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2015年7月の31件の記事

2015年7月31日 (金)

対話

ヨーロッパ大陸では今日、戦火が絶えることはない。戦争とは、人間のもっている働きの一面でもある。よい部分だけください、というわけにはいかないのだ。獲物をとる、知識を摂取する、飲む、食べる、いずれも人間が成長していくためには必要な働きでもある。良い面を生かしつつ、片方からエネルギーを解放させることが必要だ。それには「対話」が最も良い。そのためには、対話相手を必要とする。そこには上下関係も国籍も性別もない対等の立場だけが存在する。相手の言い分を否定することなく聞くことが大切だ。押し通すのではなく、対等に語って、並べるだけである。そこには人間として平等な立場があるだけである。

2015年7月30日 (木)

愛着

壊れた芝刈り機の後継機を求めて、ホームセンターに行った。店員と相談しながら物色中、初老の男性から声をかけられた。「芝刈り機はこれで決まり!」と一生懸命勧める。狭い庭ゆえこちらで充分、という私の意見を遮って説明すること15分間うんちくを傾けるので、買ってしまった。これが失敗。大きく、重く、高価であった。以前の機械が便利で、それを上回るだろうという私の期待を裏切るかのように、今日も芝生と格闘しなければならない。製品の善しあしは、製品そのものにはない。選んだ本人の心にあるのだ。

2015年7月29日 (水)

花火大会

花火大会があちこちで盛んな季節だ。写真に凝っていて、隅田川花火大会の「報道カメラマン」の腕章を入手して、さっそうとカメラを携えて行ったことがある。橋の中央、観客からは隔てられた特別席からの撮影だ。360度私の視界を遮るものがない一人占めの花火大会である。快感・・・と思ったのもつかの間、ふと背後に目をやると、多くの観客が金網越しに押し合いへしあいしながら見ているではないか。その日に撮影した写真の多くは体をなしてはいなかった。やはり、花火大会はみなで、語りかつ食しながら楽しむ方がよさそうである。

2015年7月28日 (火)

部屋で音楽を聴いていると、「この曲に鶯の声が入っていたかな」とか、「ここでカッコウの声があったかな」と感じるときがある。気づけば、家の前後の公園から響いてくる鳥たちの声であった。時折鳴くことによって、気づかされるのだ。相談に見える方の語りにも、時折ハッとさせられる話があって、私の中で感動の嵐が押し寄せることがある。それを本人に伝えると、「そんなに感動する話ですか?」とつぶやかれる。それでも毎日私はときめきを感じながら分析を続けるのである。

2015年7月27日 (月)

外見

私たちがものを選ぶとき、外見で選んでいないだろうか。パッケージのデザイン、メーカー名、色などのフィーリング、いずれも主観的なものにすぎない。そのことが顕著に表れるのが、ペットボトルの表面からラベルをはがした時だ。その瞬間、有名メーカーのジュースがただのジュースになる。それがただのラベルに過ぎないと知りつつ、人間は外見を楽しんでいるのだ。売る側は、消費者の感性に訴えようと、広告に莫大な資金を投じる。それと同様に、パートナー選びのときにも、外見で選ぶ傾向にあるのではないか。私たちが目をもっている限り、これにうっとりし、ときに惑わされ、そして失敗したりする。家柄、学歴、服、役職・・外見で評価が左右される。その人自身を知るには何を手がかりとすればよいのだろうか。

2015年7月26日 (日)

主役

クライエントさんからの質問である。ある高校で、卒業生が先生を神輿に載せて担ぐ習慣があるという。「なにかが変なのです」と訴える。わたしはその「変」と感じるところを説明した。担がれる人と、担ぐ人との主客転倒、と。主役は教え子の方であり、縁の下の力持ちではない。そのことにクライエントさんは気がついたのである。大学入試に合格した、宇宙飛行士になった、金メダルを取った・・・、その主役はあくまでその人自身であることを、私たちは肝に銘ずるべきなのである。

2015年7月25日 (土)

喜怒哀楽

人間が出す感情の中でも、「怒」は最も出しにくいものではないか。他の感情はそこそこ出せるが、「怒」の感情だけは出しにくいのではないか。そんなことをすれば嫌われ者、変人というレッテルを貼られることになるだろう。そこで人はスポーツをしたり、歌で発散して感情放出をする。それなら誰にも迷惑はかからない。出せばすっきりするが、抑圧された感情はやがて違う出口を見つけて一気に吹き出すことになる。ゴミ箱を蹴飛ばしたり、何かに八つ当たりするのは、周囲に害を与えないためにやっていると、理解する人がいったい何人いるだろうか。そんなことは理解はできない、と人は言うだろう。だからこそ理解する、それを人は「愛」と呼んでいる。

2015年7月24日 (金)

人柄

人柄とは、その人自身を知る手がかりである。人と交わす挨拶の中などにそれは現われる。適切な言葉が会話の中に含まれているかどうかが問われるのだ。それは日常会話で養われてきたものであるだけに、一朝一夕にあらためられるものではない。本人の周りで語られた言葉のなかに、仕事や趣味、生き甲斐、喜びの声が含まれていれば、本人はそれを快の言葉として受けとる。人間は、言葉の洪水の中に産み落とされ、好むと好まざるとにかかわらず、環境の影響を受けながら成長してきた。私自身を相手に知らせる手がかりとして、言葉という道具をつかっているのである。

2015年7月23日 (木)

聞き上手

人には聞き上手になりたいという思いがある。相手を理解してあげたいという愛の感情ではないか。人に配慮し、気づかい、寄りそうようにと教わってきたからだ。それで相手の話を聞けるかと言えば、これがむずかしい。5分もたないと多くの人が言う。相手の話を聞きながら、苦しくなるともいう。中には、聞き手がこうしろ、ああしろと命令したり、自らの経験談を語り出したりというケースも多い。聞き手の頭のなかには語ることは何もない、と心得て相手に向かうことだ。そのために何をすればよいのか。それは、自らのコンプレックスを解消しておくことである。それによってのみ、相手の話をじっと聞き続けることができるのである。

2015年7月22日 (水)

魅力

人が誰かに魅力を感じるとは何か。相手の明るいところ、積極的、キラキラしている、社交的・・などと一応の答えがあるにはあっても、どこか判然としない。多くのひとのなかで、その人にだけに感じる魅力を、相手に伝えても、自分にはそんな魅力はないと言われるのがおちである。いったい、自分が相手の中に感じている魅力とは何なのだろうか。

2015年7月21日 (火)

相手の立場で

私たちは、相手の立場に立って考えるように言われてきた。ところが、それができたためしは、ない。反対に、私の立場に立って考えてもらったことも、これまた、ない。相手の立場に立つためには、聞く側が「空」になる必要がある。そうしなければ、相手の言葉が入ってこないからである。ところが、「空」になるのを人はことのほか恐れる。何も考えない空っぽの私など、この世に存在するのだろうかという考えが脳裏をかすめるからだ。この世から消滅してしまった自分など考えられないのだ。相手が「暑いですね」と言ったら、「暑いですね」と言うのが正解なのだが、その瞬間、私は「空」になる。そこで私は私の温度感覚で「違うよ」と言うだろう。そうすると相手は共感してくれないと感じて肩を落とすことになる。なにごとも、自分がそうしてもらった経験がなければ、相手にしてあげられないのだろうか。

2015年7月20日 (月)

豊かさ

豊かさとは何か。精神が満ち足りていることである。人の心の中には、あれも我慢、これも我慢、これくらいにしておくように、と言われてきた歴史があるだろう。満足を感じないように人間の精神は作られてきた。満ち足りたという実感を味わったことがないのかもしれない。あるいはこうも言える。本物に接したことがなく、いつも偽物や代用品をつかまされてきたのかもしれない、と。「これで我慢しなさい」と。その言葉にしたがって得た代用品は、私たちを真の満足から遠ざけているスクリーンなのかもしれない。

2015年7月19日 (日)

配慮

電車の車内などで、席を譲る、譲らないで気まずい思いをしたことはないだろうか。自分としては、社会の常識や学校で言われたからしているのに、と思う。常識とはいったい何なのだろうか。長老が町会長を辞めたいと言うので、周囲の人たちがすぐに後継者選びを始めたら、町会長の機嫌を損ねた、仕事の手伝をしようとしたら、手を出すなと叱られた・・などなど、配慮しろと言う一方で、余計だと言われ、いったい自分はどうすればいいのだろうか。そんなとき、カウンセラーはどうしますか、という質問もしばしばされることではある。配慮とは、相手が何を求めているかを未然に察知して、相手の求めているものを与えること。 相手の求めていることと、「相手はこうしてほしいと思っているだろう」というこちら側の想像とが一致することはなさそうである。

2015年7月18日 (土)

見る

みんなから好かれたい、と誰でもが思う。これは難しい問題であり、全ての人に好かれることはまず不可能と考えるべきであろう。相手に対してどんな顔をするか、だけでも難しい問題だ。ある人は優しくほしいし、別の人は厳しくしてほしいと思っている。その人ににこやかな顔で接したら、相手は違和感を覚えるだろう。これではいくつ顔があっても足りない。人に好かれるのではなく、誰に対しても真剣に向き合うことが大切だ。それが相手を「見る」ということである。

2015年7月17日 (金)

傷つき

人はいつでも傷つくことを怖れている。目立たず、発言もせず、人と目も合わせたくもない、と思う反面、見てほしい、認めてもらいたい、自分を押し出したいという気持ちもあって、その間をいったり来たりしている。その葛藤に打ち克つ強い私なぞいるはずもなく、強い心の持ち方も教わらないまま歳だけはとってきた。自分を押し出す気持ちが自分の心の半分以上を占めていればいいのだが。

2015年7月16日 (木)

失敗

人間とは失敗する生き物ではないだろうか。手帳をどこかに置き忘れる、電車の行き先を間違えて乗る、鍵を紛失する、名前を忘れる・・思い出せば赤面のいたりということばかり。フロイトは失策行為は無意識の仕業と言った。無意識に気づかないままでいれば、同じ失敗を繰り返してしまうというのだ。それには絶対に気づくことはない、ともフロイトは言っている。それに自分で気づくと、恥、罪意識を感じるので、自らをその行為に導いているのだ。無意識が私たちのすべてを支配しているのである。

2015年7月15日 (水)

考える

人はいつ考えるのか。それはビンチのときだ。太平楽のときは考えていないかもしれない。まっすぐな高速道路を走るのは楽だが危険だ。こんなことでいいのか、と自分を責める毎日というときこそチャンスである。どん底のときは、それ以上の底はないのであとは上昇するのみ。最低のときに出会った人は、こちらの最低を知っているから、真実の友になるだろう。ビンチをチャンスととることで、人生も見捨てたものではない、と受けとることになるだろう。

2015年7月14日 (火)

居場所

人間は、居心地のよい場所をさがしながら暮らしている。ある人にとってはそれが家庭であり、別の人は会社、ある人にとってはサークルであったり、喫茶店であったりする。家庭が一番安あがりだが、そこでは息がつまると感じる子どもは、帰らないか、家を出るかのいずれかを選択することになる。それでも我慢して暮らせば、不満の余りは身体症状や怪我などの形で表面化する。皆さんにとって居心地のよい場所はいったいどんな場所であろうか。

2015年7月13日 (月)

取り入れ

私たちの行動、態度、好みは、もともと母の胎内から持参してきたものではない。その一方で、人はこういう。あなたはサッカーのために生まれてきた、音楽の申し子だなどと評価する。足の速さ、音感の鋭さは、気質によるもの。しかし、優れているからと言って、そのことが好きとはかぎらない。足が速いから、とか、顔が可愛いからといって選考会に行けば、その道のスペシャリストばかりで、自分の足の速さに自信を失ったり、自分の顔が普通に見えてしまうということもある。私たちが好きでしていることや態度、しぐさなどは、生後の私たちに大きな影響を与えた誰かを取り入れている可能性が高いようである。

2015年7月12日 (日)

将来

将来のことは分からない、と人は言う。誰もケガや病気になりたくないし、不幸にもなりたくない。しかし、ケガばかりするとか、家族が病気続きということも耳にする。反対に、子供時代に、「~になる」とノートに書いていた子の願望が、大人になって実現したという例もある。彼らにとって将来はすでに描いてあり、毎日言葉に出していたのである。問題は、自分が思い描く前に、誰かが自分を規定してしまったことかもしれない。

2015年7月11日 (土)

人目

ある人は、「こんな服を着て笑われないだろうか」、「何か言われるのではないか」などと思っている。人が他人に関心を示すことがないのを、私たちは知っている。電車の車内で、前に座った人がこちらをチラッとみるのは、自分の靴を踏まれないためであって服装を笑うためではない。にもかかわらず「見られている」と思う何かが彼の中に存在する。例えばそれは、誰かが誰かを批判したため、自分にもその矛先が向いてくるのではないかという危惧を抱くからかもしれない。想像が想像を生む中で、動けなくなっているのだ。その間、彼は何もできず、何も着られず、何も決められないまま、毎日を過ごすのである。すべては自分が傷つかないために。人の発する気まぐれな評価や、目、想像世界の束縛が「世間の目」というものだとしたら、その源にあるものは、幼少期の記憶なのかもしれない。

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2015年7月10日 (金)

感動

二人の人が同じ景色を見て、感動する人と、さほどでもない、とつぶやく人とがいる。私たちの感動の源はいったいどこにあるのか。それは母のまなざしの中にある。母がうれしいときには私もうれしい。私がうれしいときは母もうれしい。母が一緒に喜んでくれたとき、私のよろこびは母のまなざしの中に見出だすのである。わたしたちは母とともに生き、母とともに育っていく。それを共生という。共生こそ感動の源である。

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2015年7月 9日 (木)

相手の立場で

相手の立場で考えるように、と私達は教わってきた。その方法について教わらないままにである。なぜか。それが不可能であることを誰もが知っているからである。人から「お腹が痛い」と言われても同じ痛みを共有することはできないからだ。どうすれば相手の立場で共感できるのか。その方法をフロイトは私たちに教えてくれた。「今あなたが考えていることは~ですね」と言葉によってまとめるのである。その言葉に対してクライエントは「その通りです、ピッタリ来ます!」と言う。人は自分で自分の思いを言えないでいる。セラピストは、それを言語に戻すことを仕事としている人である。


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2015年7月 8日 (水)

理念

人はそれぞれの理念を掲げて生きている。普段それが意識されることはないが、何かのときに行動となってあらわれる。それは緊急時である。「敏速」が理念の人は、その所を脱出すべきか対処すべきかを瞬時に判断して行動に移すだろう。他者からの依頼にはすぐに対応するかもしれない。そうした理念は私たちの心のなかに蔵されていて、いつでもスタンバイしている。それを無意識と精神分析では呼んでいる。

2015年7月 7日 (火)

向き合う

人が困難な問題に遭遇した時、それに向き合うことが大切だ。逃げるだけでは何も解決はしない。いま自分が抱えている問題に対して誰かが「どうしたらいいか一緒に考えてみよう」とひとこと言ってくれたら、どれほど心強いことだろう。他人の方が客観的に見ることができるからだ。その時、相手は寄り添ってあげるだけでいい。アドバイスも、励ましも、教育も必要ではない。聞き手はそのことに気づかなければならない。人が求めているものと、与えられるものとが一致したとき、人は孤独感から解放されるのである。

2015年7月 6日 (月)

変わる

中学1年生の男児をもつお母さんの相談である。男児の顔の湿疹が治らず、何とかしてほしいという。皮膚科の権威と言われる医師をはじめ、いくつかの病院を訪ねるも一向に改善の兆しが見られず、心理的な問題ではないかと判断、当所を来訪されたのである。症状が出始めたころや、その前後のことなどを思い出していただくうちに、「関係ないかもしれませんが・・」と前置きされた中に、発症の元になることを発見。「このことがやはりきっかけなんですね」と自らおっしゃった。セラピールームをあとにされたその翌週、清々しい顔で報告されたことによると、その日、帰宅すると息子が玄関口に迎えに出て、その顔から湿疹が消えていたという。母の心が変われば子どもも変わるということが証明されたのである。

2015年7月 5日 (日)

ピンチはチャンス

一見幸せな道を歩んできた人にも、苦難、困難、災難はつきものである。困難に出会うことは何を意味しているのか。それは、今までの生き方では埒が開かなくなっていることを無意識が知らせているのだ。本人にはその対応法は知らされていない。だから困難。こういう時は頭をフル回転させて、来し方、行く末を考える絶好のチャンスである。普段は目にしない情報に関心を寄せたり、奇想天外なことを思いついたりして、夜も眠れないほど考えたという経験はないだろうか。平々凡々な人生や、無難な生活はありえない。困難が来たときこそ改善のチャンスだ。そのなかから、今までとはまったく違った人生が見えてくるはずである。

2015年7月 4日 (土)

季節

地球の自転軸がほんの少し傾いているために、地球上には四季が訪れる。夏暑く、冬は身の縮む思いだが、ブティックの店長は夏の来るのを「本番到来!」と喜んでいる。毎日が春爛漫だとしたら、きっと飽きるに違いない。桜は散るからこそ惜しむ心も生まれ、夏はいずれ終わると知っているからこそ、太陽の照射を楽しめるのかもしれない。それぞれの気候、景色の変化を楽しむように、人間の心に生じる喜怒哀楽を当然のこととして受け止められるならば、人の心もより豊かなものになることだろう。

2015年7月 3日 (金)

話が合う

傘が手離せない季節、主婦は洗濯物が乾かないと嘆いて一日やむことはない。傘屋は売上アップの時期ととらえているに違いない。農家のひとたちは恵みの雨と喜んでいることだろう。一つの現象を、人それぞれの思いでとらえている。何人かが同時に「雨」のことばを中心に、それぞれがそれぞれの思いを話すことになる。ここに同一の感情が存在することはなさそうである。数人の思いでさえ一致することはないのだから、大勢の人たちの話が合うことはほとんどないだろう。話が合う、と感じることがあっても、それぞれが違う景色を見て語っているにすぎない。人間は、話が合ったという幻想の中で喜んでいるにすぎない。私たちの会話が噛み合う日はくるのだろうか。

2015年7月 2日 (木)

変わる

セラピールームの往復はもっぱら徒歩。行きも帰りも歩数はほぼ同じ。行きの4500歩は、帰りより16歩多いだけである。推測するに、私のやっていることは、ほとんど変わらないということ。髪型を変えても気づかれず、同じような柄のネクタイを選んでしまうように、変えたくない心境も人間の中には存在する。よほど変えないと、変わったと見なされないようだ。変われば変わるほど変わらない、と言われる通り、人間はガラッと変えない限り、生活も精神も変わらないのだ。限界を超えて自らを変えること、それを勇気と言う。

2015年7月 1日 (水)

聞き入れる

自分のことをわかってはくれない、そんなあきらめにも似た感情を人は抱く。子どもたちも、大人に向かって「ちっとも聞いてくれない」と叫んでいる。だったら、と大人は言うだろう。「ちゃんと言いなさい」と。子どもたちは「聞き入れて欲しい」と訴えているのである。彼らの訴えに対して「でも」とか、「そう言うけど」と言わないで欲しいと訴えているのだ、。こうして子どもたちと大人とは、永遠の対決色を深めながら、一つ屋根の下で暮らしていくのである。分かってあげられる方法はないのだろうか。

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