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2015年8月の33件の記事

2015年8月31日 (月)

返事

人が人と会話するとき、相手が自分の思い通りの返事をしてくれたときにのみ、「この人は自分のことを理解してくれている」と感じる。答えは、すでに語り手の心の中に存在しているのである。返事がないとは、同意がえられないことを言う。「こんなことを考えているのだが」に対して「変」などと言うことは避けなければならない。もちろん、聞き手が「こうしたらどうか」などの提案をすれば、語り手は、答えを得られたとは感じられないだろう。語り手の「こんなこと」という一言の背後に、膨大な考えが隠されていることに思いをいたすならば、安易な答えは慎まなければならないのである。

2015年8月30日 (日)

褒める

人を褒めたら、叱られた、という報告がしばしばなされる。褒めるには、何を褒めるか、が重要なポイントだ。相手が褒めて欲しいモノを、適格な言葉で伝えなければならない。髪型を褒めて欲しいのに、色を褒めても相手は満足しないだろう。スーツで身を固めた男性の靴を褒めても、少しはうれしいが、ちょっと違う、という感想をもつだろう。本人が求めているぴったりの言葉、それを見つけられれば、あなたは「褒め上手」という評価を得るだろう。

2015年8月29日 (土)

あの人は明るい・暗い、この人は支配的・受身的というように、人は人を二分法で分けていないだろうか。考えてみればわかることだが、明るいだけの人、支配的に振舞うだけで生きるのは、どこかで無理が生じやすいのである。ときに明るく、ときに深刻だったりするのが人間ではないだろうか。ただし、その落差があまりに極端であれば問題だ。あんなに元気に見えたのにという場合に、それが露見する。嬉しいときには笑い、悲しいときには泣く、それに寄り添ってあげるのが愛ではないだろうか。

2015年8月28日 (金)

意欲

子供たちの職業選択には、それなりの根拠がある。テレビや周囲の人からの影響もあるだろう。~になりたい、というとき、その根拠については、周囲の人が理解することはほとんど不可能である。当の本人でさえ、なぜこんな職業名が出てきたのかについては、わからずじまいである。むしろそうした詮索は、無意味と心得たほうがよさそうである。それは、何十年も経ってから、こういうことだったのかと、初めてわかるようなものだからである。~になりたい、という子供たちの言葉を前にして、親御さんたちは、まず学校を出てから、無理、無駄、生活はどうするのか?という疑問を抱きがちである。そうした言葉の前に、子供たちの欲望は風前の灯である。意欲を失わない子供に育っていくかどうかは、その答え方一つにかかっているのである。

2015年8月27日 (木)

私たちが選択した職業、趣味、科目、食べ物の奥底には、種があると考えられる。最初の種は誰かによって蒔かれたものである。それは一つの言語に集約されている。その種が「甘い」なら、食べることが好きになるかもしれない。騒音のなかで暮らした人は、騒音を快と感じるかもしれない。ある文字が自分の精神を形作っているのではないだろうか。「お袋の味」が食の原点であるように、すべての興味・関心の源は子供時代に植えられた一粒の種かもしれないのだ。皆さんの心にはどんな種が蒔かれたのだろうか。

2015年8月26日 (水)

楽しみ

皆といる時が楽しい、という人がいる一方で、一緒は疲れる、と感じる人もいる。あるいは、その両方という人もいる。その起源は、人生で最初に出会う人との関係にある。子供が笑う、それに答えて母が笑う、この繰り返しのなかで、子供は一緒にいる楽しみを感じる。長じてから、一人で楽しんでいても、頭のなかにいる母が「よかったね」と言ってくれることで、一人でも寂しくはない。頭の中で、母が鏡になるのである。この体験がなかった場合、それを友達にもとめる。しかし、いつも一緒ではないので、寂しさが襲う、また会いたくなる、こうしていつも大勢の友達に囲まれていたいという願望が強まっていく。しかし本物(母)ではないから疲れる、という繰り返しの中で、人は人との交流を求めつつ、避けてもいるのである。

2015年8月25日 (火)

禁止

人は禁止されればされるほど、それそのものが欲しくなる構造になっている。ある場所が塀で囲ってあれば覗きたくなり、鶴の恩返しのように、入ってはいけない、の言葉が、入りたい欲望の火に油を注ぐことを私たちは経験として知っている。顕微鏡を覗く、望遠鏡で宇宙の果てを覗く人たちは、覗くことが奨励された経験があるのだろう。逆に、覗くことが禁止された人たちは、禁止されることに快感を得ることになるだろう。法律を犯してまでそれを求めるのは、それが彼らのすべてだからだ。

2015年8月24日 (月)

探求心

子供たちは、広い部屋に到着するやいなや、隅から隅まで探索行動に余念がない。隅っこに何かがあればそれを報告し、別室に何かを発見してはそれを見ろとせがんでやむことはない。親としては、そこはダメ、あちらはダメと言いたくなるが、子供の将来を考えて、そこは我慢しよう。探求心こそ、人類が世界に版図を広げた原動力ではなかったか。版図を広げるに限らず、モノ・人・事柄に対する興味・関心の原動力でもある。子供時代にきょろつくのはいいとしても、大人になってそうすることは、しばしば誤解されるだろう。長じてからきょろきょろする行動は、学問・芸術・研究へとその姿を変える。

2015年8月23日 (日)

新鮮

新鮮な気持ちになるには、私たちの身の回りにあるものを、変えることである。それには勇気が必要だ。そうした自分の心と裏腹に、囲の人たちの言葉が、私たちの胸をぐさりと突き刺す。自分一人で楽しんでいればよい。それを至福の時と言っている。しかし、仕事場でそれをやることは、しばしば周囲の抵抗に出会う。変えるには、変える意味、説明、説得が必要となる。変えようという意志を相手に伝えなければならないからだ。それを考えただけで、勇気が消えるかもしれない。変えたいという意思と、変わりたくないという意志が拮抗しているとき、変えようと叫ぶ一声があればいいのだが。

モノ

日ごろ、私たちを囲んでいるモノには、本来、実体はないのである。女性が手にしているリップスティックは、時にものごとを指し示すための棒になったり、紙が飛ばないようにするための重石になったり、手持ち無沙汰の解消のおもちゃになったりする。高価なものが、捨てるときには一瞬でゴミにかわる。人間もおかれる場所によって取り扱われ方がかわる。私はいったい何者なのであろうか。

向上心

子供たちは高いところが大好きである。テーブルの上はもちろん、踏み台、棚の上・・・とにかく上を目指す。向上心の表われである。非常識・危険などの大人の都合で、親御さんたちはその行動に制限を加える。それにもかかわらず、子供たちは上を目指し続ける。大人の過剰な抑制は、子供たちの向上心の芽をつまむ可能性がある。抑制された欲望は、いろいろな形で、後年姿を現わすことになる。

2015年8月22日 (土)

終わりと始まり

一つの終わりは一つの始まりである。小学校を卒業すれば中学、高校と成長し続けていく。人生はこの連続である。中学生になれば中学生として、二十歳になれば二十歳の人として接することが、大人の振る舞いである。人を子供扱いせず、一個の人間として接することが必要である。大人でさえも、その日々は終わりと始まりの繰り返しである。昨日までの私は、今日もういない。

2015年8月21日 (金)

迷信

迷信とは、その人だけの信仰である。ある意味、他人の否定に屈しない堅牢なものである。他人からは否定も肯定もできないその人だけの世界がそこに広がっている。否定されるのではないかという迷信が、迷信をますます強固なものにしていく。それが否定されたら、この世は終わりというくらい価値があるらしい。そう考えると、私たちはどれほど疑い続けてきたことか思い知らされる。信じられるものがあったかどうかと。迷信と笑いつつ、どこかで立ち止まっている私たちがいないだろうか。

2015年8月20日 (木)

痛み

「歯の痛みが不幸を忘れさせる」といわれる通り、人は二つの痛みを同時には感じられない構造になっている。歯が痛ければ、子供の成績がなかなか上がらない苦痛どころではないが、歯の完治とともに成績の件は復活する。右腰の痛みが薄らぐと、左腰…といった具合に、痛みが移動するように感じられる。毎日が苦しみのない日々であればいいのに、と人は思いたくなるが、その一方で、歯の痛み、腰の痛みなどを無意識的に求めている可能性も否定できないようである。

2015年8月19日 (水)

感情鈍麻

隣家の犬の楽しみは蝉取りである。木に止まり損ねた蝉が芝生の上に落下し、その勢いで裏返しになってジージーいうのを犬が前足でいじっている。その足さばきは実に見事だ。生かさず殺さず弄んでいる。それを見てある人は、生殺しは会社員である我が姿そのもの、と受けとるだろう。またある人は、なんてほほえましい、と受け取り、またある人は、美味しいのだろうか、と首をかしげたりするのである。夕刻の庭を覗くと、蝉の羽だけが残っている。小笠原流なのか。それがために、隣家の妻の叱責の声がするが、犬もその家の子供たちも平気である。こうして私たちは残酷と平気、ストレスと遊び、甘いと珍味・・・いろいろな思いを犬の行動の上に見て、ほどよい感情鈍麻を身につけていく。

2015年8月18日 (火)

対話相手

友人が自分に向かって「聞いてくれませんか?」と語り始めて、こちらが黙って聞いていると、本人が「うん、そうだよね」、と勝手にうなずいて去っていく、そんな経験はないだろうか。聞く側の自分がその場にとりのこされてしまう経験である。彼はだれと会話したのだろうか。自分は何をしたのか。自分の役割は何だったのか。「ありがとう」と言う彼の言葉にどう返事をすればいいのか。その対応でよかったのか。いろいろな思いが錯綜する。しかし、相手はすっきりした顔をしている。人はこうした対話を、いつでもどこでも、何とでもしているのである。

2015年8月17日 (月)

テンション

登校時の子供たちのテンションは極めて低い。旗振りのお母さん方が「おはよう!」と声をかけても、返事を返す子供は少ない。会社勤めの大人たちはどうなんだろうという想像がふと頭をかすめる。眠い、勉強が嫌い、行きたくない・・・いろんな言葉が彼らの足取りを重くしているのだろう。ところが下校時の彼らのテンションは極めて高い。あっちこっちと蛇行しながら帰ってくる様は、これまた会社員の姿に似て楽しげである。その場所に行きたくてしょうがないと感じる学校・職場を持っている人は幸いなるかな。それがない人には、もう一つの居場所を工夫してあげたいものである。

2015年8月16日 (日)

スイカ割り

スイカ割りほどじれったいものはない。対象はすぐそこにあるのに届かず、的外れだ。目隠しされている本人は、嘲笑と憐れみの真っ只中で右往左往している。考えて見れば、それは何のことはない、私たち自身の姿そのものだ。目標を決めた私と、追いかけている私が同じ人間であるところに、私たちの悲劇が蔵されている。自分のことは分からない、とは、目隠しのスイカ割りだったのである。自分で決めた理想の仕事が的外れ、パートナーは君だ、も目が曇っており、服も学校選択も、ボタンをかけ違っていることすら、自分では分からず仕舞い。そう考えると、今までの人生はいったいなんだったのだろうと思いたくなる。そう思っていることもまた・・違っているかもしれないのだ。答えはすべて風の中、である。

2015年8月15日 (土)

模倣

私たちの人生は模倣の連続である。風習・趣味・学校選択・・・などなど、その最たるものが言葉である。意味も分からぬままに、私たちは言葉に染められてきた。子供たちが突然「オレ」などと言い出して親はハッとさせられるが、これは社会に触れ始めた証拠である。そんな言葉を使うんじゃない、などと制止することで、これが成長した人間が使う言葉であることを教えるという逆説でもある。足で扇風機を操作する、ペットボトルを踏みつける・・・教えなくても、子供たちはどこかで大人たちのしぐさを見ている。ただし、物を投げる、人をたたく、噛みつくなどの行動は、子供が発している重大なメッセージであることを教科書には書いていない。それこそ教えるべきことなのに。

2015年8月14日 (金)

苦労

菓子屋の店先はお客でいっぱいだ。お盆帰りの家族に食べさせようと、おはぎの争奪戦らしい。聞けば、運搬用のトラックの第二便を今か今かと待っているところだという。そんな思いで入手した貴重なお品も、子供や孫たちの口に入れば「ふーん」のひとこととともに姿を消す。容易に入手したものより、苦労の末に手にしたものには、思い出がいっぱい詰まっているに違いない。ただし、本人だけの、という但し書き付きでではある。苦労と喜び、天使と悪魔、天国と地獄・・・みな表裏一体だ。どちらか一つでいいのに、人はなぜかもう片方も好きなようである。

2015年8月13日 (木)

較べる

人はいつでも人と較べている。そうすることで、自分を知ろうとしている。誰かが新しいものを買えば、自分より高いか安いかを較べ、数や銘柄、産地などで較べ・・というふうに、人を基準にしている。その差から自分の持ち物がこうだと知る。相手の入手したものが自分の持ち物より一ミリ長いか短いかを較べて自分のものが「こうだ」と知る。これでは、永久に安心を得ることはなさそうである。人と較べることなく、自分の仕事・趣味・道具に愛着を持てるようになれば、誰かが新しいものを手に入れたとしても気にならないはずである。

2015年8月12日 (水)

落ち込み

気分が落ち込んだとき、人は元気な人に相談を持ちかけないだろうか。自分と同じように落ち込んだ人のもとには行かないものである。同じような気分の人を訪ねる場合は、傷のなめ合いで終わってしまう可能性は高い。元気な人を訪ねると、もっと落ち込み、傷が深くなる。慰めてもらうどころか、相手の成功談をきかされるからである。傷のなめ合いにもならず、気後れ感にさいなまれることもなく、自分の話に寄り添ってくれるだけで、人は元気を取り戻すことができるのだが。

2015年8月11日 (火)

周波数

ラジオの周波数は各局によって異なる。それぞれの周波数に合わせなければ、放送を聞くことができないように、人と人との会話も相手の周波数に合わせなければ、心を聴くことはできない。自分の周波数と同じ周波数を持っている人などいないので、人と会話が合うことなどないといってもよい。語る側が、気に入った物を手に入れてうれしい、というとき、聞く側はそれをどう受け取ったらよいのだろうか。うれしい気分だけは理解できても、その品物を入手するのにどれだけ手間暇かけ、どれほど待たされ、どれほど価値ある物なのかについては、本人以外知る人はいない。本人にしか理解しえない孤独、でも理解されたい、というのが心情ではないか。だからこそ、相手のことを理解できたらお互いにどんなに幸せなことだろう。

2015年8月10日 (月)

気づき

ある方から「周囲の人との会話についていけない」という質問が寄せられた。うわさ話にどう答えればいいかわからない、という。相手と話を合わせないと仲間外れにされるのではないか、つんとしていると思われるのではないかという不安が本人を追いこんでいるのである。セラピーではその対処法や、仲間づくりの方法を教えようとするものではない。もちろん、積極的に会話を楽しみましょう、とか、自分から話題を出しましょう、すこしずつ距離をおいていきましょう、などといったノウハウを伝えようともしない。ところが、そうした質問に対応しているうちに、クライエント自身が、そのグループへの対応法について自らの答えを出していく。その道すがらに気づくのがセラピーなのである。

2015年8月 9日 (日)

幸・不幸

安楽な生活の中で暮らしてきた人は、不幸の中に生きてきた人の倍は苦労する。安楽な生活の中で、物は容易に手に入り、将来も何とかなると人は考えがちである。反対に、苦労の経験が多ければ多いほど、幸せの切符が約束されているともいえる。問題は、苦しみに出会った時、共感してくれる人物がいたかどうかである。そう考えると、裕福ほど、将来の憂いを蔵していると思われてくるのである。

2015年8月 8日 (土)

悩み

携帯電話を替えた。選定に2時間かかった。「同じようなもの」と言えるのは他人に対してであって、自分のこととなると話は別だ。今までの機種はその日からガラス部分にひびが入り始めた。替え時だったのだ。クライエントからの相談も、この人と結婚すべきか、せざるべきか、見送るか、付き合ってみるか・・・その葛藤の経過をクライエントとともにじっくりと過ごす。答え方が適切であればクライエントの考えが深くなる。焦らず、あきらめず、慌てずクライエントと向き合う。人は自分のことは自分で決められない構造になっているのだ。

 

2015年8月 7日 (金)

不満

人間は、暑いと言っては文句を言い、寒くても文句を言い、丁度良い季節は永久に来ないかのようである。この言葉は空気中に放出され、これに触れ続けていると、人の心は蝕まれる。人間は否応なくこうした環境のなかで仕事をし、お茶飲み話に付き合っているのだ。芸術家のように、風景や絵具と対話していたらどんなに楽しいことだろう、と思ったりもする。人間の体も自然の一部と考えれば、私たちの体の中にも不満の言葉が渦巻いている。それを放出するいかなる手段も持たないまま、肩が痛い、腰が痛い、足がだるい…と訴え続ける。その言葉がまた放出され…人生とはこの連続である。そしてそれが当たり前のようになっている。その放出方法がわかったとき、人は真の幸せを得るのである。

2015年8月 6日 (木)

習慣

人の習慣は家庭で作られる。両親が家庭で和気藹々と会話していれば、子供は両親・兄弟と会話をすることを楽しいと感じるだろう。家庭に会話がなければ、子供は対話を学べず、人との会話に戸惑いを感じ、会話に入っていけない、気後れ感があると思うだろう。子供時代の養育の結果が現れるのに20年もかかるのだから、子育てがいかに難しいものであるか思い知らされるのである。

2015年8月 5日 (水)

見る

寿司店がセラピールームに隣接してオープンした。さっそく入店し、職人とたわいもない会話を交わしながらカウンターで食す。翌日、また同じ席に座る。昨日の職人だ。彼は私の顔を全く覚えていない。こちらから名乗るのもしゃくにさわるので名乗らない。寿司職人は寿司しか見ない。天文学者は星だけを、鉄道ファンは鉄道・・というように、それしか見ていないかのようである。セラピーでは、その人を見る。前回のセラピーとの変化、いつもより元気かどうか・・そこにその人自身が語られているからだ。セラピーはセラピールームに入られた時点から始まる。

2015年8月 4日 (火)

ときめき

年齢とともにときめかなくなる、と人は言う。トキメキは鼓動だから、止まったら大変だが、感動のない人生は単調なものとなるだろう。単調な人生を回避する手立てとして、人は色々なことを考える。危険なことにチャレンジしたり、周囲の人を自分のペースに巻き込んだり…自分一人でときめいてほしいものだが、本人にとって、周囲の反応も必要なのかもしれない。一人でときめいていれば、周囲にも影響を及ぼさず、いつでも、どこでも楽しめる。問題は、「私だけの楽しみ」が人々の嘲笑にさらされることだ。「何がそんなに楽しい?」「どんな意味があるの?」というもの。そうした言葉の前に、人はしばしば挫折する。それに負けないためにはどうすればよいのだろうか。

2015年8月 3日 (月)

直面

逃げるが勝ち、などと、人はその場から逃げ出したい気持ちになることもある。もちろん、命の危険が真近かに迫っていれば、すぐにその場から避難しなければならない。しかし、仕事や人生上の困難に出会った場合、逃避することからは何も良い結果は生まれない。それに直面することが大切である。いばらの道は現実には存在せず、自らが作った妄想であることを人は知る必要があるだろう。勇気ある決断の一言で、いばらの道が花咲く道に変身することを、それを経験した人だけが知っているのである。

2015年8月 2日 (日)

自信

自信など誰にもない。あれば、誰もが間違いのない結婚をする。あるいは、結婚できないかのどちらかである。生涯にわたって一つの仕事で生きていけるし、学校だって楽しくてしかたがないというものだ。ところが、間違わなかったひとに出会ったことは一度もない。みながちょっとずつ間違っている。間違いを自分でも知っていて、それを見たくないためにいろいろな振る舞いをひとはする。過剰に振る舞えば、傲慢であろう。人はその振る舞いのために、莫大な投資をする。その投資も、ある時から全く意味をなさないものに変わってしまうことに気付かないままに。そう考えると、自信がない、という人の方が正常かもしれない。

2015年8月 1日 (土)

子育て

子育て中のお母さん方は、一日中子どもたちに振り回されている。夏休み中はことのほか大変だ。子どもたちは自分の要求を母親にぶつける。親の都合など眼中にないかのように。反対に、要求を出さない子どもの方が問題を抱えていることに気づかれにくい。彼らは我慢しているだけで、要求がないわけではない。欲しいものはやはり欲しい。心の奥に溜め込まれた要求はいずれ山のように現れる。それが十数年後のことだ。なぜこんなに要求がましい子になってしまったのか、不満を訴え続けるのか、誰にも分からない。その源は誰もが知っているにもかかわらず、である。

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