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2013年6月の30件の記事

2013年6月30日 (日)

気づき

人は、人に話すことでなぜ自分のことに気づくのだろうか。
 それは、聞き手が復唱してくれることによって、自分の話しを、まるで他人の言葉のように、もう一度聞くからである。
 自分で語っていることはすべて無意識が語っていることである。
 無意識であるがゆえに、自分で自分に気がつくことはないのだ。
 そこに他者がやってきて、自分の話を正確に復唱した瞬間に、その話を、他者の話として聞くのである。
 そのとき、「自分はこう考えていたのだ」とか「そんな自分がいるのだ」と自分を受け取るのである。「ああそうか」といって気付くの時が訪れる。一人で考えてばかりいると、話が堂々めぐりして、一向にらちが明かないのはそのためである。この不毛の循環を断ち切って、新たな出発をしたい人こそが、クライエントなのである。

2013年6月29日 (土)

本当の自分

人は、本当の自分に出会うことはできない構造になっている。
  本当の自分と、いつ出会っているのだろうか。
 それは、症状としくじり行為としてあらわれる。
 風邪をひく、ぎっくり腰になる、などの症状や、道を間違えたり、人の名前を失念するなどの失錯行為に、本当の自分があらわれているのだ。
 多くの場合、流行っていて、とか、うっかり、ということにして片づけられていないだろうか。
 そこに、自分でも気付かない、ないしは気付きたくない何らかの理由が隠されている。
 これに気づかない限り、人は永遠に、同じことを繰り返してしまいがちである。
 本当の自分に出会うことで、このリフレインから脱却することができるのである。
 自分と向き合うことである。
 逃げずに立ち向かうことで、今までとは全く違った人生を歩むことになるのである。

2013年6月28日 (金)

自信

人は、人から自信を持って生きるように言われても、どのようにしてその自信を持てばいいのかわからない。
 いつどのようにして自信をもつことを教わっているのだろうか。
 自信の源泉は、人間がこの世に生まれ落ちた時にまでさかのぼる。
 生まれて泣く→授乳が与えられる→快を得る、泣く→おむつを取り替えてもらえる・・・泣く・・・与えられる・・・この繰り返しの中で、赤ん坊は泣くことによって、みずから快を得られる事を経験していく。
 「泣く」が後年、言葉に置き換えられて、「科学者になる」→「なれる」という自信につながっていく。
 このとき、泣いても欲求が満たされず、訴えても聞いてもらえないとしたら、子どもは泣いたり、訴えたりすることを苦痛と感じるだろう。
 それだけではなく、泣いても得られないと感じて、泣いたり、訴えることをやめてしまうだろう。
 泣いても得られないと感じた子どもは、後年、主張しても実現しないことを学ぶことになる。
 「泣きじゃくる」を主張と受け取るか、「わがまま」と受け取るかで、その子どもの将来が決まってしまう。
 子どもも親も、こうした過程で、知らず知らずのうちに自信を学び、教えていくのである。

2013年6月27日 (木)

立ち向かう

人がある局面に出会った時に逃げることなく、立ち向かうことが大切である。
 もちろん、危険な場合はすぐに退避しなければならない。
 局面とは、人生の苦難の局面である。
 逃げることからは何も生まれない。
 逃げてもまた追ってくるからだ。立ち向かうことで、「困難」と思われた問題は、たちどころに遠ざかっていく。
 いばらの道と思われていたものが茨などではなく、自分の勝手な空想で作り上げたモンスターであることが分かるのだ。
 「立ち向かう!」と決めた瞬間、その茨は雲散霧消する。
 その原動力こそ、幼少時代から言われてきた両親による承認と賞賛の言葉である。

2013年6月26日 (水)

散歩

一日に一度、意識的に散歩することも必要だ。
 人が「無」になれる時間、それは散歩の時間である。
 時間に区切りを入れることで、考えが行き詰った時、アイディアが無意識に中から湧きあがってくる。
 どうしてその考えが浮かばなかったのだろうか、と思える瞬間である。
 悩んだら、一度考えることを停止する。書を捨て、ペンを捨て、Tシャツ一枚で無の世界に飛び出してみることである。
 景色の中に発見するのは、必ず自分の無意識の中にもともとあったものではないだろうか。

2013年6月25日 (火)

過去・現在・未来

人が抱く、将来の夢は何だろうか。目前の仕事を考えていると、なかなか見つけにくいのかもしれない。
 人間は現在・過去・未来、三つの次元にまたがって生活している。
 どれもが現在の自分を形作っている。
 過去にこだわってばかりでは、なかなか前に進めない。
 今のことばかりを考えていれば、将来の夢は抱けないだろう。
 反対に、未来ばかり見つめていたら、空想にふけるばかりとなる。
 今を生きつつ、未来を考えることである。
 そのためには一人きりの時間をたとえ30分でもいいから作ることである。
 帰宅途上の喫茶店で過ごすのもよい、電車の中でもヒントが得られるかもしれない。
 「空」になれる瞬間に人間は真の自由を得られるものである。
 過去はどうするのか。
 フロイトは、「子ども時代はそれそのものとしてはもうない」と言っている。

2013年6月24日 (月)

タイミング

自分が進むべきは今?それとも待つべき?それをどのタイミングで実行するか。
 一歩足を前に出すかどうかというタイミングは、いつか、と言う答えは、夢の中で語られている。
 夢の中で空を飛んでいる、サーカスの網の上を歩いている、海の中をなぜか走っている、などの夢にその答えが語られている。
 夢は無意識の語らいだから、夢の中ではほんとうの自分に出会えるのである。
 セラピー場面では夢を語ってもらう。
 自分でも理解することができない不思議な夢の中に答えがあるのだ。
 条件的にはあらゆるものがそろっているからと言ってタイミングがいいとは言えない。
 ある部分が欠けていても、好機と言える場合もある。
 タイミングは自分の心が決めることとはいえ、自分のことは自分ではわからない。
 社会的な自分ではなく、「本当の」自分に出会うことが本当のタイミングに出会うきっかけとなるのである。

2013年6月23日 (日)

挫折体験

挫折は辛い。できることならば避けて通りすぎたいと思うのが本当のところだ。
 失恋、受験の失敗、仲間はずれ・・乗り越えられるか、という思いすら浮かばないほど、お先真っ暗状態である。
 事実、真っ暗になるらしい。
 というのは、いつも目の前に黒いものがあるともいう。
 この解決には、自分にしっかりと寄り添ってくれる相手に聞いてもらうことである。
 若いときの挫折体験は、成長していく過程で、なくてはならないものである。
 中年になってからの挫折は、大きな負担を強いられる。
 挫折体験がない人の方が問題である。
 若者はこんな体験を経て社会に参入していく。
 体験しつつ、乗り越えられる家族や周囲の支援が欠かせない。
 そのときに力になってもたうことで、人は愛と信頼を学ぶのである。

2013年6月22日 (土)

言葉の力

人が、自分の欲望を言葉にして出すのは、とても素晴らしいことである。
 有言実行、夢はかなうなどと、古人は、言葉の大切さをわれわれに伝えてきた。
 言ったことが実現すれば、それは自信につながる。
 その起源は、子ども時代にさかのぼる。
 子どもがジュースを飲みたいという。それに応えて親がジュースを出せば、子どもは「自分の言葉は実現する」を学ぶことになる。
 色も形も重さもある「もの」として現前する。
 まるで魔法使いのようである。
 ところが、ジュースに対して水が出されたら。子どもは「自分の言葉は実現しない」を学ぶことになる。
 言葉を信じないだけではなく、自分自身をも信じられなくだろう。ひいては、将来自分は○○になる、と言っても実現しない、ないしは、なれるはずがない、と思うようになる。
 親はこうした場面に遭遇した場合は、子どもの言ったとおりに動いてあげることである。落ち込んでいるときには一緒に落ち込み、喜んでいる時には、一緒に喜ぶことである。そうした環境の中で、子どもたちは、「ここに居ていいのだ」と感じるようになっていくのである。

2013年6月21日 (金)

友人

友人とは、自分の話を聞いてくれる人である。
 否定せず、たいしたことないと言わず、評論を加えることなく黙って聞いてくれる人である。
 そんな友人を一人でも持てたら、幸せといえる。
 友人のいない人は自分自身と会話することになる。
 妄想に近いこの会話からは建設的な考えは何一つ生まれない。
 
 友人に自分のことを話しているうちに、「ああそうか」とか「これは待った方がいいな」などと、自分自身に勝手に気ついて、「聞いてくれてありがとう」などと言って立ち去ってしまうこともある。
 残された自分は何だったのだろう、と思うことはないだろうか。
 それは相手が聞き役に語ることで、自分が見えたことなのだ。
 彼は自分で自分の声をもう一度聞いたことになる。
 それで、自分の語りを他人の語りのように聞くことができたのだ。
 その瞬間に自分が見えたのである。そんな鏡になってくれる友人などいない、と思ったら自分が鏡になってみることである。

2013年6月20日 (木)

迎え容れる

人が、集まりやサークルなどに参加する直前に感じることは「自分は迎えてもらえるのか」というものであろう。
 そこに入った瞬間に相手から「よく来た」あるいは「オー!」などといわれることで、人はここに来てよかったと思う。
 自分が相手から「迎え容れられている」感情の源は「まなざし」である。
 言葉を覚える以前の赤ちゃんは、まなざしを向けられることで、愛されていると感じ、声のする方にまなざしを向ける。
 その相互性の中で、「自分はここに居ていいのだ」と感じる。それは言語以前の世界であるがゆえに、無意識の世界にとどまっている。
 その言葉以前の「快」の蓄積が蓄積となって、満足となっていく。
 この体験の蓄積が、人は人のまなざしを「あたたかい」と受け取れるようになる。

2013年6月19日 (水)

趣味との出会い

われわれも持っている趣味は、その源をどこに発するのだろうか。
 それは身近な人である。
 身近な人が持っていた趣味に、われわれの趣味の源があるのだ。
 その最初の人物こそ両親である。
 ついで、兄弟となる。
 交友関係ができてくれば、学校の友達である。
 就職すれば、その輪は会社の友人、知人へと広がっていく。
 身近な人がその趣味を楽しんでいる姿を見て、自分もまねしてみようと思う。
 これが同一化というメカニズムである。
 その人物が自分の尊敬する人であれば、趣味への傾倒は一段と拍車がかかることになる。
 趣味の友を持つことによって、語りあっていれば何時間でも平気、とうい世界が広がることになる。
 趣味の世界は何でもよい。
 その人だけの世界である。
 その世界にいざなってくれる人との出会いこそ大切にしたいものである。

2013年6月18日 (火)

感情

感情、欲望、言語を出すことは、人間の健康にとってよいことである。
 感情を出すとは、悲しいときには泣き、うれしい時には笑うこと。欲望を出すと、人は活き活きしてくる。
 何でも自由に語れる人は、心に溜め込んでいるものがないので、ストレスがない。
 それらが出されなかった場合、そのエネルギーは放出口を求めて一気に吹き出し、暴言や暴行などと言った行為にあらわれる。
 過剰に買い込んだりするのもそうである。
 そんな八つ当たりもできない場合、人は病気やけがと言った形でその不満を表現することになる。
 いずれにしてもエネルギーを解放するためには、自由に吐き出す場や相手を身近に持っておくことである。

2013年6月17日 (月)

ペット

子どもたちは動物が大好きである。自分自身を投影しているのだ。
 自分がかわいがられるように、ペットをかわいがる。
 自由にふるまわせ、一日中ペットと戯れている。
 ところが、あるときはそっけなく、見向きもしない。
 相手してやるのに疲れてしまったのだ。
 自分が世話してもらいたいように世話しているのだから、子どもたちにペットの世話は無理にさせない方がよいだろう。
 ペットが親によってなでられ、世話され、目をかけられている姿はまさに自分自身である。
 それを見て、子どもたちは癒される。
 自分が抱かれている姿を自分では見ることができない構造だから、ペットがかわいがられればかわいがられるほど、子どもたちは満足感を得る。
 「ぼくが世話するから」と言って飼い始めたペットを子どもが世話しません、と嘆くのもこの構造を知れば、むべなるかなと納得されるのではないだろうか。
 ペットも子どもたちも、たくさんかわいがってあげてください。

2013年6月16日 (日)

愛語

言葉には力があることを、昔の人は言魂(ことだま)としてあがめてきた。
 人から「そうだったのですね」と言われただけで、自分が相手に受け入れられていると感じ、「大変でしたね」のひとことで、慰められ、癒され、いずれは乗り越えて行こう、という気持ちもわいてくるのである。
 そうした言葉を「愛語」と呼んでいる。
 激励の言葉ではないのに、勇気がわいてくるのは、自分自身が受け入れられたと感じるからである。
 骨折した人に対して励ましの言葉をかけても怪我はすぐには直らないように、今、苦境にある人に対してはその状態を受け入れ、その人に寄り添い、共に感じてあげることが最も大切なことである。
 それだけで、人は明日も生きていこう、と感じるのである。
 そうした言葉を相手に注いでいくことこそが創造的に生きることに他ならないのである。

2013年6月15日 (土)

食事の楽しみは、味である。
 それに加えて、香り、盛り付け、触感、会話を楽しんでいるのではないだろうか。
 舌で味わい、香りで味わい、目で見て、食べ応えを楽しんでいる。
 こうして人は五感のすべてを動員して食べているのである。
 したがって、食事中はテレビを消すののが原則。
 テレビを見ながらの食事は、もはや、食べているだけであって、味は分からない
 。家族が一堂に会するのは、このときぐらいだから、家族同士の会話を楽しむことで、絆は一層強固になる。とはいえ、お父さんの帰りがいつも遅いので、家族の団欒はなかなか難しいようである。しかし、せめて休日ぐらいは、お父さんは家族と過ごす時間を取ってほしいものである。子どもたちはお父さんのことが少し怖いけど、大好きなのである。

2013年6月14日 (金)

迎え容れる

人が「自分は迎え入れられている」と感じるのはどんな時だろうか。
 それは声をかけられた時である。
 自分がかけたまなざしに対して、声で相手が反応してくれた時である。
 たとえば、レストランに入った時に店員が客に声をかける、座れば飲料水を出す、メニューを置いていく。
 これら一連の動作によって、客は迎え容れられ、ここに居てもよく、自分の存在が認められていると感じる。
 子どものいる家庭においては、さらにスキンシップが加わるだろう。
 人間は、自分で自分の手に触れても、何も感じることはない。
 しかし、母の手が子どもの手に触れた瞬間、子どもは自分の手を手として感じるのである。
 触れられない限り、自分の手を実感することはできないのである。
 まなざしに対して声で反応されなければまなざしはその意味を失い、声に対してまなざしが返ってこなければ、人は自分が無視されたと感じることになる。
 まなざしと声はセットなのであり、いずれが欠けても意味を失い、自分の存在は危ういものと感じるのだ。
 まなざしと声を掛け合うこと。
 これこそが子どもに「あなたはここに居ていいのだよ」というメッセージを送っていることになるのである。

2013年6月13日 (木)

あいさつ

「ただ今」に対して「お帰り」と言う。
 これだけのことで、人は「帰ってきてよかった」と思う。
 それだけではなく、「自分は受け容れられている」とも、「ここに居ていいのだ」とも感じる。
 これを「受容」という。
 この経験を通して、人は生きている、という実感を得る。
 帰宅が遅くても、少し後ろめたいこと(子ども時代には必要である)をしても、子どもたちは許され、また帰ってこようとも思うのである。
 家とは「寛ぎ」の場である。
 この寛ぎ体験を満喫することによって、明日はまた、外に出ていこうという元気を取りもどすことができるのである。

2013年6月12日 (水)

過去

人は常に過去を振り返る。
 楽しかった過去、悲しみ、苦しみ、悔みの過去、いつの間にか、振り返る癖がついているかのように、過去を思い出している自分がいる。
 その一方で、今日やるべき段取りを考えたり、将来の夢や願望がふと頭をよぎったりもする。
 人間は三つの次元を生きている。
 過去と未来を同時に考えることには危険が伴うようである。
 両者が綱引きをしてしまう可能性があるからだ。
 こうしたい(未来)、でもこんな失敗があったじゃないか(過去)、その中央でどちらをとろうかと考えている自分もいる(現在)。
 どうするか。
 過去は無かったことにすることである。
 どんなに悔やんでも過去を取り戻すことはできない、と割りきることで、前に進むことができるのである。
 未来だけを見つめ、そのためにはどうすべきか考えることである。
 フロイトは、「子ども時代はそれそのものとしてはもうない」と言っている。

2013年6月11日 (火)

憧れ

 

人はこのままではいけない、もっと成長したいという願望をもっている。
 なぜそんな願望が出てきたのかというと、今までの自分と、理想との差を感じ始めたということ。
 人はこの「差」に悩むのである。その一方で、そうなりたいという成長の道も考えてもいるのだ。
 この「差」がわれわれの生き方を変えていく原動力にもなっているのである。
 その目標としてまず選択するのがモデルである。
 あんな人と同じ人生を送りたいなどと考える。
 その人物とは家庭や職場に居る身近な人物である。
 そんな憧れの人なんか身近にはいません、と答える人も多い。
 しかし、それもスターや歴史の上に探すこともできるのだ。
 同じ本を読んでみたり、服装や言葉、仕草まで似せようとする姿が同一化である。
 要するに「まねる」ことである。
 「学ぶ」の語源は「まねる」だから、まず最初にまねることからするとよい。その意欲が目標となって自分を引っ張っていくのである。


 

2013年6月10日 (月)

本当の自分

人間の無意識界に存在する能力を潜在能力と呼ぶ。
 自分自身でも知ることができない能力で、仕事に没頭しているときには、それに気づくことができないものである。
 われわれが使っている能力は、持っている能力のなかの、ほんの一部ではないだろうか。
 それを生かす環境になければ、当然、その能力を発揮することはないだろう。
 女性の場合は、人生の前半を子育てや両親の世話で過ごす。
 その時期も過ぎて、ほんとうの自分と向き合った時に、自分とは何かを考え始める。
 男性の場合は、仕事から離れて「自分とは何なのか」と考え始める。
 人生80年の時代に、後進の世話にならず、自分だけの仕事や趣味を見つけることが大切である。
 そうした無意識の部分に光をあてて潜在能力を見つめなおす場所こそ、カウンセリングである。
 ほんとうの自分に気づけた時、人は新たな一歩を歩きはじめるのである。

2013年6月 9日 (日)

基本的信頼と信頼

0歳から1歳半までの発達課題を基本的信頼という。
 これは、言語以前の時代で、母による抱っことまなざし、スキンシップが子どもの心に刻まれる時期である。
 この課題の獲得に失敗したまま次の発達段階に至った場合、子どもは基底不安を学ぶことになる。
 何をしても楽しくない、何となく不安と訴えることになる。
 信頼は、言葉を覚えるようになってから獲得するもので、この最初の体験は、子どもの「いや」を親が受け入れることによって得られるものである。
 このとき親が「そうだね」と受け入れれば、自分の言葉が正しいと感じて子どもは自信がつくだけではなく、受け入れてくれた親への信頼も同時に学ぶことになる。
 子どもの「いや」を「そうだね」と受け入れることで、子どもも親も成長していくのである。

2013年6月 8日 (土)

病気

日常生活では、人はなかなか病気の話をすることはない。
 それは、相手への配慮によるものである。
 ところがセラピーでは、病気や怪我の話を重視する。
 本人でも語ることができない葛藤を物語っているからである。
 それこそ無意識の語らいである。
 言葉では語ることができないものを、病気や怪我という形式で語っているのである。
 病気や怪我の部位が手であれば手、足であれば足が何かを物語っている。
 左・右、それぞれに意味がある。
 本人は強い力によって、自らのことを語れなくなっているので、その「何か」を言葉ではなく、「身体」で語っているのだ。
 セラピーでは腰痛や風邪など、何でも語っていただく。
 すると、自分では語ることができなかった真実が明らかになる。
 その瞬間、「何だそんなことでくよくよしていたのか」と気づいて、その痛みを手放す方法が明らかになるのである。
 セラピーが気付き療法であるといわれる所以である。

2013年6月 7日 (金)

意志

物事を決めるポイントは「意志を持つ」ことである。
 こうする、という強い意志が物事を完成させるのである。
 「こうなりたいな」「こうなったらいいなー」くらいでは「意志」とは言えない。
 たとえば、あなたが雑踏を歩いていたとする。
 向こうから人がやってくる。
 その時、あなたがどうしようかな、こちらに行けばあちらが・・・などと考えていると、お互いに道を譲りあってしまう、そんな経験はないだろうか。
 反対に、急いでいたり、待たせてしまった相手を見つけた時など、「この道を行く!」と強い意志をもって歩いていくと、道が自然に開いていくということも体験として持っていないだろうか。
 「自分を信じる」とは相手に左右されないこと、目標をしっかりともつこと、そして意志をもつこと、これに尽きるのではないだろうか。

2013年6月 6日 (木)

言葉

人間は言葉によって大きく影響を受けながら生きている。
 「おいしいいですよ」と言われながら御馳走をほおばり、「似合いますよ」の一言でその洋服が気に入ったりする。
 父親が「お前は○○だ」と子どもに言い続けて、本人が心の病にかかってしまった例もある。
 言葉の使い方を間違ってはいけない。
 よい使い方をすれば「愛語」となり、悪い使い方をすれば悪い言葉になる。
 言葉は魔法と言うより、それそのものを規定する言葉である。
 自己を規定する最初の言葉は名前である。
 生まれた瞬間から「こういう人間として生きろ」と規定されている。
 人間はそれに反発したり、悩んだり、その規定通りに生きたりしている。
 人に食べ物を勧めたりする時に「美味しいですよ」と言えば、美味しいものになるのである。
 「私は未熟な人間です」とは言わないことだ。
 言えば、その通りの人間になってしまう可能性は極めて高いからである。

2013年6月 5日 (水)

欲望を語る

クライエントの多くは、欲望が出てこない、と訴える。
 欲望が「出ない」と「ない」とは大きな違いである。
 「出ない」と訴えるとき、今ここにはないが、その欲望はどこかに存在することになる。
 「ない」場合は、事実ないということ。
 もともと存在していた欲望は、肉体的にも精神的にも強い力によって押さえつけられてきたのだ。
 その抑圧の壁を取り払うことによって、自分でもおどろくほど、その欲望が口をついて出てくる。「そんなに欲望を語っていいのですか」と本人が言うくらいに、語れなくなっているのだ。
 彼の歴史を聞いてみると、欲望を語った瞬間に、「それより目の前のことを」するように言われてきたなどという。
 欲望を語ってみて、どんな気持ちですか?の問いかけには「気持ちがさっぱりした」と晴れ晴れとした様子で言う。
  語れるようになった瞬間、自由への道の第一歩を踏み出したことになるのである。

2013年6月 4日 (火)

信じる

子どもが、「ジュースが欲しい」と言ったら、ジュースを出すのが基本である。
 このとき、子どもの心に何が起こっているのだろうか。
 自分の要求が満たされたことによる満足、それだけだろうか。
 要求にすべて答えたらわがままになりませんか、という声をよく耳にする。
 むしろ、言わない子の方が問題である。
 「ジュース」という自分の「意思」が目の前に「物質」となってあらわれることが大事なのである。
 「意思」という頭の中の電気信号が、声という音波となっただけで、色も形も重さもある「物質」となって現れる。
 この経験が、「自分の意思は実現する」ことを学ぶのである。
 これは我がままではなく、自己主張である。
 「この仕事をする、と決めれば必ず実現する」ことを学んでいるのだ。
 言うだけでジュースが出てくることと同様、自分の言葉は必ず実現する、すなわち、自分は信じるに値すると思えるようになるのである。
 子どもが必要としているものを、必要なだけ、必要な時に与えれば、彼は親を信じるようになるだろう。
 さらに、自分を信じ、世界を信じるようになるはずである。

2013年6月 3日 (月)

欲をかく

人間の欲望はとどまるところを知らない。
 大人の場合、日頃、欲望を語ることは抑えられている。
 社会常識というものである。
 そうした抑圧もあまりにも強すぎると、人は欲望を語る以前に語ることをやめてしまうだろう。
 「こんなことを考えています」などとは、なかなか日常生活の中では切り出しにくい。
 ところが、それが当たり前になってしまえば、人は欲望をもつことすらしなくなってくる。
 これが欲望のない人たちである。
 この人たちは、社会常識に合わせてはいるものの、いつのころからか欲望をだせなくなってしまっているのである。
 一方、子どもたちは欲望を語ってやむことがない。
 彼らはまさに「生きている」のである。
 彼らでさえ、環境による抑圧があまりにも強ければ、お得意の金切り声をあげることになる。
 スペクトラムをとってみたことはないが、成人の可聴音域を超えた高い周波数が観測されるだろう。
 子どもたちの欲望を聞いてあげることが望ましい。
 否定、無視されることが続けば、金切り声も一層激しくなる可能性は高いからである。
 この声でさえ、あげなくなれば、欲のない大人への第一歩を踏み出したと考えると、心が痛む気がしないでもない。
 みなさん、欲をかいてください。

2013年6月 2日 (日)

会話

日本人は会話が苦手である。
 そもそも会話をする機会がないことがその一因であろう。
 学校ではどうだろうか。
 先生が教え、生徒がそれを聞く形式なので、先生と生徒が対等に会話をするチャンスはなかなかやってはこない。
 それでは教材の進行が遅れてしまうことは明白である。
 セラピーは一対一の対話形式で進められるので、「話すことが苦手」という方でも、いろいろなことを話される。
 「こんなに話せたのは初めて」という方も多い。
 自らが話し、みずから気づいていかれる。
 対話の効果に驚く瞬間である。
 「やはりこうすべきですよね」と、自分で自分の意思に確認のサインでもするように、悟っていかれる。
 こうした気付き療法こそ、セラピーの基本である。
 多くのクライエントは説教されたり、否定されることに嫌気がさしている方々である。
 クライエントの語るままにして、傾聴していると、クライエント自身が答えを出して、成長していく。
 その語りに接する喜びは何とも言えないすがすがしいものがある。

2013年6月 1日 (土)

人は時と場所に合わせて、いろいろな顔を演じている。
 会社での顔、妻の前で夫、子どもの前で父親を、それぞれ演じ分けている。
 
 家では許される自由も、会社には存在しない。
 会社の顔を家庭に持ち込めば、家族は迷惑だろう。
 人間が多面的であることを自覚し、時と場所によって対応の仕方を変えなければ、社会生活を円滑に過ごすことは難しい。
 かといって相手に合わせるだけでは、主体性は失われてしまう。
 主体性を持ちつつ、合わせていく訓練の場こそが家庭である。
 子どもからみれば、父親は父親なのに、家でも会社の顔で居続けたら、子どもにとって父は近寄り難い存在であり、後年、父親的な人を怖いと感じて、人と親密な会話をすることに困難を覚えるようになる。
 父親はほどよく権威があり、ほどよく親しみがあるのがよいのだ。
 ほどよくとは、子どもに言われたことだけ応えることである。
 それだけで、子どもは人とスムーズにコミュニケーションすることができるようになるのである。

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