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2014年2月の28件の記事

2014年2月28日 (金)

介護

両親の介護の相談が寄せられることも多い。
 兄弟、姉妹、および、その配偶者を含んで、問題は多岐にわたることもしばしばである。
 誰が面倒をみるか、一緒に住むのか、施設に預けるとしたら誰のそばの施設にするか、など…現在の状況や仕事との兼ね合いなど、一つひとつ丁寧に、時間をかけて聞いていく。
 セラピー場面では、こうした状況を聞くことはもちろんだが、なぜ、その方法を選択せざるを得なかったのかという、無意識を聞いていくことも重要なポイントである。
 そこに、親御さんへの思いが語られたり、兄弟間での遠慮が述べられるので、それに対して、その無意識の言葉を言語化して返していくのである。
 それによって、自分が面倒を見る理由などが、見えるようになり納得されるのである。
 納得すれば、元気が出たり、反対に任せることが可能になったりする。
 こうした事例においても、自分自身を知ることがいかに大切なことであるか、思い知らされる。

2014年2月27日 (木)

私の領域

レストランで注文するときなどに、心のなかで、私ともう一人の私が対話している。
 あれかこれか、イメージや値段などを勘案しながら対話しているのだ。
 いっそのこと、自分で考えず、「店長任せ」は、主体性を放棄したことにはならないのである。
 「任せた」という能動性を発揮しているからである。
 それでも決まらないときは「○○に決めよう」と言っている第三の私がいる。
 私と私の間に割って入ってくるさらなる私である。 
 その私が、私の口を借りてしゃべっているのだ。
 後で考えても、なぜあんなものを注文したのか自分でも分からないのは、この辺の事情を物語っている。
 自分で自分をどうすることもできない私がいるのだ。
 しかし、この第三の私がいないと、何事も決まらない日々を送ることになる。
 私が私を支配できる領域など、ほんのわずかの部分でしかないのである。

2014年2月26日 (水)

放出する

人はいつでも、自分のことを語りたいと思っている。
 聞いて欲しいことが、心の中に詰まっている。
 一生懸命にこらえていても、、何かのきっかけで、話が一気に噴き出すことがある。
 「風邪をひいてしまった」などという相手の語りを契機として、「実は私も引きました」などと返され、いつの間にか、相手の話を聞かされる羽目になった、などと言う経験はないだろうか。
 こうなると、語り手の方は「話すのではなかった」と感じ、癒されるどころか、症状が悪化したようにさえ思えてくるものである。
 とくに、子どもたちは、学校や友達関係に囲まれて、ストレスの塊になっている。
 それを放出するために、帰ってくるようなものである。
 彼らの話に耳を傾けることが、彼らの精神の健康にとっては望ましいことである。
 両親に聞いてもらえるだけで、癒され、生き返り、再び外に出ていけるのである。
 道具もいらず、費用もかからない「聞く」というたった一つの方法を有効に使いきることが大切である。

2014年2月25日 (火)

夫の支え

子育て法は一つに決めることである。
 書店の本棚にはたくさんの育児書が並び、ママ友は、いろいろな経験談を語ってくれる。
 そこに、両親がきて、「それでいいの?」などと心配してくれる。
 それはありがたいことではあるが、母体が混乱しやすい精神状態であることに、思いを致さなければならない。
 3歳までは、父・母・子の三者関係の中で、ゆったりと過ごすことが重要である。
 赤ん坊にとっては、母が自分だけに気を使ってくれることを望んでいる。
 そこに他者がやってきて、いろいろなことを言うと、母が気を使う。
 その不安が赤ん坊に伝わって、母にも…その繰り返しの中で、育児ノイローゼになることもある。
 スポーツの試合で、コーチがたくさんいるような状況だ。
 育児は母の役割、と、徹することである。
 それを精神的に支えるひとこそ、夫ではないだろうか。

2014年2月24日 (月)

道すがら

人間は、後ろを振り返ったり、前を見たり、過去と未来の間を行ったり来たりして生きている。
 昨日の自分はこうだったから、明日はこうしよう、一年前に比べたら、ずいぶん成長した、などと比較しながら、来年を夢見ている。
 振り返るばかりでは、前が見えず、未来に投企するばかりでは、現実が見えない。
 こうして、過去の自分と今を比較しつつ、未来の自分に賭けている。
 人間は、過去と未来の旅人である。
 今日見た景色はほんのひとコマの道すがらである。
 今日は、どんなひとコマだったのだろうか。

2014年2月23日 (日)

自覚

人はなぜ、アルコール、ギャンブル、過食などに走るのだろうか。 
 いわゆる「わかっちゃいるけどやめられない」と知っているのに、自分で自分をどうすることもできない状態こそ、神経症そのものである。 
 禁酒会などに参加しても、社会復帰とともに、再び誘惑の海に放りこまれる。
 テレビからは、さあ飲め!と言わんばかりに情報を浴びせかけてくる。
 人はこの洪水に巻き込まれながら暮らしている。
 人から飲まずにはいられない理由を指摘されることで、本当の自分に出会うことになる。 
 この瞬間に、自覚が生まれるのである。
 自覚なきところに、進歩はない。
 自覚するか、しないか。それが成長への分かれ道である。

2014年2月22日 (土)

プラス志向

プラス志向で物事を考えることが大切である。
 「ダメかもしれない」「失敗するのではないか」「うまくいかないのではないか」・・・マイナス思考をしてしまうのは何故なのだろうか。
 多くの人は、マイナス思考の言葉が、耳元から聞こえると訴える。
 フロイトが、「無意識を黙らせること」と言っているのは、ほとんどの人がそうした悩みを抱えていることに、早くから気づいていたからである。
 そういう意味で、妄想者も、普通の人も同じといえないでもない。
 違っているのは、普通の人が、開かれた世界に居るのに対して、その人だけの閉じられた世界に居るかの違いである。

2014年2月21日 (金)

家庭

人の話を聞いていると疲れるのです、と言う人は、相手の話を聞くときに、「自分の考えとは違う」と心の中で呟きながら聞いていることになる。
 例えば、「自転車旅行は楽しい」という話に対して、「クルマの方が楽なのに」などと、聞き手が心の中で言っていることになる。
 相手の語りと、自分の考えとがぶつかり、もつれあい、収拾がつかなくなっているのだ。
 これでは、疲れるばかりだ。
 人の話を聞く、という訓練の場が必要である。
 その場所とは、家庭である。家庭は、集団という場でもあり、個対個という、個を尊重する場でもある。
 そこで行われるのは対話である。
 自分の意見が尊重される場所である。
 自分の意見が尊重されれば、相手の話も尊重できるようになる。
 話す時には一生懸命話し、聞くときには、心を無にして聞く、そういう訓練の場として、家庭に如くものはないのである。

2014年2月20日 (木)

耳を傾ける

相手の話をただ「聞くだけ」に徹することが難しい、と言う方は多い。
 相手が話し始めた瞬間、自分の考えをつい言ってしまう、とも言う。
 「風邪を引いた」という語りが提出されたときに、聞き手の方が「自分も引いた」とか、「医者に行ったら」などと、言ってしまうのである。
 相手は、自分の悩みを「聞いて欲しいだけ」であるのに、反対に、相手の悩みを「聞かされる」はめになっった、などという経験はないだろうか。
 それは、人は、いつでも自分のことを語りたい、と言う気持ちがあるからである。
 相手の「風邪を…」の一言がきっかけとなって、「今」とばかりに、自分のことが口をついて出てくる。
 それに一番驚くのは聞き手自身である。
 止めることができないほどである。
 どうしたら、聞き手に徹することができるだろうか。
 そのためには、「ただ聞いてくれること」の経験を積むことである。 その経験が、相手のことを思いやると言う配慮性につながるからである。

2014年2月19日 (水)

注意力

雪の被害が大きい。怪我や被害に遭った方はおられないだろうか。
 食料品も、軒並み底をつき始めており、大家族では、その確保が大変と聞いている。
 震災から三年経ち、のど元過ぎてしまったかのように、暮らしてはいけないと、つくづく感じさせられる。
 普段から、注意力、緊張感、危機感の三つを意識していなければ、のんびりしすぎたり、備えることを怠りがちとなることは明白である。
 とくに、人生後半を過ぎると、三つが衰えてくる。
 それは、周囲が助けてくれるだろうという、見込みがあるからかもしれない。
 講座のいくつかも臨時休講となった。
 一日でも早く、平常の生活に戻れることを願っている。

2014年2月18日 (火)

産科にて

新生児を、窓越しに見ながら、祖父母が新生児の兄と思われる子どもに向かって、その子を指差しながら説明している。
 「ほら、あそこのに居る赤ちゃんがお前の妹だよ」と。
 その顔には笑みさえこぼれいる。
 目は窓の向こうの赤ん坊の方に注がれ続けている。
 2歳くらいの「兄」は、明らかに不快感を示している。
 彼は、あちこち歩き回り、すこしもじっとしてはいない。祖父母はどんな気持ちで、その言葉を幼い彼に投げかけたのであろうか。
 幼児にとって、妹や弟が生まれることが、招かれざる客として受け取られることを、祖父母たちは、数多くの経験によって知っているはずなのに、である。
 母との一体感の中で、母の愛を独り占めしていた彼の上に、突然、緊急事態が発生したのである。
 かつて、彼がそのように家族全員の愛を独占していたという事実など、今はもう、問題外である。
 たとえ、妹や弟が生まれようと、あなたへの愛は変わらないこと、あなたこそ、大切な家族の一員であることを、言葉と行動によって、接することが大切である。
 それはどのようにしてだろうか。
 それは、抱っことまなざしによってしかないのである。

2014年2月17日 (月)

人は他者を通して、自分を知る構造になっている。 一人で何かをしているときに、誰かが喜んでくれた瞬間、喜びが倍増するのである。
 悲しみ、苦しみの感情も、誰かに共感してもらった時に、自分の感情を、感情として受け取ることができるのである。
 自分で何かをしているときに、誰かが一緒に同じことをしてくれる。その時に元気が出るのも、相手が自分の鏡になってくれたからである。
 雪どけ作業も、近所の人と協力してやるから、作業がはかどった気持ちになるのである。
 それも鏡の効果である。
 相手が鏡になったり、自分が鏡になったりしているのである。
 それが、親子の間でも行われている。
 食事をするとき、勉強をするとき、あらゆる時に、鏡は表われるのである。

2014年2月16日 (日)

会話

会話することが楽しい、という人は、質問をしたときに、納得できる答えが返ってきた経験を持っている。
 会話が苦手、という人は、その経験が少ないのかもしれない。
 子どもたちの質問の多くは、「どうしてボクを産んだの?」、「私の名前はどうやってつけたの?」というものであるという。
 その質問に親御さんたちは、しばしば困惑させられる。
 子どもたちは、この世に生まれてきた「意味」を問いかけているのである。
 それに親御さんが答えることによって、親への信頼と、自分への自信、質問の楽しさを学ぶことになる。
 子どもの質問は、ときに楽しく、ときに厳しいものがある。

2014年2月15日 (土)

雪が降ると、急に山が近くなる。
普段意識することのないありふれたものが、突然眼のまえにあらわれる。
目にもとめていなかったものが、突然、意識に上ってくる、そんなことは日常よくあるものだ。
 雪の時のスコップ、スノータイア、ゆきぐつなど、存在価値が一挙に高まる瞬間である。
 子どもの靴が、突然、玄関先に場所をとるように置かれていたり、立ちあがった姿を見上げるようにみてしまったりと、親御さんの報告には、うれしさと、驚きとの両面の感動があると言う。
 子どもは、少しづつではなく、ある日突然成長の姿を親の前に見せつけるのである。
 その時、親は、心の底から喜こぶか、jジェラシーを感じるか、そのどちらかであるのかを試されるのである

2014年2月14日 (金)

意志を持つ

意志を持つ、とは何か。
 それは決意することである。
 「手にできればいいな」というフレーズは願望である。
 今の位置から少しも動いてはいない。
 それを未だ手にしていないし、手にすることもできないだろう。
 「私はこうする」と決意すれば、それは手に入る。
 過去への執着心も消え、ダメかなという邪心も切り捨てられる。
 邪心を切り捨て、欲望に向かっていくこと、それを意志を持つ、というのである。

2014年2月13日 (木)

食事

私たちは、他者を通して自分を知る構造になっている。
 たとえば食事。
 親しい友人や家族、恋人と食事をすると美味しく感じるのは、相手の表情の中に、自分の姿を見られるからである。
 味覚に視覚がプラスされるのである。
 一人で食事をしても味気なく感じるのは、視覚が得られないことによる。
 人が人気のレストランに行くのも、はやっているからという理由だけでなく、多くの表情を見られるからである。
 ゆっくり食べている人、フライ、カレーライス、和食、洋食、デザート、等々、そこにあるすべての料理を目で食べることができるからだ。
 それらの料理と会話していることになる。
 五感のすべてで楽しんでいる。
 そこでは、説教や勉強の話はしないことである。
 さりげない話が、聴覚にプラスされて、味は一層きわだってくるのである。

2014年2月12日 (水)

褒める(2)

人が人を褒めることができるのは一つには、経験知であることが分かった。二つには、その能力は、その人が無意識の中に持っているものだからである。
 自分が実現できなかったことを、相手が実現してくれているで、あたかも、鏡を見るように自分の姿を映し出して、眺めているのだ。
 人間は、いろいろの可能性を持ってこの世に誕生してくるが、そのうちのほんの一部しか発達させることができない。
 だから、相手の中に実現を見て自分のように受け取れれよい。
 すなわち、自分で自分を褒めることができる人、ということになるのである。

2014年2月11日 (火)

褒める(1)

相手のよいところを褒めることのできる人は、どんな人だろうか。
 余裕のある人だろうか、自分にないものを持っているからだろうか。
 もし、自分にないものを持っていたら、ジェラシーを感じて攻撃的になってくることも考えられるではないか。
 ところが、その人はこころから、褒めてくれる。
 一つには、自分が褒めてもらった経験があることだろう。
 人は自分がされたように相手にもしてしまうからだ。
 インプットされた経験しか、アウトプットできないのだ。
 

2014年2月10日 (月)

自己決定

人間は、気分の生き物である。
 少しのことで有頂天になったり、人の一言で落ち込んだりする。
 この場合、誰もあなたのことを言っはいませんよ、という説得は何の役には立たない。
 日本人はことのほか、「世間体」を気にする人種であるらしい。
 人の言葉を気にしないためには、最初のうちは、本人の意思を尊重し、支持してくれる相手が必要である。
 その最初の人物が「それでいいのか?」「大丈夫か?」などと言わずに全面的に賛同してくれなければならない。
 その繰り返しの中で、その人物が内在化され、自信をもって行動できるようになるのである。
 「私がこれをする」「私がこう決める」というように、自分で何でも決め、実行すればいいだけである。

2014年2月 9日 (日)

適性

自分にはどんな職業が適しているのかを知ることはなかなか難しい。
 第一に、今までの仕事の経験が、新しい仕事探しの邪魔をする場合がある。
 今までの仕事の延長線上におくことで、なじみやすいからである。
 しかし、「出来ること」と「好きなこと」とは違う。
 「出来ること」とは、先輩がやっていたり、親の仕事を手伝っていたなどという場合、そのことが容易に出来てしまうからである。
 しかし、それが好きであるとは限らない。
 反対に出来なくても「好きなこと」もある。
 出来る仕事でも、続けていると、周囲も受け入れてくれるので、やっぱり嫌いでした、という場合にやめられなくなってしまう。
 好きと嫌いの境目は何かと言えば、肩がこる、足が重いなどの身体症状、怪我や失錯行為などといった行動で表すことで、それと知られる。
 頭では「働かなくては」と思いながら、身体の方は正直に訴えていることが多い。
 それらの「体の声」を聞くことから始めてみたらいかがであろうか。それには、セラピー場面で語っていただくことが一番である。
 自分の適性は何か、と考えておられたら、一度相談に来てほしいと思っている。

2014年2月 8日 (土)

長所

相手の持っている長所を見つけることは、自分の長所を見つけることである。
 相手の中に、自分自身を見つけていることである。
 さらに、相手の長所を見つけることができる能力も、自分の能力である。
 あの人の「ここがすごい」と思ったものは、すでに自分が持っているものである。
 この人は、こんな才能を持っている、と感心してみているものも、自分がすでに持っているものである。
 自分の中の隠れた才能を見たいと思ったら、相手を見ることである。
 その人の中に、自分を見つけて、驚くことがあるはずである。

2014年2月 7日 (金)

褒め言葉

人間は、言葉の洪水の中で暮らしている。
 テレビからは、「風邪が流行ってますよ」「寒い一日ですよ」といったメッセージが流れ続けている。
 町に出れば、「本日限り」「消費税増税前にどうぞ」などの言葉を、いつに間にか聞かされている。
 まるで放射能のように、匂いわず、見えず、痛みも感じないままにである。
 それだったら、褒め言葉の洪水はいかかであろうか。
 それも、知性によって裏付けられた褒め言葉をかけてあげたいものである。
 子どもたちは、褒め言葉だけを食べるて生きている。
 それに較べて、大人は、褒め言葉にどれだけ疑いを持ち続けてきたことだろうか。
 それが正しい言葉かどうかを見極めるものこそ、知性と名付けたものに他ならない。

2014年2月 6日 (木)

思いやり

人に席を譲る、荷物を持ってあげる、などの配慮性は、どのように身につけてきたのだろうか。
 人には、親切にしてあげたい、思いをかけたいといった感情がある。
 そうするようにと、子ども時代から、家庭や学校で教わってきた。
 人に配慮するとは、自分がそのようにされたらきっと心地良い、という形で、相手のしているのである。
 このようにされたら、よいだろう、こう手伝ってくれたら助かるはず、と考えて行動している。.  
 自分が自分に配慮することでもある。
 この場合、かつて、自分がそう「配慮された」経験がなければ、人に配慮することはできないのだ。
 いくら、配慮しなさい、などと言われても、途方に暮れるだけである。
 子どものころから、他者からどれだけ配慮されて育ってきたかが問題となる。
 人間の行動、言動、くせ・・・すべてが子ども時代の遺跡といってもよい。
 これが「しつけ」である。
 しつけとは、やって見せ、言って聞かせて、褒めてあげることで身についていくものである。

2014年2月 5日 (水)

挫折

36歳男性の見た夢である。
 本人の承諾を得ている。
 「自分は、名も知らぬ山に登っている。それはかなりきつい坂になっていて、階段状になってはいるが、その階段ときたら、一段一段が狭くて、不規則で、切り立っており、登るのが大変だった。他の人(知り合いはいないようだ)は、平気で登っていくのだが、自分は遅れ気味だったので、怖くなって目が覚める。」
 山の頂上には何がありましたか?にも、山の名前は何ですか?という質問にも、思い当たることはないという。
 結局、彼にとっての「茨の道」がテーマであった。
 教育のエスカレーターに乗り、大学院も卒業して、はじめて難儀を迎えた夢であった。
 これまで、いじめや、学業不振の時期もあったが、さほど本人を苦しめることなく、挫折までは至っていない。
 彼にとって、はじめての挫折体験であった。
 一般的に、卒業後10年くらいが挫折体験を迎える時期である。
 「苦しいでしょうが、これを機に、本当の自分とは何かを考えていきましょう」、と同盟関係を結んで対処していくことを確認し合った。

2014年2月 4日 (火)

憧れ

人には、憧れの人を心の中にもっている。 
 それは、学校の先輩、会社の上司、クラブ活動のコーチなどである。
 自分の理想像をその人に投影して、あこがれている。その人の存在が、自分を引っ張っていく、と同時に、自分をその人に向かわせる原動力にもなってくれている。
 憧れが、あこがれのまま終わってしまうこともある。
 しかし、気づくと、いつの間にかその人の目で物を見たり、考えたりしている。
 自分にとって、手に届かない相手であったり、身近すぎて、少し悔しい思いさえ抱いてしまうような存在である。
 ところが、この悔しさがなければ、自分にとっての目標たり得ないだろう。
 ちょっと似ていて、ちょっと手が届かないからこそ、憧れるのである。
 人間とは、このように、目標とする相手を必要としている。
 その人物をみれば、本人が何になりたいのかが見えてくるのである。

2014年2月 3日 (月)

自然

人は、仕事の疲れると、野山に出かける。自然は語らないことを知っていても、「自然が私に語りかけてくれる」という。
 本人の想像とわかってはいても、そう感じたい、と言う欲望がそうおもわせるのである。
 人がいつでも恐れていることがある。
 説教されること、中傷、否定、無視されることである。
 そういう世界に居たくないといつでも思っている。
 自然は説教をしない代わりに、自分が言われたら心地よいと感じる言葉を作りだして、木々が語りかける形で、自然に語らせている。
 そうまでして、人は優しい言葉を求めているのである。
 人はこのように傷つきやすい生き物なのである。
 言葉によって悩み、苦しむ半面、言葉によって癒され、勇気を与えられ、元気を取り戻していく。
 肯定の言葉と、賞賛の言葉が、人に生きる喜びを与えるのである。

2014年2月 2日 (日)

過去

人は、悩みは聞いてもらうだけでいやされる一方、聞き手の方が、気分がすぐれなくなったりする、ということがある。
 そこで、それを他人に話してしまう、ということも生じる。
 それは、聞き手が、相手の話に刺激されて、自分の経験を思い出してしまうからである。
 無意識に閉じ込めていた過去が蘇ってしまうのだ。
 それは、あまりにも苦しく、みじめな記憶である。
 誰でも思い出したくないし、忘れたいものである。
 それが、相手の語りに触発されて、一気に浮上してしまうのだ。
 人間の無意識には、こうした思い出がいっぱい詰まっている。
 それが誘発されないためには、普段から、人に語ることで、放出しておくことである。
 こうしてセラピーという治療方法が考案されてきたのである。

2014年2月 1日 (土)

聞き手

人は、話を聞いてもらうだけで、癒されていく。
 胸のつかえがなくなったように感じられる。
 ただ、、聞いてくれる相手選びが大切である。
 その相手は、ただ耳を傾けていてくれるだけの人であることだ。
 聞き手の方が、自分の経験談を切りだしたり、そんなことはない、などと否定してくると、話し手は癒されないばかりか、気おくれ感だけが残ってしまうだろう。
 よくある例として、相手が、ちょっと聞いてくれますか?などと言いながら、一人で語るだけ語って、「やはり考え直してみます」などと言って、目の前から去っく。
 そんな経験がないだろうか。
 これなどは、目の前に「私」という存在がいないかのようである。
 聞き手のあり方としてはこれでよい。
 これに徹することで、相手は癒されていくからである。

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