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2015年4月の30件の記事

2015年4月30日 (木)

忘却

飼い犬が死んで2年が経った。そのとき、家から数百メートル離れた栗の木の根元に骨を埋葬した。大きな竜巻が近隣の家の屋根とともに、その木を根こそぎ吹き飛ばしてしまい、根元に埋めた骨も散らばってしまったである。そこで、桜の木の根元に埋葬しなおした。葉桜のころ、その埋葬地を訪ねてみたのだが、雑草が生い茂り、以前立てた墓標を見つけることはできなっかったのである。天国の犬が、「私はみなさんに十分に可愛がってもらいました。どうぞ私のことは忘れてください。みなさんが過去にとらわれず、未来に向かって進んでいただくために、こうして消えることにいたしました。」と教えてくれているようである。

2015年4月29日 (水)

過去・現在・未来

世の中には、未来を思い描く人と、過去を振り返る人とがいる。過去を振り返る人のそれは、栄光に縁取られた歴史かもしれない、あるいは、否定され、蔑まれ、屈辱の歴史かもしれない。それはそれで生きた証しであることには違いがない。反対に未来ばかりを見つめる人は、空想に生きる現実逃避者である可能性も否定できない。両方を勘案しつつ今を生きること、それが温故知新である。過去ばかり振り返る人に対して、過去を忘れなさいという無駄な説得をするのではなく、過去を想起し、語り、直面した上で未来に向かっていくことが大切である。未来だけを語る人にも、受容的な態度で接すれば、机上の空論かもしれないという自らの無意識に気がついていくものだ。いずれにしても、肯定的態度で接してあげることこそ、相手を成長させ、蘇らせ、目標を達成させる原動力になることだけは間違いがないようである。

2015年4月28日 (火)

無心になる

人は毎日、言葉のシャワーを浴びながら暮らしているようなものである。出かけようとすれば、「クルマに気をつけて」とか、「変なものを買ってこないようにね」などと言われて平気な人はいないのではないか。やっと外に出ると、そこは「今がチャンス」「安いよ」の連呼の嵐である。無事に切り抜けるのは容易ではない。そこで人は自然に触れに行くことになる。そこに洪水も嵐もないことを知っているからである。そこで初めて人は「無心」になれるのである。

2015年4月27日 (月)

趣味

自分で生みだしたものなど、この世に存在しないように、自分が楽しんでいる趣味も、自らが考え付いたものではない。それは、親兄弟、先輩や同僚の誰かがもっていたものである。人は、尊敬する人、大好きだった人の趣味を真似しているのである。趣味を楽しみながら、その人になりきっているとも言える。好きな人と同じ服を着るように、その人の趣味を取り入れようとしているのである。会社の中に、競馬ファンが多いと、いつか感化されて競馬に詳しく、当たり、を趣味にするようになる。宴会が頻繁に行われる会社に居ると、いつの間にかお酒が強くなったりするが、その中でも、やはり尊敬する人の影響が大きい子と名否定できない。氏より育ちと言われるとおり、人は環境に影響されやすいのである。そう考えると、われわれはどんな環境の中で、どんな影響を受けてきたのだろうか。

2015年4月26日 (日)

欲しいもの

欲しいものが手に入らない時、そのものを何とか手に入れようと、人はさまざまな思いを巡らす。いつ、どのように、どこで、誰に相談すればそれが叶うかを考える。その間、人の心は、入手できたイメージと出来ないイメージとの間を揺れ動いて、苦しくも楽しい時間を過ごす。反対に、簡単に手に入れたものには、愛着を感じないものだ。何度も店に足を運び、調べ、比較して手に入れたものには格別の思いが残るのだ。子どもたちが親に買ってもらったものを大切に抱えて歩く姿は、大人の自分の姿でもある。そんな苦労と、入手した喜びの感情の中を行ったり来たりしながら、今日も私たちは生きているのである。

2015年4月25日 (土)

まぼろし

電車のホームなどで一人呟いている人がいる。そばに誰もいなければ違和感を感じるだろう。そばに友らしき人がいれば正常である。そのとき、相手がうんうんとただ頷いてくれれば、人は大いに癒されることになる。相手の語りを否定すれば、語り手の心には不満がたまる。しかし聞いてもらいたい。そういう場合、人は、幻の人をそこに立てて語ることになる。これが呟やきである。人は、いつでも、否定されることなく、自説も言わず、目をそらさず一心に自分の話に耳を傾けてくれる相手を必要とする。切れた電球に向かって「大丈夫か?」と声をかけたり、カラスと会話できます、ということにならないように気をつけたいものである。

2015年4月24日 (金)

批判

人から批判されて喜ぶ人はそうはいないだろう。なぜ喜べないのだろうか。それは、その批判が正鵠を得ていないからである。もし自分のことを正確に言い当てていたら、言われた人はきっと黙ってしまうに違いない。多くの人はこう言いがちである。「あなたは無責任だ」とか「怠け者だ」などと。そう言われても、いつも怠けているわけではないのに、などと思うのではないだろうか。正確に相手のことを批判するためには、相手のことをよく見る必要がある。そのためには、自分自身のことを正確に知ることである。それによって、相手のことも余すところなく見えてくるからである。

2015年4月23日 (木)

比べる

人は無意識的に人と比べていないだろうか。人より一点でも高得点を、一歩でも先に出なくては・・人と比べることで、やっと自分の位置を確かめているみたいに。そのコトが好きかどうかということには関係なく、差をつけようとしていないだろうか。スポーツの世界はこれによってより高く、より早く、より遠くにと進歩してきた。その考えを一般社会や学校に取り入れたらどうなるだろうか。そこにはギスギスした人間関係が生じないだろうか。なぜ比べるのか。数値化した方が分かりやすいからである。個性や好み、人間性や人柄などは判定しにくいが、数字には、万人が納得する力がある。点数や適性検査などで判断しにくいものを、どのようにして見極めていくのか。その方法が対話である。自分はこの仕事をしたかったのか、自分の学校選びは自分の欲望だったのだろうか、本当の欲望がその語りの中で見えてくるのである。その道こそが精神分析なのである。

2015年4月22日 (水)

気づき

自分では分からないことが、人から「こうすればいい」などと指摘されて、気づくことも多い。負うた子に浅瀬を教えられる、のことわざのとおり、他者の言葉に教わることも多い。そのことに気づかされた時、ハッとする人と、否定する人とがいるだろう。どちらも、その事実を受け入れていることだけは確かである。素人だからこそ、分かる、と言うこともあるものだ。そうした言葉に真摯に耳を傾けること、それを傾聴という。それはただ黙って耳を傾ける、それだけのことである。それがなかなか難しい、と多くの人が訴えていることもまた事実である。

2015年4月21日 (火)

想像

人間は、同じ言葉を聞いても、まったく違うものを想像している。犬と言う言葉を聞いて、ある人は自分の愛犬を想像して相好を崩すだろう。ある人は、犬を恐怖と感じるかもしれない。ある人は亡くなったペットを思い浮かべて涙することもあるだろう。そう考えると、人と人とが、同じ思いを共有することはなさそうである。われわれは、何かおおざっぱなモノを伝えることしかできないのである。ここに誤解や意見の相違が発生する余地が生じるのだ。自分の意見など相手に理解されることはない、と言う前提のもとに会話をするしかないのである。しかし、真実は他の場所に書き込まれている、とラカンは言うのである。

2015年4月20日 (月)

心の遺伝子

自分が好き、と言える人はどのくらいおられるであろうか。自分が嫌い、と感じているクライエントの多いことに驚かされる。その起源は、生まれた時点にまで遡る。生まれてきた子が、男(女)の子でよかった、と両親が心の底から感じたかどうかが問われるのである。その答えを、私たちは両親の眼差しの中に必死にさがそうとする。しかし、答えが得られないまま、われわれは大人になり、結婚して子をなす。わが子を見る目は、両親が私を見る目である。可愛いがられた人はわが子をそうした目で見、放っておかれた人は同じようにその目で見ることになる。こうした思いが親から子へ、知らず知らずのうちに伝承されていくのである。心の遺伝子と呼ばれる所以である。

2015年4月19日 (日)

対話

私たちは人と対話している。相手から返事が返ってきたときに、相手の存在だけではなく、語った自分の存在をも感じている。語りかけても返事がこなかった時の、あの何とも言えない虚しさをわれわれは知っている。その虚しさを忘れるために人はしばしば「何だこの人は」などと心の中で言ったりしている。対話の相手は人だけに限らない。町を歩けば、ブツブツ独り言を言っている人もいる。切れた電球に向かって「どうした」と言ったり、自動販売機の前で「何にしようか」などと言っている人もいる。そういう意味では、その世界に居る人と、一般の人となんら変わるところはないのである。その差は、開かれた世界に居るか、閉じられた世界に居るかだけである。閉じられた世界に居させるためには、いったい何が必要なのであろうか。

2015年4月18日 (土)

反発

自分の欲望と、相手の自分への欲望とがぶつかった時に生じるのが反発だ。反発しているときはまだ良い。欲望が存在しているからである。どちらかの欲望を引っ込めれば、平和は訪れるだろう。しかし、欲望が再び頭をもたげてくれば、反発は一層激しくなる。これが続けば、家庭内でのいさかいが絶えず、それを回避するために、子どもが自分の欲望を出さない態度をとるだろう。その子は、育てやすく、欲のない子、言うことを聞き、手伝いをする子として育つだろう。しかし、欲しいものは欲しいという不満がたまり、将来、自分で買えるようになった時、買い物依存症になるだろう。欲望は、モノにとどまらず、生きる欲望、夢をかなえる欲望につながる生命の源である。その道を断つことにならないように、反発をプラスと受け取ることが大切である。

2015年4月17日 (金)

能動性

人に連れていってもらったところは憶えていないものだ。ところが、道に迷い、ぶつかり、立ち止まり、地図で調べ、人に尋ね、やっとの思いでたどり着いたところは一生忘れることはない。親は子どもに苦労させまいと、先回りしていないだろうか。それはそれで平穏な子ども時代を送ることになるだろう。ところが社会に出たとき、あれ?ということになりかねない。こういう人は、指示すれば動くが、言わないといつまでも動こうとしない人間になるだろう。従順で良いかもしれないが、半面、こうした社会には、能動性が失われていかないとも限らない。体も思考も、自ら進んで動くことを妨げないように養育することも大切ではないだろうか。

2015年4月16日 (木)

無意識

人はいつでも、自分と出会い続けている。本屋の棚を見たとき、目に飛び込んでくるのは、自分が関心を抱いている本だ。たとえば、犬の本だけが目に入ってくるのは、現在、犬に興味があり、そんな自分が今居るという証明である。それ以外の本は、あって無きが如き存在である。本に限らず、ファッション、食材、道具、家具・・・そこに自分の中の無意識が働いているのである。そう考えると、人に対しても、自分と同じものをもった相手しか認識できないことになる。自分はあの人が嫌い、と思っていても、そういう相手しか目にすることはできない。こうして、人は常に無意識の影響を受け続けているのである。それが言語化することができたら、どんなに幸せなことであろうか。

2015年4月15日 (水)

思い出

思い出という郷愁をわれわれは抱く。その中味は、楽しい思い出、成功談などのほかに、苦しい思い出、いじめられた、失敗したなどの記憶も収められている。われわれはそれらをときに思い出しては、そこに自分の存在を確かめている。思い出せる記憶は、言語によってファイルされているので、言語以前の記憶は思い出すことはできない。わずかに人の語りによって自分を見いだすしかない。他者の語りに「可愛かったよ」がありながら、その実感がない、という場合、「可愛かった」、と思い込もうとしている自分もいる。この葛藤が神経症を生み出すきっかけになっている。この、どっちが真実?という問いかけに終止符を打ちたい、でも打ちたくない、という自分もいる。みなさんはどちらであろうか。

2015年4月14日 (火)

思いやり

温度感覚は、人によって違う。ストーブをつけているにもかかわらず「寒い」を連発する人もいる一方で、冬の電車内で汗をかいている人もいる。「今日は寒かった」とだれかが言ったら、聞き手は「そうですね」と答えることでよい。この場合、そうでもない、とか、自分はそう感じない、と聞き手が言えば、語る方は話の腰を折られることになるだろう。重要なことでなければ、相手に共感していくことが大切である。会話をスムースに進めるためには「己を虚しく」することである。話し手の話のきっかけを作ろうとしている意図をくむことだ。それを思いやりと言うのである。

2015年4月13日 (月)

徹する

精神分析の対象は言語である。言語がすべてと言っても過言ではない。分析家はひたすら「聞く」ことに徹する。あるクライエントは、カウンセラーに相談を持ちかけたところ、反対に説教されて、余計落ち込んだ経験をもっている。人に相談したら、相手の自慢話を聞かされてしまう、あの体験である。クライエントを励まそうとするあまり、自分のことを持ちだしてしまった例である。逆効果しか生まないのだ。聞く時には聞くことに徹する。それだけで、語り手の心は癒されるのである。

2015年4月12日 (日)

プレッシャー

プレッシャーに強い人と弱い人とがいる、その差はなんだろう。同じ状況に立たされても、ある人は人並み以上に力を出すことができ、別の人は、萎縮して十分な力を出せないままである。ある人は「自信をもて」などと言うが、それがまたプレッシャーになる。「力を抜け」という言葉も意味不明だ。プレッシャーに強い人は何を言われてもプラスの力に変換する能力があるらしい。その差はどこでついてくるのだろうか。それは、プレッシャー=快と感じる経験にまでさかのぼる。それは言語以前の時代の経験なので、われわれはもはやそれが何なのかを口にすることはできない。三つ子の魂百までと言われる体験が、今の私たちの精神構造を作っているのである。

2015年4月11日 (土)

放出

人はなぜ、イライラするのだろうか。それは、自分が抱えている不満を放出できないからである。歌を歌う、運動するなど、それを放出するすべをいくつかもっていることが健康のためには良いのだ。その方法を学習しなかった場合、誰彼に不満をぶつけたり、モノに八つ当たりしたり、暴言を吐くなどの行動に出る。逆に仕事に打ち込むとか、じっと我慢するなどの方法をとった場合、不満を一層内側に溜め込むことになり、やがて病気や怪我などの症状として外に現われることになる。前者の場合は、人を不快な気分をさせたり、怪我を負わせたりすることになる。後者の場合は、自分を八つ当たりのターゲットにすることになる。いずれにしても不満をため込まないことが、精神の健康のためには欠かせない方法なのである。

2015年4月10日 (金)

人間は、自分についての知を得ることができない構造になっている。もし自分のことが全部分かっているなら、戦争もいじめもなく、就職、結婚などにつまずくこともないはずである。しかし現実はそうではない。むしろ見えないからこそ、安穏として生きていけるのかもしれない。ところが、本当の自分に出会うことが一日のうち一回はあるのだ。その瞬間、ハッとしたり、うっとりしたり、がっかりしたりしている。そんなことにも気付かない私たちがいる。

2015年4月 9日 (木)

「子どもが嘘をつき始めたのです」とお母さんが打ち明けたときには、「良かったですね」と答えることにしている。子どもが内と外を使い分けるようになったからである。嘘を、いつ、どんな時についたらよいかを学習しはじめた証拠である。大人にたとえて言えば、人から「家族の皆さんはお元気ですか?」と聞かれて、嘘偽りなく答える人はまずいないだろう。そんなことをすれば、物議をかもしだすだけである。反対に、家族は幸せ家族で…と答える人もまずいないだろう。日常生活において、真実を語ることはないのだ。真実が語られる場所は、たった一か所だけである。

2015年4月 8日 (水)

自分

自分を主張することに、多くの人は困難を覚える。それが顕著に表れるのが、断ることである。人はその事に罪悪感さえ抱く。その理由は、相手の好意を無にしてはいけないという道徳観を植え付けられた結果かもしれない。例外があるにもかかわらず、いつの間にやら、断るな、という強迫観念に縛りつけられていないだろうか。自分の考えをただ伝えるだけでよいのだが、よい人でありたいという心理が強いのだろう。相手の考えと自分の考えを対比させつつ、自分を通すことが大切だ。それには、自分の考えが否定されず、実現化した経験が必要である。それこそが、家庭でオールOKされた経験である。

2015年4月 7日 (火)

居場所

人はそれぞれの居場所をもっている。学校の教室で座る席などどこでもよさそうに見えるが、子どもたちにとって自分だけの居場所があるのだ。そこが自分であり、愛着の場所なのだ。社内での席、お茶を飲む席、どれもがここでなければならないと言う居場所があるのだ。子どもにとってのそれは家庭であろう。家庭が居心地の良い場所にしてあげることで、子どもたちは安心と安全を味わう。そこでは何をしてもよく、何を語ってもよく、自由を満喫できるのだ。そこで子どもたちの心は解放され、創造的になって行く。皆さんにとっての居場所はどこであろうか。そこで何を考え、何を味わっておられるのだろうか。

2015年4月 6日 (月)

感情

われわれは、せせらぎの音で心をいやし、満開の桜を見ては、春の訪れを感じたりする。人間の心の中には、モノと感情がセットになってしまいこまれている。それらを分離して取り出すことができないようになっているのだ。その感情は一人ひとりみな違うので、同じものを見ても、人それぞれまったく違う感情を抱くことになる。同じ桜を見ても、ある人は吉野の桜に比べたらねー・・・などとのたまい、花より団子とつぶやく人もいるかもしれない。同じ感情を共有することなど夢のまた夢なのである。もし誰かが桜がきれいだ、とつぶやいたら、そっとうなずくだけでいいのかもしれない。

2015年4月 5日 (日)

好き嫌い

趣味や嗜好品の好き嫌いの原因はさまざまだ。チョコレートが大嫌いというクライエントは、小さいころから、いくら食べても否定されなかったのだが、今では大嫌だという。その理由もすぐに判明し、今では普通に食べるようになったと言う。子どもたちが、ニンジンやピーマンを嫌いになるわけもちゃんとあるのだ。反対に、好きと思い込んでいた仕事や趣味が、実は家族のために仕方なくやっており、つらさや苦しさを「好き」と思いこむことで隠していた可能性もある。周囲の勧めで進学した学校が嫌いになったり、長年の趣味に飽きが来たりすることもありうる。自分にとって本当に好きなもの、嫌いなものはいったい何なのだろうか。

2015年4月 4日 (土)

受け身

人から誘われて、とか、言われて、命令されてやったこと、買ったもの、行ったところは、ほとんど記憶に残らない。そこに主体がないからだ。受身で対応したことからは何も生まれない。主体とは、自らすすんで動いてはじめて主体たりうるからである。受身の自分からは、主体性は排除され、かわりに他人の命令が住みついている。言われたことだけやればいいから楽と言う人も、いずれ、人からの命令がなくなったときに、私の欲望は何だったのか、という問いがでてくることになる。そのときはじめて本当の自分が現れてくるのである。

2015年4月 3日 (金)

個性

多くの人の中には、自分と同じ考え、感想をもっていてほしいと感じている人もいる。どちらの感想が多いかを当てさせるテレビ番組はその典型ではないだろうか。多くの意見の側にいたいという心理である。それによってしばしの安心を得るのである。欧米では、自分を主張しないと変人扱いされるが、日本でそれをするには相当の勇気が必要だ。個性を叫ぶ一方で、みんなと同じでありたいとも思っている私もいる。そこで人は、小説やドラマ、映画やテレビなどにそれを求めている。しかし、その感動は長くは続かない。映画館を出ればまたきびしい現実が待っている。つかの間の個性ではなく、永遠の個性を手にすることはできないのだろうか。

2015年4月 2日 (木)

誘い

お花見などに誘われた場合、喜んで行く人と、しぶしぶ行く人とがいるだろう。一般的に、喜んでいく人は付き合いがよく、だれからも好かれ、敵もいないだろう。しぶしぶ参加する人は、付き合いが、という評価が与えられがちである。付き合いがよい人は、裏を返せば、自分の欲望がないことも考えられる。いつでもスタンバイしているのだ。反対に、自分の計画があれば、桜が咲こうと「自分はこうしたいから」と、誘いを断ることになるだろう。誘いに乗ったり、乗らなかったりする人・・・一体わたしはどちらの人なのだろうか。

2015年4月 1日 (水)

体の声

体の声を聞くとは、痛みなどの症状が何を訴えているのかを聞くことである。子どもが学校に行きたくない、と言う代わりに腹痛を起こしたり、会社に行きたくないと言うかわりに、腰痛を起こしたりすることだ。痛みは自分では起こすことができないが、「行きたくない」という言葉がそれを簡単に作り出してしまう。言ってくれればいいのに、それが容易には訴えられない環境にいるからこそ、体を使って叫んでいるのだ。必死の叫びにもかかわらず、無理を通せば、いつか痛みは消滅したかに見えて、それはいつかまた再発する。こうして症状はより重症化の一途をたどるのである。早期発見・早期治療が最善の策である。

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