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2014年3月の31件の記事

2014年3月31日 (月)

SL

埼玉県熊谷駅からSLが秩父線の線路を走っており、毎週末は家族連れや、鉄道ファンで駅はにぎわっている。実際に乗ってみると、機関車を除けば、客車内の静けさはこの上もない。石炭を燃やす匂いが、いかにもという雰囲気である。 
 人はときに、静けさの中に身を置くのもよいのではないだろうか。都会では、目にまぶしい電飾の光と、スピーカーから流れでてくる膨大な情報の洪水が渦を巻いている。そうした日常からちょっと外れて、あらゆる情報から遮断されることも、精神にとって必要ではないだろうか。
 子育て中のお母さん方は、養育の手引書や、周囲の人たちからの情報や経験談に振り回されて、いっとき育児うつになるという。何が正しく、何が正しくないのかさえ分からないまま、気まぐれな対応をしている自分に気がつくと言う。適切な対応をしっかりと身につけて子どもたちに接することが大切であろう。SLの客車内の静けさと同様、ゆったりとした育児をしていただきたいものである。

2014年3月30日 (日)

車内にて

電車の窓から、男の子が、並走する他の電車と、自分の電車との競争を眺めて余念がない。こっちが勝った、負けたと、子どもは勝つことに執着している。電車に自分を重ねて、負ければ励まし、負けたと言っては悔しがっている。競争心が、子どもの心にもっと、もっと、という欲望を形成している。子どもは、他者を介して、自分の欲望を生み出しているのである。
 人間は、このように、人が欲しいものを見て、自分の欲望を生み出しているのである。これが昂じると、嫉妬につながっていくのだが、大人になるとは、こうした嫉妬心を放棄することが課題となる。大人は、本当の自分の欲望とは何かを見つけていかなければならないのである。

2014年3月29日 (土)

出会い(3)

すでに亡くなったはずの人を町で見かけたり、見知らぬ人から突然怒鳴られたり、あるいは、同じ人とばっかり出会ってしまう、などといった現象も、本人へのメッセージであると、私たちはとらえる。それが何なのかについては、本人は、さまざまな事情で、語れなくなっているのである。それらが語っている事実を本人が知ったとき、人は本当の自分と出会うのである。

2014年3月28日 (金)

出会い(2)

人が、この世で出会うものだけではなく、出会う「こと」も、自分に何かを語りかけているである。人が、一日の仕事を終えて、大事業を為しとげたり、反対に、何もできずに一日が過ぎてしまったりしても、それらの「こと」を、本人に伝えようとしているのである。その「こと」が誰かに理解して欲しいと思っているのである。それは、本人にも知られることはないが、他者に語ることによって、やっと、当の本人が、「ああそうか」と初めて知らされるようなものなのである。

2014年3月27日 (木)

出会い(1)

人がこの世で出会うものは、すべて自分の姿を投影したものである。街角で見掛けたギャラリーの絵、写真、あるいは、本屋の棚の中に見出す本のタイトルなどが、なぜか気になる、という場合、それらが、自分の投影しているものである。それらが、自分に何かを伝えているのである。
 しかし、それらのメッセージが何を伝えようとしているのかは、本人には分からずじまいである。分からないときのモヤモヤした気分の悪さは何とも言えないのではないだろうか。しかし、それが分かったときには、「ああ、そうだったのか」と、懐かしく思いだされるものなのである。

2014年3月26日 (水)

尊重

相手を呼びかける時、どのようにしているだろうか。会社内で相手を呼ぶ時には、その人の役職名で呼んでいるだろう。卒業して社会人になった人に対しては、「いよいよ社会人だね」と言えば、その人は社会人としての自覚を持てるが、「社会人になってもまだまだ」と言えば、呼ばれた人の精神状態は、たちまち学生時代に逆戻りすることになるだろう。
 名称がその人を、その人たらしめていくのである。名称をおろそかに使ってはならず、その人を一人の人間として接することが大切である。大人から見れば、子どもは子どもである。子どもとして見るのではなく、社会における役割で見れば、子どもはいない。相手を、一人の個性を持った大切な人と見ることを、尊重というのである。

2014年3月25日 (火)

好き・嫌い

人は、人やものを見るとき、好きか嫌いで差別していないだろうか。あの人は好き、でもこの人は嫌い、というふうに。なぜ?と聞いても「ただなんとなく・・・」という答えしか返ってこない。理由もなく、人は人を判断している。判断の基準は「感情」である。その人だけの「価値」や「能力」を基準にしてみれば、誰でも隠された能力や魅力が備わっているはずなのに、相手の顔を見た瞬間に、感情的に嫌いになっている自分がいないだろうか。
 その原因は、幼少時代にあると言われている。人は教師や、上司、叔父、叔母の中に、誰かを見出そうとしているのである。雑踏の中にも、会社の先輩や同僚の中に誰かに似た人を見つけて、ホッとしたり、不快になっているのである。そうした差別から離れて、純粋に、その人を「見る」だけにしてしまえば、今まで見えなかったものが見てくるものである。

2014年3月24日 (月)

支援

進学、就職の時期を迎えて、期待と不安を同時に味わっている人も多い。人を勇気づけるのも、挫くのも、周りの人たちの言葉がけ一つにかかっている。会社員になった人に、「立派になったね」と言えば、それなりの態度や考え方になるだろう。反対に、社会人になったけれどまだ子供だ、などと言えば、子ども時代に逆戻りするに違いない。大人と子供の境いを分けるものは、人の言葉である。人間は一人で立つことが極めて難しい存在である。周囲の人がしっかりと大人としての言葉がけをしてあげることが、一番の支えである。

2014年3月23日 (日)

経験

純粋無垢で生きてきた、などという人はいないはずである。人は、生きていくうえで、どうしても、どこかで、何かにぶつかったり、ぶつけたり、やり込められたり、仕返しをしたりしているのである。人生とは、そうしたことの連続ではないだろうか。むしろ、そうした経験を持たない場合の方が問題であろう。
 そんな経験に出会った時に、そうした経験を心の中で、どう受け取るかが大切である。相手に、その話を、包みこむように聞いてもらうことによって、人は癒され、再び生き返っていくことができるのである。そこで人は、善悪の差を学び、人に感謝したり、謝罪することを学んでいくのである。

2014年3月22日 (土)

ゼロからのスタート

これが自分の才能だ!と言えるものがあるだろうか。歌が自分の才能、と思っていた次の瞬間、もっと上手な人が現れた瞬間にがっくり、などということがないだろうか。今までの自分は一体何者だったのだろう、と自分の無力感に襲われるのである。そこからが、自分探しの旅への出発である。
 人間は、一度ゼロになることが大切だ。毎日がゼロ、一度完成したらゼロ、何かについて知った、と思ったらまたゼロ、一歩進んだらまたゼロにして、新たな一歩を踏み出す。毎日がゼロからのスタートである。ひと時もとどまらないことこそ、進歩そのものである。ゼロになる勇気を持てるかどうか、それが大切である。

2014年3月21日 (金)

可能性

子どもが、「将来ロケットを作りたい」と言った時、どれだけの数の大人が、「そうだね」と言ってあげられるだろうか。このとき、大人も、そのまた上の大人から「そうだね」と言ってもらった体験があったかどうかを問われることになる。
 将来のことは誰にも予測がつかないのであるから、「可能だ」ということも、「不可能だ」とも言えないのである。だからこの場合、うなづくしかないのである。可能性というものは、誰にでも、どこにでも、どんな場合にも存在している。それを可能にするか、しないかは、自分と、証人としての他者の言葉の中に隠されているのかもしれない。

2014年3月20日 (木)

優先

レストランなどに入った時などに、満席にもかかわらず、自分だけを席に案内してくれたら、うれしいものである。たとえ、こちらは一人で、次のお客さんが大勢であったから、という理由であったとしてもである。反対に、いつも後回しにされたら、どんな気持ちだろうか。
 「あなたはお兄さんだから」とか、「姉さんは我慢しなさい」などと言われたら、「何か変」と感じることになるだろう。自分のことを、少し先にしてくれさえすればその子は満足するはずである。自分を先にして欲しい、という言葉さえ、心の奥に押し込められることになるだろう。彼にとって「あと」はないのである。満足とは、すぐに満たされることによってこそ、満足なのであるから。自分を優先してくれたら、この子は、将来、相手を優先することができるようになるだろう。

2014年3月19日 (水)

言葉

人間は言葉に生き、言葉に悩み、言葉に踊らされ、癒されながら生きていく。誰かに励まされたために成果を上げても、夕暮れになれば、優しい言葉の中で羽を休めている自分を発見して、ハッとする人もいるだろう。
 幼い子供たちが、両親の実家でいちにち過ごした挙句、「早く家に帰ろうよ」と言ったひと言で、祖父母はがっかり、という話もよく聞く。子どもたちにとっては、自分の家が一番よい場所なのである。
 大人にとっても、癒される場所がある人は幸せである。その場所こそ家庭である。
 ベビーシッターのもとで、子どもたちが癒されているとは言い難い。彼らは我慢しているだけである。その親も我慢していたはずである。社会の誰もが我慢しているのだ。そのしわ寄せが、社会の一番の弱者めがけて押し寄ることになるのだ。大人たちがどこかで歯止めをかけてあげなければならない。

2014年3月18日 (火)

忙しい時に限って

親御さん方の嘆きの一つに、「この忙しい時にかぎって子どもたちが問題を起こす」というのがある。夕食の支度で忙しいとき、友だちと電話をしているとき、お客さんと玄関先で話をしているときなどに、さほどの用事ではないのに母を呼びつけたり、コップの水をこぼしたりするのである。
 人間の行動にはすべて意味があると考えれば、口で言えないことを、子どもたちが行動を通してみずからを「語っている」ことになる。たとえそれが「叱られる」という形であっても、何らかのメッセージを発信していることになる。それでも伝わらなければ、子どもたちは、さらに重大な行動に出ることになることになるのである。

2014年3月17日 (月)

注文

レストランなどで、お客がウェイトレスに向かって何かを注文する。しばらくして、注文した食事が目の前に饗される。当たり前のように出てくる料理を、当たり前のように食す。このとき、注文通りのものが出されなければ、お客はウェイトレスに苦情を言う、店長も呼び出されて、謝罪の一言も述べることになろう。
 レストランでの手違いが、なぜそれほどまでに人を不快にするのだろうか。それは、言語化したものが現前化されなかったからである。裏を返せば、実生活では、現前化しないのが日常化しているということである。カレーライスを食べたい、という言葉を、親が、ハイと言って作ってくれたら、人は家を心安らぐところ感じるだろう。家に帰ろうと言う気持ちになるだろう。感謝の言葉が自然に口から出てはずである。
 家は寛ぎの空間である。そこで人は心を休め、自分の言葉は実現する、を学んでいくことになるのである。

2014年3月16日 (日)

バックボーン

私たちの心を支えているものを、バックボーンと呼ぶ。見ることも触れることもできないそれは、何でできているかといえば、言葉である。その言葉が、人が何かをしたり、考えたりするときに作動する。
 その言葉は誰が伝えてくれたのかというと、父である。真っ白な子どもの心に父が書き込んだのである。最初に書き込んだ言葉が何なのかは、知ることができない。しかし、その最初の言葉が、私たちの行動、言動、しぐさやクセの源になっている。フロイトは「クライエントのおおくは、家から出立しそこねている」と言ったのは、自分自身のバックボーンが出せないでいる、ということなのである。

2014年3月15日 (土)

前進を阻むもの

人間には、進もうという意志と、このままでいたい、という意志の両方を持っている。どうしたらよいかと人に相談しても、「決めるのはあなただ」などと言われてしまい、相談するんじゃなかったと、ため息をついている。
 前進を阻んでいるのは、抵抗の存在である。それが何なのかは自分では知ることができない。にも関わらず、それが何なのかを実は知っている。あたかも、重力の存在を知識として知ってはいても、普段、それを意識することがないように。
 ところが、前進を阻んでいるものを、対話の中で知ったとき、人は自分の欲望の真の支配者になれるのである。

2014年3月14日 (金)

悔やむ

人は、なぜあんなことを言ってしまったのだろう、こんなはずではなかった、などと悔やむ経験を人はもっていないだろうか。自分では、そんなことを言うつもりはなかったのに、私という存在を脇によけて、口や手や足が勝手に動いてしまうように感じることがないだろうか。誰かに暴言を吐いてしまうのには、吐くだけの無意識が存在するからである。人間は理由のないことは、していないのである。すべてのことには理由があるのだ。難関を突破して合格した学校に馴染めない、納得して就職したはずの会社を辞めてしまう、などの行為を通して自分を語っているのである。それに自分で気づくことができれば、人は自分の欲望に素直になれるはずなのである。

2014年3月13日 (木)

感謝(2)

何事も感謝が大切、と頭ではわかっていても、つい子どもに手をあげてしまう、、部下を叱ってしまう、などというのはなぜなのだろうか。それは、無意識のなせるワザである。無意識が人間の心の大部分を占めていて、それが人間の行動、言動、態度、思考、しぐさまで支配しているのである。それが自分の頭よりも早く作動してしまうので、後になってから、なぜあんなことをしてしまったのだろうかと、なぜあんなことを言ってしまったのだろうかと、思い悩むのだが、翌日はまた元の黙阿弥である。
 そのことにいち早く気づいたのがフロイトである。フロイトは、クライエントに語ってもらうことで、今のクライエントを作っている性格や行動の原因を知ることができることに気がついたのである。知ることによって、クライエントは、自分の無意識がそうした態度や行動をしていることに気づいていくようになったのである。自分自身を正確に知るためには、語ることが一番の近道なのである。相手に非があるのではなく、自分の無意識がしていることを知った時、相手への態度を改めることができるのである。

2014年3月12日 (水)

感謝(1)

子どもたちが「ただいま」と家へ帰ってくる、食卓を囲んで、親と一緒に夕飯を食べる、子どもたちは自分で考え、行動し、寝て、起きる・・こんな生活が続いてくると、親は「もっと」などと、要求したくなるのではないか。
 「もっと」という願望を自分に向けるだけではなく、いつの間にか子どもや家族にも要求しているのかも知れない。そんな要求の気持ちを一度脇に置いて、当たり前の日常をそっくりそのまま受け止める言葉を出してみてもよいのかもしれない。それは、「感謝」の言葉ではないだろうか。

2014年3月11日 (火)

心が明るくなる、軽くなる、と人が言う時、どんな気持ちだろうか。「心」というものに、明るい、重いがあるわけではないのに、人はしばしばこうした表現を使う。クライエントは「暗い塊のようなもの」とか、「重苦しいもの」がある、などと訴える。それが何なのかすら、自分でも言えないのである。それは、誰もが心の中にもっているものである。それは「言葉」である。
 暗い、明るいの違いは、その言葉が放出できる、できないの違いである。自転車が欲しい、でも言いだせない、会社を辞めたい、でも言えない、などと言うとき、人はしばしば暗く、重い気持ちになる。そのわけは、過去において、否定され続けてきたからである。買え、とか、辞める、とは言っていないのにである。経験上、否定されることが分かっていたら、人は言わなくなるものだ。欲求をただ語ることすらできない状況こそ、暗い、重い気持ちである。それを聞いてくれるだけでいい、という欲求から、傾聴の精神は生まれてきたのである。話しを聞くだけで、心は明るく、軽くなっていくのである。

2014年3月10日 (月)

思いやり

サッカー選手が試合後のインタビューに答えて、こう述懐することがある。「不本意なゴール」と。得点が得られたからといっても、本人が納得しない限り、そのゴールは不本意なのだ。謙遜で言っているのではないのである。 
 がんばってもいないのに、「がんばったね」と言われたり、ショックでしょうと言われても、さほどでもなければ、その言葉はしっくりしないことになる。その人の琴線に触れる言葉が何なのかを知り、その人の本意をくみ取ってあげなければ、言われた人は納得されることはないのである。
 相手の気持ちをくみ取るためには、まず、自分の気持ちを汲んでもらう必要があろう。その経験が相手を思いやる、適切な言葉をかける、と言う心を形成していくのである。

2014年3月 9日 (日)

支え

人が、誰かに支えてもらったと感じるのは、どんな時だろうか。ある人は、やさしい言葉をかけてもらったとき、と答えるだろう。またある人は、励ましてくれたとき、と答えるかもしれない。励まされたいのに、やさしくされても、うれしくはないだろう。その逆もあるに違いない。自分がいま欲っしているものを与えてくれたとき、支えてくれたと感じるのである。すなわち、否定されないこと、肯定すること、それが人を支えるということである。こんなことを考えている、ショックな目に遭ったなどということを、受け入れてくれたときに感じるもの、それが支えである。

2014年3月 8日 (土)

聴く

人が、誰かに話を聞いてもらった、と感じるのはどんな時だろうか。それは、自分が訴えたいことをくみ取ってくれた場合である。「言ったこと」を聞くのではなく、「訴えたい」ことをくみ取ることを聴くと言うのである。「風邪をひいた」の言葉が、「言ったこと」であり、「慰めて欲しい」が訴えたいことである。人は、そう簡単には「慰めて欲しい」などと言わない。しかし、人はいつでも、訴えたい、でもあからさまには言えない、という気持ちを抱えて日々暮らしている。相手の方は、それを察することの困難さを知っている。訴えを聞いた人が、相手に対してあからさまに「慰めて欲しいのだ」などと言えば、訴えた相手は分かってもらえないと感じて、落ち込むことになる。聞く、と聴くの違いのちがいはこんなところにあるのである。

2014年3月 7日 (金)

光と影

人間には、光にあたる部分と、影の部分とがある。普段、人がそれを自覚することはないが、ふとした時に、影の部分が突然顔を出すことがある。日頃から「これは自分の影の部分」だと自覚していればいいのだが、私は光の部分だ、などと思っていると、影はいつも光のそばにいて、虎視耽々と出番を狙っているのだ。それが、今!と思った瞬間に表われてくる。それは本人よりも早く出現してしまうために、それが出現していることに本人が気付くことはない。自その場合、どんなことが起きるだろうか。影の部分を家族の誰かが「担う」と言う形で、バランスをとっているのだ。有名人や、偉人、権力者などと言われる歴史上の人物の影で、バランスを「取らされている」人がいるのは、均衡を保とうとする健気な努力のたまものなのである。だとしたら、一人の人物の精神内界で、バランスをとってくれていればいい、と言うことになる。バランスを取らせてもダメだし、取る役割を担わされてもいけないのである。

2014年3月 6日 (木)

コミュニケーション

人間はコミュニケーションの生き物である。人とコミュニケートしなければ、生きている実感を得ることはできない構造になっているのだ。「おはよう」という呼びかけに返事をする、たったそれだけのことで、人は癒されていくのだ。もし返事を返されなかった場合、人は空虚に向かって語りかけることになるだろう。それが独り言、つぶやき、といったレベルに収まっていればまだしも、叫びたくなるとか、実際に叫んでいる自分がいた、などということも実際にはあったのだ。そんな述懐がセラピーでされた場合にはすぐに適切な対応をしなければならない。そんな言動が、「何かを訴えたい」という衝動から生じていることに、われわれは注目する。彼らの心の中に、言葉にならない「何か」があることになる。その「何か」こそ、無意識界に長年にわたって閉じ込められていた言葉そのものである。

2014年3月 5日 (水)

本当の自分

本当の私とは何者なのだろうか。他人には優しいのに、我が子には厳しかったり、社員に対して厳しく言えるのに、社長の前では遠慮勝ち、などと言うことはないだろうか。どっちの自分が本当の私なのか。実は、どちらでもないのだ。それらは、演じているだけであって、本当の自分ではないのである。片方だけを演じるから、いつか疲れてしまい、病気の原因にもなるのだ。本当の自分になれる場所は、セラピールームである。そこでは否定や批判、価値観を気にすることなく、自由に語れるのである。自由に語る中で、自分にもこんな欲望があった、こんなに自由に発言できるのだ、と実感するのである。そこで自分を取り戻し、元気になっていく。人間性を復活させることのできる場所、それがセラピールームなのである。

2014年3月 4日 (火)

人間は、いろいろな顔を持っている。
 それぞれの場面に合わせて、顔をつけかえながら生きているのだ。
 会社で働いているときは会社員の顔、親と会話するときには、子どもの顔、子どもの前では、親としての顔を、それぞれ演じわけている。
 顔の付け方を間違えると大変である。
 子どもの前で社長の顔をしたら、家庭が、堅苦しい雰囲気になってしまうだろう。
 その場合、子どもは二つの道を選択することになる。
 一つは、親の顔色ばかりをうかがう神経質な子に育つ道、もうひとつは、堅苦しい雰囲気を軽減することを考え、親とは違った役割を演じる道である。
 親が堅苦しければ「やんちゃ」をやり、親が真面目過ぎれば、子が不真面目、になるのである。
 新聞紙上をにぎわす事件を起こす子の親が極めて「真面目」であったりするのは、バランスを取らされた子の悲劇とも言えなくもないのである。

2014年3月 3日 (月)

好き嫌いの基準

人は、相手の上に、自分が見たいものを見ている。
 初対面の人に会った時、その人の中に見るものは、何だろうか。
 それは、自分の両親の姿ではないだろうか。 
 会った瞬間になんとなく感じるあの気持ちがそれである。
 どことなく懐かしい感情を抱いたり、反対に、いらいらしたりする感情こそ、相手の中に見出している親の姿なのである。
 生まれて最初に出会う人物である両親の姿が、それ以降の人生において出会う人を見る時の基準になっている。
 裏を返せば、本人を見ているのではないのだ。
 身長や体形、面長、丸顔、まなざしなどなど・・・すべて、両親を基準にしている。 
 そこに、好き、嫌いの感情が湧きあがってくるのだ。
 自分が好きなのは、両親の中の好きな部分であり、嫌いな面は、両親の嫌いな面である。
 嫌い、といっても、本人が嫌いなのではない。
 そう考えれば、どんな人でも好きになれるのではないだろうか。

2014年3月 2日 (日)

語り

私たちの語りは、無意識の語りである。
 無意識がしゃべっているのである。
 相手がこう言ったから、こう返事をしよう、などと考える前に、自動的に無意識がしゃべっているのである。
 本人が思ったままをしゃべっているから、言い間違えや、失言は止まらないのである。
 「心にもないことを口にしてしまった」のは、実は心にあることなのである。
 反対に、心の底から相手のことを思っていれば、自然に思いやりに満ちた言葉が語られることになる。
 心底相手のことを思っていなければ、本音がポロリ、などと言うことになりかねない。
 それらは無意識であるがゆえに、自分でもどうすることもできないのである。
 恐るべし、無意識。

2014年3月 1日 (土)

こだわり

何事にもこだわりをもっている人と、もたない人とがいる。
 例えば買い物。
 夕食の食材選びに、ことのほか、主婦はこだわる。
 産地、日付、重さ、色つやなどを確かめ、触れながら選択している。
 こだわりを持たない人にとっては、そうした情報は「何でもよい」ということになる。
 では、何でもよいのかというと、そういう人は、自分の買い物にはこだわっていたりする。
 要するに、その人にはその人だけのこだわりがあるのだ。
 こだわりは、その人自身である。新鮮さ、重さ、色つや・・・、その人自身を語っていることになる。
 こだわっって買った食材についての話を聞くことは、その人自身のことを聞くことでもある。
 物は単なるものにあらず、その人自身である。 
 大切に耳を傾けてあげて欲しいものだ。

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