人なつこい
クライエントからの報告。とある法事での出来事。会場に入った途端、クライエントのもとに、見知らぬ5~6歳の兄弟が駆け寄ってきて「遊ぼう!」と言われたのだ。結局、このクライエントは、初対面の子どもたちの遊び相手になった。見知らぬ人達ばかりの食事会の中で、子どもたちのおかげで寂しい思いをせずに済んだという。しかし、なにか変なのです、と彼は言う。誰にでも愛想よくする子がいる一方で、母親のうしろに隠れてしまう子もいる。その差はいったい何なのだろうか、という疑問が彼の心に浮かんだのである。
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クライエントからの報告。とある法事での出来事。会場に入った途端、クライエントのもとに、見知らぬ5~6歳の兄弟が駆け寄ってきて「遊ぼう!」と言われたのだ。結局、このクライエントは、初対面の子どもたちの遊び相手になった。見知らぬ人達ばかりの食事会の中で、子どもたちのおかげで寂しい思いをせずに済んだという。しかし、なにか変なのです、と彼は言う。誰にでも愛想よくする子がいる一方で、母親のうしろに隠れてしまう子もいる。その差はいったい何なのだろうか、という疑問が彼の心に浮かんだのである。
人から、「昔の話は忘れよう」とか、「将来何をしたいかを語ろう」などと言われたことはないだろうか。本人にとって、「悩みを聞いて欲しい」というのが、その時の心境ではないだろうか。精神分析は、今、彼の身に起きていることは、すべて子供時代に起源をもつ葛藤が引き起こしており、今なお彼の上に生き続けていて、そのために将来のことなど考えることができないでいることを前提としている。したがって、彼の過去に遡って聞く必要があるのだ。フロイトが精神分析は「精神の考古学」と呼んだ所以はここにあるのだ。
クライエントからの報告。テレビ番組の中で、あるカウンセラーが聴衆の中から選ばれた人に向かって「昔の話はしないでください」と言っているのを聞いてショックを受けたという。カウンセリングは、本人の主訴とは関係ないような話の中から、本人の抱えている重大な問題をピックアップすることを主眼としている。なぜなら、クライエントは、今自分の身に起きている問題が一体何なのかについて、クライエント自身にも判らなくなっているからである。だからこそ、カウンセリングを受けに来ていることをカウンセラーは斟酌しなければならないのである。
同じ言葉を聞いても、心の中で思い浮かべるものは人それぞれである。「みどり」という言葉を聞いて、ある人は草原の緑を思い出し、ある人は、子どもの好きな色を、またある人は憧れの女性の名前を、それぞれ思い出すかもしれない。「みどりは素敵だ」と、三人の会話の中で述べられれば、それぞれが全く違ったものを連想して会話することになるだろう。会話が擦れ違うのは当然である。噛み合っていないのではなく、擦れて違っているのだ。そのなかで、今日は楽しかったという気持ちになっている自分がいる。単語一つでこれだけ違ってしまうくらいだから、会話が擦れ違うのは当然である。こうして人間の会話は永久に擦れ違い続けていく。その中で、どうすれば相手の話を理解することができるのだろうか。
人が誰かを誘う場合、「喉が乾かない?」などと言う。その場合、「話を聞いてくれませんか?」というメッセージが隠されているのであり、「お疲れ様会を開かない?」は「飲みに行こう」の言い換えであることをわれわれは経験として知っている。言われたた方も、「そうなのだな」と暗黙のうちに納得して、「お付き合いします」と、「せっかくの機会ですので」、などと返事をする。こうして、どちらが主役でどちらが脇役か分からぬままに時を共に過ごす。このように、人間はストレートに自分を語らないように仕向けられてきた。真の自分はいったいどこに放逐されてしまったのだろう。もう一度自分を取り戻し、真の自分と出会いたいと人はいつでも思っているのではないだろうか。そんな気持ちさえも放逐されてしまわないうちに、である。
子供が夢中になって遊んでいるとき、夕飯の支度が整ったりする。親は、食卓に着くよう指示する。子供は「あと少しだけ」と言う。「冷めるから」、「あと少しだけ」の応酬の末、夢中になることは中断させられる。食後、再び自室に戻った子供の耳元でこんな声が聞こえるという。「手伝いに来なさい」。そうなると、「何かをやろうとしても、声が聞こえてくるみたい」と、クライエントは言う。夢中になる子供を育てる秘訣は、この辺にあるようだ。
なかなか決断できない、という人も多い。結婚するかしないか。職場をかえる、かえない、食べる、食べない・・・サッと決めることができない原因は何だろうか。人がどうしてもこだわっている点とは何なのだろうか。どちらでも結果は同じではないか、などと人は無責任に言うが、ことはそう簡単にはいかないのだ。結果、現状維持の道を選択する。それによって得ることの方が多いからである。それはそれでいいようだが、いずれまたその問題が浮上してくる。浮いたり沈んだりの繰り返しの中で、「まあいいか」の声も耳元でささやいたりもする。嗚呼。
あるクライエントは、すがすがしいと感じる日は一年に一回くらい、だという。毎日、頭が痛い、お腹の調子が悪い、肩がこる、腰が・・・といった具合だ。その貴重な一日はどんな気持ち?と聞くと、のんびりして、いいのです、という。それ以外の日に何か変わったことはありませんか?と聞いても特に変わったことはないという。そうして、人は自分の置かれている状況で、自分を麻痺させながら過ごしている。これが感覚鈍磨である。それは、毎日が「辛い」と感じていては、精神が破綻してしまうので、人間は痛みを一とき麻痺させることでその場をしのいでいる。そんな機能が人間には備わっているのだ。それが破綻した時、本人が受けるダメージはきわめて大きいのだ。それはどんな状況なのか。
人は時に、会社を休みたい、とか、何もしないでいたい、などと思うかもしれない。しかし、家事や育児、仕事や付き合いなどで多くの人にはそれが許されない。そんなとき、人はある手段を講じて、寝ることに成功する。自分でもその理由はわからないままに。もしその理由が分かってしまえば、自分の心に罪意識が発生することを知っているので、「なぜか急に・・・」といって、休むことに成功してしまう。周囲もそれを責めることができない。そうするためには、時間と労力を使うことになるが、そんなことよりも、休んだりすることの方を優先している、そんな工夫を人はいつでもどこでもどんな場合にも考え出す。
ある人は、人と会わなければ、いやな思いをせずに済む、と考えている。しかし、誰とも接触しないのはさびしい、では出かけよう、辛い、会おう、何を話せばいい・・・いったいどうすればいいのか?こうして、自分で作った迷宮の中で右往左往している人も多いのである。何か興味のある場所に行こう、でもそこには人が・・・。ラインやインターネットなら人に会わなくて済むから、そこで自分をさらけ出そうと考えてはみるが、やはり誰かに聞いてもらわなければ、空虚さが増すだけ。そんな迷宮の鎖に終止符を打つ手立てはないのだろうか。
庭先につながれている犬をみて、三人の男性が語り合っている。一人は、「鎖につながなくてもいいのに」と言い、もう一人は「のんびりしていいな」とつぶやき、ほかのひとりは、「退屈だろうな」と溜息まじりの声をあげている。「犬が寝そべっている」という同じ状況でも、人は三者三様の受け取り方をしている。最初の人は、自分自身が何かに縛られていると感じているのかもしれず、第二の人は、日々仕事に忙殺されているのかもしれない。第三の人は「自分は退屈だ」と言っているのかもしれない。三人がみているものは「犬」なのであろうか、それとも「自分自身」なのであろうか。どちらともつかない中で、人間は実物をつかみ損ねている。現実のものに直接触れることは絶対にできないのだろうか。触れた時に、私の体に一体何が起きるのだろうか。
「寒いね」と、こちらが語れば、「寒いね」と相手が返事をよこす。それだけで、自分はここにいていいのだ、と感じる。「雪が降らなければいいね」には「そうだね」。「雪が降ったらいいね」にも「そうだね」。そんな会話の中で、人は癒されていく。理路整然とした講義は、冴えた頭で聞けばいい。そんな場を離れぼんやりと、とりとめのない会話をする。それが人の精神をほぐしていくのだ。そこには、正も悪もなく、一貫性も散文的なものもなく、時間・空間を飛び越えて、話は宇宙の果てに達する。そんな話を語り続けることで、心は晴れ、ふたたび理路整然とした世界に戻っていけるのである。
人は、だれかが共に喜んでくれることで、はじめて自分の喜びを実感できるのである。自分一人で喜んでいても、張り合いはないので、人は共感してくれる相手を必要とする。人はいつでも誰かに聞いてほしいし、よかった、と共感してくれる相手がそばに居ることを望んでいる。ところが、相手に語った瞬間、それがどうした、などという返事に出会うと、話すのではなかった、という後悔の念だけが残る。誰かが喜んでいたら、一度こちら側の価値観を捨てて、相手に共感してあげることが望ましいのである。
あの人は思いやりがある、ない、といった評価を人は下しがちである。たとえば、食べ物。子どもが何を飲みたくて、何を食べたいかは、本人に聞かなければわからない。そこで聞く。そこで対話が生まれる。ジュースでも、リンゴかグレープかを逐一聞いていかなければ、本人の所望するものはわからない。極端な場合、今は飲みたくないという場合だってありうる。親があなたはバナナが食べたいだろうから、と出されれば子供は食べるだろう。しかし、本人は違うものを食べたかったのかもしれない。何も出さないでいると、非難される。その非難を待つことだ。そこで聞く。それで対話が始まる。みずから所望したものが出されることで、親子の会話が始まるのである。
飛行機に乗っているとき、真ん中の席に座らされて、席を立ちづらくなることはないだろうか。そんなとき、日本人は隣の人に立ってもらうのに遠慮して、「これだけ我慢している私の心境を推し量って下さい」と、はかない期待を抱きながらが我慢している。「周囲の人はなぜ自分の心境を推量してくれないのか」と感じ、我慢の限界に達した時、イラついた声で「すみませんが!」と声を荒らげてしまうらしい。外国の人はそんな時、なぜ、日本人は言わないのだ、言ってくれれば、席を立つことなんぞ、たいしたことではない、と考えるという。日本人も、そろそろ自分の考えを言うべき時に来ているのではないだろうか。
同じものを見ても、ある人にとっては価値あるものが、別の人にとっては何の価値もない、ということがある。見た瞬間にその品物の価値を見出す人と、まったく目に入らない人とがいる。ブランド品に興味がなければ、有名なロゴマークを目にしたところで、刺繍があるな、くらいにしか思われないだろう。反対に、ブランド品に興味のある人は、そのマークが目に飛び込んでくるように感じられるはずだ。「見出す」とは、自分の興味を見出すことである。街を歩いていてふと目にとまる看板こそ、自分自身を見出しているのであり、雑踏の中に友を見出すのも、自分が関心を向けているものを見出していることになるのである。
この世に生まれて最初につけられる名前こそ、自分の運命を指し示している。「あなたはこういう人生を歩みなさい」といわれたようなものである。それも、本人の承諾も得ないところで。子どもは自分を規定することができないので、とりあえずその名前で行こうと考える。それが名前の由来である。それを聞いた子どもは「ああそうか」と、いくらかの安心を得るが、次の問いが発生する。名前の通りに生きるとはどういうことか、と。やっきになって彼らはその見本を探し求める。そこで、両親の姿の上に、自分の名前の実現をみようとする。例えば、「安」という字を名前に与えらた子どもは、「安」を正確に生きる生き方を親の行動にみようとする。それによって子どもは「安」の生き方を実現しようと努めるようになる。その中で、子どもは「安」の字を自分の心の中に登録していくのである。
子どもが言葉を覚え始めたころ、周囲の人は「○君は何歳?」などと聞く。すると子どもは、○君は二歳、などオウム返しに答える。その子がある時から「ぼくは・・・」と答え始める。子どもが「ぼく」と返せるようになったことに大人たちは驚きもし、子どもの成長を喜べるようにもなる。考えてみれば、これはすごいことなのだ。名前で呼ばれて、「ぼく」で答えるという変換作業をし始めたのである。彼らは、大人たちの会話の中ですでに学んでいるのだ。言葉を駆使し始めた瞬間である。その決定的瞬間に立ち合えるのは親だけである。それを味わえることこそが、育てる喜びではないだろうか。
職場などで、突然、「ファイト出そう!」と声をあげたり、ジョークを連発して周囲を笑わせたりする人はいないだろうか。周りの人はそれによって少しは和むかもしれないが、どことなくそぐわない感じが残る。このとき、周囲の人は仕事に集中しているのかもしれず、作業のコツをつかんで順調に仕事が進んでいる場合だって考えられる。自分たちはファイト出していますよ、と心の中で呟いていることもあるだろう。したがって、声を出している人は、自分自身に向かって言っていると考える方が自然なのかもしれない。
子どもが何らかの成果を出した時、その成果は当然本人の努力のたまものである。ところが、周囲の人は「やっぱりあの父母の子供だから」といった評価を下しがちである。大学に合格した場合などは特にそうである。反対に、トンビが鷹を生んだ、などという表現もしたりする。いずれにしても、子供自身の努力がわきに追いやられて、両親の名前が前面に押し出されている。そのとき子供はこう考えるだろう。「僕の努力は一体なんだったのだろう」と。その瞬間、子供の主体はこの世から排除されたも同然である。本人の努力はあくまでも本人に帰すべきだ。それによって子供は、頑張った自分がこの世にいる!という実感を手にすることができるからである。
愛用のペンで文字を書くように、自分の言葉が正確に相手の心に記録されたらどんなに気持ちが晴れることだろう。赤いペンで書けば赤い文字が、黒いペンで書けば黒い文字が現われ、青の場合は青にというように、正確無比に書き写されたらいいのにと思う。その一方で、相手の話が何を訴えようとしているのかが分からないと感じることもあるかもしれない。自分の思いも相手に伝わり、相手の話にも納得が行く・・・などと言う幻想を抱きながら、私たちは毎日を暮らしているのかもしれない。 その願いが叶うときは来るのだろうか。
人はしばしば「無意識に買ってしまった」とか、「間違えた」などと言う。考えてみれば、私たちが普通に語っている言葉も、無意識が喋っていることが多いのである。「つい口がすべって」などと弁解するのがその辺の事情を物語っている。人が自分では気づかないうちに相手を傷つける言葉を言ってしまうのも、無意識である。自分では知ることができないもう一人の自分が勝手に語っているのである。一度口に出したらもう止めることはできない。相手を傷つけるのではなく、人を癒し、元気を与える言葉を持つにはどうすればよいのだろうか。
多くの人は、好きなことは後にして、苦しいことを優先してやるように、と言われてきたのではないだろうか。いつしか、好きなことは罪と人は受け取るようになっている。遊んでいても心から楽しめない、こんな事をしていていいのだろうか、という思いが頭をよぎる。そこで、刻苦勉励のフリをして両親を喜ばせる、というスタイルが完成する。その連続の中で、苦=快、楽=不快、と体が受け取るようになっていく。そうすれば、周囲の評価が高まるからである。その反面、心は疲弊する一方となり、ある日突然、頭痛や腰痛におそわれたりする。どちらが苦で、どちらが楽なのか、自分でも判断できない地点にまで来てしまう、それが心身症である。
あるスポーツ選手の父親で、監督も務めている人がテレビ番組で述懐していた。「子どもが試合で戦っているときは、親も一緒に闘っているようなもので、試合終了後は自分もぐったり疲れるのです」と。人が人と同じように抱く感情を共感という。子供ががんばっている姿を、軽い気持ちで見る親はまずいないが、子供は親に共感して欲しいのである。反対に、苦しくないはずだ、と親が言えば、子供は一体感をそがれることになる。親が一緒に居てくれて、感じ、同じ時を共有してくれたという体験が、自分は生きていていいのだ、ここに居ていいのだ、という共生の感情を子どもの心に芽生えさせることだけは事実である。
私は◯だから、いい加減な人だから・・などと、人は自分のことを否定的に語る。相手は「そんなことはない」とその言葉を打ち消しても、相手はなかなか納得しない。自分がそう思っているのだから、そう感じていることは確実だ。慰めや否定の言葉も通用することはない。かといって、すごい、素晴らしい、という褒め言葉を求めているようにも見えない。否定も肯定もできないとき、聞き手はどう対応すればよいのだろう。語りを中断することなく聞き続けるにはどうすればよいのだろうか。その答えは、その語りの中に隠されているのである。それをピックアップすることが傾聴である。
つまらないものですが・・という言葉を添えて、人は贈りものをする。「謙遜」を昔から私たちは教わってきたからだ。さすがに「まずい」ものですが・・とは言わないが、大人はともかく、子どもたちが聞いたら、まずく感じるだろう。同様に、あの子とは付き合うな、などと言われた子どもは、その子をそういう目で見ることになる。親が子供に対して、先回りした評価を与えることは百害あって一利なしと心得なければならない。
スポーツの試合などで、実力が十分に発揮できないことがある。反対に、試合前には出せなかった力が本番で発揮されることもある。こうしたとき、本番に強い・弱いという評価を人はする。同じ選手が実力を発揮したり、しなかったり、力を出す・出さない何かが本人の無意識に存在していることが考えられる。出すには出す理由があり、出さないには出さない理由があるのだ。本人は無意識的に出さないことを目指していることになる。その理由を理解し、対処すれば無駄な労力を使わなくてすむというのに。
人はいつのころからか、誰よりも高く、誰よりも速く、一点でも多く点数を獲り、飛び、走れと教えられてきた。それがよいことであり、周囲を喜ばせることだった。ちょっと違うのではないか、と思いつつ、いつの間にか相手と比べながら生きてきた。それどころか、誕生日が一日早い、遅いということを相手を判断する材料にしてきたかもしれない。生まれた時の体重が兄や姉に比べて云々・・・われわれは誕生した瞬間から競争社会に組み込まれているのだ。学校の成績が振るわなくても、一芸でもあればまだしも、それも見つからない人は何を支えに今日まで生きてきたのだろう。それが自己愛だとすれば自分のそれは一体何なのだろうか。