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2014年4月の30件の記事

2014年4月30日 (水)

寛ぐ

現在、日本は連休真最中である。休みの日は「寛ぐ」のが原則である。自分のしたいことをするのも「寛ぎ」、休養をとること、スローライフを楽しむのも寛ぎである。こうしたとき、家で寛いでいる子どもたちの姿を見て、親御さんは、つい何か言いたくなるのではないだろうか。新学期が始まったばかり、夏休みを前にして、などという思いが親御さんの心に去来する。そうした気持ちもわからないではないが、子どもにとっても、大人にとっても、休日は休日。彼らには自由にさせてあげることで、休み明けには再び、学校や会社に出ていくのである。オンとオフの切り替えをさせることで、子どもたちは将来、寛ぐときには寛ぎ、やるときにはやる、と切り替えられるようになるのである。

2014年4月29日 (火)

迷い

人が選択に迷っているとき、決定のきっかけを与えているのは、いったい誰なのか。それを決定しているのは、自分の中の「他者」である。自分が買いたいのは青いティーシャツか白いほうか、というときに、「こっち」とか「あっち」、あるいは、「両方買おう」などと決定するのがソレである。そんな選択に窮しているときに、「今がチャンス」「とか、「残り一枚」などと言う声が、外から聞こえてきたらどうなるだろう。私の中の「他者」などは一瞬にして吹き飛ばされてしまうだろう。いつの間にか、その声に従ってしまうことだってありうるだろう。テレビからはそんな声が、洪水のように押し寄せてくる。スマホからも、こちらの都合を考えることなく、膨大な情報を送りこんでくる。それはどれだけ必要な情報なのだろうか。私たちは、一度、情報を遮断して、自分が本当にしたいことは何かを考えなければならないだろう。そんな迷いも、また迷いの一つならないことを望みながら、である。

2014年4月28日 (月)

生きている実感

人を最も脅かすものは孤独である。孤独とは、話が通じないことを指す。「こうしたい」といった言葉を聞いてくれるだけでいいのだ。人は常に願望を抱きながら生きている。その願望を他者が聞き入れてくれた瞬間に、自分の考えが証明されるのである。言うならば、証人が必要なのである。聞き入れるという、単純で、手間暇かからない精神が、人の心に生きているという実感を与えるのである。

2014年4月27日 (日)

切り捨てる

人は、いつでも「ああしておけばよかった」「こうだったらすばらしかっただろう」などと考えている。あの時、こうしていたら違った人生を歩めたはずなのに、と。どの道、過去に戻ることは不可能、とわかってはいても、取り戻したい自分がいる。この瞬間、私は、ほかならない私自身によって、過去に引き戻されている。
 人間の歴史は、取り上げられた歴史ではないだろうか。断念、却下、無視、後回しされた歴史の連続である。どうしても取り戻したい、と思う人は、もう一度そのおもちゃを買うかもしれない、もう一度ギターを弾いている人もいるだろう。新しい恋を夢見る人もいるかもしれない。でもどこか違うのだ。過去と現在を行ったり来たりしながら、いつの間にか、未来を見失いかけている自分もいたりする。どうしたら忌わしい過去を切り捨てて、新しい未来に向かえるだろうか。その方法を見出すために、精神分析が考え出されたのである。

2014年4月26日 (土)

自分で決める

子どもには、何事も自分で決めさせることである。例えば時間。学校や幼稚園に行く時間は自分で決めさせることだ。出かける時間は、その日によって違ってもよく、10分早く出ていくのでもよい。それを、まだ早いだ、さっさとしろ、などといちいち親が口を出せば、やがて子どもは親が命令するまで何もしなくなるだろう。それによって、ますます親の口出しが多くなり、子どもの混乱はピークに達することになる。
 一切命令しない、と決めることだ。最初は、子どもは戸惑うかもしれないが、やがて慣れてくるものである。それまで待てるかどうかが、親になれるかどうかの境目となるだろう。

2014年4月25日 (金)

欲しいもの

人が本当に欲しいものは何だろうか。いつかは自分も手に入れようと思っていたものも、実は人が持っているもののコピーであったり、宣伝されていたものだと気がついたりすることも多いのではないだろうか。私たちはいつの間にか、人が決めた価値観の中に放り込まれている。たまに、自分の価値観を持ち出そうとすると、「それにはどんな価値があるの?」などと、一蹴されてしまうことも多々。仕方なく、自分の欲望を引っ込めて、回りに合わせて無難に生きているとも言えよう。ときには、自分の本当の欲望を対面してみることも、精神衛生上、必要なことではないだろうか。

2014年4月24日 (木)

子の出立

子どもが「自立する」と言いだしたとき、たいていの親は動揺するものである。成長すれば自然の理、と思ってはいても、いざその時が来るとさびしく感じるのが親心なのではないだろうか。特に母親にとって、子どもは分身ゆえ、子どもを手放すとは、自分を手放すことに等しいのである。
 涙を流しながら追いかける母を振り切って、家を出て行き、後に寺の住職になった例をテレビで見たが、子どもが一人前になっていくということは、親子双方にとって、命がけの仕事なのである。

2014年4月23日 (水)

決断

決意するまでの気持ちにはなっても、なかなか最後の決断までには至らない、という人は、何かにとらわれている。自分の子どもには、「自由でいい」と言いながら、いざ子どもが家で寛いでいると、つい何かを言ってしまうということもあり得る。そうした、言行一致しない自分に、嫌悪感を感じてしまうので、嫌気がさしてまた言う、という繰り返しの中で、ますます自己嫌悪感が募ってしまうのである。
 決断できるかどうかは、本人の責任というより、背中をちょっと押してくれる人が必要なのである。

2014年4月22日 (火)

自我理想(3)

人が自我理想を持つと、そのことを考えているだけで楽しくなり、心ときめくものである。そんな体験を一度でも味わえば、自我理想の何たるかが分かってくるはずである。
 ところが、自我理想とは他の人とはまったく異なった価値観を持つ、自分だけのものである。それゆえ、人から承認されることはまずないと言ってもよいだろう。風変わりではなく、個性を生かせる仕事や生き甲斐である。本当の自分に出会って、人生を楽しむのも、よいのではないだろうか。

2014年4月21日 (月)

自我理想(2)

そのとき、周囲の人からどんな言葉を投げ返されただろうかと考えてみる。自分の発言に対して「そうだね」「それはいいね」「そう考えているのだね」と受容されただろうか。反対に「無理」「意味がない」などと、否定や価値感を下げられた体験はなかっただろうか。
 その頃、自分の自我理想の片鱗はあったはずである。しかしそれは否定の言葉の前に、脆くも崩れ去り、忘れ去られてしまっている。
 その欲望は無意識下にしまいこまれていて、今となっては本当の自分が見えず、何かの縁あって、今の仕事をしている、という可能性もある。

 

2014年4月20日 (日)

自我理想(1)

希望の会社に就職して何年か経った人たちの中で、「昇進したくない」人が増えているという。名前や、周囲の勧めで入社したが、「自分がもっていた自我理想とは違うのではないか」という問いである。自我理想とは、自分の思い描いた仕事や生き方のこと。将来、何になりたいか、自我が理想として掲げている自己の姿のことである。その理想像を持てば、人から何と言われようと、人は向上していくのである。そんなことを考えたことがない、という人は、子ども時代にさかのぼって、自分がどんな希望を語っていたかを思い返すことである。

2014年4月19日 (土)

あれかこれか

人はしばしば、あれにしようか、こちらにしようか迷うものである。何か決意を迫られたとき、「こうしよう!」という言葉が口から出る瞬間がある。それが本当の自分の言葉である。そうした決意の数々を潜り抜けるようにして、人は人生を歩んできたのではなかったか。
 問題は、その都度、同意してくれる相手がいたかどうかである。他者による承認である。その決心は立派だ、とか、よくやった、見事に言えた、などの声がけを得ることで、人間には自信がつくのである。自分で自分に言い聞かせることももちろん大切なことではあるが、その前に、そばにいる人が同意してくれたかどうかが、決意を導き出すカギとなるのである。

2014年4月18日 (金)

傷つきやすい人

相手のちょっとした一言にも、傷つきやすいという人はいる。人からかけられた「元気?」の一言で、「元気な顔をしていないのではないか」と感じてしまう、「大丈夫?」が、信用されていない、と感じてしまう、などという人もいる。こうなると、周囲の人たちは、何も言えなくなるので、当の本人は、「無視されている気がする」と訴えることになる。こんな時、「気にしなくてもいいのだよ」などと周囲は言いたくなるのだが、言われると、余計、相手が自分を非難していると受け取ることになってしまうのである。
 こうした人たちに共通することは、幼少時代から、「あなたはダメな人」という評価が与えられてしまっている、反対に、なんでも完璧にしようとして、「いい子」を演じてきたことである。人間には良い面と悪い面との両面があることを知る必要があるのだ。

2014年4月17日 (木)

名は体を表す

名は体を表しているように、表にあらわれたものはすべて本人を表している。例えば服装。暗い気分のときにはアンダー目の色のものを着がちである。反対に、明るい気分のときには、明る目の服を選ぶことになる。その時の自分を、無意識のうちに外側に発信していることになる。
 その時の自分を意識化すれば、明るい色を選択することによって、気持ちを明るくすることもできる。名前を変えることは難しいが、服をはじめ、髪形、読む本だけではなく、散歩のコース、食事のメニューなど、何でも変えてみることである。そこに何かの発見があり、驚くこともある。そうした驚きや感動を毎日もてる人生にしたいものである。

2014年4月16日 (水)

感覚

感覚は、人によって異なる。涼しい、と肌寒いは違うだろうし、胃がキリキリすると訴える人に対して、「胃が痛いのですね」と返しても、その人は、ちょっと違うと感じることだろう。ましてや、心の痛みや喜びなどに至っては、悲しい、物悲しい、ショック、うれしい、感動した、感激した、驚いた・・・全ての人が全員、異なった感覚で、「それ」を感じていることになる。
 その結果、「ちっとも私のことを理解していない」と人は、心の中でささやくことになる。正確にその人を理解することは出来ないだろうか、と言って考え出されたのが精神の科学なのである。

2014年4月15日 (火)

やる気

相談ごとの中で多く語られることは、「やる気が出ない」ことである。何としても湧き出てくるものがないというのだ。多くの人たちの「気」は、かなり強い力で押さえつけられている。さらに彼らは、それでいいのだろうか、とか、考え直してみようかな、といった風に考えてしまう自分もいるようだ、とも言う。そうした考えと、出掛けようか、という考えとがぶつかりあい、往復するうちに、やめた、という結論に達するらしい。
 フロイトは、無意識を黙らせること、と言ったのは、今までの言葉を否定して、自分の意思を貫きなさい、ということを説明している。頭の中の葛藤に、決断の刀を入れることである。それは、言うは易し、行うは難し、といったことかもしれない。これに成功することが当面の目標となるのである。

2014年4月14日 (月)

褒め言葉

人は、褒められたことはあまり憶えていなくても、けなされたことは鮮明に覚えている。褒め言葉の効果は、短くはかないものである。だから、相手に対して、何度でも褒めてあげることが大切である。反対に、けなされたり、否定されたことは、いつまでも記憶に残っている。言った人は憶えていなくても、本人にとって、心の傷になっていることが多い。 
 人間関係においては、褒め言葉だけを使うことである。とくに子どもたちに対しては、否定的な言葉は禁物なだけでなく、有害でさえある。もちろん、危険、法に触れることは、言葉によって説明しなければならないが、それ以外のことについては、自由に自分で決定させることである。そうすることによって、人間の心に、主体性の芽が育っていくのである。

2014年4月13日 (日)

自信

人が自信を持つには、どのようにしたらよいだろうか。自信は、他者の言明によってもたらされるのである。「私は、今日はこのようにした」という言葉に対して、他者が「これだけのことをしたんだね」といってあげることで、人は自分の働きを受け取ることができるのである。この場合、他者の評価は正鵠を得たものでなければならない。納得できる評価を得られた時にのみ、自分を受け入れることができるのである。その繰り返しの中で、人は自信を深めていくのである。

2014年4月12日 (土)

気が合う

人にとって気が合う人とは、どんな人を指すのだろうか。陽気な人、素直な人、楽しい、気が利く・・たくさんの友達がいる中で、なぜその人だけが選ばれるのだろうか。人は、相手の中に何を見ているのだろう。一緒にいるだけでホッとするのは、なぜなのだろう。
 反対に、気に入らない人、近寄りにくい人、愛想がない、軽薄、などと嫌悪感さえ感じてしまう人もいる。そのことを誰かに打ち明けたとしても、「普通だよ」などと言われた経験はないだろうか。
 分析では、嫌いな点は、相手のどんなところなのか、その人のどこが変わっていると感じるのかに注目する。それを知ったとき、「ああそうだったのか」という感慨にうたれる。そして、その人を受け入れられるようになるのである。

2014年4月11日 (金)

欲望

親から「欲はかくものではない」と言われたクライエントは多い。それで納得したのですか?と聞くと、子どもだったので、あきらめていたと答える。子ども時代は、学校をはじめ、友だちとの交流の中で、自分の欲望を止めることはなかなか難しい。何でも禁止してしまうと、その子は欲望を出すことに困難を覚えて、欲望を言わなくなる、言わないだけではなく、欲望を出さなくなり、ひいては、欲のない人間に育つことになる可能性だってあるのだ。「おもちゃが欲しい」ことを、「自分の願望を実現させたい」に変換させながら、子どもは成長を遂げていく。何でも買い与えるのではなく、対話によって、子どもの言葉をしっかり聞いて、実現させてあげることが大切である。そのような対応によって、その子は、将来、自分の願望実現のために手助けしてくれた親への感謝を忘れることはないであろう。

2014年4月10日 (木)

自由

人はいつでも、自由を求めているように見える。自由に何でも言えたら、自由に遊べたら、自由が欲しい・・しかしこれは、誰もが求めているとは限らないので、自由を求めるための解決方法に向かって、すぐに取りかかるべき問題ではない。会社を定年で退職する予定であっても、やめてからの仕事や趣味、生き甲斐を見つけないうちに、自由を得てしまうと、自由の扱いに窮することになるだろう。過ごしながら、性格に合わない仕事に就いてしまうこともあるかもしれないからだ。しばらくは「のんびりと過ごそう」というのも、誘惑の罠かもしれないのだ。常に、その先の目標を作った上で、考えていくことが大切である。

2014年4月 9日 (水)

生き甲斐

生き甲斐は、人それぞれ異なっている。それぞれの違いを認め合うことこそ、相手への尊重である。ところが、多くの場合、人の趣味や嗜好、考え方の違いを「異質なもの」としてなかなか認めてはくれない。認めてくれないどころか、否定されたり、非難されてしまったりもする。そこで、同好の士がいつの間にか、寄り集まることになるのだが、いつも集まれるわけではないから、一番身近にいる家族がその趣味を認めてあげることで、人はずいぶん癒されるものである。
 仕事や勉強以外の生き甲斐を持つためには、周囲の人も、その人の趣味を認めてあげることが大切である。それがひいては、相手への関心を持つことにつながっていくのである。

2014年4月 8日 (火)

思い出

人は、他人と同じものを見ても、まったく違った感想を抱くものである。満開の桜を見ても、抱く思いで、人さまざまである。ある人は、混雑して大変だった、という思い出を語るだろう。その人にとっての桜の花は、混雑を意味している。また他の人は、桜の下で、弁当を広げたことを語り、別の人は、桜の花びらを毎日掃除しなければならない苦情を語ることになるだろう。このように、桜一つとってみても、その思い出は桜から離れてしまうことになる。
 だから、人が桜の花の思い出を語ったら、そっと耳を傾けるだけでよい。桜は一つであっても、思い出の数は、語る人の数だけ存在することになるのだ。
 こうして、フロイトは、クライエントに耳を傾け続けると言う、今までにはない方法で、精神分析を創設していったのである。

2014年4月 7日 (月)

立ち向かう

人の一生は、困難に直面させられることばかりである。困難な問題や、考えさえられること、避けたいこと、などの連続ではないだろうか。解決不可能、と思われる問題も、逃げずに対応すれば、解決の方法は必ず見つかるものである。逃げることからは、何も生まれることはない。問題解決の糸口は、ほんのちょっとしたことかもしれない。隠されたきたことかもしれず、自分でも気付かないところに、あるのかもしれない。
 そのためには、「直面する」勇気を持つこと、自分を信じることのふたつが必要である。その際、自分が誰かから信じてもらった、という経験がなければならないのである。

2014年4月 6日 (日)

選択

進むべきか、進まざるべきか、人はいつでも悩んでいる。私たちの歴史は、選択の歴史である。選択の集積が、私たちの後に積み重なっていると言っても過言ではない。
 昼食はそばにするか、うどんにするか、から始まって、学校や会社選び、配偶者選択・・・ありとあらゆる岐路に、私たちは立たされて来たのである。そんな時、自分の中で「決めた!」と感じる瞬間がある。その声は一体、誰の声なのか。そんなに自信を持って決められる自分とはいったい何ものなのだろうか。

2014年4月 5日 (土)

何のために生きるか

「自分は何のために生まれてきたのか」、「私は何を目標に生きていけばいいのか」、などという問いかけを、多くのクライエントはする。いつ頃からその問いをかけてきたのですか?と聞くと、小学校学年から、と答える人が多い。人は、11、2歳ですでに人生の意味を問いかけているのだ。それに対して周囲の人は、「よい学校に入ること」、とか、「そんな暇があったら勉強だ」などと、自分を変人扱いしてきた、とクライエントは訴える。そうした問いこそ、セラピーの大きなテーマである。そして、その探し方を知悉しているのがセラピストである。「そんな暇」こそ、人生における最も大切な時間なのではないだろうか。

2014年4月 4日 (金)

本当の自分

私は私のことについて言うことができないのである。私について、ある人は「真面目なひと」というし、また別の人は、「愉快な人」といったりする。私に対する評価は一定ではない。当の本人はどうかと言えば、私は私のことについて知ることができないのである。時には勤勉、ある時には怠け者、親切かと思えば、自分勝手、と言った具合で、本当の私など一体どこにいるのだろうか、などと考えたくなるのである。
 本当の自分に出会えることがあったら、どんなに安心感を得られることだろう。実は、会える場所は、ごく限られた場所か、反対に、どこにでもある場所に、その場所はあるのだ。その瞬間、驚きとともに自分自身を受け容れることができるのである。

2014年4月 3日 (木)

考える

人間にとって、物事を知れば知るほど、物事の深さが増していく、ということはある。何かを知った、と思った次の瞬間に、もう分からなくなる、などということはないだろうか。「分かった」と思ったのは一体何だったのだろう、と自分の理解の浅いことを呪ったりするものである。何かを知って「なるほど」と思い、また分からなくなって再び人に聞く、この繰り返しの中で、人は少しづつではあるが、進歩していくのである。そのたびに、答えてくれる書物や相手がいることは幸せなことである。
 ところが、人間は考えることをいつの間にか放棄してしまっているのではないだろうか。私たちはもう一度、なぜこの世に誕生したのか、何をすればよいのか、と考えてもよいのではないだろうか。

2014年4月 2日 (水)

カメラ

カメラを構えて、人が撮影している被写体には、撮影する人の個性が表われている。電車や飛行機などの乗り物を撮影する人や、桜など、花の撮影を得意としている人など、さまざまな人がいるだろう。我が子や、お孫さんの姿を、日課のように撮影している人もいる。カメラを毎日のように持ち歩きながら撮影しようとした人の話では、撮影する意識を持たないかぎり、めったに写真撮影にふさわしい場面に出会うことなど、ほとんどないらしいのだ。最近は携帯電話にカメラ機能が付いているからといって、撮影することを考えて暮らしているわけではないから、それなりの景色や事件にはなかなか出会うことはないのかもしれない。 
 人が撮影しているものは、その人の何を語っているのだろうか。その人はその景色の中に、何を見ようとしていたのだろうか。興味のあるところではある。

2014年4月 1日 (火)

体の声を聞く

たばこやお酒などの嗜好品は、本人次第とはいえ、飲み過ぎ、食べ過ぎなどの習慣をやめられない、というのが実情ではないだろうか。無意識の中に、やめることのできない「何か」があるのだ。花粉症の原因と同様、それは自分でも知ることのできないものである。さらに進行すれば、残業したから飲むのか、飲むために残業しているのかわからない、という状況もおとずれることになる。
 しかし、体がだるい、胃がキリキリ痛むなどの症状がでてきたら、それは体が悲鳴を上げているサインと、受けとることが重要である。常に体の声を聞くという姿勢こそ、自分に正直なることなのではないだろうか。

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