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2014年9月の30件の記事

2014年9月30日 (火)

意味づける

私たちは身の回りで起きることを、そのまま受けとることなく、何かの意味を付与して受けとっている。歩行中、突然頭の上に木の枝が落ちたとする。それを友人に語れば、「日頃の行いが悪いからだ・・・」などと言われてしまうことを百も承知なので、努めて言わないように心がけている。その一方で、さっき乗った電車で席を譲らなかった罰が当たったのかもしれない、とか、これは何かの警告に違いないなどと受けとり、いろいろな想像を巡らしている自分がいたりもする。ただ単に「木の枝が頭に当たった」と受けとることはないのだ。 そう考えてしまう根拠は何なのだろうか。もっとシンプルに考えることはできないのだろうか。シンプルな世界が実現してしまったら、きっと味気のない世界に住むことになるかも知れないという不安が、人間の想像力を豊かにしているのかも知れない。


竹田精神科学研究所は、このたび、JR高崎線熊谷駅北口前にセラピー・ルーム兼、心理学教室を開設いたしました。熊谷駅北口徒歩一分のビルの2階・3階です。電車を利用される方や駅周辺の方々にとって至便の場所です。セラピーを受けたいと考えておられる方は是非、ご相談にお越しください。また、9月・10月には新たに「インテグレーター養成講座」も開講いたします。こちらの方にも奮ってご参加ください。
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2014年9月29日 (月)

対話

私たちは常に誰かと、何かと対話している。レストランで何を注文しようかと考えながら、メニューと対話し、自分の腹具合とも対話しているのである。服を買おうと思いながら、値札や鏡と対話しているのである。欲しい、無理、よし買ってしまえと、商品と対話しながら悩みかつ楽しんでもいるのである。対話するとは、欲望がある証拠でもある。この対話能力がないということは、欲望が無いということでもある。欲望が発生しないことには、何事も生まれてはこない。欲望を語り始めたら、それを膨らませる空間性が必要である。自分の世界をもたせること、その世界に居る間、じっくりと考えさせることが大切なのである。

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2014年9月28日 (日)

秋という言葉を聞いて、ある人は食欲の秋を思い、あるひとはスポーツの秋と主張し、昔を懐かしむ人は、東京オリンピックを語るかもしれない。大切な人を亡くした人にとって、秋は悲しいと受けとるだろう。その人にとっては、何々の秋、などと浮かれた気分を他者と共有することは不可能でもあり、苦痛でさえあるだろう。そんなとき人は、こんな素敵な季節をなぜ満喫しないのかと相手を捨て置くことになるかもしれない。「むかし大切な人を亡くしまして・・」などと切り出せないまま、人は人とすれ違い続けていく。秋という一文字の中には、人の数だけ思い出がつまっているのだ。相手と同じ感情を共有するにはどうすればよいのだろうか。どうすれば相手を理解することができるのだろうか。


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2014年9月27日 (土)

働く

私たちは何のために働くのだろうか。ある人は家族を養うために、ある人は、生きるためと言うだろう。人はそれぞれの意味を持って働いている。では、家族がない場合は・・とか、家族が独立していってしまった人は、どのようにして働く意味をみつけていけばよいのだろうか。人生は道すがら。その都度、働く意味を変えていけばいいのである。結婚したら、夫や子どものために働き、最終的には私という存在を他者のために捧げるために働く、と決めればよいのである。人は自分一人では生きられないから、他者の助けを必要とする。同様に、私の存在もきっと他者に必要とされているに違いないと考えることはできないだろうか。


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2014年9月26日 (金)

自分で決める

自分が欲しいと思ったものは、自分で決めたものだろうか。買った商品に添付されているアンケートを読むと、「この商品を買った動機」の欄に、友人の勧め、新聞で知った・・・などのチェック項目が書かれている。自らの意志で本商品を買い上げた人は多くはないのかもしれない、などと想像してしまうほどに、友人・知人の言葉は、自らの「何でもいい」という中立性を覆すには十分の力を有している。身の回りを見渡してみても、みずからの欲望・意志・決断で買ったものは、一体どれくらいあるのだろうか。毎日、テレビや新聞広告という言葉の海の中で暮らしている私たちは、「自らの欲望」なるものの信憑性などあるのだろうか、などと疑いたくなるのも当然と言えば当然であろう。このあたりで、もう一度、自ら決めることの大切さを見直すべきであろう。そのためには、子どもたちが決めたことに、口出ししないことである。子どもたちの決断力を養う原動力になるからである。

2014年9月25日 (木)

主体性

主体性をもつとは、どういうことを言うのだろうか。それは「私は私」「私がこれをする」と、自らが自らを決めることを言う。「私は○○になる」という願望は、本当に自らが決めた願望だろうか。成績が一番だから、家が代々その職業だから、偉い人だから・・・それらはいつの間にか他者の規定によって自分が規定されてしまっている可能性が高い。そこで、自分で自分を規定しようと考えた時、本当の私などないことに気がつくのである。その時初めて白紙の私が出現するのだ。初めて他者の欲望から自由になれた瞬間である。そこからがいよいよスタートである。そこで本当の自分の欲望を見つけることができる場所がセラピー場面なのである。

2014年9月24日 (水)

歩調

人と共同生活を送っていくなかで、人は歩調を合わせていくことときには必要である。相手が合わせてくれないと、イライラすることもあろう。反対に、相手に自分を合わせなければならなくて、気持ちがギクシャクすることだってあるだろう。その典型が歩調だ。相手の歩き方に自分をどこまで合わせなければならないかが問題となる。あるいは買い物。一緒に歩いていた相手が突然立ち止まる、引き返す、謎の左折・右折・・・デパートなどで、夫婦どちらの買い物に付き合わされているかは、立ち位置をみれば一目瞭然である。主客が替われば位置が替わるといった具合である。こんな場合、イライラすることなく付き合う仕方を心得ればよいだけの話である。歩調が合う、合わないの源は、両親がどこまで子どもの自分にペースに合わせてくれたか、ということにまで遡る。この時の相互交流を通して子どもたちは、歩調を学んでいくのである。

2014年9月23日 (火)

ラベル

私たちは、ものをあるがままに見ているだろうか。ドイツ製のメカ・・・イタリア製の生地・・・といった具合に、ものそれ自体ではなく、前面に貼りついているラベルを見て判断していないだろうか。それを見た瞬間、どことなく丈夫そうとか、イタリアの香りとかを勝手に想像して見ていないだろうか。この想像力があるからこそ、映画や絵画をうっとり眺めることができるのである。熊谷?・・・なんか暑そう、とか言われたりしている。薬を飲みながら効能書を読み、缶ジュースを飲みながら缶のデザインに見入ったりと、人間はさまざまな感覚器官を動員して、ものを取り入れながら、一喜一憂すらしているのが人間である。この人は偉い、普通・・一体私の目の前にいる人はどんな人なのだろうか。

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2014年9月22日 (月)

気づき

人は悩んだとき、誰かに相談することがある。友の突然の来訪に、相手は事情を把握することができず、ただ聞くだけとなる。ここで適確な対応をすれば、語り手は、自分で語り、確認し、自分の対応はどうだったかを思い出す。自分で自分を冷静に見ることができるようになる。その後、こうすればよかった、と気づき、反省し、聞き手を置いて去っていく。勝手に語り、聞き手の存在などなかったかのように去っていく。人は自分を知るために聞き手を必要とする。聞き手が鏡になることで、あるがままの自分をみることができるのである。このときにのみ、本当の自分に出会えるのである。

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2014年9月21日 (日)

大志

多くの人は、幼少時代から「大志を抱け」などと、言われてきたのではないだろうか。その頃、子どもの頭にあったことは、夢と遊ぶことだけだったのではないだろうか。何よりも、少年時代の子どもは素直だった。お年玉、お小遣いなどの前にひれ伏さざるを得なかったからだ。いつのころからか、その「大志」をどこかに置き忘れてきたのではないか。置き忘れたものは、きっとどこかにあるに違いない。それを探すには、語ることである。あれもしたかった、これも叶えたかった・・・1時間、2時間語っていただくことがスタートである。その大志は、語りの中から発見される。語ってみたら、それらは子どもっぽい夢に過ぎない、と気づかれることもある。では無駄な語りかと言うと、そうではなく、ふとした瞬間に本心がこぼれ落ちることがある。それこそが無意識の奥に隠されていた大志である。長い間、人に語ることなく、日の目を見ることもなく温存していた宝みたいなものである。

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2014年9月20日 (土)

関心

何事にも関心を示す人と、示さない人とがいる。同じ話を聞いても、身を乗り出すようにして聞く人と、聞かない人との差は一体どこから生じるのだろうか。関心の起源は、人から自分が関心を持たれたかどうかである。相手から関心を持ってもらった、心配してもらった、親身になって話を聞いてもらったという経験の積み重ねが「快」感情を生み、そうした「快」の蓄積が集積となり、堆積して体積となり、本人の心を堅固なものにしていく。そうした基礎があって初めて、相手への関心が生じるのである。その体験が後に、人やもの、ことや知識への関心へと繋がっていくのである。

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2014年9月19日 (金)

本当の私

会社では従順な顔をしている私がいる。仕事が終わって友だちとおしゃべりをするときは、相手に合わせている私がいる。家に帰れば、愚痴の一つもこぼす私がいて・・・というふうに、いい顔も悪い顔も、お茶目な私も真剣な私もいる。場合によっては、両親を前にしてもよい顔を演じている自分を派遣して、愕然とするなどと言うこともあるだろう。そうした毎日を送っていると、いったい本当の自分とは何者?とい疑問もわいてくるのが自然の成り行きである。人に聞いてもある人は「あなたはお茶目」といい、またある人は「仕事人間だ」などと言われるのがオチだろう。本当の自分は存在しないのだ。セラピーでは、「全部違います」と答えることにしている。どこで本当の自分に出会えるのだろうか、それはセラピールームの中だけである。「あなたはこういう人です」と、説明するとクライエントは必ずこう答える。「まさにドンピシャです!その通りです!」と。この瞬間、私が本当の自分に出会えるのである。

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2014年9月18日 (木)

体感温度

体感温度は人によって異なるだろう。同じ部屋に居てもある人はちょうどよいと言い、他の人は寒いと言う。また別の人は汗をかいているといったことがある。温度感覚一つとってみても、その感じ方は千差万別である。人が「暑い」と言った時に、「信じられない」などと返事することは本人を否定するだけではなく、身体の異常を無視する場合だって可能性としてはあろう。問題は、暑さも寒さを感じない人であろう。「暑い」と言った時に「我慢しなさい」とか、「心頭滅却すれば火もまた涼し」などと言われた場合、感覚麻痺になる可能性も考えられる。暑いときには暑さを実感し、涼しい時には涼しさを満喫する、これが身体感覚を正常に保つ過ごし方ではないだろうか。

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2014年9月17日 (水)

熊谷駅前セラピー・ルーム開設

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2014年9月16日 (火)

共感

人間は、相手が感じたことを、同じように感じることはできない構造になっている。炎天下にロケで収録されたテレビ番組で、出演者の上着は汗でびっしょりとぬれているのだが、クーラーの効いた部屋で見ている視聴者には、その暑さを理解することはできない。「これを理解できますか?」と聞かれたら、「暑いということは分かります」と言いながら、自分の経験に照らし合わせて思い出しているにすぎない。相手の暑さと聞き手のそれが一致することはないのだ。一致したかのように思い込んでいるだけである。しかし、「そうだったのですね」と返事を返してもらうだけで、語り手の苦しさは半分になる。それが共感というメカニズムである。

2014年9月15日 (月)

歴史

人には、それぞれ歴史がある。輝かしい青春時代を過ごした、スポーツ万能、という人もいる一方、自由にさせてもらえなかった、テストで90点でも褒められなかった、陸上競技でいつもビリなど・・・。ところが、栄光の過去とか、人から見れば「すごい」と思われることも、校内で一位だが、県大会では一回戦敗退などの場合、本人にとっては屈辱ということもある。こんなとき人から「それでもすごい」と言われても、本人にとっては屈辱感しか心に残らない、と言う場合だってありうるのである。その人のことはその人のことである。屈辱の歴史を語り出したら、ただ黙って聞いてあげることである。それを傾聴と言う。

2014年9月14日 (日)

胎教

私たちは、お母さんのお腹の中に居るときから、いろいろなことを言われてきた。この子がタレントになるといいな、お家の再興のため、親の果たせなかった夢の実現などをはじめ、男だったら、女だったら、はたまた、出来ちゃった?!どうしよう!?などの声の豪雨の中で十月十日の間過ごしてきたのだ。そんな声を母が聞いて影響を受けないとはいえない。母の感情はへその緒を通して胎児に伝わっていると考えられる。「お母さんのお腹の中は暗かった」などと語る子どもたちは、確かに胎内でのことを記憶しているのである。胎児の姿は見えなくても、周囲の人たちは語りに注意しなければならない。その結果が現れるのが二十年後である。早く顔が見たいね、よく生まれてきたねと歓迎されて生まれてきた子は、自分は待ち望まれたという実感をもつだろう。その時になって、なぜ、タレントになってくれないのか、家を出て行ってしまったのだろう、などと考えても、そのとき語られた言葉を憶えている人などいるはずもない。すべては風の中である。

2014年9月13日 (土)

動揺

人の心は、いつも動揺していないだろうか。こうすべきか、ああすべきか、あれでよかったのか、これでよかったのだろうか・・・毎日、揺れ動く小舟に乗っているように、揺れ続けているのが人間ではないだろうか。レストランで、何を食べようかと迷い、注文した後で、こちらにすればよかったのかもしれないと反省し、食べた後で、あれにすればよかったと後悔する自分がいる。この動揺する心はどこから来るのだろうか。それは、「本当にそれでいいのか?」という誰かからの問いかけであり、「あっちの方法もあるぞ」というささやきによる働きかけである。その一言で、それまでの自分の信念などは吹っ飛んでしまう、そんな歴史の波間で揺れてきた結果である。その相手は、きっと確認のために言ってくれたのかもしれない、親切で言ってくれたのかも知れない、と相手を否定することなく今日まで信じてきたのではないだろうか。

2014年9月12日 (金)

先入観

人が人を見るとき、先入観で相手を見ていないだろうか。あらかじめその人に関しての情報を集めたり、噂話を信じていたりしながら見ていないだろうか。実際に本人に会ってみると、聞いていた印象とまったく違っていることがある。先入観とは、所詮他人の評価。自分の評価ではない。人の評価は自分が決めるのが原則だ。人と会うときには虚心坦懐の気持ちで接するのがよい。教わる気持ちで接すると、不思議なもので、相手もそれを感知してすらすらと語ってくれる。なまじ先入観を持って接すると、相手を傷つけることにもなりかねない。白紙の心で、ゼロからの信頼関係を構築するのである。そこには、白紙の心をもった二人の人間が話をしているだけという世界が現出するのである。

2014年9月11日 (木)

新鮮

美しいものに囲まれている人は、幸せと言うべきであろう。飾ってある壁の絵に目が行った時、「きれいだ!」とか、「あの時、買ったものだ」などと思えるものがあれば、自分は恵まれていると思うだろう。家具でも、自分が気に入って、選択したものであれば、おのずから愛着もわいてくるものである。しかし、長い間には、周囲の家具とも調和して、気がつけば空気みたいな存在になってるかもしれない。そんな時は、絵を替えてみたり、部屋の模様替えをするのがよい。新たな気持ちにもなる。人はこうして、常に新鮮な気持ちを持ち続けることが大切である。今日の自分は、昨日の自分とは違うという自覚が、人間をいつまでも新鮮に保つのである。

2014年9月10日 (水)

余裕

余裕とはどんな状態を指すのだろうか。まず挙げられるのは健康ではないだろうか。そして、ほどほどの経済的余裕、さらに趣味をもつことである。さらに友人、仕事を加える人もいるかもしれない。人が一人でできることが余裕ではなだろうか。余裕がなければ、あくせく、イライラして、楽しいことは何もないなどと訴えることになる。生き甲斐の喪失は、健康を害することにつながる。趣味や遊びにも行けず、誘ってくれる友だちもいなくなるだろう。健康は常日頃、規則正しい生活を心がけ、散歩などをするのもよいだろう。さらに、好きな学問や歴史、趣味、生き甲斐をもつことである。仕事は、定年を過ぎればいずれ失う可能性があるので、仕事が趣味、と言う人は、定年過ぎてからの人生を考えておくのがよい。経済的にも多すぎれば、失うことを恐れるだろう。少なすぎれば、生きるだけで精一杯、帰宅したら寝るだけというのではあまりにも切ない。この、ほどほどを維持していくことが、定年過ぎてからの人生を考えていく上で最大の問題となるだろう。

2014年9月 9日 (火)

相手を優先

クライエントさんの中に「相手を優先」が母の口癖でした、と述懐された方がおられた。その方のお母さんの人生訓がこの方を支えてきたのである。人は、両親の教えに忠実に従いつつ、場合によっては、勇猛果敢に、またあるときは共感性ゆたかに人に接し、あるいは率先して家族や仲間を鼓舞したりしてもよいのである。ある一面だけを奨励すれば親の教えに従ったことにはなるが、人を助けたり、スポーツなどでは、違った面を出してもよいのではないだろうか。そのときどきで、どう対処するかは本人に考えさせることである。かわいい子には旅をさせるのが一番であろう。その見本となり、温かくも守ってあげるのが両親なのである。

2014年9月 8日 (月)

機嫌

機嫌がよい時、人は鼻歌を口ずさむ。鼻歌は微笑ましいが、独りごとを言いはじめたら要注意である。両者に共通していることは、本人はそのことにまったく気づかないことである。無意識が本人を操っているからだ。突然口に手を当てたり、腕組みをしたりするのも無意識の仕業。幽霊みたいだが、私たちは自分で腹痛を起こせない、肩が凝るのも、その辺の事情を物語っている。人間は自分の知らないところで、何かをしでかしているかもしれない。そんなことは断じてない!と言い切れる自信など、実は誰も持ち合わせてはいないのである。

2014年9月 7日 (日)

ユーモア(3)

読書は、ユーモアのセンスを磨くには最も適しているかもしれない。ユーモアといっても、単に面白いだけでは、軽くみられるし、洒落を言うだけでは、ギャグ?と言われて、それで終しまいである。文学、歴史、豊富な語彙に裏打ちされた言葉の数々がちりばめられてのがよい。数年前に亡くなったIは、よくもここまで知っているなと、感心もし、舌も巻かざるを得ないほどの作家である。饒舌な文章、簡潔明瞭な表記、洒落・・何でもありなのだ。ユーモアがあり、ニヤリとさせられたかと思うと、襟を正されたりと、その文章構成力に圧倒されるが、それが心地よいのである。言葉を持つとは、まさしく大人になるということなのであろう。

2014年9月 6日 (土)

ユーモア(2)

遠くから見れば威厳があり、近寄れば春風駘蕩、ひとたび口を開けば、人が癒される言葉をもっている、それにユーモアのセンスを持った人ならば、相手はどれだけ安心感を得ることだろうか。ユーモアのセンスも含めて、そうした性格は環境によって形成される。すなわち、生まれ育った家庭をはじめ、学校、サークル活動などの指導者や仲間との交流を通して作られるのだ。まず、周囲からの本人への働きかけが行われ、次いで本人からの働きかけに周囲の人たちが応答する、そこにあたたかな人間関係の素地が生まれる。日常生活の中で行われる、こうしたさりげない会話の積み重ねが、やがて人と交流することは「楽しい」と言う言葉に裏打ちされて、人が好きになっていく。一人でいる時も、孤独感を感じることなく、人と接すれば、春風のような風情を醸し出す。そうすれば自然とユーモアに満ちた言葉が端々にちりばめられることになるのである。

2014年9月 5日 (金)

ユーモア(1)

ユーモアとは、心の余裕である。余裕がなければ、その人の人間関係は、ギクシャク、カリカリ、カサカサしたものになってしまうだろう。人と対話をする中で、相手を和ませる言葉を語れる人はユーモアがあるのだ。笑わせるのではなく、自己主張しつつ相手の心をほっとさせる言葉は、学んで学べるものではない。その源は家庭である。家の中で、何を言っても肯定的な言葉を返してくれた、反応してくれた、同意してくれた、面白い話に家族の皆が笑ってくれたという経験が、子どもの心に対話と笑い合う楽しさを学ばせる。それは、兄弟、身内、近隣、学校へと敷衍され、いずれ社会にまで広がっていくことになるのである。

2014年9月 4日 (木)

「なくて七癖」と言うように、人にはいろいろな癖がある。髪の毛に触れる癖、腕組み、鼻の頭に指を持ってくる・・・それらが今まで生きてきた何かの痕跡であることは確かだ。痕跡は本人が無意識的に形成してきたものだけに、自分ではその癖にどんな意味があるのか分からない。それだけではなく、自分に癖があること自体気付くことは少ない。ちょうど私たちが、自分の歩き方を自分では見ることができないように。それらは単なる習慣なのか、サインなのか、メッセージなのだろうか。ではなぜ、そんなサインやメッセージを送らなければならないのだろうか。その必要性が理解できたとき、その癖はたちどころに止まるのである。

2014年9月 3日 (水)

失言

自分でも、なぜこんなことをしてしまったのかまったく見当がつかない、という時がある。なぜあんなことを言ってしまったのか、皆目分からないという思いにかられたこともしばしばあるのではないだろうか。これが無意識の仕業である。表向きは「感謝」と言っていても、心のなかでは、「嫌い」と思っていれば、ちょっとした間を潜り抜けるようにして、無意識の言葉が顔をだす。いってみれば、無意識はいつでもその出番を狙って背後から様子をうかがっているのである。それが、失言や失錯行為となってあらわれてくる。それは、常識や道徳の壁を打ち破って飛び出してくるので、理性が追いつけないほどである。どうしたら失言・失策行為を防ぐことができるのだろうか。

2014年9月 2日 (火)

捨てる

私たちの身の回りは、いろいろなものであふれかえっている。例えばリモコン。テレビのリモコン、ビデオ、扇風機、エアコン、ステレオ、照明・・捨てるに捨てられないものばかりだ。人間が機械を駆使しているのか、機械に囲まれているのか、よくも、分からなくならないものである。「駆使している」ととらえるか、囲まれているととらえるかで、その心理は大きく異なる。これらは必要な道具だが、捨てるべきものは一挙に捨てることが大事だ。あるクライエントは、捨てた後で、捨てなて失敗したと感じたものは一つもなかったという。捨てられない人の無意識には、きっと捨てられない何かがあるのだろう。

2014年9月 1日 (月)

血が騒ぐ

血が騒ぐとはどんな状態だろうか。それは、本当に好きなことをしているときである。そのことを考えただけでも、体がぞくぞくしてくる一種の快感を得た時である。競馬ファン以外の人は、馬が走るのを見てもぞくぞくしないだろう。車に興味のない人は、たとえスーパーカーが目の前を疾駆しても、その人は、車に轢かれないことだけを考えているはずだ。ぞくぞくすることを見つけられたら、人生はどんなに驚きの連続であろうか。どんなに楽しいことだろうか。驚きを見いだすために、人はいろいろな手段を講じて、文化や芸術、スポーツ、ギャンブルなどを作りだしてきたのかもしれない。

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