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2015年10月の32件の記事

2015年10月31日 (土)

レストランなどで席を選ぶとき、人はそこに何らかの意味を見いだしている。隅の席に座った人が、翌日は中央の席を占めていたり、同じ人が「カウンターがいい」などと宣言してコックとさりげない会話を楽しんでいたりもする。そこに本人だけの意味が存在して。小さな子供を先頭に、家族連れがレストランに入ってきた。子供は「ここがいい」と言って席に座ろうとする。柔らかな色調の席に何かを見たのだろう。それとも、隠れ家みたいな場所に彼だけの意味を見たのか、子供はしごくご満悦である。次の瞬間、彼は親の手によって違う席に移動させられてしまった。彼のなかに生まれた小さな意味は、そのとき、無惨にも抜き取られてしまったのである。

2015年10月30日 (金)

感情の虜

人は目の前にある文字を読んでいるように見えて、別のものを見ている。紙の上の「ヤマダ」の文字から、ある人は友人の顔を見ており、別の人は電気店の名称を、またある人は似た名前の「半田さん」の顔を見ている。電気店にパソコンの修理をたのんだときの、担当の小林さんを見ている場合だって考えられる。そうなると、文字は単なる記号ではなく、絵であり、人物であり、重さをもったパソコンであったりする。純粋に「ヤマダ」という文字だけを見ることはなさそうである。文字や顔を見ただけで、複雑な感情が沸き上がってくるのはそういうメカニズムによるのだ。それらをとめられないまま、感情の虜になっているのが人間である。

2015年10月29日 (木)

鏡像

壁の三面が鏡張りになっている部屋に案内されたことがある。どちらを見ても自分がいる。どの自分もじっとこちらを見ている。そこで、少し斜めに構えてみたり、姿勢を正しても、やはり自分だ。鏡の中に自分を、しかもそれは自分ではない自分を見ているという、鏡像理論そのものである。自分ではない自分、などという禅問答みたいな理論に、最初は戸惑いをおぼえたが、理解の度が高まるにつれ、これはすごい理論なのだと納得がいくようになった。鏡に役割を他者が担い、他者とは誰なのかが分かってくるうち、人は鏡なしには生きられないことを実感させられる。その理論を詳しく解説する講座を開講する予定である。

2015年10月28日 (水)

不安

人は、いつも不安を抱えている。電話がつながらない、メールの返信が遅いなどと、何かにつけて不安を感じている。そこで、私たちは、人に嫌われないように振る舞い、相手に合わせることに毎日腐心している。いっそのこと年賀状もやめてしまおう、などと思っても先方のハガキを見て返信していたりする。人はこうして淋しさから逃れる方法を見つけられずに生きているのである。

2015年10月27日 (火)

言葉の力

言葉という、空気の振動に過ぎないものを耳から受取った瞬間に勇気が出たり、慰められたりするのが人間である。それが言葉の力である。子供が学校に行くのは当たり前、母は食事の支度をするの当たり前と言わず、評価を与えることである。「行ってらっしゃい」、「ありがとう」の一言をいうべきであろう。弘法大師は、言葉を発すれば無明を取り除く、と言葉の大切さを1200年も前から私たちに伝えている。

2015年10月26日 (月)

情緒

紅葉を見て秋を感じ、子供たちの笑い声を聞いてはほほえましく思う、それが情緒である。仕事の締め切りに追われている人にとって、それは仕事の妨げと感じるかもしれない。それが続けば、紅葉=妨げとなり、やがてそれが当たり前になってしまうだろう。反対に、情緒だけで生きれば、仕事はそっちのけ、桜が咲けば仕事どころではなくなる。休みたい時には休み、働くときには一生懸命働く。そのためには、休日は休むことである。休みの半分は家族のため、半分は自分磨きの時間とすることが大切である。

2015年10月25日 (日)

感情

道順を教えて、一回で覚えてしまう人もいれば、一向に憶えない人もいるだろう。そのうちに、教える方が疲れてしまうということもあり得る。デパートなどの案内係がそれで疲れた、という話はないはずだ。その差はなにか。それは感情である。親の心の中には、子供に接するときにそれが発生しやすいが、教師や塾の先生には発生しない。淡々と答え、粛々と伝えるだけである。したがって、一日教えて疲れることはない。感情がなければ冷たい人間になるだろうし、ありすぎれば、感情的になってしまうだろう。感情とは必要な半面、厄介なものでもある。そのコントロールはどのようにして学べばいいのだろうか。

2015年10月24日 (土)

性格

ある現象に出会った時、その反応は人によってさまざまである。褒められて、ありがとうと言う人もいれば、そんなことはありません、と否定する人もいる。反対に不快感を示す人だっている。その違いを性格という。同じ現象に接しても異なった反応が返ってくるので、同じ対応で済ますことはできないのだ。ある人に通用した対処法が別の人に通用するとは限らないから、好かれたり嫌われたりする自分が生じてきて、いったい私はどちらの顔をすればいいのか悩むことになる。これでは毎日が葛藤の連続だ。自分を保つにはどうすればよいのだろうか。

2015年10月23日 (金)

随所に楽しむ

「随所に楽しむ」とは、人が、どこでも、どんなところにでも楽しみを見いだせることを言う。あれは嫌い、それは嫌い、ではなく、そこに何らかの真理を見いだせることを言う。楽しみとは真理である。それは必ずしも、ニコニコ、ワクワクするものだけを指しているのではない。荘厳な景色を前にしたときのように、真理の前に人は沈黙する、そうしたものも楽しみである。そんな楽しみを毎日一つでも見出せたらよいと思える人生を送りたい。

2015年10月22日 (木)

頼る

どこかの店がテレビで放映されたとたんに、大勢の人が店先に行列する。なぜ人は列をなすのか。それは、テレビ局によって何らかの保証がなされたように感じるからである。人は何らかの保証を欲しがっているのではないか。毎日の食材、服選び・・自分で選んでいるように見えて、どこかで誰かに頼っているのである。それが人間ではないだろうか。

2015年10月21日 (水)

共感

誰かと同じ風景を見ていても、まったく違うところを見ている。一人が「夕焼けがきれいだ」とつぶやくとき、別の友人はオレンジ色の太陽を見ているのかもしれない。隣の人は、太陽の眩しさを見ており、また別の人は周辺の雲だけを見ているということがある。一人が「夕焼け雲がきれいだ」と言ったとき、隣の人は慌てて見る視点を雲に移してから「そうですね」と答えることになる。「夕焼け」というカテゴリーでは皆一緒である。そう考えると、オレンジ色とか、赤とか言ってもまったく同じ色を見ているという保証はどこにもない。色ひとつでさえ、共感しあえないとすれば、「苦しい」、「悲しい」という感情はどう表現すればよいのか、そして聞き手はどう共感すればよいのだろうか。

2015年10月20日 (火)

向こう側

文字を見ながら、人はその向こう側に何かを見ている。文字だけではない。記号、マークにさえ、何かを見いだそうとしている。例えば数字。4、9を見ては何かを感じ、大安吉日を見ては宝くじ売り場に走ったりする。ただ単にインクのシミに過ぎないのに、目で見た情報から、人は何かを感じ行動している。それには影響されないぞ、と息巻いていることもまた影響を受けている証拠である。文字から意味を抜き取ってしまったあとに、いったい何がのこるというのだろうか。

2015年10月19日 (月)

答え

私たちは自分が抱えている問題をどう解決したらよいかの答えを探しあぐねている。こちらを立てればあちらが立たず、その中心に立たされているのだ。ところが、「こうすればいい」という答えを、他人はあっさりと出してしまう。問題の真ん中にいる間は、答えに到達することはできないのだ。ここにコーチや監督、指揮者などの役割がクローズアップされることになる。その快刀乱麻の答えに出会ったとき、ひとは思わず沈黙するのである。

2015年10月18日 (日)

世間話

秋はセラピー場面でも、食べ物の話題が提出される。世間話のようだが、大切なことがそこに隠されている。もちろん本人はそのことを知らない。分析家ももちろん知らない。そこに解釈を加えることで、「その通りです、胸がスッキリしました!」と言って帰られる。クライエントは胸のうちをすなおに語れないのだ。家族全員が果物好き、という話がクライエントから出された。その話の中に、本人が長年にわたって抱えてきた悩みが存在する。フロイトはそれを「置き換え」と名付けて、解釈のための重要な方法だと強調した。その功績は大である。ノーベル賞に匹敵する。そこになにが隠されているのだろうか。外国語を日本語に翻訳するように、世間話を本人理解のための方法にできたら、人の心は軽くなるのに。

2015年10月17日 (土)

意味

出掛けようと玄関を出たとたんに雨が降り始めた、ホームに駆け上がったら電車が行ったばかり、などというとき、人はなぜかそこに意味を付けたくなる。出かけるな、ということではないか、何かの前兆かもしれない、などと心の中で呟いていないだろうか。その瞬間、農家にとって恵みの雨も、本人には恨みの雨になるのである。単純に、雨、行ったばかり、と受け取れないだろうか。そうすれば、いろいろな感情に悩まされることはないのに。こうしたことも他人にとっては平気である。「偶然ですね」、「時間に間に合ったのだからよかったね」・・・などと言いたい放題である。もし、誰かが意味づけしたら、なんと慰めてあげればよいのだろうか。

2015年10月16日 (金)

食べる

何が食べたい?と聞かれたとき、何々をと答えられる人はどのくらいいるだろうか。たいていは、何でもいい、あるものでいい、と答えるのではないか。それが無難な答えでもあるだろう。そう聞かれたとき、私たちの体に何がおきているか。それは、対話が始まったということ。胃腸や舌との対話をしているのだ。その答えを無視すると、例えば、お酒を飲みたくないのに、誘われれば飲めてしまうのだ。しかし体はいつか変調を起こす。何が食べたい、という欲望をもっていれば、人生の楽しみがひとつ増えるだけでなく、健康でいられるのではないだろうか。

2015年10月15日 (木)

自由

旅行したい、遊んでいたい、寝ていたい・・誰もが自由を欲しがっている。イルカの遊泳するさまを見ては「いいな」と思い、飛ぶ鳥を見ては「空を飛べたらな」と思う人も多いのではないか。人は、仕事に、組織に、学校などに縛られているのだ。町を歩けば道や、信号など束縛が多いことは驚くほどだ。自由を与えられたときに、自分はどう変わるのだろうか。よくなる?ならない?どうすれば自由を手にすることができるのだろうか。

2015年10月14日 (水)

欲しいもの

人が欲しいと感じているものは、本当に欲しいものだろうか。それらは、たいてい他人が手にして満足しているものだったり、雑誌の売れ筋ランキングで上位を占めているもの、宣伝しているものばかりだ。自分が心底欲しいものではなさそうである。自分で選んだと思っているものも、よくよく考えれば他との比較にすぎないのだ。「これなら笑われないだろう」、「褒められるだろう」と他者の目で選んでいるのだ。そう考えると、本当に欲しいものがないことに気がついてしまう。そこで慌てて他人が求めているものを、あたかも自分の欲望のように思い込むことで安心しているのかもしれない。そうなると、ものよりも、ものを欲しがる欲望が欲しくなるのではないだろうか。

2015年10月13日 (火)

言葉

われわれはいつも頭の中の誰かと対話している。「いじめられた」と頭の中の誰かに語ったとき、彼らが「たいへんだったね」と答えてくれれば、自分は守られていると感じて自信をもてるだろう。もしこのとき、「しっかりしろ」、「ダメな子」といわれれば、自分はダメな子と感じて自信を失うことになる。自信をもつためには、いつでも誰かから、「たいへんだったね」と言われていることが必要だ。その言葉が幻想でも、一時的な気休めでもないと感じれば、相手を肯定的に受け止めることができるだろう。私たちは間違いなく、言葉の海に暮らしているのである。

2015年10月12日 (月)

聞き手

どんな人にも悩みはある。成功した人にも、注目の人にも、もちろん悩みはある。ところがそう感じられないのが人間ではないか。そういう人に自分の悩みを打ち明けると、相手から、「こうして私は乗り越えた」と聞かされることはないだろうか。聞かされた方は、落ち込んでいるところに「乗り越えた」の言葉が入ってきて余計落ち込むことになる。「だからあなたも頑張りなさい」と言われているように感じるのだ。「私にもそういう時があった」の言葉も聞き手を苦しめる。こうした場合、聞き手を励ましても、慰めても効果はなく、時には有害でさえある。聞き手とは、文字通り聞くことに徹する人である。

2015年10月11日 (日)

分かる

人に向かって自分を語るとき、相手が「分かる」と返事をしてくれる。そのとき、語り手のどこまで分かってくれているのだろうか。私たちは互いに脳を交換することができないので、せいぜい自分のことを、言葉に乗せて伝えることしかできないのだ。ここに誤解が生じる。人が「お腹が痛い」と言うとき、どれだけ、どのように痛いのか、シクシク、キリキリ、重い、ムカムカ・・、相手と同じように感じることは不可能である。もしかすると「学校に行きたくない」という言葉が隠されているかもしれない。だから「痛い」と相手が言ったときは、ただ耳を傾ける私になるしかないのだ。しかし、それだけで相手が癒されることも知っておかなければならない。

2015年10月10日 (土)

失敗

テレビ放送で、ホオジロサメの生態を調べる番組を放映していた。ロケット型の潜水機にカメラを搭載してサメを追跡するのだ。追跡するうちにサメが行方不明になる。カメラは何もない海中を写し出している。次の瞬間、潜水機の真下からがぶりとサメが噛みついてきたのだ。船上でモニターを見ていた研究者たちは、大きなショックを受けていた。しかしそのことが大発見につながったのだ。サメは獲物を真下から攻撃するのだ。普段サメの回りを魚が泳いでいてもサメが襲わないのは、サメが小回りがきかないからである。このことに気づかせてくれたのも失敗があったからだ。失敗を恐れるな、というメッセージがいかに大切なことであるか思い知らされる。

記憶と忘却

自宅のそばを大きな竜巻が通過してから早や一年が経過した。大きな三本の栗の木も根こそぎ倒され、根元に埋めた犬の墓も蹴散らかされたのだ。骨を埋めなおした桜の根も、夏草に覆われて墓石さえ定かではない。残っていた栗の木の巨大な残骸は、チェーンソーによる粉砕で跡形もない。それでよかったのだ。もしその形跡が残されていたら、われわれは過去から一歩も抜け出られなくなるだろう。記憶と忘却と、その両方がわれわれの心の中に存在するのかもしれない。

2015年10月 9日 (金)

好物

私たちが好んで口にするものはいったい何か。なにゆえにそれを好んでいるのか、理由も分からないまま口にしているものがある。ある人は、子供時代にチョコレートを自由に食べた結果、大人になってから口にしなくなったという。食べ過ぎて嫌いになった例である。そう考えると、好物とは、食べさせてもらえなかったもの、目の前にありながら何かの理由で奪われてしまったもの、禁止されたものかもしれないのだ。人間は、無意識的に「欲しくてたまらなかったもの」を、奪い返そうと躍起になっているのかもしれないのである。

2015年10月 8日 (木)

雑草

雑草は芝生の敵、などと思ってはいけない。踏まれても伸びる雑草もあるからだ。正確に言うと、踏まれなければ生きられないのだ。同じところに生えている雑草と同じように踏まれるが、それでほかの草は一挙に枯れてしまうがゆえに、その雑草だけは平気というわけである。かわいそうだからと、その雑草だけ踏まれないように柵などで保護してやると、ほかの雑草に浸食されて、あっという間に滅んでしまうという。雑草の世界もたいへんである。それでも雑草を見ると、やはり引っこ抜きたくなってしまうのが人情というものである。

2015年10月 7日 (水)

紅葉

紅葉の季節、かつて友人が述懐していた。想像を絶する紅葉を見てから、紅葉狩りに行く気がしない、という。全山真っ赤で写真を撮るのも忘れるほどだったという。印象が強烈な場合は、もう一度味わいたい気持ちと、印象をけがしたくない気持ちの両方があるようだ。極めるということは、あとがなくなることかもしれない。人がなかなか極められないと感じることも、ある意味幸せというべきなのかもしれない。

2015年10月 6日 (火)

触れる

いいものに触れていたい、それがわたしたちの心情ではないか。一流のもの、道具、味覚・・いいものは、手に触れ、口にした瞬間から違う。歴史、文化、素材など何かが違うのだ。味わい、使っていて楽しいと感じられるのである。私たちは、だれもが一流の芸術家の技術や眼・耳を持っているわけではない。にもかかわらず、触れているだけで私たちの何かが変わってくる。それだけで心・言葉さえもが変わってくるのではないだろうか。

2015年10月 5日 (月)

主訴

人から相談に乗って欲しい、と言われたとき、人はどう反応するだろうか。必要とされたと感じる人もいるかもしれない。ところが、聞いているうちに、数分で辛くなってしまう、ということはないだろうか。答えられないまま聞き終える、などということもあるだろう。それは語りの主訴をつかみ損ねているからである。言いたいことは、本人でさえわからないということを念頭におくことである。そう考えれば、相手の主訴は自ずから見えて来るものである。

2015年10月 4日 (日)

セカンド・ウィンド

悩みは繰り返し語るうちに何となく心が軽くなっていく。スポーツの世界でセカンド・ウィンドと呼ばれるものがあるように、心の世界にも、語ることで何かに気付き、楽になる瞬間が訪れるのだ。一日に一回のときにもあるし、何日かに一回、あるいは、月や一年に一度など、小さな気付きから、大きな気付きまでさまざまだが、その反復の中で、人は成長していくものなのかもしれない。

2015年10月 3日 (土)

千差万別

人の悩みの種類は千差万別。同じ悩みなど存在せず、人の数だけあるのだ。だから人と同じ悩みを共有することなど幻想である。人が、「あなたの悩みはよく分かる」と言っているときの感情はいったい何なのだろうか。反対に、聞き手は何も教えてくれなかったと感じるとき、語り手の心に何らかの変化が生じているのだ。生じたものこそが重要なのである。

2015年10月 2日 (金)

大したこと

悩みは放っておくとやがて奔流となって放出される。小さな川の流れも、まとまれば濁流になって渦をなすことさえある。悩みは小さな段階から解放するのがよい。そんなとき人は「大したことではないのですが・・」などと前置きして語る。実は「大したこと」なので、「大したことではない」、と必死に打ち消そうとするのである。一方の聞く側は、言葉通りに受け取ってしまう可能性が高い。大したことではないことや、ちょっとしたこと、関係ないことが人間の心の中にたまっているのかもしれないのだ。

2015年10月 1日 (木)

手伝い

「何でもお手伝いします」という人は重宝がられ、周囲からは「いい人」という評価が得られるだろう。「家の手伝いをよくする子」もある意味そうではないか。一方、何もできない人、手伝わない子は、肩身の狭い思いをさせられることになる。重宝がられる人を見て、羨ましく感じる必要はあるのだろうか。私は私のことをする、それだけ考えればよいのだが、世間はそれを許容はしない。自分が自分のことをやった結果、余裕があったら人のことを手伝うというのはどうだろうか。

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