欲しいもの
多くの場合、人が自分で抱えている欲望については自分でも判らないでいるのだ。遊びたいのに、諸般の事情で叶わないという場合、遊びたいという欲望は思い浮かびもしないだろう。彼らは口々に訴える。「私が欲しいものは何だろうか」と。自分でも判らないのだから、他人にも理解することは不可能だ。しかし、本当の欲望が語られる時がある、それが夢の場面である。夢分析はこうしてフロイトによって行われるようになったのである。
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多くの場合、人が自分で抱えている欲望については自分でも判らないでいるのだ。遊びたいのに、諸般の事情で叶わないという場合、遊びたいという欲望は思い浮かびもしないだろう。彼らは口々に訴える。「私が欲しいものは何だろうか」と。自分でも判らないのだから、他人にも理解することは不可能だ。しかし、本当の欲望が語られる時がある、それが夢の場面である。夢分析はこうしてフロイトによって行われるようになったのである。
人はつまらないことでくよくよする。他人から見たら「そんなこと」であっても、当人にとっては重大事項である。道を間違えた、意外な出費を余儀なくさせられた、買ったセーターが予想外れだった・・そんな不満も貯めておけば山となり、思考の妨げとなる。どうしたらその妨げを取り除くことができるのか。それは人に聞いてもらうことである。それも、100パーセント理解してくれる人にのみ、という条件つきである。聞いてもらうだけでスッキリする。そのごみをうまく処理すれば語り手も聞き手も傷つくことはない。取り除けば自分の本当の欲望が見えてくるからである。
人はほとんどの場合、真実を語ることはない。それは、道徳観、常識、倫理観がじゃまをしているからである。このじゃまがなければ、人は言いたい放題の鼻もちならない人間になることだろう。反対に、三つが強すぎると、うつになってしまうのだ。節度が大事である。「勉強が嫌い」と訴える代わりに頭が痛くなったり、休みたいと言う代わりにお腹が痛くなるという真実にわれわれは接している。それらの真実の言葉は、どこかに書き込まれているのだ。それらの文字をよむ、これが精神分析である。
人間の心の中は、言いたくても言えないことがいっぱい詰まっている。言えることは差しつかえない話に限られる。その何倍、何十倍もの言えないことが、人間の心にごみのように溜まっている。放出しないでいると、イライラしたり、叫びたくなったりする。これが身体化である。そこで誰かに聞いてもらうことになるが、やはり、一番言いたいことは言えないままだ。相手が近親者、同業者、同僚の場合はなおさらである。こうして人は毎日、言えない話を抱えたまま帰宅する。自由に放出する方法はないのだろうか。
人には、やりたくてもできないことがある。その一方で、したくもないのにしてしまうこともある。したくないのなら、いっそやめてしまえばいいのに、と他者は思っていても、やっぱりやめることはできないのだ。タバコやお酒などがその代表。家族も本人もやめたいといっているのにやめようとはしない。やめよう、と決意したらやめることができ、しようと決意した途端にできる、そんなことができたら、どんなに幸せで、世界も平和になるに違いないのに。
人が何かを発見したとき、誰かにそれを伝えたくなる。聞いてもらいたい欲求である。とるにたらないような話でも、当人にとっては大発見かもしれない。そのとき誰かが、「そうですか」と真摯に聞いてくれた瞬間、本人の心のなかで、自分と言う存在が現れるのである。聞いてもらわない限りは、私という人間は存在しないのだ。それほどまでにわれわれの存在は危ういものである。切れかけている蛍光灯のように、明滅を繰り返しているのが人間だ。人が輝き続けるためには、発見の話を誰かが聞いてあげなければならないのだ。
人の心は、欲望をもち始めた時に動き始める。喉が乾いたから飲みものを買い求めるように、欲望が発生しない限り、人は動こうとはしないのである。大人は自分のお金で欲望を満たすことができるが、子どもは自分の欲望を満たすために、親に訴えることになる。自由に訴えられる子どもはいいが、それができない子どもは「欲のない子」として親の目には映るだろう。この子は、欲のない人生を歩むか、取り返そうと、買い物に走る人生を歩むかのいずれかになる可能性は高いのである。
人は嫉妬という感情を抱く。ファッション、食べもの、持ち物・・嫉妬心を抱いたまま町を歩き、疲れきっている自分がいる。誰かが白いセーターを着れば欲しくなり、他人のシャツを見てはまた欲しくなる、それが人間ではないだろうか。思い切って買ってはみたものの、もっと安く手に入ったのではないか、縫製が違うのではないかなどと想像して、永久に満足を得ることはない。そんな嫉妬心を克服する方法はないのだろうか。
人から相談を受けた場合、多くの聞き手は対応策を考えようとするのではないか。相談者は現況を脱出するための方法を知りたいのではないかと、聞き手が考えてしまうからである。そこで相談を受けた側は、これはどうか、あれはどうかと、自らの経験・知識を総動員して、アイディアを出すことになる。「散歩はどうですか?水泳やスポーツジムもいかがですか…」といった風にである。ところが、質問者が求めているものは、実はそのようなことではない。では、最初から本心を語ってくれたらよいのに、と思いがちだが、人はいきなり本題を出さないことを、我々は経験として知っている。阿吽の呼吸で聞いてあげることが大切ではないだろうか。
人と会話するのが苦手、という人も多い。人との会話が続かないのだとも訴える。上司からも、もっと会話して質問をするように言われているが、その方法が分からないというのだ。話題が少なく、人への関心も少ない人の訴えはこうした会話の場面でつらくなるのだ。一般的に日本人は会話をするのが苦手である。幼いころから、先生の教えを聞くだけで、質問のチャンスは極めて少なく、受験を前提としているから、本音の質問はしづらいのが実情であった。その彼には、会話の仕方を教えるのではなく、質問を要請してくる人の真意を伝え、話をつなげていく道筋を伝えたところ、「そんなことでいいのですか?」「そんなことで話がつながるのですか?」というので、「やってみてはいかがですか」と答えたのである。
役所で判を押してもらうことで、その実効性が保障されるように、人は自分の話に同意してもらったときに、承認を得たように感じる。話を聞いてもらえたことで安心感を得るのだ。「桜が咲き始めたね」という自分の言葉に対して「そうだね」と言ってもらう、ただそれだけのことでいい。人に同意してもらえたか、もらえなかったかの差は大きい。朱い判を押してもらった気分だ。子どもたちは、みずからが発見したことを、逐一母親に報告する。虫が飛んでいた、誰かが公園に居た、あれが欲しい、これが欲しい、学校に上がったら、中学生になったら・・・などを聞き続けるお母さん方は大変である。その話に同意してあげること、それによって、自分という存在が浮き上がるのである。これが存在証明だ。聞いてもらうだけでいい。批評やこちらの意見は不要だ。判をただ押すように、黙って聞いてもらいたい、それが子どもたちの願いではないだろうか。
人間の慣れには、良い面と悪い面とがある。右側通行するのも慣れであり、こうしなければならないなどと考えることなく歩いている。仕事上、叱られてばかりでは、精神が壊れてしまうので慣れることもある。それが自我防衛機制である。それで心の平安はいっとき保たれるが、気がついたら、体に変調をきたしていた、ということもありうる。それに気がつくのは、部署の移動などで環境が変わった時だ。その時初めて、今までの生活は何だったのかと気がつくのである。その差を知った時、人はその時の自分自身の対応を思い出すことになるのである。
会話の中で、相手と意見が一致したと感じることはあるだろうか。仲間と一緒にカレーを食べるとき、ある人は大皿、別の人は普通盛り、またある人は違った種類のカレーを、それぞれ連想しながら食しているのだ。自分のイメージと違うなと感じていても、「カレーには違いない」と呟きながらカレーを食べているかもしれない。その一方で、人それぞれに、「これでなければならぬ」というものを、人は一つずつ持っている。それを「こだわり」という。みなさんのそれは一体何なのであろうか。
食事の場所などを選ぶ際、何を基準に選んでいるのだろうか。店構え、メニューの写真、フィーリング、清潔さ…五感をフルに働かせて、店に入るのではないだろうか。自分で決められない場合、多くの人はスマホなどの情報に頼っているようだ。スマホに掲載されている、というだけで、裏付けがあるかのように感じられるからだ。自分の感覚で選択してあてが外れてもよいのではないか。自分の経験のひとつとして感覚を養う絶好のチャンスにすればいいのだ。傷付きたくない人は、スマホにあったのだから…という口実に使っているのかもしれない。レストラン選びにかぎらず、ファッション、家具、パートナー選びまでスマホ任せ、ということになったとしたら考えものである。自らの考えで選択する習慣を身につけたいものである。自らの感性を磨き、自己責任で選び、あえて挑戦する、それに尽きるのではないだろうか。
完璧な子育てで育てられた人などいないだろう。そんなふうに育てられたら、どんなに窮屈なことだろう。完璧とは多くの場合、親にとってのそれなのであって、子ども自身の目指す完璧ではないからだ。子どもにとって、何が完璧で、何が自分の本当の願望なのかについては分からずじまいだからである。そこで子どもは、とりあえず親の目指している「完璧」を目指そうとする。この学校に行けば親は喜ぶだろう、この仕事につけば、親にとっての完璧が完成するだろう、といったふうにである。ところが、いつのころからか完璧を目指すことに疲れてくる。それが思春期である。そんな時、完璧とは何かについてじっくりと考えさせることである。しゃべらなくなり、部屋に閉じこもる。蝶になる前のさなぎの段階である。そんな時、周囲の人たちは、口出しせず、しゃべることを強要せず、そっと見守ることに徹することである。いずれ、自分で答えを見出し、語るようになるからである。そんな時期があることを受け入れてあげる度量が必要だろう。
家族旅行などの場合、家族の一人ひとりがそれぞれ行きたい場所を主張する。海だ、山だ、ホテル、旅館・・・すべてを叶えられるわけではない。そんなときに活躍するのが父である。それらの意見すべてに耳を傾け、公平・中立・無個性の立場で聞き続けることこそ、父の役割である。平素は影の薄い存在であったとしても、発揮されるべきは父性である。感情を出さず、言葉でまとめていく力が求められる。父は自分の父親がそんなとき、どう対応したかに思いを致すことになる。子どもたちの誰彼に味方することなく、早く決めたがる母親にもうまく対応しつつまとめていく父の姿に自らを重ね合わせて対応していくことになるだろう。それに成功したとき、家族は父を父として認めることになるのである。
人がオシャレするのは、自分の一番良いところを知っているからである。きれいなネックレスをしたり、指輪をしたりしている場所こそ、自分の最大のチャームポイントだ。それはもちろん無意識的なので、ある時は耳に関心を示し、またあるときには目元をよりきれいに見せるための工夫をしている。欠点を隠そうとするのではなく、美点を美点として際立たせること。それによって、欠点と思われたものは目立たなくなり、やがては消滅していくのである。
私たちが食事のメニューを決める時、なにを基準にしているのだろう。ある人は、テレビで宣伝していたものを注文するかもしれない。またある人は、友人の薦めたものを買って来るかもしれない。子どもたちが一日中、あれを買え、これを買えと言ってやまないものは、友達がすでに所有しているもの、あるいは、買いたくても買ってもらえなかったものもかもしれない。そう考えると、大人になってから買っているもの、収集しているものは、子ども時代に得られなかったあるものを、取り返そうとしている可能性が高い。そうなると、私が本当にほしいものは一体何なのだろうか。
人間は、自分のことを正確に知る手段に欠けている。例えば、自分の後ろ姿。どんなに工夫しても、自分の後ろ姿を見ることは不可能である。ただ「こんな具合なのだろう」といった程度にしか、われわれはわれわれを把握することはできないのだ。そこで人間は鏡を発明した、にもかかわらず、われわれは何としても自分自身を知りたがる生物である。そこで、今度は他者が鏡になる。その他者が、「あなたはこうだよ」などと正確に自分を言ってくれた瞬間、「それが私?」と驚きもし、愕然とし、がっかりさえして、「いや違う!」などと否定することになる。それが、相手の話を聞かない状況だ。それがいつの間にか習慣になってしまい、肝心の話まで聞き入れなくなってしまうことになるのだ。その差をどのように埋めればいいのだろうか。
子どもが悩みを抱えることなく成長していくには、両親の意見が一致していることが大切である。両親の一方がスポーツ系で育てよう、もう一方の親が文科系で育てたいと言えば、子どもはどちらの肩も持てずに、悩みを抱えたまま成長することになる。「これでいいのだろうか、母は文科系と言っていたけれど…」と言うふうに。そのことに専念できなくなるだけでなく、成長してからも、一方の両親に気兼ねしながら生きていくことになる。その考えは、無意識下にしまいこまれ、もう一方の親に対して「罪悪感」を抱くことになる。たとえその道で、成功したとしても、「こっちの道もあったのではないか」という考えが頭をよぎることになる。どちらか一つに統一しておくこと、それが両親の役割である。
人は、いつも人の目を気にしながら生きている。こんな格好では笑われるのではないか、遊んでいると思われるのではないか、こんな事をしていていいのだろうか…ところが、立場が違うと、同じ人が、いっこうに人のことなど気にしていない、ということもある。すなわち人は、幻の「誰か」を向こう側に立てて、その幻に見られながら態度や服装を決めていることになる。これがイメージである。イメージは、車の運転をしているときなどに、タイヤがうまくコーナーを曲がるかどうかをイメージしてハンドルを切っていても、タイヤなど見てはいない、あの状況である。あくまでも頭の中で、経験と、勘を頼りに操作しているのである。そのイメージが本人よりも多くなるのが、人の目を気にする、という状況なのである。私という人は一人であっても、イメージはいくらでも増殖してしまうのだ。そう思いながらも、今日もまた、これが似合うだろうかなどと考えながら春の洋服を選んでいる自分がいるのではないだろうか。
私たちが抱いている思いは、自分で思っているだけでは相手に伝わらない。自分から語らないかぎり、何も理解されないのだ。両親から「私がどんな思いであなたを育てたか」などと言われても、自分としては、返事のしようはないのだ。親の背中を見ただけでは学べないようになっているのだ。私はこう思っているが、あなたはどう考えているのか、といった具合に対話することでしか、相手を理解することはできないのである。日本人は、相手の心を読め、とか、思いやるのが常識だ、などと教わってきた。相手が何を欲しており、どうしてほしいのかは、本人に聞かなければわからないのだ。問題は、そこに感情が介入してしまうことではないだろうか。
子どもたちは、褒め言葉を生き甲斐にして生きている。「よくやったね」の一言を聞くために毎日暮らしているようなものである。褒め言葉のない人生は、虚しく、よろこびも楽しさも感じられない日々である。学校に行く目的も、塾や習い事に通う意味も見いだせず、ただ時間に追われる毎日だ。追われないと動けないので余計に元気がなくなるという悪循環の中で暮らしているのだ。反対に褒め言葉のなかで、彼らは生きる意味を見いだし、自らすすんでその場にいくことになるだろう。そこで彼らは活力を得、まなざしにも体にも生気がみなぎるようになる。褒め言葉がすべて、と心得ることが大切である。どのようにしたら、褒め言葉が言えるようになるのであろうか。
人はなぜ相手の話を聞き入れないのだろうか。「今日は寒いね」に対して、「寒いね」と言ってくれるだけでいいのに。多くの場合、相手から「そうでもない」とか、「昔はもっと寒かった」あるいは、「北国では・・」などといわれるのがおちである。かと言って、「いえ、私はただ寒い」と言いたかっただけ・・などと本音を言う人はまずいないが、「それなら言うな」などと言う声が返ってきそうなので、言った側はただうなだれて相手の話を聞くだけとなる。こうして人は人と会話することが苦痛になっていく。そこで人は、自然に触れにいく。 自然はただそこにあるだけで、語らないからである。山懐に抱かれて、人は癒され、生き返り、生まれ変わっていくことができるのである。遠くに行くことができない人は、ただ黙って耳を傾けてくれる相手を見出せればいいのである。
仕事が終われば「お疲れ様」と言い、育児に一生懸命いそしむ妻には、「一日大変だったね」とねぎらいの言葉をかける。それが会話の始まりである。男は働くのが当たり前であり、子どもを欲しくて産んだ、にもかかわらず、である。「そう、大変だったのよ」と返されたら、「何があったの?」「どうだったの?」と聞き返す、ここから会話が始まっていく。ねぎらいの言葉は、相手から言われた人だけが言えるのであり、言われなかった人は、その言葉を知ってはいても言えないのである。人間はされたことを繰り返す生き物。川崎で事件を起こした高校生は、親から裸にされた経験をもっていた。当たり前と知りつつも、温かな言葉をかけたいものである。
クッキーを家族で作る話も耳にする。作るに際して、材料を吟味し、捏ね、寝かせ、延ばして型で抜く。いずれも細心の注意と、何よりも熱意が必要だ。その熱意はどこから来るのだろう。そこにあるのは、食べて欲しい人への思いではないだろうか。愛しい相手が一口食べてくれた瞬間に、自分自身が受け入れられたという実感を得るのではないだろうか。さらに、相手の「美味しい」という言葉が加われば、自分は認められたのだ、自分はこの世で必要とされているのだという実感を得ることになるだろう。そうした心の交歓を交わしながらクッキー作りに励む。それによって、手作りの味もひとしおに感じられることになるのであろう。
記憶力に差はあるのだろうか。あることに関してはすぐに覚えるのに、他のことはさっぱり記憶できないということもある。例えば、人の名前と顔が一致しない場合、その人のことが嫌いなわけではないのに、なぜか思い出すことに困難を憶える。大好きだったガールフレンドの名前を思い出せない、恩師の顔が思い出せない、という例もあった。反対に、嫌いな人の顔や名前が忘れられないということもありうる。その差は一体何なのだろうか。忘れたい理由もないのに。
人間にとって、心が100%満たされるとはあるのだろうか。あるとすれば、それはどんな時だろうか。私たちが心から「満たされた」と感じるのは、ほんの一瞬である。お腹一杯に食べた次の瞬間には、もう空腹に向かって時は進んでいく。もし、満腹感が続いたら、期待感や、明日への喜びを感じることはないだろう。むしろ、満たされることがないからこそ、もっとおいしいものを、違ったものを・・というように、欲望の連鎖が続くのではないだろうか。永遠に満たされることのない世界にわたしたちは生きているのだ。その意味では大人も子どもも同じである。
「誰とでも親しく会話できる」という人もいる。その人の言う「誰でも」は、意外にも「自分の好きな人」に限られていることが多い。人間のチャンネルはそれほど多くはなさそうである。われわれが接している社会は、意外に狭い。たくさんの人と交流すると、いろいろな価値観が自分の中に入力されてしまい、結果、本当の自分が何なのかわからなくなってしまう可能性がある。「酒は百薬の長」とか、「酒は無駄」と言う声にいちいち惑わされていたら、心はさまようばかりである。自分が確立していれば、一人でいても寂しくなく、ひとたび気のあう友が来れば、自由に語り合えたりもする。これが本当の孤独である。孤独は孤でいながら独立した存在。寂しくはなく、むしろ満ち足りた存在である。
自分の主張が相手に受け入れられなかった場合、人は二つの対処法をとることになる。一つは、あっさりと取り下げてしまう。もう一つは、あくまでも主張する、の二つだ。前者は意思が弱いか、いまだ固まっていないかのどちらかだ。後者の場合、意思強固と受け取られる場合と、頑固ととらえられる場合とがある。意志強固と、頑固はまったく違うのだが、厄介なことに、感情が介入してくることが問題だ。主張の最中、本人が激昂してしまうのが相手の心象を害してしまうケースである。それを出さずに言い続けること、それが大人の振る舞いとして大切なことである。
日本人は自分の考えをストレートに言うのが苦手である。自分を主張しないことが美徳とされ、「ああして欲しい」、「こうして欲しい」という、自分の要望を言うことは、ほとんどの場合否定されてきた。したがって、自分の意見を出す前に、相手はどう思っているかを斟酌して相手に合わせることに腐心してきた。ときに自分の要望を相手に伝えようとしても、「もしも無理なら・・」と、あらかじめ却下されることを前提とした説得の仕方をするので、本人がそれを欲しているかどうかが一向に伝わらないというケースが多い。ぜひこれこれのことをして欲しい、という自分の意思をハッキリと言うことが相互理解の始まりではないだろうか。
母親は、仕事に追われる毎日を送っている。食事の支度、後片付け、洗濯、掃除・・その間隙をぬうように子どもたちが語りかけてくる。答えなければ、こどもは「見て、見て」を繰り返す。仕事の順位一位から何十位のなかで、彼らの要望をどこに入れるかが問題となる。今手にしている作業の前に入れるか、あとに入れるか・・母親は頭をフル回転させる。その間も耳で子どもの声を聞きながら手を動かす・・この繰り返しの中で母親は疲れ果てていく。どう対処すればいいのか、優先順序をどうつければいいのか。 それが問題だ。
まなざしには、温かなまなざしと、睨むまなざしとがあるだろう。人が普段それに気づくことは少ないが、他者に出会った時に、まなざしの違いに気づかされることがある。温かなまなざしの人とは、当然楽しい会話ができるだろう。反対に、睨んでくる相手とは目を合わせたくないというのが人情だ。その違いは何なのか。睨む人は、睨まれ続けてきた人ということが考えられる。反対に、温かなまなざしの中で暮らした人は、相手を温かなまなざしで見ることになる。この循環の中で、にらまれた人は相手を威嚇し、温かなまなざしをかけられた人は温かなまなざしを、世代から世代に受け継いでいくことになるのだ。そう考えると、今の自分のまなざしは、誰かのコピーであり、それは確実に誰かにコピーされていくのである。