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2012年10月の32件の記事

2012年10月31日 (水)

おもちゃ

子どもにとって、おもちゃ選びは成長の証しである。
 3歳児が5歳児用のおもちゃを選べば、早くお兄ちゃんになりたい、という意志であり、2歳児用のおもちゃを選べば、その時代を終わらせるために欲していることになる。
 親としては、こっちにしろとか、早すぎるのではないか、などと言いたくなるものである。
 しかし、親は、口出しをせず、子どもの意志を尊重してあげることが大切である。
 人間が自分の意志を主張する時は、その意思を認めてあげることである。
 大人は大人として振る舞わなければならない。
 子どもは子どもらしく自分の意志を言わなければならない。
 子どもは、安心と安全の中で養育されなければならない。
 友達と楽しく遊ばなければならない。
 その体験がない人は、後に他人に過剰に甘えたり、依存したりする。
 学業を怠けて遊びほうけたりする。
 すべては、子ども時代に得られなかったものを取り返そうとしている代償行為にほかならない。
 そうならないためには、家では自由に主張できる環境にしておくことである。
 そうすることで、時の到来とともにその力を発揮できるのである。
 その力こそ、おもちゃでも何でも、自分で選ぶ意志を親が尊重することによって養われるのである。

2012年10月30日 (火)

愛の起源

「愛しているよ」「生まれてくれてありがとう」などの言葉は人を幸せにする。
 しかし、これらは言葉を知ってからの経験である。
 人間が言葉を覚える以前は、どのようにして愛を受け取っているのだろうか。
 それは、まなざしである。
 赤ちゃんは声のする方へまなざしを向け、まなざしに向かって声をあげる。
 まなざしと声は一つのものである。
 成長した人間が愛の言葉をかけられなければ、その後の人生は空しいものと感じるだろう。
 同時に、まなざしを得られない赤ちゃんは、精神的成長を遂げることはできないのである。
 見えない、聞こえないなどと侮れない。
 赤ちゃんはすべてを聞いている、そしてすべてを見ているのである。
 

2012年10月29日 (月)

胎内記憶

胎児は、母のおなかの中にいた時のことを記憶している。
 女優Aは、自分の3歳の娘が、おなかの中にいたとき苦しかった、と言っていたとテレビで話していた。
 周囲の人たちは不思議がっていたが、母体はきっと苦しかったはずである。
 番組は次の話題に転じてしまい、彼女の語りのトーンも下がったことから、彼女の中で何かがあったことはうかがえたのである。
 母のおなかの中にいる間に、「またできたのか」とか「今度は男(女)だといいね」などと言われれば、それはプレッシャーになり、胎児にはその感情が伝わっていく。
 さりげない一言が母体の心を傷つけるだけではなく、へその緒を通してその感情は胎児に影響を与えることだけは確かである。
 胎児は聞いているのである。
 母体には常に心地よい環境において、耳触りのよい音楽を聞き、目に心地よい映像、プラスの言葉に触れ続ける生活を送ってほしいものである。
 

2012年10月28日 (日)

味覚

人間の食欲をそそるもの、それは匂いである。人間は、味覚と並行して、嗅覚もも使いながら、食事を楽しんでいる。
 複数の感覚器官を作動させることで、食事行動をしている。
 鼻がつまった時の食事は味気がないように、料理の盛り付けも大切な要素である。
 目で見て、鼻で嗅ぎ、舌で味わう。
 食べるという行為は、実に深いと言わざるをえない。
 そこに、楽しい会話や環境が加われば、食事の味は一段と深まるであろう。
 このとき会話の内容が、説教であったり、黙って食べる環境であれば、当然、食事は味気ないものになる。
 食事の時間は、楽しく、自由に話せる環境の中で過ごしたいものである。

2012年10月27日 (土)

人間を人間たらしめているものは何だろうか。
 それは絆である。
 相手の気持ちを思いやる、配慮する、気遣ったり、関心を向けたりすることが絆である。
 人と人との間に絆がなければどうなるだろうか。
 言葉を掛けてもらえない、関心を向けてもらえない状態が長く続けば、人はこの世で生きる実感を味わうことができない。
 自分は生きていていいのだろうか、ここに居ていいのだろうかと、人と結ぶ絆を探し求めてさまよい続けることになる。
 絆がしっかりと結ばれていれば、そこに定着して揺るぐことはない。
 その起源は、母の胎内にまでさかのぼる。
 お母さんのおなかの中に居る時から、へその緒を通して母と絆が結ばれていたかどうかが問われているのである。
 母が自分に声をかけてくれていただろうか、まなざしをかけてくれていただろうかと問いをかけているのだ。
 自分の誕生を周りの人たちがどのように迎え入れてくれただろうか。歓迎されたのだろうか、それとも大家族ゆえに、また生まれたか程度にしか思われな方だろうかと、子どもたちはそのストーリーを聞きたくてうずうずしているのである。
ご両親は努めて、子どもの誕生の瞬間をいとおしさと共に語ってあげてほしい。
 その子が将来、自信に満ちた人生を送れるためにも、子どもの誕生ストーリーを語ってあげることである。

2012年10月26日 (金)

決意

物事を成功に導くか、導かないかは、その人の決意にかかっている。
 「この道を行く」と決めること、それにすべてがかかっているのだ。
 いつも不安を抱き続けているいて人は、自分で不安をつくりだしている科の生が極めて高いようである。
 失敗するかもしれない、ダメかもしれないと始めから決定しているかのようである。
 安易な道といばらの道との二つがあったら、いばらの道を歩くことである。 
 いばらの道と思っていたものが、自らの剣の一振りで消え失せ、花咲く道に変身する。
 人はみずからが描いた幻想におびえている。
 いばらは自分の作りだしていたまぼろしだったのである。
 剣を抜く勇気を持つこと。
 物事が成る、成らないは、この一事にすべてがかかっているのである。
 

2012年10月25日 (木)

ストレス

子どもたちは多くのストレスを抱えて家に帰ってくる。学校の成績、塾通い、習い事、交友関係など、ストレスの原因は多い。
 大人はと言えば、ストレス解消のために多大な出費を厭うことはない。
 買い物、友達とのおしゃべりや食事など、本当の解消にはならないと知っていても、である。
 一方の子どもたちは、友達と遊ぶ、ゲームやマンガに熱中することぐらいであろうか。
 大人の解消法と違う点は、語る相手に不足していることだ。
 この差は大きい。
 この場合、親が話を聞いてあげることが望ましい。
 話を聞いてもらうだけで、子どもたちの心が癒されるからだ。
 「ぜいたく言うな」「子どものくせに」などと言いたくなったとしても、自分の悩みを聞いてもらえる相手は親だけである、ということを親は知っていてください。
 聞くに際しては、子どもの話を否定せず、遮らず、相手の立場を100%支持することが大切である。
 

2012年10月24日 (水)

自分との出会い

社会において人は、否定、無視、価値観が切り下げられ続けている。
 人はこの中で疲れ切って帰ってくる。
 家は彼らを迎え入れて、肯定してあげる空間である。
 そこで人は癒され、元気を取り戻して再び社会へ戻っていく。
 癒されることがなければ、人は自分の居場所を求めてさまよい続けることになる。
 ところが、家に帰らない、転々と友達の家を泊まり歩く、暴走族のたまり場に出入りするのは、そこが彼らにとって居心地の良い空間になっている。
 家を居心地良くしてあげれば彼らは自然に帰ってくる。
 セラピールームは、クライエントの語りを否定することなく、語ることによって、本当の自分と出会う場所と言うことができる。
 自分にもこんなに欲望があった、やり残していたことがあったなどに気付いて行く場所なのである。
 自分を語りつくすことのできる空間、それがセラピールームである。
 自分探しをしている方はぜひ語りに来て、自分と出会うことを念願している。
 
 

2012年10月23日 (火)

見守る

子どもたちはさまざまなことにチャレンジしながら成長を遂げている。
 大人のスリッパを履く、大人の帽子をかぶる、大人びた声でしゃべる・・・これは、大人になりたい願望の表れである。
 このとき、他者が来て、危ないよ、とか、まだ早い、などと言えば、チャレンジすることをためらうことになる。
 先回りして注意すれば、自分の行動は常に禁止が伴うことを学ぶことになる。
 よほどのことがない限り、そっと見守ることである。
 チャレンジ精神を養うのも、摘んでしまうのも、「見守る」のひとことにかかっているのではないだろうか。

2012年10月22日 (月)

ささやき

人は、耳元でささやいている言葉で支配されている。「そっちに行ったら危ないよ」「無茶をするんじゃないよ」という言葉は、自ら行動を起こすことを禁止してしまうだろう。
 「そんなことを言うんじゃないよ」、「子どもは黙っていなさい」などと言うささやきは、人を緘黙へといざなうだろう。
 子どもたちが大人の靴をはいてみたり、カメラをいじることを禁止すれば、好奇心の芽を摘むことになるのである。
 こうした子ども時代に言われたことは、終生、その人の耳元で呪文のように語り続けることになる。
 このささやきを黙らせることが大切である。そして自分はこうする!と宣言することこそ、大人になるということである。
全20か所において、カウンセラー養成講座を開講しています。カウンセラーになろうとしている方はもちろん、自分とは何かと思い悩んでいる方にもうってつけの内容です。講師はいずれも当研究所所長、喜道進が担当します。詳しくはこちらまで。
 

2012年10月21日 (日)

赤ちゃんの気持ち

夜になって、赤ちゃんがなかなか寝ないでぐずるのは、親にかまってほしいという願望のあらわれである。
 昼間、お母さんも忙しい、お父さんも不在。
 夜になって父も母もそばにいることを赤ちゃんは知っているのだ。
 赤ちゃんの気持ちはこうである。「お母さんもお父さんもそばにいるのなら、もっと自分をあやしてほしい」。
 ひとしきり遊んであげて、話しかけてあげれば、赤ちゃんの不満は解消され、満足して眠りにつくのである。
 赤ちゃんがどんな気持ちでいるのかは、普段から赤ちゃんに触れ、見守り、抱っこしてあげれば自然に分かるのである。
 そのテーマはたった一つである。「自分だけを見つめてほしい」というものである。
全20か所において、カウンセラー養成講座を開講しています。カウンセラーになろうとしている方はもちろん、自分とは何かと思い悩んでいる方にもうってつけの内容です。講師はいずれも当研究所所長、喜道進が担当します。詳しくはこちらまで。
 

2012年10月20日 (土)

素直

喜びを喜びと素直に感じられないと訴える人もいる。
 何をやっても楽しくないし、こんなことで満足してはダメだ、と呟いている自分がいるともいう。
 素直に喜べない人は、小さい頃に褒められた経験がない人が多い。
 自分で部屋を片付けたり、テストで100点を取っても褒められなかったという。
 それどころか、次は他の科目だ、調子に乗るななどと言われた経験を持っている。
 これでは、永遠に満足は得られないことになる。
 人は他者から褒められることで、満足を得る構造になっている。
 自分で行動を起こしたことに意味を見出すことができるのである。
 それが好きになるということであり、好きなことをしている自分が好きになり、自分は価値があると感じられるようになる。
 ひいては、自分を褒めてくれた他者が好きになり、社会が好きになり、外部に向かって自分を押し出せるようになるのである。
 こうした連鎖が、人を社会的活動へと導いていくのである。
 素直に喜べる人間を育てるのは、やはり承認と賞賛の言葉なのである。
 

2012年10月19日 (金)

個室を持つ

子どもに個室を持たせることは、子どもの自我形成には欠かせない条件である。
 個室を持たない場合、子どものそばに親がいると、口を出しがちで、子どもは自分の考えを貫きづらくなる。
 周囲に視線や声がある環境にいると、子どもは自分自身を見つめられなくなる。
 親からすれば、子どもが何を考えているかわからないなどと言って、リビングから子ども部屋が見えるような設計になっている家もあるという。
 これでは監視である。
 同時に、親自身も子離れできなくなる可能性もある。
 父母も、それぞれが個室を持つべきである。狭くてもよい、自分自身をしっかりと見つめることができ、誰にも邪魔されない世界を構築することが自分を育てる条件である。
 親が育てば子も育つのである。

2012年10月18日 (木)

時間

時の流れが長く感じたり、短く感じられたりするのはなぜ?と聞かれる。
 それは、その時間が、自分で決めた過ごし方かどうかにかかっていると答える。
 楽しいかどうかは、後から付いてくる結果である。
 人から押し付けられたことや、命令されたことをすると時間が長く感じられる。
 指示してくれた方がよい、と答える人はいつの間にか自分を捨てている。
 命令されないとり動けなくなってしまっている可能性が高い。
 指示命令がないと、なにをしてよいかわからないということになる。
 反対に、ゆったりとして気持ちで過ごす、と決めればその時間はゆったりどころか、あっと言う間に過ぎ去っていく。
 休日の過ごし方に、その人の生き方が表われているとも言えるのではないだろうか。

2012年10月17日 (水)

習い事

多くの子どもたちは習い事に深い関心を示す。
 友達がやっていると、自分も、と考えて親に訴える。
 親は、今度も続かないのではないか、すぐに飽きてしまうのではないかと危惧するので、今度こそは続けるようにと条件を付けることが多い。
 その危惧が的中して習うことをやめてしまうことがある。
 それを見て親は、うちの子どもは飽きっぽい、とがっかりするが、子どもたちは試行錯誤しながら探している最中であると考えてあげることも必要である。
 焦らず、見守ってあげることである。
 無駄、無理などと思っても子どもたちが関心を示している間は、応援してあげることである。いずれ本物に出会うときが訪れてくるものである。

2012年10月16日 (火)

怪我

怪我をする原因とは何だろうか。
怪我の直前の心の状態とは何か。
怪我によって得たものが何かを考えてみることである。
 痛くつらい思いをして得たものは何か。
 怪我をすることで、仕事や学校を休むことができた、周囲がやさしくしてくれた等のことがあれば、怪我による利益と言える。
 これを疾病利得と呼んでいる。人は休みたいけれど、口に出せば怠け者と言われてしまうときに、行動で自分の欲求を表現する。
 素直に言えばいいのに、などと言うのはその人の置かれている環境を考慮に入れていないことになる。
 自由に表現できる環境にしておくためには、普段から、周囲の人たちが何でも聞いてあげるようにしてあげることが大切である。

味は、友人や家族、恋人と一緒に食事をすることによって、味わいは増す。
 同じものを食しながら、いかにも美味しい、といった顔の相手を見ることによって初めて味覚を獲得できるのである。
 人間は、味覚と視覚が一緒にならなければ、味は知覚できないのである。
 風邪をひいて嗅覚がない時の食事の味気なさがそれを証明している。鼻をつまんですするコーヒーの味わいのなさも同様である。
 人間はこうして五官を総動員していろいろなものを知覚しているのである。
 その感性を研ぎ澄ませるためには、幼少時から母が子どものそばを離れず、一緒に食事をとることである。
 ひとりで食べさせずに、母も一緒に食べることである。
 感性とは生まれつき持っているものではなく、磨くことによって育つものである。

2012年10月15日 (月)

決定能力

自分のことを自分を決められない、と訴える人が多い。一旦は自分で決めたものの、こうした方がよかった、と後悔するといった具合である。
 自分で決めたことに自信を持つためには、子ども時代に、他者による承認と賞賛が必要である。
 この時期、他者からの褒め言葉を得ることによってのみ、自分の決めたことに価値を見出すことができる。
 このとき、他者が来て、それでいいの?などと言えば、たちまち自分で決めたことに疑問符をつけることになる。
 自信を失う瞬間である。
 そんなことを気にせず、我が道を行けばいい、などと簡単には言えないほど抑圧されてきた経験があるのだ。
 人生とは抑圧の連続である。
 
 抑圧をはずさない限り、人はなかなか自分を語れないものである。
 そのためには、抑圧の強さ、誰による抑圧なのかについて語ることが重要である。
 その語りに静かに耳を傾けてくれる他者が身近にいるかどうか、一度考えてみることである。

2012年10月14日 (日)

信頼

人が人を信じるとはどういうことだろうか。それは、自分の言葉を忠実に受け取ってくれた時にこの文字が浮かぶのではないだろうか。
 「助けてほしい」「聞いてほしい」という訴えを、人が聞きいれてくれた時ではないだろうか。漢字で「信」は人の言うこと、と示されているとおり、言葉に従ってくれることである。
 子どもが自転車を欲しいと言えば、それを買うことであり、どこそこに連れて行ってほしいと言えば、それを実現してあげることである。
 ただそれだけのことなのに、子どもの言いなりになると、それ以降、永遠に子どもに振り回されるのではないかと恐れてしまうのである。
 そこで、急いで子どもの欲望にふたをしてしまうのだ。
 大人でも、ほしいものを訴えて、それがすぐ実現されたら、うれしいだろう。
 知っていながら、相手には実現しようとしない大人の心とは何なのか。未だに不明である。

2012年10月13日 (土)

デパートにて

5歳くらいの男の子が、母親に駄々をこねている。
 戦隊もののカードを買ってくれといっているらしい。
 子どもは泣き、地だんだを踏み、行くてを阻み、徹底抗戦の構えである。
 そのかいあって、母親は折れて買うことで一件落着となった。
 この子は欲望を持った普通の人間として成長していくだろう。
なにも欲望を言わない子がいたとしたら、将来、自分の考えは実現しない、ということを学習するだろう。
 周囲には、聞きわけのよい、素直な子として目には映るので、ますます「よい子」を演じ続けることになり、いつしか、仮面の人生を歩むことになる。
 この仮面が逆に自分を縛りつけてしまい、本当の自分が見えなくなって疲弊してしまうことになる。
自分の欲望を満たしてあげられるのは親御さんたちだけであり、欲望を出すことが正常と心得ることから子育てはスタートするべきではないだろうか。

2012年10月12日 (金)

泣き声

赤ちゃんは泣き声によって自らの要求を告げる。
 乳が飲みたい、抱っこされたい、おむつを取り替えてほしい、ちょっとゆすってほしい・・・。母親は赤ちゃんの泣き声を聞いて、今、なにを要求しているかを敏速・適格に判断して対応する。
 これが言葉以前の母と子の間で取り交わされるコミュニケーションである。
 これらのメッセージすべてに対応することが大切である。
 せっかくメッセージを送っていても、母が反応したりしなかったりすれば、赤ちゃんは自分の要求を伝えるのに、どうしたらよいか混乱することになる。
 すべての泣き声に反応することが、オールOKである。
 ところが、母親の中には、赤ちゃんの泣き声を「自分の養育のしかたが悪くて泣いている」と受け取ってしまう場合があるのだ。
 赤ちゃんの泣き声はメッセージ、ととらえることから始めることが重要である。

2012年10月11日 (木)

子どもの要求

子どもたちは、親からの褒め言葉を繰り返し要求する。度重なる要求に、親は、さっき言ったでしょう、などと言いがちであるが、同じ言葉をかけ続けてほしいものである。
 なぜ、彼らは繰り返し要求するのだろうか。
 それは、褒め言葉は言われた瞬間に消えてしまうはかないものだからである。
 目に見えないから、親から言い続けてほしいのだ。
 この言葉は子どもの心に刻まれ、遠くに行ったときや、自立したとき、一人ぽっちのときなどに、頭の中で響くことになる。
 その褒め言葉は、子どもの心を十分にいやすことになる。「それでいいのだ」と言う言葉は地球の反対側にいたとしても親のあたたかなメッセージとして心に残るのである。

2012年10月10日 (水)

情動

涙には人の心を浄化する働きがある。「泣く」ことは、心の中にしまいこまれていた鬱屈していた感情を放出するチャンスである。もやもやしていた気分を払拭する効果がある。
 とくに、映画や音楽によって放出するのではなく、自分の無意識界にしまいこまれていた記憶の再生することによって、その効果はいっそう顕著になる。
 あんなことがあったなどと、悲しい、みじめな記憶を想起して、泣き切り、そして、前に進むことである。
 その時、聞き手は、おとなは泣くものではない、などと言わずに泣き切らせてあげることである。
 感情表出ができるということは、自分の感情をよみがえらせるだけではなく、人の悲しみ、喜びの感情をも理解することにもなるからである。

2012年10月 9日 (火)

寄る辺なき存在

人間は生まれ落ちた瞬間から、養育者による世話を受けなければ確実に死ぬという寄る辺なき存在である。
 人間は生まれてから一人前になるのに20年くらいはかかるので、手間と時間がかかる生き物と言わざるを得ない。
 したがって、生まれて3年くらいは24時間体制で子どものそばを離れず、寄る辺なき気持ちをしっかりと母親の手によってサポートしてあげる必要がある。
 この時期、しっかりと母親が子どもに配慮し続ければ、子どもは安心・安全を学ぶことができ、人への信頼や愛着を感じる人間に育っていく。
 最近の母による子どもへの虐待のニュースに触れるたびに、母自身への愛着や世話行動があったかどうかが問われることになる。
 母自身が愛されることで、その愛の感情は子への愛着行動に結びついていくのである。愛は、子どもに与え続けることによって子どもの心にはぐくまれるものである。
 お母さんはどんなことがあっても子どもを100%愛してあげてください。

2012年10月 8日 (月)

少悟と大悟

人がたとえば、遅刻するなどの失敗をしたときに、「そういうことだったのか」と納得できたとすれば、小さな発見であっても、本人にとっては胸のつかえが取れ、その失敗の原因が判明した時の心地よさはなんともよいに違いない。
 反対に、自分とは何者か、何のために生まれてきたのだろうか、などと悩んでいる時に、自分とはこれだ!、と思える答えを見つけることが出来たなら、それは素晴らしい発見であるだろう。
 前者を少悟、後者を大悟と仏教では名付けている。日々、小さな発見はしている。
 そして、年に一度か二度くらい大きな発見ができたならば、それは大きな喜びにつながることだろう。

2012年10月 7日 (日)

先回り

こちらの質問に対して、子どもよりも先に母親が答えるケースが圧倒的に多い。
 こうした母親は子どもより先回りして答えることによって、しっかり者の母親であろうと努力しているように見える。
 子どもが口ごもっていると、母親の方が完璧な答えをするので、つい聞き手の方は母親と対話をしてしまいたくなるが、子どもと向き合う姿勢を貫くのである。
 子どもが、こちらとの会話に次第に慣れていくのとは対照的に、母親の方が元気がなくなっていく。
 子どもが答えに窮すると、また母親が元気を取り戻す、と言った具合で、シーソーゲームになってしまう場合が多いのである。
 子どもが何もしゃべらない、積極的ではない、なにも興味を示さない、などの相談ごとは、こうしたケースに当てはまることが多い。
 次回からは私と本人の二人だけでセラピーをするが、同時進行で母親との面談も行って、子どもと分離しても母自身が耐えられるように、準備を進めていくのである。
 このように、セラピーは本人だけを自立させるのではなく、本人を支える周囲の家族をもセラピーしていくことで、支援体制を整備することも大切なことである。

2012年10月 6日 (土)

晴れる

人が「気持ちが晴れた」と言うときの心境はなんだろうか。
 大切な約束の時間に遅刻をしてしまった、言った言葉が相手に伝わらない、などというときにそうした気持ちになる。
 すなわち、そうした行動や言動をしてしまった自分の中の、自分でも理解できない何かが存在に怖れと不安を抱いていることになる。
 その何かとは無意識である。
 無意識とは、自分の心の中にありながら、自分では決して気付くことができないものである。
 「無い」のではなく、「意識出来無い」という意味での無い、ということ。無いはずのものが、出てきたときの不快感がもやもやした気持である。
 それを正しく聞き、理解と尊重の気持ちで解釈できたら、相手の心が晴れるに違いない。
 たとえそれが、行きたくない約束だったとしても、である。
 こうして精神分析は、心の中にしまいこまれた無意識に光を当て、取り出していくことで、心のもやもやを取り除いていく大切な理解である。
 正確な解釈が与えられた時、人は本当の自分に出会うことができるのである。

2012年10月 5日 (金)

感性を磨く

人間の感性はどのようにして養われるのだろうか。感性を磨いてくれる最初の人物こそが親である。
 子どもは親の目を通して世界を見ているのだ。
 親が好きなスポーツや絵画、映画などを、自分が好むものとして取り入れていく。
 これが自分の感性を磨く最初の基準点となるのだ。
 「学ぶ」は「真似る」が語源と言われるように、まず真似をしながら取捨選択をしていくのだ。
 このとき親がスポーツや趣味、仕事を心から楽しむ姿を見せれば、子どももそれを快として自分の中に取り入れていくが、親自身が何にも興味を示すことがなければ、子どもはゲームに没頭することになる。
 子どもの受験に合わせて母親も何かを習い始めれば、「学ぶ」ことの楽しさを共に味わえるだろう。
 子どもは快を感じるものにしか興味を示さない。勉強や趣味を快と感じるようにする方法はこれしかないのである。

2012年10月 4日 (木)

自由

人が自由でいるためには、空間的、精神的、金銭的に束縛されていないことが条件である。他人と一緒に住んでいると、勝手は許されず、いつの間にか自分で自分を縛ってしまっている。
 精神的に独立していなければ、自分で自分のことを決められず、他人の意見に左右されるだけでなく、安易に従ってしまうことさえある。人はこれを平和主義と呼んでいるが、主体性の放棄そのものである。この場合、自分は死んだ、と宣言することになる。
 金銭的にも負担は増すが、今以上の仕事をこなす原動力にもつながる。
 経済的なことを考えれば、一緒に住むことは楽である。しかし、楽は安楽に直結する可能性大となる。楽な道といばらの道があったら、いばらの道を歩むべきである。
 自分の剣の切れ味を試す絶好のチャンスが来たからである。

2012年10月 3日 (水)

夫婦

夫婦は最小の人間関係である。
 他人同士であるがゆえに、何でもかんでも実家に居るようなわけにはいかない・・・と言うと、これから結婚しようと思っている人にはショックかもしれない。
 しかし、そのコツさえ知っていれば、スムースに関係を保てるだけでなく、他の人間関係にも適応できるのである。
 そのために「夫婦の教室」講座を開講しているので、関心のある方は是非参加されることを勧めている。
 夫婦と違って、会社の人間関係には一定のルールがあり、入社以前から、上下関係、言葉遣い、時間設定などの、マニュアルが出来上がっている。
 ところが、夫婦の間ではルールは存在しないも同然である。
 アメリカのような契約社会ならともかく、日本での夫婦の関係維持にはモデルが必要だ。
 本来なら、両親がその手本となるはずであるが、ここにも問題があることを知っていても、いつの間にか真似をしている。適切な夫婦関係の維持のためには、新たに学ぶこと、それが新たな人生の創造にもつながっていくのである。

2012年10月 2日 (火)

宣言

野球の試合などで選手宣誓をしたり、永遠の愛を誓うのは、人への宣言であると同時に、自分への誓いでもある。
 「がんばる」でも、「幸せになる」でもよく、「合格する」など何でもよい。
 人は無意識的にこうした宣言をしている。
 それが如実な表われるのが「口癖」である。
 普段から、自分はダメな奴、と否定な口癖を言う人は、その通りの人生を歩むことになる。
 自分がグレる気もなければ、周囲の人に自分の無力さを転付して、相手を消してしまうことさえあるのだ。
 これが犯罪行為である。
 自分を誇示する必要はないが、日頃から肯定的な言葉を宣言することが、人間の健康にとって必要なことである。

2012年10月 1日 (月)

感性

人が美しいものに触れた時、心から感動を覚える。
 美しい夕焼けを見てしばし言葉を失うこともある。
 美を感じる心はいつごろからつくられ始めたのだろうか。
 それは母の背中に居る時からである。母が美に触れて感動したとき、子どもは母の目を通して美を感じている。おぶされていれば、視線は同じ高さだから、母の目は子どもの目線につながるのである。
 おいしいものを食べた時、母の顔を見てそれを「おいしい」と受け取る。
 子どもが「おしいい」と言った時、「おいしいね」と母が返す言葉を聞いてそのものを「おいしい」ものと知るのだ。
 母と子どもの同音の反復の中に、美や食への感性を養う鍵があるのである。

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