目
目は口ほどにものを言い、と言われるとおり、目は、言葉以上になにかを語っているようである。
目が怒っている、目が泳いでいる、さ迷ったり、虚ろだったりと、人にとって、目は心を正直に映してしまう道具なのである。
心の底から純粋な精神をもっていれば、目がさ迷うこともなさそうであるが、人は時には嘘をつくではないか、という意見もありそうである。
その場合には、上手な嘘のつきかたが分かればよいということになる。
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目は口ほどにものを言い、と言われるとおり、目は、言葉以上になにかを語っているようである。
目が怒っている、目が泳いでいる、さ迷ったり、虚ろだったりと、人にとって、目は心を正直に映してしまう道具なのである。
心の底から純粋な精神をもっていれば、目がさ迷うこともなさそうであるが、人は時には嘘をつくではないか、という意見もありそうである。
その場合には、上手な嘘のつきかたが分かればよいということになる。
日本語には、鼻に関する言葉が多い。
鼻を高くする、鼻がなる、鼻高々、あるいは、鼻を挫く、鼻を明かす・・・。
鼻がなにかを象徴していないだろうか。
身体症状としての鼻の病いも、何かを訴えているといえそうである。
人間がこの世に生を受けて、母を認識するための最初の器官は、においと言われている。
目も耳も認識能力の定まっていない子にとって、嗅覚が最も頼りになる感覚器官となっているのである。
この時期に、いろいろな人のにおいを嗅がされたら、赤ちゃんは混乱するだけである。
赤ちゃんは極めて高い情報処理能力を、生まれながらにして身に付けているのである。
子どもの目はいつも見開かれている。
世の中に存在するすべてのものを見、取り入れ、学んでいる。
彼らは、すべてのものを直視して、臆するところがない。
大人は、その視線にしばしば辟易し、驚き、視線を逸らせたりする。
彼らは、自動販売機の釣り銭口に手を差し入れてたり、ペットボトルを踏みつけたりして一日飽きることがない。
それに比べると、おとなの目はかなり曇っていたり、色付きレンズを通して見ている。
大人も、もう一度、子どもの目になって見ることが必要かもしれない。
新幹線に乗る際に、車内の自動ドアから入ってくる人の顔をつい見てしまうことはないだろうか。このような状況で、知り合いがドアから現れる可能性など、あり得ないにもかかわらず、つい見ている自分がいないだろうか。その時、人は、赤の他人の顔の上に、誰を見ているのだろう、ないしは、みつけようとしているのだろうか。
それは、とても思い出したいのに思い出したくもない人であり、好きなのに嫌い、会いたいのに、会いたくない、でも会いたい人である。
人が、「出かけよう!」「始めよう」と決意するときは、いったいどんな時だろうか。
それは「意思」が出たときである。
意志は、出てくるまで待つしかない、厄介なものだ。
待つためには、そこに出かけたり、始めたい、という魅力的なものが現前するまで「待つ」しかないのだ。
その時、他者がやってきて「出かけなさい」とか、「早くしなさい」といっても、効果がないばかりか、有害でさえある。
目的さえ、発見できれば、人は勝手に「始める」ものである。
無の状態→始める目的が出る→強制→意志を引っ込めてしまう・・・この悪循環に陥ることになる。
周囲の人は自分の好きなものに熱中していることである。
やがて人は、人がやっていることを、いつの間にか、まねしながら何かを始めるものである。
土手を散歩していると、たくさんの犬の散歩とすれ違う。
愛されている犬たちの表情は、楽しくてしかたががないといった風情である。
毎日つながれている犬と比べて、表情が違う。「犬たちは愛だけで生きているのです」と、飼い主がつぶやく。
それは、子どもたちにもいえることだ。
冗談で、「橋の下から拾ってきた」とか、「木のうろから出てきた」などと言われた人たちも多い。笑いながら言われた、ともいう。
それによって、見捨て言葉は、「きっと冗談だろう」というレッテルをくっつけて、無意識界にしまいこんでいる。
しかし、言われたことは確かに「見捨て」だ。
どっちが正しいのだろう、と、葛藤を抱えたまま、親の顔を見ている自分がいる。
それを解決できないまま、人はまた次世代に伝えていくのかもしれない。
犬には言わない言葉を知らず知らずにうちに、子どもに言っている。
人もまた、愛だけで生きていることを忘れてはならない。
子供の発達過程において、反抗期は大切な時期と、誰もが知って口にしていながら、いざその時を迎えると、驚かれる親御さんも多い。
それまでは、ママと甘え、素直な子が、ある日を境に親をないがしろにしはじめるのだから、親はとまどうばかりだ。
他人の子供には、こうすればいいのに、と思えることも、自分の子育てに際してはおろおろするばかり。
その時の対応をしっかりしておくか、間違った対応をするかによって、結果が出るのは、20年後である。
子育てがどうだったのかの結果が、すぐに出ればいいのだが、それが分かるのは、問題が起きてからだ。子育ては難しい、ととるか、やってみようと受け取るかで、子どもの将来は決まってくる。
近くの駐車場に、ある日突然、まっ赤な車が停められていた。
その車は、赤のボディーにレーシングカー仕様のシールをいっぱい張っており、車高を低くして、いかにも若者の所有物と思われた。
誰が乗るんだろうかと、眺めていると、窓から「車は好きですか?」と話し掛けられた。
「定年はとっくに過ぎたんだ」という、トラックの運転手である。
車内はといえば、デコラティヴに飾り立てられていて、エンジンをスタートさせると、あちこちがきらきら光る仕掛けになっている。
普通車が買えるくらいの金額をかけた、軽自動車なのである。
いつまでもこだわりを持ち続けること。
これが若さの秘訣だと、教わった。
毎日、大型トラックと赤い車を乗り換えながら、生き生きとしている。
こだわりが若さを引き出すのか、若さが、こういう車を手にするのかといえば、そのどちらもだと思う。
いつまでも、もっと、と思う気持ちでいることが、若さの源なのである。
人は、どれだけ愛の言葉を知っているだろうか。
愛している、好きだよ、可愛い、よくできた・・・。
知っているだけではなく、それらの言葉を、それにふさわしい場面で使うことも重要なポイントである。
それらの言葉は、言われた分だけ人に返すことが可能である。
言われたことがない、という場合いは、どうすればよいのだろうか。
その言葉を知っていても、使えなければ、宝の持ち腐れとなるであろう。
腐らせないためには、使うことである。
言えないのは、どこかに「照れ」があるからだろうか。
ひとことでもいい、言いだす勇気をもつこと、それもまた、重要なポイントである。
子どもは「何で?」「どうして?」と親に質問し続ける。
親がそれに答えることで、子どもは親への信頼と愛着を増していく。
その時、親は、まるで自分たちが試されていると感じる。
しかし、子どもたちはそのことについて、本当に「知らない」のである。
子どもたちの頭の中は、まったく白紙である。
それにくらべてわれわれの頭はずいぶん鈍感になってはいないだろうか。
このとき、こどもが、「ああそうか」と納得できるまで親はこたえてあげることである。
子どもの質問のなかで、もっとも重要な質問は、「なぜ私を産んだのか」と「なぜ私にこういう名前をつけたのか」というものである。
そもそもの始まりを知りたい、それは自然の気持ちではないだろうか。
人はこのように、自分のルーツを知りたがる。
それに対する答えを与るまで、子どもが納得することはない。
その問いに親が答えられる、ということは、親自身も祖父や祖母からきちんと答えを与えられた証拠である。
その答えを得た時、子どもは感じるのである。
「自分は生まれてきてよかったのだ」、「自分はここにいていいのだ」と。
そして、子どもは生きる希望を得るのである。
公園で、小さなこどもが親の手を振り払いながら歩きまわっている。
親は子どもの手を握ろうとするが、相変わらず振り払うことの繰り返しだ。
親は、子どもの行きたい方向に行かせてあげることで、子どもの自主性は育っていく。
おやはただ黙って子どもの後からついていくだけでよい。
親は危険から子どもを守ってあげるしかない。
この時、親があちらに行け、こちらに行けと働きかければ、子どもを支配してしまうだけだ。
自発性は自主性を育て、やがて主体性を身につけていく。
子どもが二足歩行を始め、「いや」というようになったら、一人の人として接してあげることが大切である。
子どもの頃から、いろいろな病気をする子の話は良く聞く。
一方で、怪我続きの子の話ももよく聞く。
それらの症状が何かを語っている、「叫んでいる」と言った方が正しいかもしれない。
例えば、目の病気。目がちくちくする、ドライアイ、目がかゆい・・・。それらの原因は、「まなざし」に関係がある事はうすうす気づいていたことであっても、。
何回も目の手術をした、というもおられた。
言葉を覚え始める以前から、赤んぼうは、自分が他者からまなざされた体験祖することによって、必要とされる人の育っていく。
へな人間だと言いたいのである。夫婦であっても、日頃から、配偶者に関心をもつことである。それで体の異変にすぐに気付いて、検査をするなりして重症化しなくて済むようになるのだ。かと言って、過干渉しでも子どもは病むことになる。目の病が、何を訴えようとしているのかを丹念に、詳しく語れれば、病気は軽減されていく。目がちくちくする、なぜ耳ではなく、目なのか。そこから聞いていくと、原因が明らかになるはずである。
精神分析は、精神の考古学と呼ばれている。
その人が、今、身体症状として表しているものが何なのかを、幼少期にさかのぼって調べていくことだからである。
今、例えば、あなたが、車に酔ってしまいがちだとか、怪我した膝小僧がなかなか治らない、などといった症状が、過去のどんな事件や生活上の葛藤に、その源を発しているのかを知る学問である。
知る、と言っても、セラピストはもちろん何も知らされてはいないばかりか、本人ですら、そのことを認めたくないことがほとんどである。
それらは、道徳的、倫理的な事情で語れない、恥ずかしい、みじめ、苦しいといった、思い出すことに困難を感じる事項である。
自分でも語れなくなっていることが、なぜ、セラピー場面で語れるのかと言えば、やはり、語るしかないという、少々皮肉な答えが返ってくる。
それが自由に語れた瞬間、「なんだこんなことで悩んでいたのか」と言って、簡単にその葛藤を捨てることができるのである。
それによって、自分を長い間苦しめていたものがそんな「些細なこと」であることに気づいて、すっきりしたと言って帰って行かれる。
そんな発掘ならぬ、発見の瞬間に立ち会うことが、セラピストの役割である。
人間は、頭の中で、いつでも、どこにでも行くことができる。
瞬時にパリに行くこともできるし、通勤電車の中で、ゴルフやスキーを楽しむことだって、できてしまう。
時空を超えて誰とでも会話することだって可能だ。
そこに、よい思い出が記憶されていれば、頭の中に、よい思い出がよみがえるし、楽しい会話を交わしていれば、その人への思慕もまた深いものがあるだろう。
反対に、悲しい記憶、傷つけられた経験があったとしたらどうだろう。
それらは、記憶として思い出される場合と、無意識の中にしまいこみ、再び思い出すことのないようにしてしまうこともあるだろう。
楽しい記憶、会話だけを子ども時代から味わっておくことが大切である。
それによって、悲しい体験や苦しいことへの耐性が作られるからである。
あなたにとって、楽しい思い出はどんなことがあったのだろう。
よい言葉には、どんな励ましの言葉が残されているのだろうか。
その一つ一つが今のあなたの人生を築き、色づけ、磨いてきたはずである。
われわれの使っている言葉が、いつの間にか父や母の口癖に似ていてハッとさせられるように、言葉は、口から口へ語り継がれて、次世代へと受け継がれていくのである。
原稿を書いていて、ふと空を見上げたら、夕焼けが空いっぱいに広がっていた。
ほんの五分くらいの間であった。
あわてて土手に駆け上がったら、犬と散歩中の人も、子どもの手を引いている人も、マラソン途中の人もみんなが同じ方向を見上げている。
同じ夕焼け空を見ていても、同じものを見ているという保証はどこにもない。
同じものを見ていても、まったく異なったものを見ているはずである。
人は、自分の経験と照らし合わせながら、その向こう側に、自分だけの景色を見ているのかもしれない。
ある人は、かつての恋人と一緒に見た、夕焼けを見ているのかもしれず、ある人は、母の背中で見たと思われる空想の世界を見ているのかもしれない。
私の場合はと言うと、写真に撮るには、どの構図がきれいに写るかということに集中して見ているのである。
このように、十人が十人、まったく違ったものを見ていることになる。
十人が夕焼けの思い出を語ったら、十人分の思い出が語られるはずである。
ひとが夕焼けの美しさを語ったら、聞き手は、ただその語りに耳を澄ますだけである。
その人の美の世界を、その人の言葉によって聞くことである。
その人の美は、その人の美である。
大切なのは、その人の語りに耳を傾ける姿勢を保つことである。
秩父電鉄が、近所の駅名を、「野鳥の森公園」と銘打っているだけあって、天気の良い日はバード・ウォッチング愛好家が、土手の上に三脚を構えて、日がな望遠鏡をのぞきこんでいる。
大体は、二台の望遠鏡を平行に構えて、一台は大きく鳥を探すためのもの、もう一台は、その姿をつぶさに観察するためのものである。
ときおり、ウォッチャーが、仲間と無線で連絡を取り合っている間は、野鳥の姿がないときなのだ。ひとたび、お目当ての鳥を望遠鏡の中に認めた時には、すぐさま望遠鏡にかじりつき、声を失い、ひたすら見入る、といった具合に、静と動が瞬時に入れ替わるのだ。
セラピーの場面においても、突然、本人でも意識し得なかった能力に、自らが気付くことがある。
「こんな能力が自分にもあったのだ」と気づく瞬間である。
それは潜在能力であって、自らそのことに気づかないでいるものだ。
それを語った瞬間、自分でも驚かれるのだ。
ラカンのいう、「ああそだったのか」体験である。
セラピストはこの瞬間を待ち続けている。
そして、その瞬間を逃さない。
そして言うのだ。
その能力の持ち主こそ、あなたです、と。
日頃、私たちは心の中で誰と会話しているのだろうか。
きょうは、こんなことがあった、あんなことがあった、あれも欲しい、これも欲しいなどという会話を、誰と交わしているのだろうか。
その相手こそ母である。
その時、頭の中にいる母が、「そうだね」「それでいいのだよ」などと返してくれれば、人はいくばくかの安心を得るのである。
その時の返事が、否定的なものであったとすれば、心の傷は一層深くなる可能性は高い。
そうならないためにも、母と一緒に暮らしている間は、肯定的な返事を返してもらうことである。
母の口によって繰り返された褒め言葉は、後年、本人の頭の中で、響くことになる。「それでいいのだよ」と。
楽しい仲間と食事を共にすると、つい食が進んでしまう、そういう経験はないだろうか。
お酒を飲む時もそうだ、と人はしばしば語る。
目の前の相手が、豪快に食べたり、飲んだりするとついつい量がいくのである。
反対に、一人で飲んだり、食べたりしても、味気ないのは、視覚的に味わっていないからである。
美味しそうに食べている姿を相手の上に投影して、見た目でも、美味しいと、受け取っているのである。
人間はこのように、食事の相手が目の前にいることで、味覚が増すのである。
子ども食事をするときには、一緒に食べることである。
同じものを、同じ時に食することによって、子どもは食事を美味しいと感じるだけではなく、自分はここにいていいのだ、生きていていいのだと感じるのである。
食事は、単に栄養摂取というだけのものではなく、感覚器官を鋭くするための大切な行為なのである。
人間は日々、前進したい気持ちと、後退してしまおうという気持ちに挟まれている。
出かける、出かけない、やる、やらない、両方の気持ちの間で揺れているのが、われわれ人間である。そのせめぎ合いの中で、ほんの少し、「出かけよう」「やろう」という気持ちが勝った時だけ、出かけたり、やりはじめたりすることになる。
その気持ちこそ、「決断」である。
その決断をいっそのこと、人に任せてしまえば楽なのだが、それではいつまでも自らの決断ができなくなる可能性が高い。
決意すれば、決意した通りの結果が出る。
周囲の人が合わるようになる。
自信がつく、元気になる、みずから責任をとるようになる。
決断しなければ、元気を失い、自信を持てなくなる。
元気な人は、みずから決断して揺らぐことはない。
決意をした人の通りに物事が成就することを知っているからである。
決意するためには、賛同してくれる人を身近に持つことである。
デパートの子ども用靴売り場で、お母さんが子どもに靴を買ってあげている。
子どもが言う、「おもちゃ売り場に行くと言ったではないか」と。
お母さんは、寒くなるからかうのだと、説明している。
子どもからすれば「話が違う」のであるだ。
おもちゃも買う、のか、靴を買うための口実としておもちゃを出したのかは定かではない。
コミュニケーション不足である。
出かける前に、話し合いをしておくことが原則である。
優先順位を決め、目的や金額など、母の考えを言いつつ、子どもの意見も取り入れて出かけることである。
両者が納得いくまで話し合うことである。
この状況では、この子がこの靴を大切にすることはないだろう。
たとえ履いても、愛着が湧く可能性は極めて低い。
子どもたちには、オールOKで対応してあげることである。
それは、精神を満足させると言うだけにとどまらない。
自分の言った「こと」や「もの」が「実現する」ことを経験させるためである。
自己主張できる環境を整えておくことで、子どもは自己実現していくのである。
私たちは、常日頃、あっちが痛いこっちが痛い、痒い、目がかすむ…さまざまな症状を抱えながら生きている。
あるクライエントは、「すがすがしい日など、一日もありませんでした」と訴えた方もいた。
われわれは、症状という病を生きているのかもしれない。
そこに、宿題やノルマ、思いかけない出費などのストレスにさらされて、心は落ち着く暇もない。
周囲を見渡せば、平穏に暮らしている人たちばかりにみえても、多くの人の心は、いつも揺れているのかもしれない。
そうした心の傷つきが、症状として何を訴えているかを考えることも必要である。
これが、体の声を聞く、ということである。
頭が痛い、という症状が何かを訴えているのだ。
表向きは「風邪」であっても、本当の原因は違っていて、「私はこんな苦しみを抱えている」といっているのだ。
それを言いだせないときに、人は病気になるのである。
症状を聞くことによって、本人の抱えている問題を知ることができるはずである。
心が体をコントロールしてるからである。
そのようにして、精神分析は誕生したのである。
セラピー場面においては、印象に残る映画を語ってもらうことも多い。
一シーン、一人物に、クライエントの心境が語られるからだ。
最初期、「先生、不思議なのです。
『キャリー』というホラー映画を観た時、最初から最後まで、すこしも恐怖を感じなかったのに、最後の一シーンで、とてつもない恐怖感におそわれた」という。
その恐怖感におそわれた理由を知りたい、というのである。
そこで、そのラスト一シーンを語ってもらった。
彼の語った言葉を聞いて、「あなたを長い間、苦しめていたのは、こういうことだったのではないですか?」と返したところ、「まったくそのとおりです。そういうトラウマがありました」と告白されたのであった。
このように、映画をはじめ、小説、音楽など、人間はすべて、自分の目を通して物事を見ていることが確認できるのだ。
われわれが目にしているものはすべて、自分自身、ということになる。
リメーク版「キャリー」が公開されるという。
初期のころを思い出して、感慨無量である。
人間は、言葉の雨に打たれながら暮らしているようなものである。
社会から、ときに冷たく、ときには豪雨のような言葉となって、人間に降りかかってくる。
大人は、酷な言葉を浴びせられても、「きっと虫の居どころが悪いのだろう」などと、言葉を作ることで、その厳しさをはね返す方法を知っている。
ところが、自らを防ぐ術を身につけていない子どもたちは、そんな言葉の一撃でくだけ散ってしまう壊れやすい生き物なのである。
子どもたちには、つとめて、褒め言葉と承認の言葉だけをかけてあげたいものである。
子どもたちの元気の源は、承認と賞賛の言葉である。
それらをかけられた子どもたちは、将来、自信と自覚に満ちた人間に育つことになる。
その結果が現れるのが、20年後ということを考えると、養育は、時間と愛情をかければかけるだけ、効果が出てくるものなのである。
私たちが「幸せ」と感じるのは、どんな時だろうか。
ある人は、山歩きの途中でみつけた岩清水の一口に幸せを感じる、と答えるかもしれない。
ひと仕事終えたあとの、ビールの味に感じる、という人もいるだろう。
残念なことに、そうした時間が、意外に長くは続かないことを、われわれは経験として知っている。
だからこそ、もっと飲みたい、さらに心地よいものを得たいなどと呟きながら、真の幸福とは何かを、永遠に求め続けることになるのである。
こうして人間は進歩してきたのだ。
精神分析における幸せとは、自分の真の欲望に出会うことである。
それは対話の中に現れる。
自分で語ってから、じぶんで驚くのである。
自分にもこんな欲望があったのかと。
ほとんどの人は、自分の本当の欲望が何なのかに気づくことは、ほとんど無い。
本当の自分に出会うためには、対話しかない。自分で何とか見つけようとしても、堂々巡りを繰り返すことになる。
今までやっていたことに興味がなくなってきた、学校の成績が振るわなくなった、怪我や病気がつづく・・・それらが何を語っているのかを、対話によって探っていくのである。
本当の自分とは何か、それに出会えたとき、人は真の幸せを感じることになるのである。
かつて中野駅前に中華料理店があった。
通りがかりに入って食すと、うまい。グルメでない私にもうまいと思った。
多くの人に紹介し、絶賛された。
ところがである。このマスターが客とよく喧嘩する。
本を読みながら食べてはいけない、調味料はかけてはいけない・・といった具合である。
もちろん、厨房からの言い争いの声が伝わってくる。
腕と味覚に自信があるからなのだろう。
そんなことはお構いなしに、私は味わってはいた。
腕があって、謙虚さもあれば、鬼に金棒なのに。
そのためには、さらに上を目指すことである。
自分よりもすごい人がいる!と畏れる人物を見つけることである。
セラピーでは、クライエントの前にわれわれは謙虚である。
クライエントの語りの中で、真実が語られる瞬間がある。
こういう人になりたい、ああいう人にもなりたかった・・それこそが、自分の理想とする人物である。
彼らがその人物になろうとしていることに、本人も気づかない。
彼らが理想とした自我像は、彼らの歴史の中で廃墟になり、埋もれかかっているのである。
そんな語りに触れるたびに、思わず、頭が下がる思いがする。
われわれが謙虚になれる瞬間、それは、対話の中にあらわれてくる真実なのである。
相手に意見を聞こうと思っているのに、相手が何も話してくれないなどという経験はないだろうか。
会議などで、こちらから「なにか意見はありませんか」と促しているにもかかわらず、みな沈黙するばかり。
たまに誰かが意見をいっても話がつながらない。
仕方なく、議長が提案すると、一任、などと返されてしまい、再びもとの沈黙状態に。
ところが、会議終了後に、喫茶店などで、会議で提案されるべき話題が取り上げられている。
そんな話をよく耳にする。
日本は、上位下達の歴史があるから、なかなか下から上に意見を申し述べる環境にはなっていない。
まず、家庭で、子どもの意見が自由に語れる雰囲気にしておくことがよいだろう。
家では、何でも語ってよいのだ、ということが分かれば、子どもたちはどんどん発言するようになる。
その中から、いじめられている、とか、勉強が負担、などの語りが含まれている可能性が高い。
それをキャッチしてあげることで、子どもたちも言いだしにく話を語れたことで、安心感を得ることになるのである。
4歳くらいの男の子が、買ってもらったばかりのヒーローベルトを腰に装着して、巧みに操作して光らせたり、音を出したりして自慢げにふるまっている。
友だちに触らせたり、操作方法を伝授したりしているところをみると、どうやら新製品であるらしい。
人間の欲望は、他者に認められることで意味をもつ、と言われている。
人間が求めているものは、他者の欲望ということになる。
彼のベルトに、だれも関心を示さなければ、ベルトの価値はゼロになってしまうものだ。
それが人間の欲望の本質である。
周囲の人が求めているものを模倣しつつ、その中から「本当の自分の欲望」を見つけていくのが人間ということになる。
近くの公園で、小さな男の子がパパに手を引かれて歩いている。
彼は歩き始めたばかりである。
パパは、子どもの手を引いて、連れ戻そうとしている。
子どもは、その手を振り払って、行きたい方角に歩こうとする。
その繰り返しが延々と続くうちに、親が手を離して、子どもの自由にしてあげたのである。
1歳にして、子どもはすでに「意思」をもっている。
自分で歩く、という意思の表われである。
「自分の意思をもて」とか、「自分の考えを主張する」などと、ことさら言わなくても、子どもは自己主張している。
行きたい方に歩かせてあげること、それが子どもの意志を尊重することである。
親はその姿をそっと見守るだけでよい。
危険、不潔、法律に触れること以外は子どもの意志の通りにしてあげることで、子どもは「自分の考えは必ず実現する」を学ぶことになる。
それによってのみ、子どもは自分を社会に押し出していくことができるようになっていくのである。
悩みを語ると、多くの場合、周囲の人たちから怪訝な顔をされることがある。
悩む人は、おかしいのではないか、というのが世間一般の風潮ではないだろうか。
周囲は、そんな悩みをうつされては大変とばかりに、「そんなことを考える暇があったら本を読め」とか、「それでは前に進めない」などと言うことが多い。
そこでついつい、悩みを胸の内に秘めてしまうことになる。
そのため悩みは堂々巡りを繰り返すことになる。
人間はときに、立ち止まって、考えることが必要なのである。
ところが、忙しい世の中は、立ち止まることをなかなか許してはくれない。
立ち止まると、自分が置いてきぼりにされたかのように感じてしまうから、自分とは何かを考えなくなってしまうのである。
その結果、30代後半になってから問題行動に走ったり、病気になる、引きこもるなどという人を見たり聞いたりすることがある。
希望通りの学校に入ったのに、とか、一流企業に入社できたのに、なぜやめてしまったのだろう、などという例に接するたびに、そもそものはじめに悩みを聞いてもらえる環境があれば、と思う。
原点に立ち返って、本当の自分に向き合うことを、入学や入社前にすべき時が来たのではないだろうか。
人間は、最初から欲望をもって生まれてくるわけではない。
サッカー選手になるために生まれてきた、というのは、意外にも、他者の欲望であることが多い。
自分の欲望というのは、実は、ずっと後になってから描けるものかもしれないのだ。
では一体、それまでの目標とは何だったのだろうか。
それは、仮の目標なのである。
ところが、その「仮」の目標さえも、それが無ければ、子どもは何を目標にしてよいのか分からないまま、成長することになる。
仮の目標がたくさんありすぎても迷うばかり。
無くても分からずじまい。
とりあえず、一つだけの目標を与えてくれればよいのだ。
十代後半になると、今までの目標のまま成長することもある一方で、これは自分には合わない、と感じ始める人もいる。
成績が落ちる、受験の失敗といった挫折体験がそれを物語っていることが多い。
気持ちの上では、今までの投資が無駄になる、と思いつつ、体の方は拒否してしまうのだ。
気持ちと体の間で、さ迷うことになる。
それが葛藤である。
そんなとき、周囲の人たちは公正中立の立場から、彼の語りに耳を傾けてあげられればよいのだ。
じっくりと、自分とは何かを考えさせる時間をもたせることが、一番の処方箋となるのである。