囲まれる
自然に囲まれているとき、人は癒されているのを感じる。なぜ人は癒されるのか。自然がこちらに迫ってくることがないからである。自然が私から遠ざかっていくこともない。こちらから自然に近づけば、自然はただそこにいるだけである。こちらが帰路についても、自然はそのままの姿を保っている。この距離感が人を癒すのである。
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自然に囲まれているとき、人は癒されているのを感じる。なぜ人は癒されるのか。自然がこちらに迫ってくることがないからである。自然が私から遠ざかっていくこともない。こちらから自然に近づけば、自然はただそこにいるだけである。こちらが帰路についても、自然はそのままの姿を保っている。この距離感が人を癒すのである。
人は、ものごとを善か悪かで考えていないだろうか。考えてみれば分かることだが、善と思ってしたことが、相手に善と受け取られたかどうかはわからないのである。善意のつもりで座席を譲っても、相手がそれを善と感じるかどうかはわからない。場合によっては、年寄り扱いされて不快を感じる人だっているだろう。人はいつでも、相手がどう思うかを考えながら暮らしている。何か言われるのではないか、といつもびくびくしている。それでは、どう相手に接すればよいのか。それは、善も悪も考えず、自分で決めることである。自分はこうする!と。
ハワイ旅行は、かつては夢のまた夢だった。クイズを当ててハワイに行こう、というキャッチコピーが当然という時代だった。今では、行こうと思えばすぐに行けてしまうのだ。すぐにかなえられるものは夢とは言えない。今すぐ手に入らないからこそ夢である。夢はまた儚いものでもある。手に入った瞬間に消えてしまうのもまた夢である。こうしてわれわれは永遠に夢を追いかけていくのだ。皆さんにとっての近い将来の夢、中くらい将来、遠い未来の、それぞれの夢は何であろうか。
人が何かに打ち込んでいる時、その人の頭の中にはどんな言葉が響いているのだろうか。それは「すごいね」という言葉だろうか、「いいことだね」という称賛の言葉だろうか。そこにあるのは、母の顔である。顔も一つの言葉だ。笑っている、怒っている、無視している・・それぞれの顔に言葉が書き込まれているのだ。人間はそれを、いわば読んでいるのである。
私たちは生まれつき欲望を持って生まれてきたのではない。無一物の状態でこの世に生を受けたのだ。そこに他者の欲望が書き込まれているのである。子供は罰を受けるよりも、他者の称賛を得る方を選ばざるを得ない。それが「いい子」だ。反抗期とは、反抗ではなく、自己主張の時期。しかし、「嫌!」と言う子は多くの場合、他者たちから否定される。それでも自己主張し続けることができたなら、私たちの人生はまた違ったものになったかもしれないのだ。
人は誰からも好かれたいと思う。いい人でいたいと願っている。しかし、ちょっとした一言を発したがために、相手の機嫌を損ねてしまうことがある。なぜそれを言ってしまったのか考えてもわからない。それがコンプレックスである。普段、それが顔を出すことはないが、相手が言った言葉、態度などに刺激されて瞬時に出てしまうのだ。それは自分の意志とは関係なく光速で出てくるので、自分では止めることはできない。私という人間とは別の人格が、勝手に動き出してしまうのだ。コンプレックスを解消しておかないと、失言や失敗の連続になってしまう。コンプレックスを解消しつくしたら、周囲の人たちがどんな風に見えるのだろうか。
人間は寄る辺なき存在である。人間は何かに頼らなければ生きていくことはできない。それが依存心だ。自分からこれを取ったら何も残らない、というのも依存の一つだ。アルコール依存は、量が増え続けていく危険性がある。子どもに依存したり、親に依存したりすれば、自立は望めない。お金に依存する人は、あれば失うことに恐怖を覚え、無ければ不安で仕方がない。頼れるのは自分だけ、というのは、自立心があるように見えて、一歩間違えれば人を信用しないことにもなりかねない。では一体何に依存すればよいのだろうか。
同じものを見ていても、人それぞれが違うものを見ている。俳優がコップの水を飲むシーンを見ても、ある人は俳優の口を見、ある人はコップのメーカー、ある人はコップの中身をそれぞれ見ている。同じように、母が「いい子だね」と子どもに言うとき、子どもは母のすべてを見ている。母が目では笑っていても、テレビに視線が向いている、顔が笑っていない…といった具合にである。目で笑っていても、「ママ笑ってない」などと子どもたちは言う。小手先の対応かどうかを子どもは知っているのである。心の底から、「お前が大切」という気持ちになれるかどうか問われることになる。
欲望とは、それが得られた瞬間になくなってしまうものだ。よく体験することだが、買った途端に興味はなくなる、ということ。だから、欲しいものを与えてしまえば、子どもは欲しい欲しいと連呼することはなくなる。食べ物も、食べてしまえば、店から帰るだけになるのだ。反対に、我慢しろ、という言葉をかければ、欲望は一気に膨らむことになる。子どもたちの訴える膨大な欲望とは、むかし得られなかったものの集積なのである。
桜が散りましたね、と人が言うとき、その人の目に葉桜が映っていると同時に、満開の桜を思い出しているのかもしれない、いい写真が撮れたことを伝えたいのかもしれない。鰹の季節を語りたいのかもしれない。そうなると、桜の花が散ってしまったことより大切なことがあるのだ。人は、物や人を見ながら、その向こう側にあるものを見、聞き、味わい、嗅いでいるのかもしれないのである。
「君は無責任だ」と言われてムカッとしない人はいないだろう。誰にも「長閑なところ」があるからだ。しかしそれを言われたところで、すぐに改善できないのも人間ではないだろうか。どうしたらムカッとしないでいられるのか。「どういう点でそれが言えますか?」と聞き返す策もあるだろう。「いえ、責任感は強いです」と言い返す方法もあるかもしれない。なぜ相手はこの期に及んでそう言ってくるかを考えつつ、「ハイ、そうです」と言えれば一番良いのだが。
天気続きがいい、と人は思いながらも、続けば飽きてしまうことも人は知っている。私たちの「健康」の概念もまた永遠に続くことはない。体には擦り傷や原因不明のできものがあり、鏡を見ては、鼻の形にため息をついてもいる。体の中はと言えば、お腹はいつもすいており、どことなく違和感があったりもする。人はこうした不満を抱えて生きているのである。ではどうやってそれに耐えているのだろうか。それは、不満を語ることによってしのいでいる。大切なことは、聞き手が完全に話を聞き入れてあげることである。それだけで8割の悩みは消えるのである。こちらがそれを語っても、相手も同じように「実は私にも…」と訴えをはじめたら、悩みの総量は一緒になってしまうから要注意である。
街を歩いていて気になる人がいる。おしゃれな人、急ぎ足でせかせかと歩く人、背筋を伸ばしてさっそうと歩く人がいる一方で、背中が曲がっている人、足を引きずるように歩いている人なども気になる。何百という人とすれ違う中で、その人だけが気になってしまうことがあるものだ。隣の人から「あの人は素敵だ」と言われても、「そうかな」と思ったりもする。見ている対象は一緒なのに、その人だけをチョイスしている、その選択基準はいったい何なのだろうか。
人間は三つの次元を生きている。過去・現在・未来の三つである。過去を振り返ることで、今の自分が見えたりする。「昔はやんちゃだったけれど、今は真面目かな」と考える。また、「今はこうだけれど、将来はもっとこうなりたい」と考えることもある。三つの次元を行ったり来たりしながら生きている。過去ばかり見ていれば、それは郷愁であり、目前の仕事に没頭すれば、未来が見えなくなるだろう。将来ばかり考えていたら、足元がおぼつかなくなる。ときに過去を振り返り、そして未来をも見つめることが必要だ。未来のことはわからないのではなく、未来は自らの手で作るものだからだ。
コップの水は飲み始めれば、減る一方だ。乾電池も使い始めた瞬間から電圧は減るばかりとなる。私たち人間の心の満足度も、満たしておかなければいつかは涸渇してしまう。私たちは常に充電しておかなければならない。気がついたら空っぽだった、という前にである。大人は自由に振舞えるので、充電だ、といってある程度休みを取ったりできる。子どもたちは、いつでもこころの空腹をかこっている。ああして欲しい、こうして欲しい、あれも欲しい、これも欲しいと訴え続けている。彼らは充電なしでは生きていけないと訴えているのだ。いや、叫んでさえいるのである。
美しい花を見る人の心にあるものは何だろうか。それは懸命に生きてきた人の姿そのものではないだろうか。脇目もふらず生きてきた自分の姿そのものではないだろうか。立派に咲いたね、と心の中でも呟く、その言葉は自分に対する賞賛の言葉である。私は今生きている!咲いている!そしてこれからも生きていく!と。
私たちの身の回りはカードだらけである。図書館カード、クレジットカード、メンバーズカード・・・いっそのことなくなってしまえばいいのに、と思ってしまうほどの数である。人はなぜカードを手放せないのか。それは、カードを持っていることでどこかと繋がっているという安心感があるからだ。カードを店員に提示した瞬間、自分はこの店と繋がってる、自分はこの店の常連客なのだというちょっとした自負が胸にあふれてくるのである。人間関係とは、人と人とのつながり、それは視覚化できないもの。だから、目にすることのできるカードを身に着けているのである。
人はなぜモノが捨てられないのか。それは、モノに思い出が詰まっているからである。モノ自体には意味はないのだ。人には「捨てろ」と言いながら、自分のモノは捨てられない理由もそこにある。引っ越しに際して、物置の荷物をそっくり捨ててしまった。「捨てるんじゃなかった」と悔やむものは・・・実はある。その内訳は、折り畳み式の椅子。人はこう考えるに違いない。そんなものはホームセンターで売っているではないか、と。そのように、他者の頭になって考えることを他者化と言う。その瞬間、私は一人の他者になれるのである。
「ぼくはサッカー選手になる」と子供が言うとき、彼の欲望は他人のマネで構成されている。しばらく経ったころ、今度は「ラグビー選手になる!」などと言ったりして周囲をあわてさせる。それは、人間の欲望が、他者の欲望を真似していることを物語っている。親御さんは、子どもに振り回されて大変である。われわれ大人だってその辺の事情は同じだ。今年の春はパステルカラーが流行りますよ、などと言われると、黒しか着ないという、本人の意志などあっという間に吹き飛んでしまう。モノに囲まれた人間は、環境から影響を受けざるを得ないのだ。それが情緒性に満ちたものなら、その子は情緒を身につけることになるだろう。その逆の環境であったならば、その子の人生は仕事だけという人生になる可能性は高いといえる。
人生は比較の連続である。皆でレストランに入る。メニューを見ているようで、実は比較している。量、値段、昨日食べたかどうか・・カロリーを比較する人もいるだろう。誰かが「ボクはハンバーグだ」と宣言すれば、ここでも比較がはじまる。自分は違うメニューを注文する、とか、私も一緒だ、というのも比較である。そう考えると、本当の私の考えは存在するのか、という疑惑が生じてくるのである。
「花に嵐」のたとえ通り、思い通りにいかないのが人生だ。うまくいったかどうかは、その人の受け取り方一つにかかっている。うまくいかなくても当たり前、うまくいっても当たり前なのである。まわりの人が自分を理解してくれなかったのも当たり前、と考えるのである。桜の木は「今日は風が強い」などと考えない。人間もいちいち腹を立てていたら腹がいくつあっても足りないだろう。あと少し経てば、柳が芽吹き始めるころだ。「柳に風」の考えもいかがだろうか。
人間はたった一つの言葉で感激したり、一つの文字を見ただけで昔の記憶が蘇ってきたりする。それは言葉に力があるからだ。腕をグルグル回したり、ランニングしたりするのも、頭に言葉を思い浮かべた結果である。人を勇気づけたり、悲しませたり・・すべては言葉の使い方一つにかかっている。美しい詩や文章を読んで言葉を豊かにすること、それを情緒と呼んでいる。
暗い帰り道の途中、家の灯りがポツンと見えたとき、人は温かみを感じるだろう。たった一つ電球から人が感じるものは、家族の団欒ではないだろうか。子どもたちが待っているだろう、夫や妻が迎えてくれるだろう、などと思いを巡らせる。電球もさることながら、人の心にポッと灯りを点すもの、それは温かな人の言葉ではないだろうか。どんな言葉をかけられただろう、どんな言葉をかけただろうか、などと思いをはせる時、その人の心にまた一つ明かりが灯るのだ。言葉は武器ではない。言葉は利器として使うための大切な道具である。
人は日々喧騒の中で暮らしている。できればそこに身を置きたくないとも感じている。しかし、「社会人」、「学生」という役割が、人間の耳に蓋をしているので、いつのまにか喧騒が平気になっている。しかし、嫌なものは嫌と叫んでいるのが体である。その声は身体症状としてあらわれる。体が何かを語っているのである。その声に耳を傾けることを、体の声を聞くという。今日のあなたの体は、なにを語っているのだろうか。
朝の時間、母は多忙を極める。子どもたちを起こす、学校の支度のチェック、お弁当の準備をする、祖母や父が起床するまでに朝食をテーブルに並べる・・・いくつ体があっても足りないくらいだ。合間をぬって洗濯機を回していると、その間隙をぬって給食費だ、小遣いだと請求される。こんなとき、父がすることといえば、妻を労うこと。それしかできない、と表現するか、それもしないと言うか、どちらかである。
こんな人になれたらいいな、と思うのが目標とする人物だ。その一方で、目標とする人はいない、と言う人もいる。私たちは生まれながらにして目標を携えて生まれてきたのではない。誰かが勝手に決めたものなのだ。宇宙飛行士になりたい、女優になりたいという欲望は、ずっと後になってからの欲望だ。私たちが抱く欲望は、私以外の誰かがとっくの昔に決めているのだ。自分で選択した、と思い込んでいた欲望も、私たちが意識する前からすでに決められているのだ。それが無意識である。自分の欲望を言おう、と思っても言えないなど、悲しいことではないか。本当の自分に出会いたいものである。
食品に貼付されている賞味期限、それは私たち人間にもあるのだろうか。答えはノーである。食品の賞味期限は人間が決めたものだ。私たちの賞味期限も自分で決めればよい。ところが、自分のことが他人によって決められている点が問題だ。会社から、あなたの勤務はいついつまで、と決めれた瞬間から、私の価値が下がっていく。ところが、自分の賞味期限は無限、と決めれば、変わることなく生きられる。何事も他人の言葉に左右されず、自分で決めること、それが自己決定である。
桜が一斉に咲き始めた。人も野や山に繰り出してきた。寒い季節に別れを告げ、人は暖かな日差しと、桜の色に癒しを求めるのである。人がいつでも求めているものは、ぬくもりではないだろうか。気温、色彩だけでなく、言葉にも温かみを求めている。その言葉とは肯定的な言葉である。その言葉の裏にあるものこそ、語る人の温かみではないだろうか。
魅了、という言葉がある。そのモノや事柄に心が集中して離れない状態をいう。美しい絵や音楽に魅了されたなどという、人が魅了されてしまう精神構造はどこからくるのか。その起源は、子どもを見る母のまなざしである。母が、子どもをいとおしく思い、かけがえのない存在だと感じるそのまなざしの中で、子どもは自分が母から見つめられている、と感じる。それが幻想ではないと感じたとき、子どもは母のまなざしを「魅了」という言葉で登録することになる。
人は誰でも失敗する。大きなことから小さなことまで、人はあらゆる失敗の名人である。だれも失敗したくてしていないのに、なぜ人は失敗するのか。それこそ無意識の仕業である。行きたかった旅行に行けなくなる、大切な書類を紛失する・・・、悔しくて仕方がない、と思っているその失敗行為の中に、行きたくなかった、失くしたかった、という無意識が存在する。一方で、そんな事実は知りたくない、という無意識も存在する。であるならば、最初から行かなければいいのに、と言うのは無意識の存在を軽視していないだろうか。