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2013年3月の31件の記事

2013年3月31日 (日)

ペット

子どもたちはペットが大好きである。
 犬や猫をペットとして飼いたがる。
 その心理は、投影機能である。
 自分を対象に投影して、あたかも自分自身を対象の中に見ることである。
 タレントや歌手のまねをしたり、同じ服を着たり、尊敬する人と同じ言葉遣いやしぐさをするのも投影だ。
 人間は模倣しながら自分をつくっている。
 子どもたちは、ペットが親に可愛がられている姿を見て、自分がされているかのように受け取ることで癒されている。
 捨て猫や捨て犬を拾ってくる心理も同じだから、叱ったりしてせずに、話を聞くことから始めてみよう。
 子どもたちは意味のないことはしない。その行動を理解してあげることが大切である。

 当研究所では、平成25年5月26日(日)より、「セラピーのいろは」講座を開講いたします。「聞く」から「分析する」道を探っていく講座です。詳細や講座内容につきましてはこちらをご覧ください。

2013年3月30日 (土)

感情

人間の感情はどこから来るのだろうか。
 喜び、悲しみの感情が湧きあがってくる場所は、幼少期に、共に喜び、悲しに共感してくれた体験が源になっている。
 子ども時代に「ここに虫がいるよ!」と発見した時に「すごいね」とその喜びに共感してくれた時や、転んで「痛い」と泣いた時に、一緒に「痛いね」と共感してくれた経験がそれである。
 ところが、「そんなことくらいではしゃぐな」とか、「男なんだから泣くな」などと言われてしまうと、その感情を否定しようとして、喜びや悲しみを出さないようにする。
 果ては、その感情が起きる前に、それに触れないようにしてしまう。
 彼は自分だけの世界に閉じこもり、喜びや悲しみのない、はしゃぐことも、痛みを感じることもない世界の住人となるのだ。
 人と接触することを避けることによって、自分の自己愛は傷つくことはなくなる。
 人は、人と喜びあったり、傷ついたりすることに多少は関わっていなければならない。
 人が人と共存して生きていくためには、関わりすぎても、まったく無関心でもならない。
 人の関心を持つこと、それにはまず身近な相手に関心を持つことである。

   当研究所では、平成25年5月26日(日)より、「セラピーのいろは」講座を開講いたします。「聞く」から「分析する」道を探っていく講座です。詳細や講座内容につきましてはこちらをご覧ください。

2013年3月29日 (金)

温もり

人間はいつでも温もりを求めている。
 温もりばかりでは生きていけない人間は働かざるをえない。
 人間が温もりを求める源は、胎内回帰願望である。
 一たびこの世に生み出されてしまった人間は、その時代に戻ることはできないので、その代わりに、温もりや、ふわふわしたもの、暖かな色、耳ざわりのよい言葉を求める構造になっている。
 おだてられる、優しくされる、特別扱いされたりすることをいつでも求めている。
 幼少期に温もりを満喫しているひとは、心的エネルギーが十分に蓄えられているので、大人になってから過剰にひとに求めることはしない。
 不足しているひとは、それを取り戻そうとやっきになる。
 配偶者に甘えたり、部下や子どもに甘えるといった行動に出て、相手を面食わせたりする。
 しかし、母親から得たものではないので、さらに求める続けることになる。
 幼少期に得るべきものは得ておくこと、それに勝るものはない。
 それに不足していた場合は、その事実をしっかりと受け止めたうえで、自己改革していくことこそが、改善への道である。

当研究所では、平成25年5月26日(日)より、「セラピーのいろは」講座を開講いたします。「聞く」から「分析する」道を探っていく講座です。詳細や講座内容につきましてはこちらをご覧ください。

 

2013年3月28日 (木)

遊ぶ

子育ての基本は、共に遊ぶことである。遊び方も、片づけ方も分からない彼らにとって、親は手本である。
 子どもは親と一緒に遊んでもらいたがっている。
 親と遊んでいるときの子どもたちは嬉しそうである。
 一人にさせると妄想が生まれる。
 自分が楽しんでいる顔は、親の楽しそうな顔となって現れる。
 この瞬間、自分の行動を「快」と受けとる。
 遊ぶ、快になる、の繰り返しの中で、子どもは心の中に「快」を刻みつけていく。
 快感情を味わった人は、自分の子どもにも快感情を植え付けることになる。
 この体験がいずれ家族から、学校へ、社会へと広がっていき、社会に進出していく原動力となるのである。
 遊び上手は仕事上手、交際上手につながっていくのである。

当研究所では、平成25年5月26日(日)より、「セラピーのいろは」講座を開講いたします。「聞く」から「分析する」道を探っていく講座です。詳細や講座内容につきましてはこちらをご覧ください。

 

2013年3月27日 (水)

対等

人が人と語りあうとき、人は皆対等である。
 互いの意見を尊重して聞く、これが基本である。
 「あなたはこう考えているのですね」「こうしたいのですね」と聞き容れることである。
 「それは変」「間違っている」と言われた瞬間に、あなたは死にましたと言われたも同然である。
 こうしてひとは毎日死に続けている。
 言い返せばいいとひとはいうが、それすらもできない環境のなかで、生き返ることはもはや不可能である。
 子どもたちが地団駄を踏み、泣き叫ぶのは、死ぬものかという必至の叫びである。
 彼らはまさに生きている。
 これをひとは我が儘と言うが、自己主張ととるのが正解である。
 

2013年3月26日 (火)

差異

熊谷から電車を乗り換えて気がついた。
 車内がすっきりしている。
 すっきりとしすぎてどことなくさびしい。
 それは車内広告の少ないことである。
 都内の電車の車内は、ひと頃のようなにぎわいこそ少なくなってきたものの、広告の多さはさすがである。
 しかも華やかである。
 この違いこそが「差異」である。
 差異が生じることによって、今までのものと、現在のものとの違いを感じることができるのである。
 学校が変わる、制服が変わる、結婚する、定年退職をする、という「差異」がな生じなければ、人は今までの価値や、現在手にしているものの良さなどは分からない。
 散歩コースを変える、髪形を変える、読む本を変えるなどによって、価値の違いが分かるはずである。
 差異が無ければ人生は味気なく、単調になってしまうに違いない。
 差異を感じるためには、自ら差異を作ることである。
 その行為そのものが、今までの自分との差異を作ることに他ならない。

2013年3月25日 (月)

良い子

幼児期の良い子は、良い子を演じているだけですよ、と言ってもなかなか信じてもらえない。
 しっかりして見えるからである。
 彼らは、養育者の世話を受けられなかったので、甘えることができず、「しっかり」せざるを得ないのである。
 当然のことながら、手がかからないし、誰とでも親しくなれる。
 大人や、保育士に愛想を振りまくことに長けているので、目上からの受けがよい。彼らは人の顔色を見ることがうまいので、自分がどう振る舞えば大人たちが喜ぶかという術を心得ている。
 従って賢く見えるが、一日中良い子を演じ続けた結果、疲れきってしまうのである。
 彼らは、小学校に上がってから、不登校などの問題行動を起こして周囲をあわてさせる。
 あんなに良い子だったのに、と言うわけである。
 彼らがかぶっている「仮面」はちょっとやそっとでは見分けることは困難である。
 子ども自身が、自分で演じていることが分からほどだ。
 それが分かるのは、皮肉にも、問題行動を起こしてからである。
 やはり、子どもが3歳になるまでは、養育者が彼らのそばに寄り添い、24時間体制で養育し、甘えと依存を満喫させてあげること、これに尽きるのではないだろうか。

当研究所では、平成25年5月26日(日)より、「セラピーのいろは」講座を開講いたします。「聞く」から「分析する」道を探っていく講座です。詳細や講座内容につきましてはこちらをご覧ください。

2013年3月24日 (日)

主張

人が人に語った時、「そんなことはない」「それはおかしい」などと人から言われた経験はないだろうか。
 それに対して、重ねて主張するほどではないと感じて、「もういい」とあきらめていることはないだろうか。
 自分を主張できない人というのは、この繰り返しの中で、最初から主張しないことを学んでしまったのだ。
 些細なことでも自分を出すことがいいのだが、クライエントの多くは、もうどうでもいい、と主張を取り下げてきた人たちである。
 彼らは、どうでもよい人間として取り扱われてきた人たちなのである。
 彼らに向かって、これからどんどん自分を出しましょう、などと促しても、なかなか実行できない。
 相手が否定してくると感じるのだという。
 こういう人に対しては、受容と共感の態度で接していくと、クライエントはいつの間にか自分を取り戻して、自分を主張するようになる。
 「あなたもずいぶん主張するようになりましたね」といっても「そうですか?」と首をかしげることが多い。
 セラピーによって、主張することを学んできたので、自分では自分の変化に気付かないのである。
 擦り傷や切り傷がいつの間にか治癒しているのと同様に、気づかないうちに本人が成長しているのである。
 そのようにして本人が成長していることを正確に映し出してあげることもまた、セラピーにおける重要な仕事である。

2013年3月23日 (土)

父の諭し

飲酒したらクルマを運転してはならぬ。
 こんな諭し言葉が聞こえてくる人は、その人の中に父性が内在化されているといえるのである。
 父による諭しは、あくまでも言葉によってなされる。
 したがって、暴力や威嚇を使ってはならない。
 もしそれらを使ってしまったら、怖さだけが内在化され、その意味は分からずじまいとなってしまうだろう。
 飲酒しても運転してしまう人というのは、この父の言葉がないか、あるいは、父の諭しに一貫性のなかったかのいずれかである。
 この場合、本人に問い質しても、罪意識が全くないので、そうした事件を何度でも起こしてしまう。
 このように、人間は頭の先から爪先にいたるまで言葉によって住みつかれている。
 言葉は大事だ、などという次元を越えて、言葉に住み着かれているのが人間である。
 人は言葉に生き、言葉に病み、言葉に死んでいくのである。
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2013年3月22日 (金)

一流に触れる

先日、食器をすべて新しいものに替えてみた。
 立ち寄ったデパートや雑貨店などで選んだものだ。
 テーブルの上がいつもとは違って新鮮に見えた。
 それもつかの間、一週間経ち、、二週間が経つうちに、色がどんどん褪せてきた。
 そこで、今まで使っていた食器を再び使ってみた。
 結婚式の引き出物でいただいたティファニーのコーヒーカップなどである。
 違いは明らかであった。艶があるのだ。
 何が違うのか。
 それは一流だからである。
 10年以上使い続けた方がはるかに気品がある。
 高いものには訳がある、は本当だったのである。
 何かが違う。
 歴史と技術だけでなく、手間暇かかっているのだ。
 一流のものに触れ続けることの大切さにあらためて思いを致した二週間であった。

  当研究所では、平成25年5月26日(日)より、「セラピーのいろは」講座を開講いたします。「聞く」から「分析する」道を探っていく講座です。詳細や講座内容につきましてはこちらをご覧ください。

2013年3月21日 (木)

素直に聞く

人の話を聞くことに困難を覚える人は多い。
 聞いてあげるだけで癒されることは知っているが、持続しないという。
 それは、相手の話を自分の経験に照らし合わせて聞いているからである。
 今日は暑かった、という話に対して、今日一日の自分が暑く感じたかどうかを振り返りながら聞いているからである。
 相手の話が耳に入る→暑かったことを受け取る→自分はクーラーの部屋にいたからさほどでもなかったと思う→いったいどちらが正しいのか→否定したら相手の心証を害するだろう→相手に合わせれば、嘘をつくことになる・・・この繰り返しの中で頭のなかが言葉の洪水になっているのだ。
 これでは疲れてしまう。
 なかには、今日は冷房の部屋にいたから暑くなかった、などと話を自分に引き寄せてしまう人もいる。
 これでは、暑かったという話を聞いてもらいたくて語りかけたのに、反対に聞き役にさせられてしまう事態になってしまう。
 これでは主客転倒である。
 これを回避するためには、聞く側は自分の考えを捨てなければならないのだ。それによって初めてしての話が素直にはいってくるのである。
 捨てること、これが相手の話を聞くためのコツなのである。

2013年3月20日 (水)

欲望の行方

子どもたちは一日中、自分の欲望を語ることをやめない。親は、これで我慢せよを言い続ける。抑圧を受けた欲望は、次の欲望に上乗せされることになる。膨らみきった欲望は、「欲しい」の声となって訴え続ける。
 それでも要求が受け入れられなかった場合、彼らの主張はより激しさを増し、その葛藤の中で親も子も疲れ果てて行く。
 それでも受け入れなければ、子どもはもはや要求を言うのを諦めて、語らなくなってしまうのだ。
 子どもは、よい子を演じているだけで、無意識界に貯蔵された欲望は後年、高い買いとなって再現すしてくる。
 親も周囲も、あんなに良い子だったのにと驚くことになる。
 このとき、子どもは無意識的に親に仕返しをしているのである。
 子ども時代には自分が訴えた欲望を満足させてあげることが大事である。
 この時に満足感を得た経験が、人への感謝、有難いという気持ちとなって態度や言葉、対人関係にも表れくるのである。

2013年3月19日 (火)

感性を磨く

人は、五感を総動員して生きている。
 食事ひとつをとっても、味覚だけでなく、嗅覚や触覚、視覚、聴覚に至るまで、あらゆる感覚器官を使って食事をしている。
 このとき、「おいしいね」と言いあえる家族や友を持つことで、食事が「美味い」と感じられるのである。
 何を食べても一人、何を飲んでも一人という生活は味気がないものである。
 幼少期から一人で食べる習慣だったとしたら、感覚が鋭くなるという可能性は極めて低いだろう。
 食事はただ空腹を満たすためだけではなく、感覚を総合的に養う場でもあるのだ。
 誰かと共感することによって、味を味として感じるのである。
 この共感の経験がなかった場合、味だけではなく、美術や音楽など対しても鈍感とならざるを得ない。
 いつまでも、繊細な絵筆のタッチ、音楽の美妙な変化を感じ分けられる感覚を失いたくないものである。

2013年3月18日 (月)

セラピーのいろは講座開講

当研究所では、このたび、セラピーのいろは講座を開講いたします。
 
本講座では、葛藤を「聞く」から「解消させる」ための方法として、無意識に光を当てていく技法を伝えていきます。
 カウンセラーを目指している方はもちろん、精神分析をより深く学びたいと
考えている方にとってもふさわしい内容です。
 奮ってご参加ください。


講座名  セラピーのいろは講座(全2年48回)


■日  時  平成25年5
月26日(日)   午後1時30分~3時30分 スタート

          以降毎月第2・4日曜日 午後1時30分~3時30分(月2回)

■講座内容   対人恐怖症の対処法

          引きこもりの子や親への接し方

          生き甲斐を見出したい方への接し方

          夢解釈の方法                など  
        

■会  場  竹田精神科学研究所(埼玉県熊谷市瀬南95)(駐車場有)
                    (秩父線ひろせ野鳥の森駅下車徒歩7分)
■受講料 一回一人4,000円(他に教材費)
■教 材  「せらぴーのいろは」 全190ページ
■受講希望の方は 090-7261-5001までお電話いただくか、

 takeda.msl@gmail.comまでメールにてお申し込みください。

最寄り駅(ひろせ野鳥の森駅)から当所へのアクセスはこちらをご覧ください。
 

2013年3月17日 (日)

好き嫌い

人間の好き嫌いの起源は一体どこにあるのだろうか。
 それは、そのものに付随している「何か」である。
 ある人は、寒くなるとうつになるという。
 寒い季節に何かありましたか?と聞くと、自分の恩師の命日が12月で、その日が近づくと気分がふさぎ、家から一歩も出られなくなるという。
 反対に、ウィンター・スポーツに目覚めた人は、冬の到来とともに胸の熱くなるのを感じるだろう。
 このように、季節一つとってみても、人にはそれにまつわる「意味」を持っていて、それを喜び、その到来を忌わしく思ったりしている。
 つまり、その人だけの意味を持っているのだ。
 「そんなことでくよくよするな」、「気にしすぎる」などという説得がいかに役には立たないものであるか思い知らされる。
 その人だけの「意味」を理解してあげられるかがポイントである。
 人は自分の意味を理解してもらった時、この上もなく癒されていくのである。

2013年3月16日 (土)

正確に聞く

「電車が混雑していて大変だった」などとあなたが人に語ったとして、どのように受け取ってくれたら嬉しいと感じるだろうか。
 多くの場合、だから早起きしろと言ったのに、とか、東京のラッシュアワーに比べれば大したことはない、などと言われてきたのではないだろうか。
 それでは、癒されるどころか、この人は私のことを分かっていないと感じて、語らなくなるだろう。
 語り手が訴えたかった「何か」を聞き手は正しく聞かなければならない。
 何をだろうか。
 ストレートには語れない「何か」をである。
 変化球を正確にキャッチしてあげることである。
 受け損なってしまえば言葉のキャッチボールにはならないのである。
 そのためには、聞き手自身が自分の話を聞いてもらったという経験が必要になるのである。

2013年3月15日 (金)

失敗

人は誰でも失敗をする。
 大切なことは、その時に寄り添ってくれる相手がいるかどうかである。
 こういうことだったのですね、それはショックでしたね、と共感してくれる人をそばに持つことである。
 反対に「だから言ったのに」とか、「ダメだな」などと言われたら、そこから立ち上がるのは大変である。
 挫折経験が人を強くするというのは、この時の寄り添ってくれた経験があって初めて可能となる。
 頑張れる人というのは、常にこのときの経験が基礎にあるのだ。
 どんな時に支えてくれただろうか。誰が、どのように支えてくれて、その時自分はどう感じたのかを思い出すことである。
 その経験が今の自分の生活にどのように生かされているかも考えてみることである。
 そこに大切なものが見えてくるはずだからである。

2013年3月14日 (木)

テーマ

人間はそれぞれ生きるテーマを持っている。
 「走る」をテーマにしている人は、ランニングがテーマになっているかもしれない。
 自分が走ることではなく、電車を走らせることを人生のテーマにしているのかもしれないし、電車の車輪をスムーズに走らせるための機械を工夫したり、中の部品にこだわったり、ボールベアリングの研磨技術者になるかもしれない。
 人は何かのテーマに引かれるようにして人生を意味付けている。
 ラカン的に言うならば、対象aを求めている。
 それは子ども時代に起源を発することがほとんどである。
 父や母が好きだった、兄や姉が果たせなかった夢、という場合もある。
 それを目指していると、時間の立つのが早く感じられるという「何か」である。
 その「何か」は、自分でも知ることのできない領域、すなわち無意識の世界に存在しているものである。
 それが何なのかを知るとは、本当の自分と出会う瞬間である。

2013年3月13日 (水)

椅子

近所に椅子の専門店がある。
 椅子が大好きという社長のアイディアによる家庭用の椅子が所狭しと並べられている。
 いずれも個性豊かで軽くて使いやすいものばかりである。
 椅子が象徴しているものは、何かと言えば、母の膝であろう。
 その上で子どもたちは抱かれ、頬ずりされ、そして癒されるのである。
 この経験を十二分の味わった人は幸せであるが、満喫しないまま成長した人が後年こだわるものは、地位や居場所であろう。
 仕事などの座を譲らないなど、「自分の居場所を奪われたくない」という態度に表われるだろう。
 簡単に譲ってしまうのも考えものだが、いつまでもそこにこだわっていては、進歩や変化は望めない。
 癒される場を持ちながらも、そこに固執しない姿を保つには、やはり自己を知ることである。
 どのような育てられ方を経験したのか、それが現在の生き方にどう影響しているのかを知ることである。
 知らないままに子どもを育てては、子どももその影響を受けることは確かである。
 自分を知ることによって、それを子育てに活かしたいものである。

2013年3月12日 (火)

成長

人間は死ぬまで進歩し続けている。
 この程度でいい、と言う言葉は、成長を妨げる言葉であろう。
 その進歩はどのようにして確かめることができるだろうか。
 それは相手を見ることによってである。
 自分の進歩は相手の進歩だからである。
 一番顕著なのは子どもの成長であろう。
 子どもが成長すれば親も成長する。
 0歳だった子が2歳になれば親も2歳分成長したということだ。子どもは親の分身であるとすれば、親も成長し続けていると言える。
 親が変わってきた、とか、口をきかなかった子どもが親に声をかけてきた、などという変化が訪れた場合、自分が変化したということである。
 相手の変化は、自分の変化のバロメータである。
 相手のすべてを観、聴き、感じ続けることである。
 その姿の中に自分の姿が見えてくるはずである。

2013年3月11日 (月)

時計

30代男性徒のセラピーの中で提出された質問である。
 自分は時計が好きで、腕時計はもちろん、壁掛け、目覚まし時計など、目がないのはなぜなのでしょうという。
 デパートに行くとまず時計売り場に直行してガラスケースの隅から隅まで眺めて、文字通り、時の経つのを忘れるという。
 時計の思い出を語っていただくと、自分の母が買ってくれた唯一の(!)品物が目覚まし時計だったという。
 つまり、時計こそ「母」なのである。
 時計を眺めるということは母を見ていることになるのだ。
 このように、品物にはすべて「意味」が付着している。
 心惹かれるもの、足が向いてしまう店やものには、「想い出」がそこに張り付いているのだ。
 人間は、ものを求めているのではなく、その裏側の「あるもの」を求めているのだ。
 品物一つ一つにはその人だけの意味があり、その人だけの価値がある。
 あなたが大切にしているもの、求めてやまないものとは何だろうか。
 そこに語られているものは何なのだろうか。

2013年3月10日 (日)

主役

私とは何者なのか。
 私とは、私という人生の主役である、と私は思う。
 主役を張っているだろうか。
 張っていないという人は、どこかで、誰かに使われている。
 そんな意識もないままに。
 これが無意識である。
 そのことに気づくのは、病気になったときと、事故に遇ったときである。
 無意識はそんな事件を起こすことでしか、自分自身を語れないのである。
 それなら、病気や怪我が何を訴えようとしているのかに、真摯に耳を傾ければよいではないか。体の声を聞けばよいことになる。
 聞く方法として考え出されたのが精神分析の手法である。
 声なき声に耳を傾け、叫び無き叫びを聞くことである。
 自分のことを知るなんて怖い、という人もいるかもしれない。
 気づいてみれば、なんだそんなことでくよくよしていたのかと言って、あっさり自分を捨てることができるのである。
 その瞬間、生まれ変わった自分との再会である。
 本当の自分に出会える場所、それが分析場面である。

2013年3月 9日 (土)

言葉の裏側

9歳の子の母親からの質問。
 子どもが母親に「人は死ぬとどうなるの?」と聞いてきたので、母親は天国に行く、と答えのですが正しかったでしょうかと言うのである。
 それで子どもさんは納得しましたか?と尋ねると、天国で死ぬとどうなる?と子どもに突っ込まれたという。
 子どもの真意は別である。人間はあることを言いながら、別のことを語っている。
 それを汲み取らなければ、本当に聞いたことにはならない。
 
 人がストレートに真意を語ってくれたら、悩むことはないだろう。
 心の中に、語れない「何か」が存在するのである。
 それを正確に聞く事が大切である。
 その方法が分かったら、人の話をすべて理解することができるはずである。
 こうして精神分析理論が考え出されたのである。

2013年3月 8日 (金)

目標

人間が生きる意味は目標を持つことである。
 「目標を持て」と言われてすぐに持てる人は幸せである。
 かつて3Cの獲得のために頑張れた時代があった。
 時は移り、若者はクルマに関心がなく、クーラー完備で、スマホでテレビが見られれば、それらが目標とはならないだろう。
 一戸建ても長期ローンを利用すれば家賃並みの支払いでOKだ。
 何とかしてそれらを手に入れようとあくせくする時代は去ったのである。
 これから人が目標にすることは何なのか。
 何でもよいのである。
 自らが受けた養育の過程で得られたもの、両親が目標としているものも参考になるかもしれない。
 自分だけの目標が持てるかどうかが幸せへのカギを握っている。
 セラピーはそうした目標を見いだせない方への対応もしている。
 生きる意味とは何かと思い悩んでいる方は、ぜひ一度来訪されることをお勧めする。
 

2013年3月 7日 (木)

人みな我が師、のとおり、人は人から学ぶことばかりである。
 3歳の子どもの言葉を聞いて、くその通りだと思い、生後2か月の赤ちゃんのしぐさを母親から聞いては、母親の精神は子どもへ遺伝するという事実を知らされるといった具合である。
 子どもたちが何度も「私、歌が上手いでしょう」などと、母親に確かめている姿を耳にしただけでも、「フロイトの言ったとおりだ」と感心してしまうのである。
 科学としての正しさ、普遍性に触れるたびに、すべての人に共通しているからこそ、精神の科学は科学たりえた事が証明されるのである。
 「心は目に見えないではないか」という反論がされそうであるが、成長した時点で、それまでの心の育てられ方が現れるのである。
 すぐに結果が出るわけでもないが、現在のわれわれを形成しているしぐさや行動・言動は、幼少時代の養育に源を発していることだけは事実である。

2013年3月 6日 (水)

語ることで癒される

人は、語ることで癒される。
 それも信頼感を抱いている人に対してだけである。
 安易に他の人には語れない話だからである。
 いじめを受けた、暴言を吐かれたなどという話をすると、君も強くなれ、甘ったれるな、お前も悪いなどと、いつのまにかこちらが悪者にされてしまうから場合が多いからである。
 彼らは、そうした教育論的な方法や、説教を求めているのではない。
 彼らが求めているものは、ただ聞いて欲しいという一点だけである。
 苦しみを抱えた自分を正確に理解して欲しいだけである。
 従って、聞き手はそのメッセージを漏らすことなく聞き入れる必要がある。
 電車が遅れて大変だった、などという話に対して、もっと早く起きればよいなどと言う必要はない。
 それどころか有害でさえある。
 しかし、どのように聞いたらよいかという訓練は誰一人として受けていないのが現状である。
 正しく聞くためには、聞くための基本を身につけておくこと、相手の話に耳を傾ける習慣を日頃から夫婦や親子の間でしておくことである。

2013年3月 5日 (火)

ネットワーク

人間は自分を知るための道具を持ち合わせてはいない。
 どうやって自分自身を知ることができるのだろうか。
 それは、相手を知ることによってである。
 世の中には、気になる人、うまの合う人、好きな人、嫌いな人、さまざまな感情を抱いてしまう人が存在する。
 その中でも、嫌いな人が重要である。
 この人のここが嫌い、あの点が無性に腹が立つ・・・などといった感情が湧きあがってくる人がいたら、その人こそ自分であると思って間違いがない。
 その人は自分と同じものをもっている。
 同じ人間なのに、なぜ分かるのだろうか。
 口もきいたことがないのになぜその人にだけは嫌悪感を抱いてしまうのだろうか。
 それこそ、心と心は無意識でつながっているということの証明である。
 心がひかれ合う、反発しあうなど、心はネットワークの範囲を超えて、電波を使うことなく、人間同士をつなげているのである。

2013年3月 4日 (月)

嵐の時代

青春時代を迎えると、親に対する態度が反抗的に映るらしい。
 親から自立しなければならないという、必死の思いがそうさせるのである。
 これを反抗的ととらえるか、自立に向けた準備とととらえるかで、親の子どもへの対応が変わってくる。
 反抗ととらえれば、ここまで育ててやったのに、と否定的にとらえることになり、なぜこのような態度になるのかと首をかしげることになる。
 後者ととるならば、すべてを肯定的に見守ることができる反面、しっかりとした目標が決まるまでは部屋は片付かず、将来のことで親も子も、もんもんとした日々を送ることになる。
 こんなときは、親はただ世話することに徹し、ああしたらどうだ、こんな道もあるなどと余計な口出しをしないことである。
 ここで余計な事を言うと、子どもはますます混乱することになる。
 親は身の回りの世話に徹し、子どもが語らない限り、どうなっているかなどと詰問しないことである。
 この時代は嵐の時代でもある。
 こんな時、親御さんは献身的に子どもに尽くしていけば、嵐の時代は無事に過ぎ去っていく。
 親もどっしりとした気持ちで受け止めてほしいものである。

2013年3月 3日 (日)

まなざし

小学生の中に、メガネをかけている子が増えているという。
 勉強のしすぎ、アニメやテレビの影響などと言われているが、原因は不明である。
 一方で、生まれつき視力の弱い子もいることを考えると、後天的なものではなさそうである。
 目とは、すなわちまなざしである。
 人間が、自分は愛されている、生きていると感じられる源は他者から受けるまなざしである。
 子どもが言葉を覚え始める以前から「自分は他者から認められている」と実感するのはこのまなざし以外にはない。
 まなざしが与えられなければ、人間の存在は無きに等しい。
 もしかりに学校や会社で、他者から一顧もされないとしたらどんな気もちになるのか、想像するに余りある。
 大人ならそこで、自分は歯車の一つにしかすぎないなどと、自己防衛機制をはたらかせて寂しさを紛らわすだろう。
 ところが、フロイトが寄る辺なき存在と呼んだ子どもにはそんな機制は未成熟だから、自分が認められていない無意識的な不満を、視力の不足によって表現しているととらえることができる。
 体が訴えているのだ。
 目は心の窓、という通り、人間が人間に心を通わしている唯一の出入口なのである。

2013年3月 2日 (土)

否定

人は,自分の話が否定されたことで、なぜ傷つくのだろうか。
 それは、否定されたことで自分の訴え、苦しみが回帰してしまうからである。
 語ったとしても、「たいしたことではない」などと言われると、つらさが戻ってしまうからである。
 出そうとしたゴミが再帰してしまったような気持ちになる。
 そうなると、話すのではなかったと感じて苦しみをひとりで抱えこむことになる。
 抱えることで悩み、悩んでしまう自分を悩みの悪循環のなかで、悩みは一挙に膨らんでいく。
 些細なことでも語っていく方がよい。
 「些細なことでくよくよするな」と人はいうが、悩みは悩みである。ことの重大さで判断しないことである。

2013年3月 1日 (金)

秩父線

家の近くを秩父線が走っている。ここを走る車両は変わっていて、関東近郊で活躍した車両がその役割の最後を飾って走る路線である。
 全身をオレンジ色に塗り固めたかつての中央線の車体が熊谷駅に止まっていたり、京浜東北線があの深緑色の車体を、長瀞のライン下りの舟を見おろしながら鉄橋を渡っていて、鉄道ファンには魅力を有しているらしい。
 羽生と三峰口を往復している姿は、どことなく世をすねたようだ。
 採算効率よりも、みずからの好きな道を行く姿と見えなくもない。
 人生の最後を人に迷惑をかけず、楽しく、好きなように走っている姿は秩父の田園に似つかわしい。
 桜や菜の花がいずれ咲き誇るであろう畑のなかに、少しうす汚れた車体は妙に溶け込んでいる。

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