« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月の31件の記事

2013年5月31日 (金)

生きる道

人間の生きる道は自分で決める、とは言っても、無から有は生じないので、当然のことながら、当初は人真似である。
 一言で言えば模範となる人物が必要だ。
 その最初の人物が両親である。
 両親がその仕事を使命と感じ、心から楽しんでいることが大切である。
 その情熱は心を通して子に伝わり、社会に自分を押し出していく原動力となる。
 それが両親の模倣ではなく、本当の自分の欲望であるかどうかを確認する必要はあるだろう。
 その審判を下すひとこそ父でなければならない。
 父はこのとき、公正中立な立場で子どもに対してこの仕事を選択しなければならない理由を聞いてあげなければならない。
 そこに本人の使命感と価値が明確に語られているかをしっかる見定めてあげることが必要である。
 さもなければ、ほんとうに自分で選んだ道でなければ、いずれ疲弊する可能性が高いからである。

2013年5月30日 (木)

気づき

セラピーをしているとき、ふと、親御さんが「子どもの世話だけをすればいいのですね」としみじみ言うときがある。
 そんなとき、「そうですね、よく気がつきましたね」と返事をする。
 そこに気がつくまで、私たちは根気よく待ち続けるのである。
 自分で答えを出したら、その考えが正しいことを相手に伝える。
 それによって、クライエントは自分の考えが正しかったことの確認ができ、自信を深めていく。
 自信の積み重ねが、自我の確立につながっていくのである。
 自信を持て、と言うだけでなく、自分の言葉の力を知ってもらうためである。
 そうした力の集積が、子どもとの接し方に影響してくるのである。
 子どもを包み込む包容力、ゆったりとした語り口、春風駘蕩とした大人の姿を「余裕」と言う。
 余裕のないあくせくとした時代の中で、親御さんが余裕を持って「それでいいのだよ」と子どもたちと接することである。
 それによって子どもたちは、ここに居ていいのだ、と感じ、自信を持つことができるようになっていくのである。

2013年5月29日 (水)

聞き手

人の記憶はあいまいである。
 自分の体験を正確無比に語ることなど不可能である。
 したがって、むかしの記憶など、長い間にはつくりかえたり、他のものに置き換えられたりして、事実とはかけ離れていることだってある。
 聞き手は、その辺をついてきて、「そんなはずはない」とか、「相手がそんなことをするはずがない…」などと言って、本人の言葉はなかなか聞き入れてはもらえない。
 ところがセラピーでは、相手の話を否定したり、価値観を切り下げたり(例えば大したことではない、聞き飽きたなど)することなく、全面的に相手の話を聞き入れることを前提としている。それによって、相手は癒されていくのである。心の中にたまっていた、もやもやしていたものが取り払われれば、埋もれていた宝ものに見えてくるのである。あいまいな記憶だと思っていたものを、聞き手に語ることで、悩みの大半は、確実に消えていくのである。自分の話を聞いてくれる人に巡り合えるかどうかが、人生の分かれ道であろう。

2013年5月28日 (火)

クライエントがいろいろなことを語っている中で、ふと将来の夢を語る瞬間が訪れる。
 その時、「今、何をおっしゃいましたか?」とクライエントに伝えると、「え、私なにか言いましたか?」と怪訝な顔をされる。
 そこで「今、あなたは将来に向けて、こういう話をされました」と言うと、「私はそんなことを言った憶えはありません」と答える。
 その言葉は、その事実があるということを雄弁に語っているのである。
 わたしたちの語りはすべて無意識である。
 無意識がしゃべっているのである。
 無意識の中に将来の夢が隠されているとすれば、将来を語ることだろう。
 語ることがなければ、当然のことながら、沈黙を守りつづけるはずである。
 自分の夢を語ることができる、というむずかしさは誰にでも経験があるはずである。
 最近は、若者たちが将来の夢を語れなくなっている。
 その一方で、幼い子どもたちはあれも欲しい、こうもしたいと語っている。
 どちらが健全な姿であるだろうか。

2013年5月27日 (月)

心的エネルギー

世の中には、元気な人と、意気消沈している人とがいる。
 静かにしていても、元気な人には体にみなぎっている。
 反対に、元気に見えても、どことな生気が感じられない、という人もいる。
 その差はどこにあるのか。
 その答えを求めて、「幸福論」と呼ばれる書物を片端からひも解いてみたこともある。
 どんな本にも、答えはなかったが、精神分析の本に出会って、心的エネルギーの源は「承認と賞賛」であると知らされた。
 要するに「褒め言葉」が大切と言うわけである。
 人間、とくに子どもたちは、この言葉を得られなければ、生きている実感は得られない。
 元気になる、ならないはの差は「言葉」の差だと知ったのである。それどころか、言葉によってわれわれの体は浸食されているとも知らされた。街に出れば、購買意欲をそそる言葉が飛び交っている。「残りわずか」「期間限定」の言葉の海を、今日も浸食されないように生きなければならない。そう考えてみたところで、「浸食されないように」という言葉がまたわれわれを縛り付けられているのである。そうした言葉の力を善の道に使うべきである。こうして、精神分析はその道を歩み始めたのである。

2013年5月26日 (日)

いい子が危ない

いい子は、どのようにして作られるのだろうか。
 それを考えるためには、子どもが何のために生きているかを考えてみよう。
 子どもの生きる目標はたった一つ。
 それは「母に褒められたい」である。
 このときの母の対応は二通りある。
 一つは、子どもの「嫌!」を「そうだね」と受け入れること。
 二つには、「言うことをよく聞くいい子だね」という場合である。
 一つ目の中で養育された子どもはこう考える。
 自分の言葉はいつも受け入れられる、すなわち自分はいつも正しい、と。
 ところが二つ目の場合は、主張しないと母は喜ぶ、となる。
 後年、対象は母から他者に変換されて、自分を主張せず、人の顔色を見て暮らすことになるだろう。
 しかし欲しいものは欲しい。
 不満がたまって、欲望が一気に吹き出すことになる。
 子どもたちが金切り声をあげるのは、心の叫びに他ならない。
 暴発的な行動に出たり、反対に欲望を出さないでひきこもったりするのは、彼らの子ども時代の不満のメッセージなのである。
 その叫び声にどのように対応すればよいのかといえば、オールOKで受け入れてあげること、それだけで、彼らは金切り声をあげることをやめるだろう。
 

2013年5月25日 (土)

潜在能力

人間が未だ発達させていない能力を潜在能力と呼ぶ。
 見えている能力は、ほんの一部分にすぎない。
 潜在能力は、いろいろな要因によって発展することが出来ないままになっている能力である。
 それは「言葉」である。
 自分にはこれしかできないだろう、友達がやっていたからそれをしている、という場合もあるだろう。
 反対に、誰もやっていないから、とか、先生の薦めでその仕事に就いた、ということもあるかもしれない。
 いずれにしても、他者の言葉がそれを推進してきたことは確かである。
 問題は、それに褒め言葉が付随したかどうかである。
 褒められることによって、人間はそのことが好きになる。
 時間の経過とともに、褒め言葉は内在化され、直接褒められなくても、自然にそのことが好きになる。
 褒められなかった場合は、何をしても楽しくない、何を目標にしたらよいのかわからない、という自信喪失につながっていく。
 潜在能力を発揮させると、自分にもこんなことができるのだと気がついて自信がつく。
 そのためには、自らがチャレンジしたことが他者に認められることである。
 人はひとりでは生きられないので、あたたかい目で見守ってくれる環境に身をおくことが大切な条件である。
 それに最も適した環境こそ、家庭ではないだろうか。

2013年5月24日 (金)

目標

人生の目標はいくつあればいいのだろうか。
 子どもたちの目標は、サッカー選手、野球選手、モデル、歌手など、さまざまなことを訴えている。
 語る子どもたちの表情は活き活きしている。
 生きる意味はたった一つあればよい。
 小学生時代の作文に「ドイツのオーケストラでタクトを振る」と書いて、指揮者になった人もいる。
 それは無理、あれはダメと、いったいどれだけの夢が失われてきたことだろう。
 その一方で、子どもたちの夢がなくなった、などと嘆く声もある。
 いったい誰の夢が失われ、誰が失わせたのであろうか。
 夢を自由に語れる環境にしておくこと、一つでも夢が口をついてでたら、批判せず否定せず聞く姿勢をもつことである。
 そのためには、聴き手は黙って耳を傾け続ける訓練をすることである。
 その環境が整ったとき、子どもたちは生きる勇気を取り戻していくはずである。

2013年5月23日 (木)

無意識

人は、しはしば失敗、失言行為をする。
 人の名前を思い出せない、大切にしていた指輪が見つからないなどという経験をする。
 それらを考えると、私が私のことを知っている範囲がいかに狭い範囲のものであるか、思い知らされる。
 フロイトは失錯行為こそ、無意識の働きであることにいち早く気づいていた。
 社会はそれは偶然に過ぎないとして取り合わなかった。
 セラピーでクライエントから、「こんな失敗をしました」、「どうして同じ過ちをしてしまうのでしょうか」などと質問をされる。
 それらの対話から、無意識に探りをいれていくと、ある原因につきあたる。
 本人でさえ、気づくことのできない世界こそ無意識である。
 その事実が明らかにされると、なんだこんなことでくよくよしていたのですね、と驚かれ、すっきりされる。
 この時、本当の自分と出会うのである。
 その事実をすんなり受け入れられるかどうかが、問題である。
 精神分析は、こうした抵抗という壁を溶かすことにかかっている。
 この壁が溶けたとき、一気に分析は進展するのである。

2013年5月22日 (水)

欲望に出会う

人は、子ども時代に得られなかったものを求め続けている。
 その時代に得られなかっただけではなく、自分の欲望が否定され、価値観を切り下げられてきたのである。
 自分の欲望は他者の否定のもとで埋もれてしまったのである。
 これを見つけるには、上に積もったものを取り除かなければならない。
 それにはその時代のことを語ることである。
 忘れかけたトラウマの話、排除された話などをすべて語ってもらうことである。
 語らない限りは本当の欲望は瓦礫に埋もれたままである。
 その時の状況を、感情とともに洗いざらい語ることである。それによって人は癒されていく。
 フロイトは「感情をともなわぬ想起はそのさいほとんど常にまったく無効なのである」といっている。
 感情表出とは、泣きたいときには泣き、笑いたいときには笑うことである。
 ありのままの自分を思い出すによって、本当の自分の欲望に出会うことができるのである。

2013年5月21日 (火)

聞き方の基本

人の話を聞く場合の基本は、相手に関心を持って真摯に耳を傾けることである。
 語り手はこれだけで癒されていく。
 相手がもっと語りたいと思っていると感じた場合は、さらに詳細に聞く。
 「自分の夢は学校の先生になること。」と相手が語ったら、学校を聞くことである。
 幼稚園の先生になりたかったのか、大学の先生なのかなど、詳しく聞くことである。
 相手の語る「先生」というイメージが明瞭になるまで聞いていくことである。
 注意点の第一は、問いただしてはならないことである。
 詰問するのではなく、イメージを聞くことである。
 第二に、評価しないことである。
 価値がないとか、意味はないなどと、聞き手の価値観で判断しないことである。
 あくまでも、語り手に寄り添っていくことが基本である。
 突っ込みすぎてはならず、うわべだけ聞き流してもならず、その辺の「深度」と言うものは確かにある。
 どこまでがほどよい聞き方かというと、聞き手の経験が問われるのである。
 その人が育てられてきた家庭での対話のしかたが試されてくるのである。
 家庭こそ、コミュニケーションにおける最良の訓練場所なのである。

2013年5月20日 (月)

自己を知る

私たちはほんとうの自分を知る方法にかけている。
 自分とは何かを知ることはできないのである。
 毎日自分のしていることが分かってしまったら、自分のやっていることのちぐはぐさがすべて見えてしまい、前に進むことができなくなってしまうだろう。
 ほんとうの自分は無意識界に閉じ込めながら、時に反省したり、訂正したり、謝罪しながら精神のバランスをとっている。
 ところが、ほんとうの自分に出会う時が訪れる。
 それは失錯行為にあらわれる。
 名前を失念する、失くしものをする、失言などはすべて無意識のなせる業である。
 その行為の原因が何であったのか、後になってから、そうだったのか、と分かる場合もある一方、なぜそんなことをしでかしてしまったのか自分でもまったく分からないことがある。そんなときこそ、自分でも思い出すことをためらっている「何か」があることになる。
 それを解き明かすことができるのが精神分析である。

2013年5月19日 (日)

感情

子どもが転んで「痛い」と訴えているときの対応法を間違えてはならない。
 「泣くんじゃない」「我慢しろ」などと言えば、子はこう考えるだろう。
 「痛みを言うと叱られる。」
 これは、痛みを感じるな、ということである。
 「傷の痛み」は「心の痛み」にも通じるから、悲しみの感情も抱かなくなるだろう。
 人の悲しみ、苦しみを感じない人になるだろう。
 なぜなら、自分は痛さを知らないから、相手もそうだと受けとる。思いやりのない人として成長すると言うことである。
 粗暴な行動や言動で相手を傷つけても平気である。
 こうして、感情鈍磨な人間が世の中に増え続けていくのである。

2013年5月18日 (土)

証人

人が、「美味しいね」とひとこと言う。
 相手が「美味しいね」と返す。
 これだけで、相手は癒されたと感じる。
 自分の言葉が相手に受け入れられたからである。
 他者が証人になってくれたからである。
 これがないと、人は人として、この世に存在しているという実感を得ることができないのである。
 何をしてもひとり、何を食べてもひとりという人生は、孤独そのものではないだろうか。
 それを癒してくれるのが対話である。
 対話とは、互いの意見を出し合うことである。
 闘わせることではない。
 結論が出なくてもよい会話である。
 それこそ、家庭でしかできないことではないだろうか。

2013年5月17日 (金)

記憶力

人間の記憶力の高い、低いの差はどこから生じてくるのだろうか。
 一度聞いただけで名前でも情報でも何でも憶えてしまう人もいる反面、何度聞いても忘れてしまうという人もいるだろう。
 一度教わっただけで、踊りや技術、何でも身につけてしまう、という人もいるだろう。
 ある人はこの差を、努力の差だというだろう。
 またある人は、熱意の差というかもしれない。
 憶えのいい人が努力しているとはとうてい考えられないのに、瞬時に記憶してしまうのはなぜなのか。
 それは、自分のことを憶えてくれて、大切にされた経験の差ではないだろうか。
 「生まれてきてくれてありがとう」、「感謝しています」と言われた人は相手のことも大切にするだろう。
 それが、ものや知識、職場や仲間、住まいや学校などに敷衍されていく。
 その体験がないひとは、周囲のものや、仲間、知識、技術などに関心を向けることはないだろう。
 最も大切にしてあげなければならない時期、それは0歳から3歳である。その時の養育が十分になされずに、保育園などに預けられた場合、その子が周囲の人を大切に思うとは考えにくい。
 それまでは、母が24時間体制で養育してあげるべきである。
 たった3年間でいいのである。これを長いとか、短いを問うのではなく、重要か重要でないかととらえるべきではないだろうか。

2013年5月16日 (木)

言葉の力

「精神分析は、すべてを心の問題で解決しようとしている」という批判をよく受ける。
 「心の問題」ではなく、「言葉が葛藤を作り出している」という方が正しいのだ。
 人は他者からの「よくやりましたね」の一言で、自己が肯定されたという感じを得たり、反対に、「あなたには無理!」の一言で、卑小感に苛まれたりするのではないだろうか。
 すべては「言葉」である。
 「心」という、目に見えないもののせいではない。
 「心」でさえ、言葉によってでしか形成することはできないのだ。
 この言葉は誰から教わるものかといえば、その師は父である。
 父が日頃から、「背中で学べ」などと、黙ってばかりいたのでは、子どもは、何を人生の目標として掲げていけばいいのかわからくなる。
 言葉で説明してくれればいいのに、腕力で訴えたりすれば、子どもは、腕力を伝達の手段と受けとることになる。
 言葉は大切、という以上に、言葉がわれわれの体を支配しているのだ。
 戯れにも「お前は○○だ」などと否定的な言葉をかけてはならない。もしそんなことをすれば、その通りになってしまうだろう。
 優れた子に育てたいならば、肯定的な言葉だけをかけ続けることである。
 ただし、親自身が心からそう願っている、という条件付きでである。

2013年5月15日 (水)

増設・土曜クラス「セラピーのいろは講座」

土曜クラスを増設いたします。日曜クラス「セラピーのいろは講座」満席に伴うものです。『聞く』から『分析する』ための対応法を身につけていく講座です。どなたでも参加できます。お誘い合わせの上、奮ってご参加ください。

             土曜クラス『セラピーのいろは講座』(全48回)


開講日  平成25年6月8日(土)スタート

      以降、
月2回、毎月第2・4土曜日に開講します

     
 時間:午後1時30分~3時30分(12時間)

     (補講:補講希望の場合は、補講日を相談の上、1時間に圧縮)

会 場  竹田精神科学研究所(〒360-0834 埼玉県熊谷市瀬南95)

         携帯090(7261)5001

       (秩父線・ひろせ野鳥の森駅下車・徒歩7分、駐車場有)

        カーナビ検索の場合は、熊谷市瀬南91で検索



受講料  1回 4,000円 諸費用:教材費として別途1回500


■講師   喜道 進(竹田精神科学研究所所長)


        全48回受講者には、修了証が発行されます。


              受講希望の場合はメールにてお申し込みください。

                       メールアドレス : create-t-h-e-future@docomo.ne.jp

2013年5月14日 (火)

希望の光

クライエントの語りの中に、将来の希望が語られる瞬間がおとずれる。
 こちらが「今、こんな希望を語られましたよね」と問いかけても、「え!私そんなことを言いましたか?」と怪訝な顔をされる。
 なぜならば、彼らの欲望は強い力によって、無意識に閉じ込められて来たために、語れなくなっているのである。
 なぜ、この瞬間にだけ語れたのかといえば、悲しみや苦しみを語りつくせたからである。
 語ることによって、表面を覆っていた瓦礫が取り除かれたからである。
 取り除かれれば、本来の希望が現れてくる。
 自分の欲望が明らかになった瞬間である。
 曇り空に一条の光明が見えてきたようである。
 その光を瞬時につかんで本人に示す。
 すなわち、聞き手が鏡になってあげるのである。
 自分の姿を自分で見ることができないように、自分の願望も自分では知ることができないのである。
 人間に鏡が必要なように、無意識を正確に映し出す鏡が必要だ。
 こうして、人間は自分の欲望と初めて出会うのである。

2013年5月13日 (月)

無意識

人の語る言葉はすべて無意識である。無意識的に語った言葉が、いつの間にか相手を傷つけていたり、将来の希望を語っていたりする。
 ところが、それらは自分自身では意識することができない。
 言ってはならない言葉や、罪意識によって抑えつけられていた言葉が、何の前触れもなく突然口をついて出てくる。
 言うまいと思って抑圧していた言葉が突然口を衝いて出て、周囲をあわてさせたりするのがそれである。
 そうならないためには、日頃、無意識の中にしまいこまれているコンプレックスを解消しておかなければならない。
 気持ちとは裏腹なことを言ってしまう場合は、どちらが本心かを見分けるようにする。
 人間の行動のほとんどには、この無意識が働いている。
 どのようにして解消するかと言えば、セラピー場面で語ってもらうことである。
 語れば瓦礫が取り除かれたようにきれいになり、本物の宝石が現れてくるのである。
 その瞬間に共に立ち会い、その喜びを共有することがセラピストとクライエントの関係である。
 セラピーとは無意識の部分に光を当てることによって、本当の自分に出会うこと。
 それを楽しみと取るか、怖いと受け取るかはあくまでも本人次第。立ちあう勇気を持つことが大切なのである。

2013年5月12日 (日)

声に出す

人は、欲望を声にして語った経験はあるだろうか。
 したいこと、行きたい所、欲しいもの・・自分の欲望を語って、それははたして実現しただろうか。
 語れなかったという人も多いのではないだろうか。
 ある人は、欲望を自由に語れる場にいなかった、と言うかもしれない。
 否定されたから、という人もいるだろう。
 人が自由に語れる唯一の場所は、家庭である。
 たとえ子どもでも、お金がなくても、自分の欲望を語ることが必要である。
 なぜなら、人はいつでも欲望を語りたがっているからである。
 欲望を語れる人は生きている。
 そういう意味で、子どもたちは生きている。
 一日中、彼らは要求して止むことがない。
 親御さんはぜひ彼らの語りを聞いてあげて欲しいものである。
 ただ聞くだけでいいのですか?という問いには、「ふーん」と聞くだけではなく、聞き容れること。それは、「こう考えているのだね」と復唱して返してあげることである、と答えている。
 それによって、子どもは、自分の考えが受け容れられたと感じるからである。
 復唱されただけで、自分自身が「受け容れられた」ことを実感するのである。

2013年5月11日 (土)

寄り添う

人は、自分の歩みに寄り添ってもらうとき、あたたかなものを感じる。
 道の角まで…と言われて、数歩同行してもらうだけで、人の心は安らぐ。
 同じことは、子どもの養育にも言える。
 子どもが何かを要求する。
 それに対して親が敏速・適確に対応することで、子どもは自分の言葉が通じたことを学ぶ。
 そして親と自分自身に対する信頼を獲得する。
 このように、子どもの言いなりになって親が振り回されるのが、正常である。
 逆に、親が子どもを振り回してしまえば、子どもは自分自身がなくなってしまったと感じて、自分から行動を起こさなくなるだろう。
 たまに行動を起こしてとしても、いずれ否定されてしまうのではないかと、びくびくしながら生活することになる。
 こうした環境の中では、自主性が育たないだけではなく、常に親の顔色をうかがいながら日々を送ることになる。
 こうした子は素直で、よく言いつけを守る子どもとして親の目には映る。
 常に子どもの言葉に寄り添い、子どもの欲望が満たされることを、想像でも幻想でもなく、現実に体験させることが必要である。
 自信と希望を与えるためには子どもの言うこと、子ども自らが発した欲望に寄り添い続けることが大切である。

2013年5月10日 (金)

六根清浄

六根清浄とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官を清らかにしておくことである。
 見たくないものは見るな、耳触りの悪い話を聞いても聞くな、と言うこと。
 人間の感覚には、選択能力が備わっているので、マイナスイメージに接したとしても反応しないようにすることができる。
 それによって、われわれの心が崩壊しないように出来ているのだ。
 正直な子どもは、親の語る話をすべて聞いている可能性が極めて高く、何がよくて、何が悪い情報なのかの区別がつかない。
 そうした子どもたちに、「世間は怖いところ」という情報が吹き込まれたとすれば、子どもは社会を「怖いもの」ととらえて、社会参入に困難を覚えることになる。
 子どものもつ、社会に対するイリュージョンを壊さないようにしておくことが大切である。
 そのためには、親自身が社会を「楽しいもの」と感じておくことが必要である。

2013年5月 9日 (木)

願望と欲望

「こうなったらいいな~」というのが願望、「こうする!」と決めるのが欲望である。
 強さの違いは歴然。
 「旅行に行けたらいいな~」という段階では、永遠に行くことはできないだろう。
 しかし、「~に行く!」と決めれば、行けるのである。願望の段階では心は決まってはいないのである。
 クライエントの多くはこの欲望を語ることができないでいる。
 彼らの欲望は強く抑えつけられていて、表に出せないでいる。
 彼らは、周囲から「欲をかいてはいけない」「欲深い人間だ」「無欲は美徳」などと言われ続けた人達である。
 欲望を出せば否定されたために、言わないことを学んできたのである。
 さらには、欲望を抱くことさえもしなくなったのである。
 日本は「横並び」の民族である。
 世間並み、平均的が好きな世界である。
 向上心を持っている人にとっては住みにくい社会である。
 社会と折り合いをつけて行くことが苦手、でも向上したい!という欲望をもっている人達だけが悩むのである。
 すなわち、悩むのは、向上心のある人達である。

2013年5月 8日 (水)

喜びの起源

喜びの起源は母とのまなざしである。
 子どもが綺麗な花を見つけて母に知らせる。
 それを見た母が子どもに「きれいだね」とかえす。
 そのとき、子どもは自分の発見の喜びを、母まなざしの中に見いだす。
 子どもは自分の喜びの顔を、母の笑顔を見ることによって受け取る。
 このとき、母が「きれいじゃない」などとしかめっ面で言えば、子どもは自分の発見をしかめっ面と同等のものとして受け取ることになる。
 こんな顔を見るくらいなら、発見物を言わないようにしよう、そして発見しようなどという考えを持つことをやめてしまおう、と考えて何も見ない、感じない、考えない人間に育つことになる。
 感動を覚える、という機能がこのとき損なわれていくのである。
 そうならないためには、母は美・知・愛を身をもって子どもに伝えていくことが望ましいのである。

2013年5月 7日 (火)

国民栄誉賞

国民栄誉賞が、長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の両氏に授与された。
 後の記者会見で、今までで一番印象に残っていることは、と松井氏が聞かれて、「長嶋監督との素振り」と答えていた。
 長嶋氏への配慮があったにせよ、輝かしい成果と功績をわきにおいても、素振りが・・・とはいったい何を語っているのだろうか。
 それは、「自分に寄り添ってくれた」ことへの感謝である。
 同じ時間を「共有」し、素振りの感覚を「共感」してくれたことで、自分の人生をこの人と「共生」しようという考えが生まれるからである。
 叱咤激励するでもなく、けなすでもなく、褒めるでもなく、自分だけにまなざしを向け続けてくれたことへの感謝である。
 私はいつも、お父さんは子どもと一緒に遊んであげてください、と言っていることと同じである。
 人にとって一番うれしいことは自分に寄り添ってくれること、この一点にかかっていると言っても過言ではないのである。

2013年5月 6日 (月)

主役

人は誰でも主役を張ってほしい、それがセラピストの願いである。
 主役とは、自分にしかできない役である。
 それを演じたという経験が、自信を深めていく。
 そのためには、他者による承認と賞賛が必要である。
 主役を演じたという経験が、他者に拍手をおくる原動力となっていくのである。
 活躍しても認められなかった人は、どんな気もちを抱くだろうか。
 そこには、孤独、虚しさ、味気なさしか残らないだろう。
 他者による評価が、相対評価の場合、真の意味での賞賛にはならない。
 あくまでも、その人だけの絶対評価でなければならない。
 相対評価では、やっと手にした評価も、他の人に抜かれてしまえば、再び虚しさに逆戻りである。
 この反復の中で、人間は永久に満足を得ることのない世界で、もがき続けることになる。
 自分にしか備わっていない能力とは何か、自分でも演じるはずの主役とは何か、それを見つけていくのがセラピーである。

2013年5月 5日 (日)

子どもと遊ぶ

子どもの心は遊びによって育てられていく。
 父親を相手にサッカーボールを蹴り合う、これだけの中で、どんな心が育てられていくのだろうか。
 「サッカーしたい」という子どもの欲望に父が敏速に応えてくれる。
 この瞬間、自分の欲望が受容される。
 それは、自分は確かに存在する、という証明である。自分の存在は、他者による承認がなければ実感することはできないのだ。
 ボールを受けやすいように、子どは父に狙いを定めて蹴る。
 しかし、ボールはそれる。
 父は慌てふためいてボールを取りに行ってくれる。
 今度は、その失敗が無かったかのように、父は子どもが受けやすいボールを蹴ってくれる。
 失敗したことをとがめず、楽しそうに父は相手をしてくれる。
 そこで学ぶものは、「愛」と「配慮」である。
 子どもはサッカーを通してこの二つを満喫する。
 もし、責められたり、父が楽しそうでなかったら、子どもは父の機嫌を損ねたことに罪悪感を抱く。
 ゲーム機相手であれば、罪意識を感じることはない。
 こうして子どもたちはゲーム機へと一直線に走るのである。

2013年5月 4日 (土)

意思を尊重する

引きこもりの青年が、「散歩してみようと思う」と言いだしたら、その意思は尊重してあげることである。
 「どうせ長続きしないだろう」「車に気をつけてね」「急にどうしたんだい」などと、家人は言いがちであるが、先回りしてはならない。
 その気が起きたキッカケは、本人ですら分からないから、問い詰めたり、怪訝な様子を示さず、さらりと送りだしてあげることである。
 出鼻をくじいてはならない。
 散歩したい、と言うのも意志、したくないというのも意思である。
 どんな意思でも受容してあげることで、「自分の意思は認められる」を実感する。
 意思とは、相手に受容されて初めて「意思」になるのだ。
 受容されない限り、本人の意思は存在しない。
 すなわち、本人も存在しないことになるのである。意思が尊重されたことによって、初めて、自分はここにいていいのだと感じるのである。

2013年5月 3日 (金)

五月病

4月に新入社員として仕事や研修に行き始めた人たちが、ひと月過ぎたころにうつ状態を呈する症状を五月病と呼んでいる。
 進学や入学した人たちにも同様の症状がみられるものである。
 それまでの友人関係や環境に慣れてきた人たちの環境が180度変わるのだから、彼らの悩みは想像してあまりある。
 好きだった研究やクラブ、スポーツ活動とは全く異なった世界に慣れるまで、時間がかかるのは当然である。
 連休の時期と重なるために、ある人は落ち込み、極端な場合は、連休が明けて会社に行けないと訴える例も報告されている。
 それを訴える場合は、否定せず、彼の話に耳を傾けてあげることが大切である。
 早く復帰させようとか、転職を提案するのではなく、聞き続けることである。
 語りつくせば、いずれ会社や学校に戻っていくのである。
 焦らず、あわてず、話に寄り添ってあげることである。
 それでも立ち直れない場合にはセラピーを受けることを勧める。
 早期発見、早期治療によって浅いうちに、傷を癒せるからである。

2013年5月 2日 (木)

再創造の旅

よい子は危ない、とよく言われる。
 それは、自分を殺しているからである。
 自分で自分の考えを排除して他者の意見に従う構造である。
 自分が行きたい学校に行かず、親の決めた学校に進学するなど、自分の意思を排除して、他者の喜ぶ道を選ぶのである。
 周囲の目には孝行息子、素直な娘に映る。
 したがって周りの評価も親の鼻も高い。
 他者の敷いたレールの上を走るのは快適、と感じられるのはせいぜい20歳頃まで。
 社会参入を目前にして、自分は違う、と感じ始める。
 引きこもったり、学校を中退したり、体調を崩す、怪我をするなどして葛藤を表現することもある。
 最初から自分の意見を言えばよかった、と人は言うが、彼らの欲望は、言えない環境のもとで抹殺され続けてきたのである。
 ところが、自分を出すことは彼らが最初にとりかかるべき課題ではない。
 他者から命令・指示が急になくなってしまうと、突然「無」の状態が訪れてしまうからである。
 その虚無感の中で窒息してしまわないためには、対話によって本当の自分を見つけるべきである。
 対話によって本当の自分に出会い、新たな人生を生きなおしていくのである。
 人生とは再創造の旅でもある。

2013年5月 1日 (水)

食事

人と食事を共にするとき、食事をおいしいと感じる。
 それは、美味しそうに食べている自分の姿を相手の中に見出しているからである。
 自分が食べる、相手も同じものを頬張っている。
 それを見てますます食事が進むのだ。
 相手の中に自分を見る構造である。
 これを鏡像段階と言う。
 子どもが食事をするときに、親が一緒に食べてあげることで、味を味として受け取るのである。
 このとき、食事の相手が無表情であったり、叱られながら食べたとしたら、食事はなんと味気ないものになることだろう。
 食事は単に栄養補給するためのものではなく、五知覚を養う大切な時間なのである。

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
フォト
無料ブログはココログ