気持ち
試合で負けた、と人が言うとき、本人の気持ちは本人にしかわからない。努力した結果負けた、というのと、練習しなかったから負けた、というのとでは大違いだ。そこで聞き手がなすべきことは、残念でしたねと慰めるのでもなく、次回頑張れと励ますことでもない。慰められることで、相手の自己愛が傷つくかもしれないからだ。聞き手はただ黙って話に寄り添ってあげるだけでよい。「えっ!それだけでいいのですか?」といわれるが、それがベストであり、それがすべてである。
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試合で負けた、と人が言うとき、本人の気持ちは本人にしかわからない。努力した結果負けた、というのと、練習しなかったから負けた、というのとでは大違いだ。そこで聞き手がなすべきことは、残念でしたねと慰めるのでもなく、次回頑張れと励ますことでもない。慰められることで、相手の自己愛が傷つくかもしれないからだ。聞き手はただ黙って話に寄り添ってあげるだけでよい。「えっ!それだけでいいのですか?」といわれるが、それがベストであり、それがすべてである。
子供たちは、自分たちの要求を訴え続けている。駅で子供がもっと電車の通過を見たいというとき、大人はそれを許す。すると子供たちは、後一回と言う。もう一回・・と繰り返しているとき、子供は何を言おうとしているのか。電車についての知識を、誇らしく語りたいのかもしれない。特急電車の通過時刻を知っていることを言いたいのかもしれない。成長していますよ、と報告しているのかもしれない。学校で「先生のバカ!」という声が理解できたら、先生も子どもも心が安らぐはずである。争うごとなど起こるはずもない。それらの声が、分析家には一瞬にして理解できるのである。
人間はいつになったら満足するのだろうか。電車に乗り遅れれば、不満を言い、間に合えば間に合ったで、座れないと不平をかこつのが人間ではないだろうか。人生は不満の連続、という先人の言葉は本当だったのだ。反対に、これで思い残すことはない、という人生も問題を孕んでいる。世の中は、人に満足を与えてはくれないのだ。しかし、一ヶ所だけそれを与えてくれる場所がある。それが家庭である。
チャンスの女神は二度は微笑まない。人生において、大きなチャンスはめったに訪れるものではない。一生のうち3回あればまずまずだ。そのチャンスをつかむかどうかで、その後の生き方が変わってくる。それがチャンスかどうかを見極める眼をもてるかどうかも大切だ。たいていの場合、自分では決められないのである。そんなときは、他人に語るのがよい。「進もうと思っている」、「見送ろうとも思っている」、「そのどちらでもない・・・」その道筋を相手に語っていくうちに、「ああそうか!」と思うときは必ずあるものである。それが確信である。
やさしい言葉は、自分がかけられることによって登録される。「おはよう」と声をかければ、「おはよう」と返事を返す子供は、その言葉をかけられた経験があるのだ。やさしい言葉の中で育てられれば、肯定的な子に育ち、否定的な言葉の中で暮らせば、否定的な言葉だけが脳裏にインプットされることになる。これが登録である。私たちが使っている言葉は、すべて子供時代に登録された言葉なのである。それらは無意識になっているので、自分で気づくことはないが、ふとした瞬間にそれに気づかされる。「言い方がパパそっくり」とか、「しぐさ(これも言葉です)がママそっくり」と言われてビックリした経験がそれである。やさしい言葉をかけられなかった人はどうすればよいのか。
一つの現象に出会ったとき、人によってその受け止め方はさまざまだ。風が強い、という現象ひとつとってみても、飛ばされないようにと思う人もいれば、山の向こう側は雪かな、と受けとるひともいる、風速何メートルかなと、数値化する人もいるだろう。お互いがまったく違うものを見ている。ましてや、女性が男性を理解したり、男性が女性を理解することなど、難しい話だ。だからこそ理解する、といって考え出されたのが精神分析である。
道を歩いていて、何か上からものが落ちてきたりすると、自分に天罰が下った、とか、悪い予兆?、それとも前世の報い?・・などと考えがちではないか。それが意味づけである。私たちが意味に生きている証拠である。動物にはそれがない。人間は言葉をもったがゆえに言葉に悩まされる。言葉とは意味だから、意味づけしてしまうのだ。反対に、よい方に考えるのも意味だ。人が失敗した場合、それを天罰、ととるか、成功の母、と受けとるかで、人生の意味も変わってくるはずである。
寒いとき、人は日溜まりを求めてやってくる。日の当たらないところよりは、暖かいところに人は集まってくる。日溜まりだけではなく、温かな言葉のもとに人は帰ってくる。家が温かいだけではなく、温かな言葉が家に満ちているのである。日溜まりのような言葉を求めて、今日もこどもたちは帰ってくるのである。
誰かに贈り物をするとき、その好みや味覚はいったい誰の基準だろうか。相手の味覚、店員の薦め・・誰もが考える基準はすべて表面的なものにすぎない。相手が喜んでくれるかどうか、相手の好みで選んでいるかのようにみえて、それが事実かどうかはわからないのである。もしかすると相手の好みが変わったかもしれないのだ。どんなに想像をたくましくしてもそれらを理解することはできないのだ。それでも一人納得したかのように決めて贈ったりしている。贈り物の選択基準とはいったいどこにあるのだろうか。それだけではなく、「美」の基準、配偶者選択の基準・・・それらの起源はいったいどこで学んだものなのだろうか。
欲をかいてはいけない、我慢しなさい・・・などと言われて、我慢できる人と、イラつく人とがいる。前者の方が心は平穏で、後者の方が大人げないなどと言われそうだ。よく考えてみれば、後者の方が欲望がある人と言えるかもしれない。イラつかないということは、欲望がないとも考えられる。欲望があるとは、生きているということ。ない人の方が少しさびしいいともいえるだろう。食べ物、洋服・・・なんでもいい、という人は一見するとおとなしく、素直で、欲をかかない人・・・といったプラスの評価をあたえられるかもしれない。それはそれでよいのだが、もっとこだわりたいという人と、これでよいという考えの、両方があることも事実である。
子どもたちは、自分に興味があるものを凝視する。それが関心。そんなとき、大人はじろじろ見てはいけない、などと注意する。それでもやめないのが正常。将来、何事にも関心を向ける子供に成長することになる。ところが、禁止されてしまった場合、その子は見ることに罪悪感を感じるだろう。しかし、見たいものは見たい。大人になってから、そうした欲望は、違った形で行動に現れることになる。関心が、創造的なものに生かされる場合と、生かされない場合とが生じるのはそうした幼少期の経験が影響しているのである。
~になりたい、という欲望は人間が最初からもっているものではない。自らがサッカー選手になりたいと思って生まれてきたのではなく、誰かがサッカー選手になってくれたら、と語っていたものだ。人間はその台本通りに生かされているのである。あたかも私が書いた台本だと思いながら暮らしている。しかし、そうした当面の目標がなければ、私たちの生活はその意味を失ってしまう。しかし、それが私の欲望ではないことに気がつくときがくる。他者の欲望と本人の欲望とがぶつかり合ったとき、その仲裁をはかるのが父の役割である。
人から「そのくらいのことを気にするな」などと言われても、気になることはやはり気になるものである。他者にとっては「そんなこと」でも、当人にとっては重大問題なのだ。すべての人が「そんなこと」を抱えて毎日を暮らしている。気にしないように言われ、自分でもそう心がけていても、何かのきっかけで、それを思い出す瞬間がやって来る。誰かから睨まれたように感じたり、拒絶されたように思えるときは、かつて、無視されたり、バカにされたりした記憶がよみがえってきているのである。そのとたんに気分が落ち込んだり、イライラしたりすることになる。そう考えると、人間は気分で生きている生物といえそうだ。
我慢させられたものは、いつかまた欲しくなる。子供時代に買ってもらえなかったおもちゃ、兄のお古で諦めた自転車など、人間の歴史は諦めの歴史といっても過言ではない。そんな品物も、自分で買えるようになったとき、買いまくるようになるのだ。しかしそれは子供時代に欲しかったものではないので、また買う、という繰り返しのなかで、私たちはものに囲まれるようになる。欲望とは、欲しいと思ったときが旬なのだ。今、私たちが欲しいと思ったものは本当に今欲しいものか、それとも、昔諦めさせられたから欲しているのかがわからなくなるのである。
モノが好きになるとは、どういうことだろう。それは自分の自我理想をモノの上に見出しているのである。要するに、自分で自分を好きになるということ。自分にとって嫌いなモノも、そのモノの中に自分を見出していることになる。どちらも自分である。そう考えると、世の中で出会うモノはすべて自分ということが言えそうだ。
何事でも、自分で行えば喜びが生じてくる。乾電池一つ替えただけでも、懐中電灯が生き返ったかのように感じ、ネジ一つ締めなおせば、家具の強度が高まったかのようにも感じられる。そこに自分を見いだしたからである。専門家まかせの場合は兎も角、何でも自分ですることである。それが能動性である。主婦が毎日の掃除に余念がないのは、自分磨きをしているのかもしれない。
「ワサビは醤油に溶かさず、直接刺身につけろ」とか、「お風呂は肩まで浸かれ」などと教えてくれる人も多い。みかんの皮は下から剥くか、上からか…世のなかにはいろいろな流儀があるらしい。私は私なりの方法で生活したい。この程度の流儀なら問題はないが、「子どもの乳離れはどうするか」とか、「抱っこをせがむ子はどうするか」という対応法は重大問題だ。どんな流儀?で育てれば、どんな結果になるというのだろうか。
人にはその人だけこだわりがある。車にこだわり、美容院にこだわり、食べ物、ファッション・・・人の数だけこだわりが存在する。人と人とが出会えば、それぞれのこだわりを伝えあうことになる。当然のことだが、それらが一致することはない。相手の話に長時間耳を傾けられないのは、こうした理由による。こちらがこだわりを出さなければ、こちらが「からっぽの人間」になってしまうのでそれも困る。そこでこちらの考えを出すのだが、相手はそれを理解してはくれない。どうすれば、相手のこだわりを理解出来るのか。それは、こちらのこだわりを捨てることである。
人間は生まれてすぐには立つことが出来ない。動物が産み落とされて2~30分後には立ちあがるのとは大違いだ。そこで母による養育が必要不可欠となる。一人前になるまで人間の子どもは18年もかかるのだから、養育期間は長大だ。わが子が自分の足で立ちあがったときの両親の喜びようは大きい。その一方で、精神的に独り立ちした瞬間に何が起きるのだろうか。彼はこう言うのだ。「嫌!」と。この言葉を自己主張と受け取るか、反抗と受け取るかで、その後の彼の成長に大きな影響を残すことになる。
私たちは、周囲の人たちから、相手の立場に立って考えるように教わってきた。そうすることが「思いやり」、「優しさ」であると言われてきた。しかし、そうすることが日常生活の上でいかに難しいことか、誰もが経験している。例えば電車の車内で席を譲るべきか、譲らざるべきかで悩み、譲ったために気まずい思いをした経験は誰にもあるはずだ。しかも、そうすることが、自分の親切心でしたことなのか、譲らないと「気配りがない人間」と思われるかもしれないと思ってしたことなのかがわからなくなるのだ。こうして、私たちはどちらの自分を演ずるべきかの葛藤の中で暮らしているのかもしれない。
梅の花を見て、ある人は花びらの色を見、ある人は花弁の数を数え、また別の人は春の訪れをその上に見ている。梅林からの道すがら、紅の色の鮮かさを隣の人に語っても、見物客の多さに驚いていた相手は「そうだったかもしれない」と少しうなずくだけである。同じ梅林で同じ梅を見ても、人の数だけの梅が存在するのだ。結局、自分の見た梅は、相手に伝わらない。伝わったと思うのは幻想にすぎない。こうして私が見た梅の美しさは、相手に理解されたかのように感じて会話しているのが私たち人間である。
子どもたちは、相手をジッと目を凝らして見る。その凝視に大人たちは辟易する。彼らは人、モノを観察しているのである。対象を嗅ぎ、感じ、見、触れ、そして行動する。その凝視こそ、観察能力そのものだ。周囲はしばしば、「じろじろ見てはいけない」などと言う。その制止こそが対象に対する関心の芽を摘んでしまう。興味を抱く、関心を持つ心の起源は、相手をジッと見ることにある。子供時代に制止された欲望は、違った形で行動としてあらわれてくるのである。
人はなぜ決断できないのか。同僚からの食事の誘いを断れないのはなぜなのか。それは「嫌われるかもしれない」、という想像がはたらくためだ。もし参加すれば、「よく来た」といわれるかもしれず、行かなければ翌日同僚からどうしたのか問い詰められるかもしれないという想像が自分を苦しめるからである。しかし、自分一人が参加しなくても、体勢に影響がないことも、同時に知っている。何かのパーティーに途中から参加したら、自分なしでも十分に盛り上がっていることを、経験として知っている。ではどうすればよいのか。
朝起きるとき、心の声が聞こえる。その声の内容は、今日もやるぞ、この日がきたな・・といったものだろうか、それとも、また朝が来てしまった、とか、いかなくちゃ、なのだろうか。その声に耳を傾ければよいが、声を無視して起き上がったとたんに、腰が痛くなったりする。家族のため、会社のため・・。そんな声の大合唱のかげで、本当の声はかき消されてしまう。誰だって会社のポストがなくなるのは死活問題だ。体にむちうって行かざるをえない。悩みはこうした大合唱のかげに身をひそめながら、こっそり、それとは知られない形で生き延びているのである。見えるようで見えないお化けみたいである。
人間は音に敏感である。大きな音に驚き、甲高い声に違和感を覚えることもあるだろう。ヒトラーは集会に先だって不快な低音を会場に満たしておき、自分が現れたときに音をとめて、自分の出現を心地よく感じさせていたという。反対に、無音もまた人を不安にさせる。ひとりぽつんとこの世にいて、誰とも会話しない寂しさはたとえようもない。人は人と話を交わすことで、自分の存在を確かめている。子どもが「お母さんは優しいね」と言うとき、子どもは母に何を語っているのだろうか。
わたしたちが本を読んでいるとき、誰の声で読んでいるのだろうか。それは私たちが誕生直後から耳にしている母の声である。音量、調子、感情・・すべて母の声が原型である。シューベルトの歌曲を聞くとき、歌手の声の裏側に、紛れもない母の声がこだましているのである。
私たちは、街ですれ違うたくさんの人の中に、知り合いの姿を見つけることがある。それは「見ている」のではなく、その人を「見いだし」ているからだ。その人に関心がある証拠である。多くの人、モノ、事柄のなかで、自分に関心のあるものしか見いだすことはできないのである。赤い服をみて、ある人は、赤い服が好きだった失恋相手を思い出し、別の人は心をときめかしている。人間は、人と同じ感情を抱くことはできないのである。そこに誤解と不理解が生じる。子供が象を飼いたいと言う、その子の関心の先にはいったい何があるのだろうか。
私たちは日々、たくさんの言葉を耳にしている。ある言葉は聞き流し、別の言葉に聴き入っ足りしながらである。「その言葉が気になる」という場合、その言葉の起源を知るべきである。本人の無意識が何かを語っているからだ。ある人には気にならない言葉も、本人にとっては重大問題である。ひとの「気にするな」という言葉がいかに当人の心を傷つけるか計りしれない。本人は大いに「気にしている」からだ。その言葉がなぜその人を傷つけるのかを知ったとき、その言葉が気にならなくなるのだ。
人が相手を呼ぶとき、いろいろな呼び方がある。様、さん、君、ちゃん・・・。相手を「ちゃん」と呼ぶとき、親しみを込めて呼んでいるのだろうか、子供時代からの習慣で呼んでいるのだろうか。勤めている会社の社長さんを~さん、とは呼ばないが、同僚が社長になったとたんに、「社長」と呼ぶのは常識である。社長という「意味」を本人の上にくっつけてそれを「読」んでいるからである。そうなると、私たちは本人を見ているようで、本人を見てはいないとも考えられる。私たちが「ママ」と呼んでいる相手とはいったい誰なのだろうか。そして、私たちが「ちゃん」と呼ばれるとき、そこにはなにが語られているのだろうか。