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2013年12月の31件の記事

2013年12月31日 (火)

座右の銘

人は、何かを考えているときや、行動しているとき、あるいは、人に接するときに、自分の持っている座右の銘を基本にしながら対処している。
 もちろんその言葉は無意識的なのだが、一つの言葉によって考え、行動し、接している。
 「善は急げ」が座右の銘、という人は、いつも積極的に行動している。
 「石橋をたたいて渡る」ことを信条にしている人は、どこかおっとりしている、といった具合である。
 座右の銘が、無意識的にその人のすべてを牛耳っているといえるのである。
 そうした言葉はいつごろから立て始めたのであろうか。
 それは、生まれ育った環境、親、教師などの影響が無いとは言えない。
 普段、大人たちは、どのような言葉をつぶやいているのだろうか。
 そして、どのように伝承されているのだろうか。

2013年12月30日 (月)

遊び

子どもは、遊びを通して「交流」を学ぶ。
 最初の遊び相手は、両親である。
 例えば、ボール投げを考えてみよう。
 子どもが投げたボールを、親が受けとめて子どもに投げ返す、そんな簡単な遊びのなかに、心の交流が含まれている。
 親がボールに合わせて動いてくれる。
 親が、自分の動作や考えをちゃんと見てくれている証拠である。
 投げたボールが横にそれても、親はボールの行方を追ってくれる。
 そして、何事もなかったように、ボールは子どもの手に返ってくる。
 この場合、遊びを、親自身が心の底から楽しむことができれば、子どもは親の笑顔を通して遊びの楽しみを味わうだろう。
 自分の喜びは、相手の表情を通してしか、知ることができない構造になっているからである。
 これからの正月休みを、皆さんは、どんな遊びを子どもたちとして過ごされるのだろうか。

2013年12月29日 (日)

試行錯誤

子ども時代は試行錯誤の連続である。
 サッカーをしたり、野球やバスケットボールをはじめ、何でもありの時代こそ、子ども時代である。
 親は、その都度、振り回されるが、したいことをさせることで、子どもは、サッカー選手などに自らを投影しながら、自分を発見していく。
 このとき親は、ああだこうだと言いたくなるが、見守ることである。
 たとえ本人がサッカー選手にならなくても、サッカー選手の属性を取り入れている。
 すなわち、団結力や得点力だけでなく、相手チームの分析をしたりすることも学んでいるのだ。
 今、熱中していることの中に内包されている何かが、子どもの心に灯をともしているのである。
それが、将来どんな形で花開くことだろうか。見守って生きたことである。

2013年12月28日 (土)

趣味を持つ(2)

趣味の原点は、第一は両親、第二は兄弟・姉妹そして友人である。
 われわれの趣味は、彼らの趣味を自己の中に取り入れることから始まる。
 彼らはいつも身近にいて、いつでも観察可能ゆえ、われわれにとって同一化しやすいのだ。
 人は誰でも、憧れの人物を心にもっている。
 そして、両親をはじめとして、学校の先生や、尊敬する人の真似をしながら生きている。
 服の好みや、しぐさ、読む本など、何でも真似ている。
 真似のベースとなっているのが両親である。
 人によっては、両親とはまったく異なった趣味を持っている人であっても、両親の趣味を否定することによって、自分の趣味を規定していることが多い。
 真似るか、真似ないかの境界線はどの辺にあるかと言えば、これなら、真似ることができる、という点にある。
 あまり程度が高すぎると、最初から真似ようという気が起きず、反対に、安易過ぎれば、飽きてしまう。
 こうしてわれわれは、さまざまな人の趣味を模倣しながら、自分の能力や体力などを加味して趣味を見つけていくのである。

2013年12月27日 (金)

趣味を持つ

趣味を持つことは、人間の心の情緒性を養うことである。
 情緒性とは、心の広さ、ぬくもりや潤いを指している。
 われわれが壮大な絵を見たり、雄大な景色を見た時に感じる包まれている感じであり、ぬくもりとは美しい旋律であり、うるおいとは、それを耳にしたときに感動の涙を流すことである。
 ところが、社会は情緒性で動いてはおらず、時間と契約で成り立っている一つの巨大なシステムである。
 そこでは、情緒性は必要ないために、それだけで生きていると、ぎすぎすした人間関係しか感じられない場合が多い。
 人々が、休日になると、野や山に出かけるのは、失われた情緒性を取り戻すための本能的な行動ということができる。
 「仕事が趣味」という人は幸せである。
 しかし、仕事とは異なった分野での趣味を持つことも、人生をより豊かに過ごすことにつながるだろう。
 仕事ができる人というのは、ある一面の才能だけを発揮して来た人である。
 自分でも気づくことのない、埋もれた能力や趣味が見つかれば、仕事だけで生きた人生とは、違った面を味わうことになるからである。

2013年12月26日 (木)

言葉に寄り添う

子どもたちは、愛の言葉の中で成長する。
 愛の言葉とは、子どもを生かす言葉である。
 子どもの意思を尊重し、肯定する言葉を愛語という。
 反対に否定され、価値観を下げられたら、自己否定感のみが、子どもの心に宿ることになるだろう。
 「サッカー選手になりたい」という言葉にも、「宇宙飛行士になりたい」と言う言葉にも、肯定文で返してあげることである。
 子どもの語りに寄り添うことで、子どもはサッカー選手になっている自分や、宇宙服を着ている姿を想像することができる。
 それによって子どもは「夢を描く」のである。
 サッカー選手になる、ならないは、問題ではない。
 言葉に寄り添ってあげることで、子どもは自信を持ち、未来に進んでいくようになるのである。

2013年12月25日 (水)

問い

自分の問いに、明解な答えが相手から返ってきたときほど心地よいものはない。
 子どもたちは、自分の父と母が結婚したわけ、自分を産んだ理由、名づけの意味など、何でも聞きたがる。
 彼らは、自分がこの世に生まれてきた意味を聞いているのである。
 なんのために生まれてきたのか、自分の出生は歓迎されたのか、可愛がれているか、両親は自分がどんな人間に育てば喜ぶのかと、問いかけているのである。
 ひとことで言えば、自分とは何か、という問いかけをしはじめたのである。
 子どもは、いつの間にか重大な問いを立て始めている。
 大人はと言うと、こうした問いを、いつのころからか忘れてしまったのではないだろうか。

2013年12月24日 (火)

好き嫌い

この人は好き、あの人は嫌い、という時の人間の心には何が生まれているだろうか。
 それは人間の感情である。
 それは、どこからともなく、突然浮かび上がってくる。
 それは自分の意思とは関係なく、湧き上がってくるので、本人でも驚いてしまうのだ。
 目の前にいる人やもの、ことの向こう側にある「何か」が、本人に、好き、嫌いの感情を起こさせているのだ。
 食べ物の好き嫌いもそうだ。
 ある食品を出されて、平気で食べる人と、拒絶反応を示す人がいるのはそれである。
 その食べ物にくっついている何かが、本人にある感情を起こさせるのである。
 それはあまりにも悲しい記憶なので、思い出さないようにしている。
 それを想起してしまったら再びその時代とか、思い出がよみがえってしまうので、無意識界に閉じ込めているのだ。
 ところが閉じ込めておいたはずの「それ」が目の前に出された途端に、記憶が「拒絶反応」という形で表面化してしまうのである。
 当の記憶そのものは思い出さないので、「嫌い」としか言いようがない感情を示してしまうのである。
 セラピーでは、無意識を意識化させることで、嫌いだった食べ物が食べることができるようになったりすることを可能にする。
 そうした体験がある人はぜひ一度、セラピーを受けることをお勧めします。

2013年12月23日 (月)

人が人を好きになるとは

人が人を好きになるのは、その人の向こう側に、かつて、自分にとって最も重要な人物を見出していると言われている。
 それは紛れもない、母の姿である。
 初対面の人に抱く、どことなく懐かしい感じは、母の似姿である。
 自分の心の奥にある、母への思慕の情である。
 初恋の人や、結婚相手に、母に似た人を選ぶのも、こうした機制がはたらいていると考えられる。
 母親とは正反対のタイプの女性には、心ときめく思いがしても、結婚となると、考えてしまうという。
 母に似た人というのは、決して「ときめく相手」ではないが、懐かしく、親しみやすいのである。
 このように、人の心の中に植えつけられた女性イメージは、人生の最初に出会う母なのである。
 母は、人にとって選択の基準になっているのである。
 母と相手とを見比べたり、重ね合わせたりしながら、人は人と交流しているのである。

2013年12月22日 (日)

感情の起源

人はいつごろから「感情」を得ているのだろうか。
 それは、母の胎内にまでさかのぼる、と言われている。
 母が料理を楽しそうにしていれば、その感情は、胎児に伝わる。
 出産にたいして、夫が肯定的な言葉を与え続ければ、へその緒を通して胎児は、聴いているに違いない。
 言葉として聴き、かつ、母の感情としても感じとっていることになる。
 そのようにして育てられた子は、料理好きになったり、自分がこの世に生まれてきたことを、肯定的に受けろるだろう。
 その逆の場合においては、何も楽しいことはないと、人生を悲観的に受け取ることになるだろう。
 胎教と言っても、実際の場で妻を支えるのは大変かもしれない。
 それを覚悟の上で、夫は10ヵ月間、支えてあげて欲しいものである。

2013年12月21日 (土)

苦労

人は、苦労することが好きである。
 例えば、書店で目当ての本を探す場合、店員に聞けばすぐさま検索してくれたり、該当する棚のところまで連れて行ってくれるだろう。
 はたして、人はそれで満足するだろうか。
 目当ての本を見つけるまでの苦労もしてみたかった、という心理が働いてはいないだろうか。
 その苦労とは、捜すのに何分かかってもよく、悪戦苦闘することも、場合によっては、快感となりうるのだ。
 克服できる範囲、という条件も加味されなければならないだろう。
 克服できると判断されれば、どんな苦労でも、受けて立とうと言う気持ちになる。
 その自信は、幼少期に言われた、「よかったね」「よく頑張ったね」という一言が自分の背中を押してくれているのだ。
 しかし、そんな過去の言葉は、無意識の奥にしまいこまれているが、ふとした瞬間に、「よし頑張ろう」という気持ちとなって、湧き上がってくるのである。
 一つの励ましの言葉の存在で、その仕事が好きになったり、人やものに対する愛着となっているのだ。
 このように、承認と賞賛の言葉が、精神の土台になって、われわれの行動や思考のすべてを支え続けているのである。

2013年12月20日 (金)

聴く

人が人の話を「聴く」ためには、相手の話をそっくりそのまま自分の「心」の中に容れることである。
 「~ということがあったのですね」「~という気持ちだったのですね」というふうに、そっくりそのまま、言葉を返すことである。
 それによって、相手は、自分の話が聞き手の耳に入ったと感じることになる。
 ところが、語り手の方は「激痛が走った」と言っているのに、聞き手が「痛かったのですね」と返したのでは、話が伝わったとにはならない。
 語り手の方は「ちょっと違うな」と感じて、後日、その話を違った相手に語ることになる。
 しかし、そこでもまた、違った解釈をされてしまえば、一度自分の口から出た苦しみの言葉は再自分に返ってくることになる。
 それが積もり積もって、「何度も同じ話しかしない」人というレッテルを貼られてしまうことになる。
 話の細部に至るまで、完全に聴くことが大切である。
 聞いてもらうだけで、人は癒されていくからである。

2013年12月19日 (木)

投影

人間が目にするものは、すべて自分自身である。1_2
 他者の中に自分を見ているのだ。
 例えば、映画。
 ヒーローや、ヒロインに自分を投影しながら、手に汗握ったり、涙を流したりしている。
 あるいは写真撮影の場合、他者が夜のイルミネーションを背景にして写真を撮っている姿に、自分を投影して、「あの位置に自分が立てばこう見えるに違いない」と、想像しながら順番を待っている。
 いよいよ順番が回ったときには、その位置に自分が立って、カメラに収まることになる。
 このようにして、他者の位置に身をおいてそれを他者のように眺めてみたり、自分がその位置に立ってみたりと、一人二役を、めまぐるしくやっているのである。
 こうしたからといって、やはり自分の姿に到達できないもどかしさの中で、毎日を暮らしている自分がいる。
 それだったら、良いイメージの自分を描くことが大切である。そうすれば、イメージ通りの人生を歩むことになるのである。
 
それこそが自我理想と呼ばれるものである。

2013年12月18日 (水)

レストランにて

レストランで、三歳くらいの子どもと両親が、テーブルを囲んで食事をしている。
 子どもには、お子様ランチが用意されている。
 父親が、子どもの皿に父親の分まで、取り分けている。
 子どもはただちに、それをスプーンでどけて、いらない!と言っている。
 全部取に除け!とのご託宣である。
 父親は素直に従った。
 将来、この子は自己主張する子になるだろう。
 社会に自分を押し出していける子になるだろう。
 自己主張とは、主張したことが相手に受け入れられた場合にのみ、成立するものである。
 聞き容れてあげなければ、妄想が生まれる。
 彼女は、妄想者になることから免れたことになる。
 それに比べて、大人はどれだけ、他者から押し付けられてきたことだろうか。
 これは似合いますよ、あなたにだけお勧めします、などという声に乗せられて、ネクタイを何本もたされたことか、思い知らされる。
 日本の場合、自己を押し出すには勇気がいるかもしれない。
 それを成し遂げる環境が、人が人になっていく過程では必要である。

2013年12月17日 (火)

愛着

私たちには、捨てられない愛着のある品物が一つや二つあるものだ。
 それは、思い出の品、大好きな人からもらったもの、それを身につけていたら褒められたものである。
 その裏側に、良い思い出が付着している。
 反対に、いつの間にか紛失してしまったものは、愛着がなかったものである。
 あんなに大切にしていたのになぜ?というような物である。
 大切にしていたのとは裏腹に、捨ててしまいたかった無意識が働いて、紛失したのである。
 それは、道徳心の存在が、捨てることをためらわせているのだ。
 捨てたい、という心の方が強く働いたために、捨てたことを忘れているのである。
 フロイトが、「失錯行為は無意識」と言ったのは有名である。
 日常の生活の中で、それらは、しばしば経験したり、目撃したりすることが多いものである。

2013年12月16日 (月)

楽しい

テレビ番組で、東大と京大のエリートによる、記憶力を競う頭脳頂上対決を放映していた。
 あらゆるジャンルの問題して、正解を答えていく競争の中で、「憶えるのが大変じゃないですか?」とのアナウンサーからの質問に対して、「苦しいと思ったらできません」と彼らは答えていた。
 彼らにとって、記憶することは楽しいことなのである。
 大人は、いつの間にか、好きなことは後回しで、嫌いなことをやらされているかもしれない。
 仕事だから、家族を養うためだから、という理由が「苦しい」という感情を隠ぺいしているのだ。
 その仕事・勉強が、自分にとって本当に好きなことなのかどうかは、自分ではなかなか見分けることができないものである。
 それを知るにはどうすればいいのだろうか。
 そのためには、自分を語ることである。
 語りの中に、真の自分の欲望が目てくるのだ。
 それを知った瞬間、自分は本当の自分になれるのでる。

2013年12月15日 (日)

好き・得意

好きなこと、と、得意なことは違う。
 得意だからからといって、プロになるとは限らない。
 得意でなくてもずーっと、同じことを続けていることもあるからだ。
 得意なことは、「簡単にできてしまう」ことである。
 好きなことは、たとえうまくいかなくても、それをしていれば何時間だって平気なことである。
 職業を例にとれば、家業を手伝っているうちに、「簡単に」できてために、それを職業としたが、中年に達してから、どうも違う、と感じて、うつになってしまった例もある。
 反対に、器用でなくても、好きなことをしていて、その道の第一人者になった例もある。
 東北地方で、何でも破壊するのが好きが昂じて、車を破壊する機械を、図面も計算も上手くないのに、作ってしまい、「東北の破壊王」の偉名をとどろかせた人物もいる。
 周囲に手伝ってくれる人が表われての実現であった。
 一見、得意と思われることは、簡単なことといえる。
 楽をしていることになる。
 反対に、好きなことに夢中になっていると、「そんなことをしているひまがあったら勉強しろ」と言われる可能性が極めて高い。
 そのために、親が良い顔をする方の科目を選んでいる可能性もないとは言えないのである。

2013年12月14日 (土)

自分との出会い

自分が探しているものは、自分自身である。
 例えば、本屋に立ち寄って、本棚に並ぶ本の背表紙をさっと眺めれば、目に飛び込んでくるタイトルこそ、自分、ということになる。
 「分析」に興味のある人は、「・・・分析」という書物の背表紙が目に飛び込んでくるだろう。
 「犬」に関心がある人は「・・・犬」とか「犬の育て方」という本の背表紙が目にとまるというわけである。
 この世で、出会うものがすべて自分とするならば、偶然に出会ったと思っている友人こそ、自分であり、結婚相手も、自分ということになる。
 相手の中に自分のよいところも、嫌いなところも見出してしまう、だから愛憎あい半ばするのである。
 相手の中に、好きなところも、嫌いなところも見てしまうために、好きで、嫌い、いとおしい半面、憎さも百倍、とまでいわなくても、抱きしめたくなるのである。
 だからこそ、相手を大事にしなければならない、ということになるのである。

2013年12月13日 (金)

運転

人は、精神状態の通りにクルマを運転すると言われている。
 のんびり走っていたかと思うと、急発進したり急ブレーキをかけたりと、人は、精神状態のままに運転しているのである。
 信号待ちで、前の車にぶつけるかと思われるほど、接近させて停車する人、前の車との間を空けて停車する人など、運転のしかたに、その人の無意識が表われるといわれている。
 フロイトは、失錯行為に無意識が表われると言っているが、運転の仕方にも、その人の無意識が表われのかもしれない。
 交通事故の形式によっても、運転する人の無意識が表われる。
 すなわち、自分の無意識を知れば、事故を起こすことはなくなることになる。
 自分を知って、事故を未然に防ぐことができれば、事故を起こす可能性は、極めて低くなるだろう。
 自動でブレーキがかかるシステムは、素晴らしいと思う反面、それがあるから、という理由で、機械任せにしてしまう可能性もないとは言えない。
 やはり、自分を知ること、自分をしっかりと把握することに勝るものはないのである。

2013年12月12日 (木)

ただいま・お帰り

「ただいま」、「お帰り」、これだけの言葉で、子どもたちは、帰ってきたんだ、自分は帰ってきていいのだ、ここにいていいのだ、生きていていいのだと感じる。
 「お帰り」の一言は、あなたの存在を認めていますよ、という証明である。
 子どもたちは、今日も、自分の居場所に帰ってくる。
 さまざまな思いと、疲れた体を抱えて帰ってくる。
 ランドセルを脱ぎ捨て、苦しみの衣を脱ぎ捨て、おかえり、のひとことを言ってもらうために、帰ってくるのである。

2013年12月11日 (水)

最初の一歩

人にとって、最初の一歩を踏み出すことは、勇気がいるかもしれない。
 踏み出さなければ、何も始まらないとわかっていても、未知の世界はとてつもなく不安の渦巻く世界に感じてしまう。
 その不安は、自分の頭の中でつくり出した妄想かもしれない。
 夜、道端のススキの穂の影を恐れているだけかもしれない。
 安全な道を、迷惑をかけないように、などと、無難な道を選びながら人生を生きてきたのではないだろうか。
 せめてもと、ゲームや本や映画の中で、冒険をしている私たちがいるのかもしれない。

2013年12月10日 (火)

帰る家

夕刻になると、カラスたちが一斉に枯れ枝に帰ってくる。
 昼間、一体どこに行っていたのかと思われるほどの数である。
 人にも、それぞれの、帰る家がある。
 帰るとは、自分自身に帰ることである。
 本来の自分に戻れる場所、それが家である。
 そこで、人は癒され、活力を得、再び社会に出ていけるのである。
 家は、寛げることが大切である。
 羽を休めるところである。
 大人は、上から押さえつけられ、下から突き上げられ、仲間とは競争者の別名でもある。
 そうした競争心が、今日の発展を支えてきているのである。
 子どもたちも、ほぼ同じ状況の中に置かれているだろう。
 せめて、家ではゆっくりしたい、思う存分訴えたい、叫びたい、甘えたいと心の中で言いながら生きている。
 頑張らなくては、でも甘えたい、という気持ちのはざまで、呻吟している子どもたちがいる。
 帰宅した家族には、ただ一言、「お帰り」と言ってあげるだけでよい。

2013年12月 9日 (月)

子どもたちは、将来、何になりたい、これになりたいと、語り続けてやむことはない。
 一日中、子どもたちの話を聞かされてたいへんです、と訴える親御さんも多い。
 彼らの話にしっかりと耳を傾ける聞く方法を伝えると、それでいいのですね、と皆さん納得される。
 反対に、語らない子の方が問題を抱えているのですよ、と付け加えることにしている。
 それに較べて、大人の夢は雲散霧消してしまったのだろうか、それとも、どこかに葬られてしまったのだろうか。
 夢を持とうとする気持ちと、現実を直視しなければならない声に挟まれて、いつも間にか現実直視しているのが今の風潮ではないだろうか。
 大人になっても夢を持つことである。
 そのためには、夢を語ることが大切である。

2013年12月 8日 (日)

思考は物質化する

古来、「求めよ、さらば与えられん」とか、「願えば叶う」などという言葉がある。
 求める気持ちがなければ、仕事も、欲しい車だって、目の前にあらわれることはなく、手にも入ることはない。
 人間は思考する能力に恵まれている。
 だからこそ、欲しいものを想像したり、実際にショッピングに出かけたりする。
 反対に、行きたくないとか、気が進まない、などといった場合は、電車が遅れたり、道を間違えたりする。
 自分の気持ちが、現象化していると感じることもある。
 思いを強く持つことである。
 成功者と言われた人の歴史を読んでも、あきらめなかった、とか、何としてでも、という気持ちを持ち続けていた、という一文に出会う。
 何が起きても、あきらめないこと、思考することを、日頃から考える事が大切である。

2013年12月 7日 (土)

慣れ

事務所を、中野駅のそばに移転したときに驚いた。
 それは電車の通過音である。
 二階の窓の前を、中央、総武、東西の各線に加えて、中央本線のあずさ号などが、つぎつぎに通過していく。
 その音の大きさに、目も耳も騒がしいのである。
 お客さんも、その様子に驚かれる。移転は失敗か、と案じていたところ、たった三日で「慣れ」てしまったのだ。
 人間には、防衛機制が完備されていて、動揺しないで済むのである。
 反面、説教されても効かなくなる、叱られ続けても平気になるという形で、慣れてしまうということもある。
 子どもたちが、夜泣きをする、夜、目が覚めてしまう、などという場合がある。
 それは、日頃、叱られ続けたために「慣れ」ていても、体の方が記憶していて、苦しいのである。
 それを、泣きやまない、と言った方法で、訴えていることになる。
 叱られたことが、原因であるとは、周囲も、自分でもわからない。
 「慣れ」は、よいことも、悪いことでもある。
 したがって、泣きやまない原因などを、詳しく聞いていくことが養育においては大切なことである。

2013年12月 6日 (金)

バランス

今、中野駅周辺がにぎやかである。
 4月以降、大学と大企業がそれぞれ三つづつ移転してきたからだ。
 昼間の人口が、一挙に、三万人ほど増加したことになる。
 サンモール商店街は歩くのがやっとであり、昼食時は、店の前は行列だらけとなる。
 家賃も高騰し、ちょっとしたバブルである。
 この町は、サンプラザを駅前に構え、中央に大商店街、裏通りは飲食店街という構成で成り立っている。
 しかし、一本裏道に入れば、静かな住宅街がたたずんでいる。
 このバランスがよい。
 生活感がある半面、活気と、安心感が同居している。
 セラピーをしていて思うことは、分析するということは、冷たく分析していくことではないということである。
 クライエントの心の中にある活気や、生き甲斐、欲望や温かさの源を発見することである。
 この町のように、芸術と遊び、交流と静けさを、いかにバランスさせていくかということである。
 多くのクライエントは、ある意味で、心のバランスを崩されてしまった人たちである。
 そのバランスを取り戻してもらうことがセラピーである。
 遊びも、怠けることも、人間の精神にとっては、必要なことであることを、認識してもらうことである。
 すなわち、人間になるということである。

2013年12月 5日 (木)

最初の一歩

人は誰でも、最初の一歩が踏み出せないでいる。
 それは、あまりにも未知の領域だからである。
 今まで通りの道というものは、ある意味で、知り尽くした道だから、誰だって平気である。
 痛みだって、苦痛にさえも、このくらいの痛みはくるはずだ、と予測はついてしまうのである。
 人間には、痛みや苦痛に慣れてしまう機能があるのだ。
 だから人は、毎日、嫌いと感じている仕事にも、従事することができるのである。
 そうした痛みや苦痛に「慣れ」ることができずに、この仕事は「嫌だ」と叫んでいる人たちがいる。
 彼らの言葉こそ、真実を語っているといえるのではないだろうか。
 そこから一歩踏み出す事を「勇気」と呼ぶか、「無謀」というか、それが問題である。

2013年12月 4日 (水)

人間の心の奥には、どれだけ多くの宝が眠っていることだろうか。
 多くの場合、人は、その才能を、自分で知ることはできないままである。
 俗に言う、「宝の持ちぐされ」になっている人たちのなんと多いことだろうか。
 才能があっても、それを生かせる環境になかった人や、その才能に光を当て、その特性を指摘できるだけの人物に出会えなかった場合などがあることを、われわれは経験として知っている。
 その隠された才能に、どのようにして自分で気づくことができるだろうか。
 それは、自分のことを語る相手を、見つけることである。
 こんなことをしたい、あれが楽しい、ということなどを自由に語り、それを、公平、中立の立場で聞いてくれる相手を見つけることである。
 相手に聞いてもらうことで、自分を知るのである。
 後世に名を残したような人でも、希望や、欲望について、聞いてくれる相手がいた事を、われわれは知っている。
 語りながら、自分の能力や特性に気づいて、自信を深めていくことができるのである。

2013年12月 3日 (火)

喜び

おもちゃ売り場で、買ってもらったばかりの袋を小さな子が抱えている。
 顔が隠れているのに、構うことなく歩いている。
 自分の力では手にすることのできない子どもたちにとって、それは大きな喜びである。
 大人が小遣いを貯めて手に入れる喜びに較べたら、比ではないだろう。
 自分のもの、という以上に、自分そのものと言える。
 抱きしめた袋の感触、匂い、重さ・・・すべてが自分自身である。
 自分で自分を抱きしめている。
 それに較べると、大人の喜びはずいぶん怪しげなものかもしれない。
 精神分析における喜びは、クライエントの語りの中に、真理が語られた瞬間である。
 その時、クライエントと喜びを共有出来るのである。
 それは、私にとって、大きな喜びでる。

2013年12月 2日 (月)

模倣

子どもは、模倣することが上手だ。掃除、近道、お辞儀・・・何でもまねする。ときに、大人がびっくりしたり、恥じたりすることもあるほどだ。子は親の鏡とは、よくいったものである。子どもが知らないだろう、ということまでも、彼らは知っている。彼らは、事の善し悪しで判断しない。とにかくまねている。両親が実は不仲で、「表向き」だけ仲良しであることも知っており、祖父母に対して、両親が頭が上がらないことも知っている。そのことを両親が無意識的に隠しており、それを指摘されることを恐れていることもまた、知っている。子どもは、すべてを知っている。

2013年12月 1日 (日)

役立つ

子どもが、両親の手伝いをしたくなったら、自由にやらせてあげることだ。
 親のやり方と比べれば、年季の差は歴然だが、そこは、目をつむることである。
 最初にやりたがるのが、皿洗い、とクライエントから聞くことがある。
 蛇口からの流れの感触、きれいになっていく皿の変化などとともに、見守る両親の、あたたかなまなざしを背後に感じているはずだ。
 その時、危険はあらかじめ予防しつつも、両親はそっと見守るだけでよい。
 ちゃんとやれ、とか、こうすべしなどと口出してしまえば、その作業の裏側に、「命令・指示」の言葉が張り付き、それをやろうとするときに、それらの言葉が「禁止」の言葉としてその子の手を止めてしまうことになるだろう。
 こうして、子どもは、役立つことを無意識的に学んでいくのである。

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