片づける
身の周りに片付かないものがあったとしたら、そのもの自体にまだ過去の自分が付着している可能性が高い。ほとんどは思い出である。あの時の私、栄光の私、いとおしい私、みじめな私、悲しい私・・・それでもその頃に確かに存在した証明がそのものにはくっついている。それそのものを捨ててしまえば自分を捨てることになってしまうのだ。いっそのこと、そのものを捨ててしまったら、いったい私がどう変わるのだろうか。
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身の周りに片付かないものがあったとしたら、そのもの自体にまだ過去の自分が付着している可能性が高い。ほとんどは思い出である。あの時の私、栄光の私、いとおしい私、みじめな私、悲しい私・・・それでもその頃に確かに存在した証明がそのものにはくっついている。それそのものを捨ててしまえば自分を捨てることになってしまうのだ。いっそのこと、そのものを捨ててしまったら、いったい私がどう変わるのだろうか。
私たちの欲望は、すべて満足させられてきたわけではない。いくつかの、ないしは多くの欲望が満たされないまま頭の中を駆け巡っている。普段私たちはそれを意識することはないが、ふと現実界でそれに出会ってしまうのだ。無性に食べたくなってしまうものや、何としても手にいれなければ、生きている意味さえもが失われる、とさえ感じられるものだ。それらは、人の目には無価値、無意味に映るようなもの。当然、本人にさえ、なぜそれがそれほどまでに欲しいのかはわからない。その欲望の意味がわかったとき、人は欲望の虜から解き放たれるのである。
人間の欲望は最初、小さなモノでしかない。いたって小さな声で語られるものである。それははかなく、形も定まらず、曖昧模糊とした幼い草みたいなものだ。そんな欲望の芽を摘むのはいとも簡単である。言葉がけ一つでこの芽はむしられることも、見事な大木に育つこともあるのだ。
人が何かを欲しいとき、人はそれを口に出す。「ぼくは○高校に入りたい」、「×会社に就職したい」というように。これは欲望のある証拠である。欲望がないと、この言葉は出ない。もし、口をついて出たとしても、否定や非難の前で本人の欲望は無惨にも砕け散ってしまう。周囲いわく「無理」、「こっちの方がいいぞ」といった具合だ。そう言われて動揺しない人はいない。それでも、「絶対ここに行く!」という子もいないではない。その子はしばしば「我がままな子」として顧みられなくなる可能性は大きい。素直に人の言うことを聞く子と、聞かない子と、どちらがいいか。
自信がない、と訴える人は多い。なぜ自信がないのか。それは賛同者がいないからだ。例えば、ハンカチの一つを買うときに、ついそばにいる人に相談してみることはないだろうか。相談を受けた人は、「こっちにもあるよ」、「持っている色だ」などと「意見」をいう。決して悪意ではないこの「意見」が人をしてしばしば逡巡を余儀なくさせてしまう。何も言わずに賛同だけしていると、「感想を言って欲しい」などと相手が言うので、つい「言わずもがな」の意見を言ってしまうのだ。言葉に誘惑されず、相手が賛同だけしてくれたら、人は自信をもつことが出来るのに。
目の前の運動公園には、サッカー場が何面か設定されており、週末ともなれば、あちらこちらからサッカー少年団が集結して、試合や練習に余念がない。たくさんのサッカー少年団が走り回る中で、ひときわ目を引くグループがある。それは、子どもたちだけのサッカー少年団である。他の団体に目をやると、サッカーをしている子どもたちよりも、親御さんたちの数の方が多い。例の少年団のリーダーは上級生と思われる背の高い子が統率している。ベンチも、テントも、車もなく、飲み物・ボール・タオルだけが周りにあるだけのいたってシンプルな形を成している。これこそがサッカー少年団なのだ。
高校ではスポーツクラブに入部した。放課後の練習は、メンバー一同でのグラウンド3周から始まる。先輩が「ファイト――オウ!」と叫ぶと、メンバー一同がそれに呼応して「オウ!」を呼応する。私は、モノ言わず声を発しないことを信条としてきたので、ただ黙々と前の人の背中をみながら走っていた。上級生が私に「お前も声出せよ!」と言う。仕方なく「ォゥ」などとごまかしていると、「今度はお前の番だ」という。例の「ファイト――オウ!」を言えという。黙っていると「早く言え!」と畳みかける。私は生涯初となる大声で「ファイト――オウ!」と叫んだ。その瞬間、十数人のメンバーが「オウ!」と大きな声で唱和した。次の瞬間私の目から熱いものが流れてきた。
人が人に自分の考えを語るとき、聞き手はつい反対の意見を言い勝ちである。「出かけよう」に対して、「早すぎないか?」「大丈夫か?」などと言う人もいる。自分の考えと聞き手の考えがぶつかって混乱することになる。なかには、意図的に反対意見を言う人もいる。みんなで山登りしようというと、今こそ海だといったるする。この場合、会話はいっこうに噛み合わず、でこぼこ道を行くがごとき様相を呈する。こうして人は人との会話が嫌いになっていく。 この辺りで、ただ「聞くだけ」に徹する方法を身につけるべきではないだろうか。
何事も自分で決めるのは難しいと感じている人は、人に相談するから難しくなるのである。重大なことはさて置き、些細な事、たとえば、昼食に何を注文するか、ネクタイは何色にするかということは、自分で決めることだ。「店主任せ」であっても、任せるという意志があればよい。自分で選択すると、同じような柄になるから店員に任せる、でもよい。自分で決める以上に重要なことは、決めたものには自分で責任を持つことである。
人間は、本当の自分を自覚することはできない。会社に行きたくない自分、勉強したくない自分などは自覚することができない。それは社会的にも自分にとっても許され難いことなので、自分のなかで抑圧している。そんなとき、人の口から、「会社にいかなくては!」、「自分に打ち勝とう」という言葉になって出てくる。しかし本当の自分はそうした言葉の間隙をかいくぐって、身体や行動に現れてくる。どうしてこんな症状が出るのか、なぜあんな行動に出たのか、といった風にである。原因は元を断たなければ解決することはないのである。
赤信号と青信号とどちらが好きかと言えば、もちろん青と答えるだろう。深夜の国道で青信号が連なっている中を、車で次々クリアしていくのは気持ちがよいものだ。人生はこうはいかない。それはダメ、こちらにしろという否定の連続だ。この道もあるよ、この学校も近いよ…というささやきのほうはもっと始末に悪い。言う側は、悪意などないつもりだが、本人はその言葉によって、一挙にペースダウンするからだ。いっときだけでもいい、青信号を走って自信をつけさせてほしいものだ。
駅のベンチで、家族連れの弟の方が気持ちよく寝ている。五歳くらいの兄は、弟の頬を突っついたりしている。なぜそうするのか。それは嫉妬心というものだ。相手に自分の姿を写し出して、相手がくつろいでいる姿を見て、「それが欲しいのは自分だ!」と言っているのだ。この感情は、いつでもどこでも、誰に対しても感じてしまうたぐいのものだ。人はこうして、人が欲しいものを求めてやむことはない。
電車の車窓から外を眺めると、近くの景色に較べ遠くのそれは実にゆっくり流れていく。人生も、目の前の仕事や難題をこなすのに精一杯だと、将来に目を向ける暇がない。人には、行く末を考える時間も必要である。人は、いったい自分の将来にはなにがあるのか、と考えるべきである。漠然としたものでもいい、語れるものや、自由に語れる環境があったら、幸せという他はないであろう。
人には厳しく、自分には甘くしたい、大目に見てほしい、それが人情ではないか。なぜ人は人に厳しくしてしまうのか。それは、目の前の相手に、自分の怠惰な姿を投影してしまうからだ。自分では一番認めたくない姿が、目の前にゴロンと存在したようなものだ。ちょうど自分の声をテープレコーダーで聞いたときの、あの気味悪さに相当する。どうすれば相手に寛容になれるのか。
人はなぜ笑うのか。一緒に笑ってくれる相手がいるからである。自分の笑い顔を自分では見ることができないので、相手の顔の上に自分の快感情を受け取る。それで愉快になるのだ。ところが、こちらが笑ったときに、「なにがおかしい」とか、「男はニヤけるな」と言われれば、人は笑うことを叱責と受け取り、笑わなくなるだろう。一緒に笑い合える人がいるかどうか、笑える環境・空間があるかどうかが問われることになる。
言葉を憶え始めた子どもたちが「ぼくはリンゴじゃなくてみかんが欲しい」というとき、そこには本人の意志が語られている。人間が自分の考えを言う、こんな当たり前のことも、考えてみれば「すごいこと」である。「わがまま言うな」、「贅沢だ」などと言うのは、意志を捨てろ、といっているようなものである。そのとき、私は死にましたと言っているに等しい。後年、その子が、意志を言いなさいと言われても、簡単に言えるようなものではない。幼いときからの対応が大切である。
※小山市において、インテグレーター養成講座が開講されます。奮ってご参加ください。
月1回・毎月第3水曜日 午前9時30分~12時30分(3時間)
日時:平成28年1月20日(月)午前9時30分スタート
会場:小山市勤労青年ホーム
ご参加希望の方は、当所ホームページをご覧の上、互味(090-7261-5001)までご連絡ください。
人は、自分専用の道具にこだわる。それは、「私だけのもの」だからである。パーソナルなものだからこそこだわるのである。たかが道具と言うなかれ。自分のものにこだわる人は、他人にも理解を示すことができる。道具選びにこだわるほどには、パートナー選びは直感で選んだりしていないだろうか。
スーパーなどで「最後の一個」を手にしたときの人の喜びは大きい。残り十個の比ではない。どちらも同じものとわかってはいても、味まで違うように感じられる。人はこうした差異に価値を見いだしている。ところが、同じ品ものが他店で安く売っていれば、人の機嫌は急降下する。人は、出産時の体重から、身長、体重、学校の成績・・あらゆる差異に悩みながら一生を終える、それも人生。どうしたら、人と較べない人生を歩むことができるのだろうか。
ペットたちは鎖に繋がれている。小鳥たちの自由は籠の中だけだ。われわれ人間も似たり寄ったりではないか。会社に縛られ、学校や組織に縛られている。そこから抜け出たいと思う人と、寄らば大樹の蔭を決め込む人とがいる。どちらも真実であり、その人の価値がそこにはある。鎖から解放されたときに、自分に何があるのかという問いかけもまた、真実の問いである。
レストランなどで、こちらの注文通りのものが出されればいいが、違ったものが運ばれて来れば文句を言うことになる。ところが家庭においては、子どもがラーメンを作ってほしい、に対して、うどんで我慢するように言われれば、仕方なく食べるかもしれない。文句を言えない関係があるかのようだ。その違いは、他人と身内の違いだ。その齟齬も積り積れば、いずれ爆発することになるだろう。こちらが言った通りのモノが出されること、これが満足である。
日本人は断わることが苦手である。ノーと言えない日本人だ。相手の好意を無にしてはいけない、という気持ちがそれを後押しする。この配慮性が相手の誤解を生む。「考えさせてください」の言葉は、「まだ気持ちがある」と受け取られ、「間に合ったら行く」は、間に合わせてくれる、と相手を確信させてしまうといった具合だ。できない、行かない、ときっぱり言うことだ。なぜ断れないのか、そこにも本人の無意識が隠されている。それを解消させることが一番の近道である。
毎朝紅茶を飲む人が、ある日突然「コーヒーを淹れてくれ」と言い出せば、家の人は「なにか心変わりでも?」と訝ることになる。本人にしてみれば、コーヒーの賞味期限が近いから飲みつくして、家族の賞賛を得ようと考えたのかもしれない。新しい紅茶を買い置きしていない家人を責めないために、あえてコーヒーにしたのかもしれない。要するにわからないのだ。そこで怪訝な顔をされれば、賞賛を得たかった、という自分の自己愛は傷つくことになる。互いが傷つかないためには、互いがどう対応すればよいのだろうか。
子どもが突然クッキーを作ってほしい、と言ったとき、母親の反応は「なんで作ってというの?」というものだろう。作って欲しい本当の理由は、子ども自身にもわからない。そしてわかりたくないものでもある。たいていは、友達が食べていたものや、テレビで見たものだ。しかも、本人にとっては重大なことでもある。もし母に語ったところで、「重大だね」と言われることはない。大人の無意識の中にも、こんなことがいっぱいつまっている。人の口から、こうした申し出があったとしたら、どう対応すればよいのか。その答えは聞き手にはわかっているのである。それも無意識である。
好きなモノの上には思い出が張り付いている。それは自分で意識できなくなっている「ソレ」としか言いようがないものだ。その思い出が語れたら、それそのモノの価値がどう変わるのか。反対に嫌いなモノの上にも同じようにラベルが張り付いている。それを意識してしまうとその下の本体があらわになってしまうので、上のラベルの名前を嫌いなることで心の平安を保っている。ラベルこそいい迷惑だが、それを人に語ったところで理解されることはない。その本体が何なのかがわかったとき、上のラベルはどうなるのか。
人と人と意見が一致することはない。一致という幻想を抱きながら人と人とが会話しているのだ。一致しないのが当たり前、と心得ることだ。スポーツは楽しい、と相手が言ったき、その人の「楽しい」がどんな「楽しい」ことなのか分かるはずもない。ジャンルだって広いし、走る、と、観戦する、スポーツジムに通う、という場合の「楽しい」は全く異なるからである。走るのは好きだが、人と競うのは嫌、という場合だってある。ましてや、夫婦においておや、である。むしろ意見があわないからこそ、違った考えを楽しむことが出来るのではないか。ただし、その違いを「楽しむ」ことが出来たらの話だが・・
※インテグレーター養成講座開講。 月1回・毎月第2月曜日 午後2時~午後5時(3時間)
日時:平成27年12月14日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
※セラピーのいろは講座開講。 月1回・毎月第4月曜日 午後2時~午後4時(2時間)
日時:平成27年12月28日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
参加ご希望の方は、互味までご連絡ください。
秩父には、和銅鉱泉という温泉場がある。奈良時代、銅は朝鮮からの輸入に頼っていたのだが、日本でも銅が調達できるようになった記念すべき銅鉱石産出の地である。和銅の年号はこうして制定され、地名にも残されることになった。人間の無意識にも誰とも比べられない才能が隠されている。ただし、一つの鉱石の中に金・銀・銅が一緒に含まれていることはなさそうである。
人の心の中には、隠された能力が埋まっている。金鉱石のように、それはちょっと見ただけでは分からないような形で隠されている。それは本人でさえ、これ、と指差せるような代物ではない。それを見つけて生かせたなら、どんなに人生が豊かなものになるだろうか。苦労だって、苦労と感じないのである。それを見つけられないまま、人生を終えると思えば、悔しいことこの上ない。どうして埋まってしまったのか。そのとき何があったのか。埋まってしまう前の自分はいったいどんな自分だったのだろうか。せめて片鱗だけでも見つかればこれからの人生の手掛かりになるはずだ。
※インテグレーター養成講座開講。 月1回・毎月第2月曜日 午後2時~午後5時(3時間)
日時:平成27年12月14日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
※セラピーのいろは講座開講。 月1回・毎月第4月曜日 午後2時~午後4時(2時間)
日時:平成27年12月28日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
参加ご希望の方は、互味までご連絡ください。
「苦労しています」と人がいう時、楽しいときもあったと考えられる。楽しかったのはいつ頃か、何が楽しかったのか、そしてそれは、どんな経緯で手放さなければならなかったのか。それはみずからの手で葬ったのか、それとも他者の手によって無惨にも奪い去られたものなのか。そしてその体験が今の人生にどんな影響を及ぼしているのか、すべては忘却の彼方に追いやられている。しかしそれは違った形で表現されているものである。それを想起したとき、人の心に何かが起きるのだ。
子どもたちは自分の喜びを全身で表わす。すべての細胞に「喜」の字が刻み込まれているかのようである。大人になると、そうした表現は大人げなく、はしたないものとされ、非難の対象になる。そこで人々はスポーツ観戦に出掛けて、それを成し遂げる。それさえままならない場合、人は感動の少ない人生を歩むことになる。すなわち、食べても美味しくない、見ても聞いても面白くないといった人生である。もっと人生を楽しみなさい、と言われる以前に、人は全身全霊で喜びを表わしていたはずである。
人の人生は、自分が決めたものではない。自分が生まれる前から、他者によって書き込まれたシナリオによって、いわば生かされているのだ。お家再興のため、親が行きたかった学校に行ってくれたら、タレントになってくれたら・・といった風にである。しかし、その書き込みがなければ、自分の人生は目標を失い、なにを目印に生きていけばよいのか彷徨うことになる。他者の書き込みがあってもなくても、人間は困るのである。他者の書き込みと、自分自身の欲望とがいずれ対決することになる。その時こそ、父の出番である。
人は、他者の賞賛がなければ、実感がえられない構造になっている。誰も褒めてくれないとき、人は自分で自分を褒めることになる。これが自画自賛。時にユーモラスでもあり、滑稽でもある。それでも褒めて欲しい場合、人は意外な手段に打って出ることがある。周囲も気付かず、自分でも気付かぬままに。
※インテグレーター養成講座開講。 月1回・毎月第2月曜日 午後2時~午後5時(3時間)
日時:平成27年12月14日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
※セラピーのいろは講座開講。 月1回・毎月第4月曜日 午後2時~午後4時(2時間)
日時:平成27年12月28日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
参加ご希望の方は、互味までご連絡ください。
人には、そうしたくてもできない事情がある。社会の常識や道徳観がそれを妨げている。多勢に無勢で、自分をあとまわしにしているのが、社会における人間である。そのおかげで世間の批判を受けずに済んでいる。新入社員は上司に嫌われたくないし、上司も上司で部下の飲み代を払っていたりする。互いが互いに言い出せないまま、遠慮の塊と化していく。いっそのこと、そんな悪循環から抜け出せばいいのにと思いながら、「まあいいか」と呟いている自分がいたりもする。
※インテグレーター養成講座開講。 月1回・毎月第2月曜日 午後2時~午後5時(3時間)
日時:平成27年12月14日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
※セラピーのいろは講座開講。 月1回・毎月第4月曜日 午後2時~午後4時(2時間)
日時:平成27年12月28日(月)午後2時スタート
会場:熊谷駅前セラピールーム
参加ご希望の方は、互味までご連絡ください。