の欲望を認めてあげることで、親の包容力を示してあげることもまた、親としての仕事である。
 

2012年6月21日 (木)

対話

赤ちゃんが泣いたら、母は世話をする。それが対話の基本である。赤ちゃんの要求を読み取るには、普段から赤ちゃんと接しながら、サインを正確に読み取ることが望まれる。これが言葉以前の対話である。
 このとき、泣けど叫べど母が対応してくれなかったら、赤ちゃんは自分のサインをエラーととらえ、不信を学ぶことになる。
 言葉を覚えるようになっってからは、「ただ今」と帰宅すれば「お帰り」と答える。これだけで、子どもは自分が迎え入れられたと感じ、またこの家に帰ろうと思う。
 このような当たり前の対話をすることから、親子のコミュニケーションは成り立っているのである。
 

2012年6月20日 (水)

太陽

母は太陽である。誰がいつから言い出したのか、母の性格を見事に表現している。変わらぬ愛情を注ぎ続ける「恒常性」は母の定義であるし、大きさ、暖かさ、円の形は、母そのものを見事に言い表わしている。
 太陽と地球の距離感もまた、絶妙な位置である。遠過ぎれば、冷たいし、近過ぎれば、生命は存在することができないのである。
 子どもたちに愛情を注ぎ続ける母は、この世にたった一つの貴重な存在なのである。
 太陽が熱を発することはあっても、太陽がこちらに求めることはしないところもまた、無償の愛そのものである。

2012年6月19日 (火)

自分自身を知る

人の心は、謹厳律直な面と、寛大な面とを持っている。ビジネスの場面では、正確無比な対応をしつつ、一緒にお茶を飲む場面では、胸襟を開いて人と会話を楽しむ、という両面あるのがよいのだ。
 場面に応じて両面をバランス良く使いこなすことが、人との交流には欠かせない。
 謹厳律直なまま帰宅されれば、家族はくつろぐことができないばかりでなく、家人の中の誰かが「怠け」だけを体現してしまうことにもなりかねないからである。
 反対に、日常会話はうまく交わせるのに、ビジネス面ではルーズでも安心は得られない。時と場合に応じて、両面を使い分けることが大切である。
 そのためには、自分自身を正確に知ることである。自分の心の奥に「怠け」の精神があることを自覚することで、人の心を理解できるからである。
 しかし、自分自身を知ることには、無意識であるための困難さがある。自分自身を正確に映し出す鏡となってくれる人を持つ必要があるのはこのためである。

2012年6月18日 (月)

自分が好き

自分が好きですか?という問いに対して「ハイ」と答えられる人は幸せである。「いいえ」と答える人は、謙遜しているか、それとも、そのような否定的なことを事実として、受け止めているのだろか。
 そんなときには、他者から褒められた記憶をたどってみることだ。
 他者のまなざしのもとで自己は構成される。すなわち、褒められることで、人は自分を好きになり、自分自身を「これでよい」と受け容れることができるのである。自分を好きになれば、他者のことも好きになる。そうした相互交流の中で自分自身が構成されていくのである。

2012年6月17日 (日)

人見知り

幼児の「人見知り不安」は、現われる時期から、「8か月不安」と呼ばれている。幼児が他人に抱っこされた瞬間に泣きし、とまどった経験を持つ方は多い。
 「8か月不安」は、母と他人との区別をつけ始める重要な時期である。すなわち、この人は安全だが、この人は違う人、という差を認識しているのである。
 安全がいかなるものであるか、他人とは何か、を実感していると言える。
 この時期、母と子が親密に過ごすような環境作りをしてあげることである。それによって、子どもは安心と安全を学んでいく。いろいろな人にかわるがわる抱っこされると、子どもは混乱し、自と他の区別をつけることができなくなり、将来、誰にでも抱っこされる人に育つことになる。すなわち、人を信じることができず、親密な交わりを避け、人を単なるものとして見てしまい、相手を操作することを学ぶことになるのである。

2012年6月16日 (土)

捨てる

ものを捨てることは、過去との決別である。幼かった自分、未熟だった自分との別れの儀式である。ところが、ものには意味がこめられているので、写真は単なる紙であり、かつて恋人がくれたTシャツは単なる布であることは分かってはいても、そこにはその人だけの思い出という「意味」がくっついているところが厄介である。
 その「意味」を捨て去ることができない場合が多い。「捨てれば新しいものが手に入りますよ」と説明するのだが、「どんなものですか?」と問い返されてしまう。そこで「それはあなたが望むような新しいものですよ」と言うと、「イメージできません」と言うので、「未来は創造すればいいのです」と答えている。
 人は実際に見え、触れるものしか確実と思えないのである。ところが、過去は実際にあった「事実」だから、大切にしてしまうとも言えるのである。
 空気の入れ替えをするように、古きを捨て、新たな自分を取り入れる、そういう勇気を持ってみたらいかがであろうか。

2012年6月15日 (金)

敏速な対応

店などで、こちらの要求に対して敏速な対応をしてくれたときの心地よさは言葉にいい尽せない。てきぱきとした手際良い包装や、流れるような案内は、一種の芸術ともいえるだろう。受容された要求は品物ではなく、私自身である。「大切にされた」という実感を手にしている自分は、今、快を味わっているのである。その快を今度は人にも与えようと言う気持ちになる。
 人は、自分がされたことしか相手にできない精神構造になっているのである。
 そんな体験を幼い子どもたちは持っていないのである。だからこそ、子どもたちには快を味わわせる対応をしてあげることが望ましいのである。
 その経験は快の蓄積となって、成長した時に、相手に与えることができる人として成長していくのである。

2012年6月14日 (木)

言葉

人は言葉によって生きている、。むしろ生かされている、とでも表現するよりないくらいに、人の心を支配している。「愛しているよ」「かわいいよ」の一言で子どもたちは明日への希望を見出し、大丈夫だよの声掛けで、自信が湧いてくるのである。
 つねに同じ言葉をかけ続けることによって、その言葉が内在化され、相手がいないときでも、頭の中で反響し、孤独の中にいたり、失意のときにもその言葉が出てくるのである。
 言葉はこのように人間を喜ばせたり、勇気づけたりする半面、とても不確実で、はかないものである。
 だからこそ、癒しや勇気を与えるような言葉をかけ続けることが大切なのである。

2012年6月13日 (水)

呼吸

人は呼吸をしなければ生きて行くことはできない。不要となった炭酸ガスを外部に吐き出し、肺を通して酸素を血液中に送りこむことで生命を維持している。
 同様なことはコミュニケーションにおいても行なわれている。溜めこんだ感情を外部に放出し、相手の言葉を体内に取り入れて心の平安を保っているはずである。
 このとき、自分の言葉を正確に聞いてくれ、心に生気を与えてくれる相手がいたらどんなに心は癒されることだろう。
 感情を放出することで、喜びは二倍に、悲しみは半減するからである。
 ところが多くの場合、「そんな話はもうたくさんだ」「もう聞きあきた」などと言われることが往々にしてある。そうなると、一度出した感情は体内に回帰し、精神に悪影響をもたらすだけではなく、感情を出さない防衛機制がはたらいて、心が感情でいっぱいになってしまうのである。
 放出すべき水路づけがなされていないと、そのエネルギーは別の水路を見つけて一気に放出されることになる。それが頭痛や腰痛などの症状や怪我、奇異な発言や異常行動として表われてくることになるのである。、
 そうならないためには、喜びや悲しみを共に分かち合う友を一人でも持つことが必要である。

2012年6月12日 (火)

養育と教育

養育と教育、たった一字しか違わないのに、形式は全く異なっている。養育は両親の手によって行なわれ、教育は他者によって行なわれる。学問には感情は不要となるが、養育には必要不可欠なものとなる。
 両者の共通点は、「プロ」の一言である。教育にプロが存在するように、養育にもプロが存在する。それは両親である。教育者が他の仕事には見向きもせず学問の伝達に工夫を凝らすように、養育者もプロに徹することが理想である。それは、いつも子どものそばを離れず、まなざしと声がけ、スキンシップを与え続けること、それだけでよいのである。子どもはそれだけで、生き返り、癒され、また明日も生きていく勇気を得られるのである。

2012年6月11日 (月)

真似る

子どもは親を模倣しながら成長している。模倣によって学んでいるのである。親の何を真似ているのだろうか。それは、親の口癖である。後ろ姿で育っているのではない。親の口癖に、「人生は仕事だ」「人を育てることがわが人生」というものがあれば、その言葉を見本として真似るのである。
 その父が何も語らなければ、子どもは手本を見出すことができず、何を目標にしたらいいのか分からないまま、体だけは大きくなっていく。
 親の言葉を受け入れ模倣して行く中で、子どもが、どうしても自分に合わない、と感じる時がある。それは、自分とは何か、自分は何のために生まれてきたのだろうかと、真剣に考える時期にきたということである。親は口を利かなくなった子どもを見て、つい、あ―だこうだと口うるさく言いたくなるものである。そんなとき、子どもは個室にこもりがちになるが、自分を見つめ直すきっかけにさせてあげることが望ましいのである。
 

2012年6月10日 (日)

感情表現

話しかけても、まったく無愛想な人たちがいる。笑わず、騒がず、何を考えているのか周囲には全く理解不能、という人たちである。こうした無表情な人たちは、心の中を見られることを恐れて、過剰な自己防衛機制をしているのである。
 彼らは、幼少期のある時期、泣いたり、怒ったりして、自由に感情表現していたはずである。それにも関わらず、表情を出さないようにしているのは、自分の感情表現がときに、卑下され、否定されたりした経験を持っているからである。彼らは、感情を表わすと叱責を受けたり、嘲笑されたことを学び、無表情でいれば叱責を受けることはないという、安心感の中に暮らしているのである。
 彼らの精神内界には計り知れないほどの怒り、苦しみ、悲しみ、憎悪の数々が渦を巻いている。それらの感情を人に悟られてしまうように感じ、その感情がないかのように振る舞っているにすぎない。これこそが、思い込みである。押し殺された否定的な感情は、いつしか別の水路を見つけて放出されることを待ち望んでいる。それが、場違いな表現、突発的な感情放出といった行動で表わされることがある。
 人間はいろいろな感情を持ち、それらを抑圧したり、放出したりしてバランスをとって暮らしている。泣きたいときには泣き、笑いたいときには心の底から笑うことである。自然に振る舞うこと、これこそが精神の健康には必要なのである。
 

2012年6月 9日 (土)

探究心

人間の探究心の源泉はどこにあるのだろうか。もっと知りたい、その先にはなにがあるのか、なぜなのか・・・探究心がとまらない人も多い。
 その一方で、「人の心がどうなっているのか、考えたこともない」という人も、稀にはいる。興味がない、関心がない、考えると疲れる、とも言う。
 幼少時代のことを聞いてみると、親が忙しくてかまってくれなかった、一人ぼっちで、手のかからない子だった、という人たちである。
 彼らは、人に問いかけた時、「それより勉強だ」「その先に行くと危ないよ」などと言われた経験を持っている。
 こういう人たちは、人生の岐路である、職業選択のときなどに悩みを抱くことが多い。それまで、人間とは何か、仕事とは何かといった悩みを抱いたことがなかったので、自分とは何かという問いに直面して戸惑うことになる。
 私は「問題に直面してよかったですね」と答えるので怪訝な顔をされるが、これも成長の一過程ですよ、と説明している。
 こういう時こそ、自分を見つめ直すことによって、今までとは違った人生を歩むチャンスととらえるのである。人は日々、新たな出発点に立ち続けているのである。
 
 

2012年6月 8日 (金)

敏速・適確

子どもの要求には、敏速・適確に対応するのが原則だ。「お母さん聞いて」と言ったら、すぐに聞いてあげることである。「後にして」「これが済んだら」などと後回しにしないことである。大人でさえ不快なことを、子どもたちにしてはいけない。
 忙しい時に限って子どもたちはいろいろな要求をする、と、親御さんたちは訴えるが、これが注意引き行動である。子どもたちはいつも親の愛で生きている。
 家庭では100パーセント子どもを優先することだ。それによって、子どもたちは、親の愛を感じ、やがて母の仕事を邪魔しなくなる。
 「お母さん」の声に母が振り向く、この反復されるまなざしの交換によって、子は恒常性を学習するのである。すなわち「待つ」ことができるようになるということである。そのためには、根気よく、一貫性を持って対応することが大切である。

2012年6月 7日 (木)

痛み

人が「痛み」を感じたとき、どのように対処するだろうか。ある人は、じっとこらえたり、医者に行ったりする。またある人は痛みを周囲の人に訴える。
 人は「痛み」という身体症状を通して何を語ろうとしているのか、その無意識の欲望を理解するのが精神分析である。
 さすってほしい、が欲望であるならば、さすってあげればいい。しかし、痛さを理解してほしいだけの人をさすってしまえば、それはセクハラもどきとなる。
 痛みが訴えている無意識の欲望とは何なのか。自分の無意識が語っていることは何なのか。それを理解するためには、体の声を聞くことだ。体は、声以上に正直であることに気付くべきなのである。

2012年6月 6日 (水)

時間

時間は作るもの、とよく言われている。友と会いたいと思っていると、その時間は作れるが、そうでないと、時間の都合がつかない、そんな経験を人は持っている。これこそが「時間は自らが作りだす」ことの証明である。
 この場合、切り上げる時間が決められていたら、さぞかしつまらないことだろう。
 決められた就寝時間の中で、人はどう過ごすのだろうか。残り30分といわれて推理小説を読み始める人はいないように、厳格に決められた就寝時間まで、ただボーっとして過ごす、という子どもが多いのである。就寝時間は決めない、これが原則である。用がなければ、さっさと寝て、熱中することがあったら、2時でも3時まででも熱中するのがよいのである。
 自分の時間を作ることは、自分の精神を作ることにほかならない。

2012年6月 5日 (火)

開拓

 男の子は武器が大好きである。落ちている枝を拾っては樹木やフェンス、両親を切りまくっている。切る行為は「切り開く」精神の行為化である。この子は自分の人生は自分で切り開かなければならないことを知っている。
 このとき、親が、3回に一回くらい、切り倒されてあげることだ。自分の力によって両親、すなわち、旧弊や過去へのとらわれ、未練や悪を断ち切ることを学ぶ。このときに親による制止が行われたらどうなるであろうか。その男の子は切る行為を諦め、「切る」を「悪」ととらえ、女らしい子に育つだろう。いい子ではあるが覇気のない男子になるということである。
 これでは、強い日本の再生は望むべくもない。
 

2012年6月 4日 (月)

社会参入への道のり

 子どもたちはごっこ遊びが大好きである。お店屋さんごっこ、お寿司屋さんごっこ・・・両親はこの遊びに一日中駆り出される。とことん付き合うことである。
 ここで、子どもは社会参入の糸口をつかむのである。すし職人の作るすしを旨そうに両親が食べる。自分が人を喜ばせるという感動、得られる報酬の喜びをこの遊びを通して味わうのである。
 このとき、両親が楽しそうに遊ぶ。その顔は子どもの目に輝いて見えることだろう。働く喜びは、両親の顔を通して受け取るのである。このときの両親像は後に、他者一般に敷衍されていく。こうして子どもは社会を怖れることなく、旅立っていくのである。

2012年6月 3日 (日)

オールOK

 クライエントからの問い合わせ。
 夫婦が幼い子どもを連れて実家に遊びに行った。祖父、祖母と一日楽しく遊んで帰った。ところが、電車で二駅ほど過ぎた頃、突然、子どもが「おじいちゃんとおばあちゃんに『お邪魔しました』とお礼を言えなかったから、引き返してちゃんと言いたい」と泣きじゃくった。そこで、せっかく途中まで来たとは思ったけれど、引き返してもう一度お礼を言って帰ったのですが、こんなことでわがままな子になりませんか?と言う。
 私はそこで、「オールOKで対応することをよく実践されました」と言った上で、「子どもの意志を尊重することで、子どもは主体性を学ぶ。自我の芽生えです。それを両親がオールOKで対応することで促進してあげたのですね。よくなさいました。わがままになるのではなく、自己主張できる子に育ったということです」と答えた。
 もし、否定したら、自分の意志は受け入れられず、間違いであり、自我が生まれなくなり、自己主張できない子に育つことになるのである。
 オールOKで対応することによって、自分の意志が実現することを学ぶ。これが鏡像段階である。両親が鏡になってあげることで、「意志」と言う精神内界のものが「実現」という現実界のものとして手にする。その瞬間、自分と言う存在が「現実界」に現われるのだ。意志は実現されない限り、存在しない。すなわち、この世に存在しないことになってしまうのである。
 オールOKで対応することの大切さをあらためて感じさせてくれる事例であった。

2012年6月 2日 (土)

自然

人は時に、登山をしたり、トレッキングを楽しむことがある。「自然に触れると癒される」と語る人は多い。
 なぜ人は自然が好きなのだろうか。自然が説教したり、自分流の哲学を披露することはない。人間が自然に向かって問いかけても、自然の方から「こうせよ」と語ることはない。自然が語る言葉は、自分の言葉である。「癒されますね」に対して「そうですね」と内的対話をしている。
 自然はその場を動かず、語らず、泰然自若としている。動揺したり、感情的になることなく、人の語りに寄り添っている。その姿こそ、カウンセラーの姿勢そのものである。
 「辛いのです」に対して、「ぜいたくを言うな」「そんな悩みは誰にでもある」などと人は言われ続けてこなかっただろうか。そのたびに、語るんじゃなかった、と失望した歴史を人は持っている。
 ただそこに居て、耳を傾け、まなざしを向けてくれるだけでいい、そういう人を人は求めているのである。
 自然は今日も、ただそこにあるだけである。 

2012年6月 1日 (金)

基本的信頼

生後3年の間に、乳幼児が学ぶことは「基本的信頼」である。子どもが泣けば母が授乳をし、世話行動をする。それがすべてである。
 泣くことによって子どもは自分の空腹を知らせたり、何らかのサインを送る。このサインを適確に読み取り、敏速・適確に応える相互交流が、母と子の絆を形成する。すなわち、基本的信頼の獲得である。
 この獲得に失敗すると、泣いても(サインを送ったり発言をしても)正確に読み取ってくれないと感じ、自分の言葉は伝わらないことを学んでしまう。
 これが日常的になると、子どもはもはや泣くことを諦め、泣かない子に育つ。これが「サイレント・ベイビー」で、よい子と言う評価を得る。しかし、自分の言葉は伝わらないことを学び、人を信頼する気持ちが薄れた子に育つのである。
 こうした子たちは、自分で何でもやる、手間のかからない子である。しかし、いつか疲弊してしまうのである。これが引きこもりや、不登校という形となって表われてくる。
 カウンセラーはこれらの現象を、彼らが子ども時代に得られなかった「寛ぎ」を取り戻そうとしている重要な時期ととらえている。

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