生きる意味
生きる意味が見つからない、と訴える人も多い。かつてそれは存在していたものである。一度は手にしたものでもある。それは、誰かの手によって奪い去られ、一片の価値のないものとして葬りさられ、そのうち忘れさられようとしたものである。それはきっといつの日か、発掘されるに違いない。それが誰のものでもなく、模造品でもない、貴重なものとしてよみがえるものである。精神分析とは、精神の考古学といわれる所以である。
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生きる意味が見つからない、と訴える人も多い。かつてそれは存在していたものである。一度は手にしたものでもある。それは、誰かの手によって奪い去られ、一片の価値のないものとして葬りさられ、そのうち忘れさられようとしたものである。それはきっといつの日か、発掘されるに違いない。それが誰のものでもなく、模造品でもない、貴重なものとしてよみがえるものである。精神分析とは、精神の考古学といわれる所以である。
登山をすると、記念にとペナントを買って壁に貼ったりする。気の合う仲間と念入りに計画を立てた登山が、思い出深いものになれば、手にするペナントの価値は一段と高まる。ちょっとやそっとのことで捨てられるものではない。感情価が込められているものは、こうして増え続けていく。反対に、悪い思い出はいったいどこに行ってしまったのか。それも捨ててしまえばいいのに、ちゃっかりどこかに書き込まれているのである。
俳句の勉強は、毎日百句を作ることと聞いた。身の回りのもの、鉛筆、消しゴム・・あらゆるモノと季語とを組み合わせて練習をするという。17文字の俳句にこれだけの訓練が基本になっているのである。私たちは聞く練習をしてきただろうか。親、先生の指導は聞かされてきたが、それは聞く訓練になっただろうか。聞くとは、相手の欲望を聞くことである。こうしたい、ああもしたいというパーソナルな欲望をである。相手の欲望を聞き、そう思っているのだねと返すこと、それを対話と言う。
北海道の小学生は無事に保護された。私たちはなぜ、その父親を話題にするのだろうか。子どもだけでなく、父親のコメントが流されるのはなぜか。そこに、置き去りにしてしまった自分や、置き去りにされた自分を重ね合わせているのではないか。私たちは、いつも、どこかで見捨てられた体験をもっているのかもしれない。
人からモノを預かると、忘れがちになるものだ。基本は愛着だ。自分で気に入った品物には格別の愛着が生まれる。「預けたモノは?」と言われて狼狽した経験はないだろうか。気づけばちゃんと小脇にかかえている、ということもしばしばである。自分で自分の荷物は管理する、それが原則である。
人が沈黙をしているとき、その人の中で何が起きているのだろうか。相手の話を味わっているのかもしれない。相手の話の毒抜きをしている最中なのかもしれない。これからどんな話をしようかと、ダウンロードしている最中なのかもしれない。その間はそっとしてあげるのがよい。「ダウンロード中は、機器に触れないでください」というコンピューターのメッセージが思い出される。
人が薬物使用の罪で逮捕されたとき、報道する人、話題にする人、知らなかったひと・・・それぞれが本人のうえに何かを見いだしている。悪い人、かわいそう、救いようがない人・・・彼の姿を介して語られている自分自身の心情とは、いったい何なのであろうか。
成田空港の手前に、航空監視施設があって、誰でも自由に入館できるようになっている。その頭上を世界からやってくる航空機が通過するので、ファンのにとっては、泊まってでも居たい場所なのである。そこには座り心地のよいソファーがおいてあって、一日中、ファンの人たちが、機影が見えるたびに色めきたっている。ときおり、「○航空の輸送機は珍しい」、と言う声が聞こえる。これが趣味の世界だ。ひとには、その人だけの世界が広がっているのである。そして、それがそのひとの居場所なのである。
人が買いそびれたものは、いつまでも心に残っていないだろうか。「残念」の文字がそれを表している。「念」の字が使われているところが絶妙だ。子どもたちは、来客の残したお菓子から目を離すことはない。一方の大人は、その事実を見ないようにしている。その「残念」が、人の心のなかにどれだけ積もっていることか計りしれない。それはどこかに書いてあり、発見することができるのだ。
文具が好きな人の話をよく耳にする。文具は、自己を実現するに際して、忠実に付き従ってくれるアイテムかもしれない。ペンを走らせれば、ペンは文句ひとつ言わずついてくる。ペンは、「こうしたらどうだ」とか、「姿勢が悪いよ」などと口うるさく言うことはない。たとえ字を書き損じてもとがめず、ペンはただついてくるだけである。ペンをその辺に放っておいても、使ってください、などとせっつくことはなく、埃だらけになっていても、じっと主人の命令を待っている。人にとって、自分の話に忠実にしたがってくれる人がいれば、人はいとも簡単に自己実現することができるかもしれない。
家の中の清潔が保たれていると、帰ってきた子どもたちも気持ちよさそうである。何もそこにおいていないから、子どもたちはランドセルを放り出す。「きちんとしなさい」と言うのは父親の役目である。母が言ってもあまり効果は期待できず、それがママさんたちの嘆くところだ。ママさんは、ほどよくきれい好きで、ほどよくいい加減がよさそうである。そして父親は厳格にである。それは恐怖を与える、という意味ではなく、父親自身にもという意味も含んでいる。
私たちは、食べ物一つ味わうにも、何かと比べながら食べている。典型的なものが「おふくろの味」である。これがベースとなって、辛い、甘い、薄いなどと感想を言うのである。感想とは比較である。もし基準になる味が変だった場合はどうなるか。その人にとってのデータベースは「変」になる。すなわちよい味がわからないことになる。美味しい、不味いの差がわからないことになる。一流の味に接しても、カップ麺を食べても一緒ということだ。その人にとっての食事は、空腹感の解消、ということになる。食事は味わいながら食べたいものである。
気がついたら昼食時であったり、いつの間にか夕暮れ時になっていたり、そんな毎日が続いたらどうだろう。まだ退社時間ではないのか、ではなく、もっとしていたい、もっとここにいたい、味わっていたい、そんなときが訪れたら、退屈など考えなくなるだろう。そのためにはどうしたらよいのだろうか。
暑さ本番である。初めて埼玉に引っ越してきたときには、暑さが噛みついてくるように感じたが、今では平気・・・とは決して言えず、やはり暑いものは暑い。この暑さに平気でいられる、というのは、いったいなんだろうか。それは慣れである。慣れがあるおかげで、苦しさにも耐えられるのかもしれない。「毎日が新鮮」と感じる心を持つ一方で、「慣れ」の心も合わせ持つことが、社会に適応するための最良の方法である。
人は、歴史上の人物に想いを馳せる。それは英雄だったり、指導者だったりする。女性であれば、救済者、美や知の象徴である女優や文学者がいるかもしれない。多くの人から認められたい、注目を集めたいという気持ちから、憧れを抱くのもよく、一人コツコツ理論を積み上げていく研究者タイプに憧れてもよい。それがあれば、研究畑の英雄になれるかもしれない。体力、迫力だけとは限らない。あなたにとっての憧れの人物とはいったいどんな人物なのであろうか。
競技の選手にはつい声援を送ってしまうものである。「○さんには対局戦で頑張って欲しい」という愛好家の言葉とは裏腹に、対戦相手が勝った瞬間、「新人の台頭を歓迎します」と同じ人が言ったりする。彼らの視線が一瞬にして対戦相手に吸収されてしまった瞬間である。競技の世界の醍醐味と厳しさを感じる一場面である。
人は高いものに憧れる。そんなに高い塔を建てなくても・・・と言いながら一度は登ってみたりしている。バベルの塔に限らず、家も記録も、成績、成果・・・人の心には、上昇志向が存在するのだろう。精神的な向上は見えにくくても、ビルの高さは一目瞭然だ。建物も記録も毎日コツコツの積み重ねだ。精神の向上もコツコツやる、それしかない、そしてそれがベストである。
仕事がどんどんはかどるときと、そうでないときとがある。調子がよいときは、つい鼻唄混じりで仕事をしてしまうから、隣の人から、調子いいねなどと言われる。いいですね、と返してくれる人がいる一方で、調子に乗るとあぶないよ、などという人もいる。何を根拠にその言葉が出てくるのか、自分の経験を語っているのか、忠告なのかがわからないまま、私は調子に乗っていくだけである。
子どもを体育会系で育てるか、文科系、芸能系、アート系・・どんな人に育てるか、親は悩むものだ。「子どもには子どもの人生がありますから・・・」と口にする親御さんでさえ、何を思っているかは無意識のままである。子をなすとは何か、育てるとは何か、親とは何か・・・それらについて答えを知らないまま、自分の親を手本にしながら子を産んでしまった。それが本当のところかもしれない。
高い建物に立って、下を見下ろすと、クルマも人も米粒のように見える。そこには性別、地位・・すべてのことが、どうでもよくみえてしまう。友人の昇進なども、空から見ればちょっとしたことではないか、などと仙人気取りになったりもする。そんな考えも、地上に降りれば元の木阿弥。仙人の境地のままでいられたら、どんなに心穏やかでいられるだろうか。
車窓から見る景色は、近いものほど早く過ぎ去っていく。反対に遠くのそれはまるで停止しているかのようだ。人は間近に起きたことに、とらわれがちである。そうなると、自分を見失いかねない。上司から叱られたことも、冷静に、叱っている相手のことを分析すれば、なんだそういうことだったのか、と、こだわりが一瞬にして消え去ってしまうのだ。そのとき、人は真の自由を得られるのだ。
まだ幼い、と思っていた女の子も、年頃になれば、美しさが際立って来る。時おり父親に対して見せる美眉は天性のものとしか思われないほどである。ときおり父親はその流し目にハッとさせられたりもする。女の子が女性になっていくためには、親の姿勢や言動が大きなカギを握っている。次の段階への成長は、このころの行動を親がうまくコントロールできるかどうかにかかっている。
読書をすれば賢くなる。いつでもどこでも、本を開けばそこに未知の世界を目のあたりにすることができる。全天候対応型なので、暑い夏でも平気である。クーラーの効いた部屋で南極物語を読んだり、少年時代にかえって冒険の旅にでたりする。ときには人生の深淵をのぞいてため息をついたり・・・時空を越えて、人生を味わえるのが読書である。読書するとどうなるかは、父や母の背中に書いてあります。
われわれは、いつの頃からか、家庭のなかで社会性を学んできた。たとえば食べ方。フォークとナイフの使い方、箸の持ち方、食べるときはクチャクチャせず、楽しい会話をすべきであり、子どもが何かしら面白いことを言ったら、同調し、ときには一緒に笑い合うことを学んできたのではなかったか。その学習の結果が問われるのは、社会に出たときである。それには親が身をもって「躾」の字のごとく、美しい姿をみせることである。
すべての行動には意味がある。意味とは動機である。子どもが他人に向かって石を投げつける、とか、両親が子どもを呼んでもすぐには来ない、かと思えば、突然すり寄ってくる。親はそこで、言いたいことがあったら言うように、と促しても、子どもは言わない。子どもは自分の欲望を言葉にできないのである。子どもが何を求めているのかを、親が理解してあげること、それを思いやりという。
趣味ほど不思議なものはないだろう。誰にも理解されず、成果など初めから期待していない。その一方で、誰にも迷惑をかけず、人を巻き込むこともなく、一人でニコニコしているのが趣味の人である。近所の河川敷ではそんな光景が広がっている。ラジコン飛行機を飛ばす人、仲間の機種を見て歩く人、そこに優劣はなく、違いを楽しむだけである。年齢、立場などとうに超越している。壮大な無駄のなかで、人は活き活きとしている。
何でも与えられた子どもは、わがままになって、将来、厚顔無恥な人間に育つかといえば、そうはならない。なぜなら、自分の欲望に社会が待ったをかけてくるからである。その時点で、すべてを受け入れてくれた両親の価値が一気に高くなる。受け入れてくれる場所は親だけなのである。そこで子どもは癒され、勇気づけられ、社会でもう一度頑張ろうという気になるのである。家庭は傷ついた体を癒すドックのようなものである。
自分の欲っするものが与えられなかった子どもは、不満をあらわにする。その子は当然のことながら可愛がられない。そして次回も・・・という繰り返しのなかで、子どもは自分の言うことは聞いてもらえないことを学んでしまう。その子は大人たちの顔の上に何を見るだろう。それは「不信」である。相手が父親なら、すべての男性の上に「不信」の文字を見ることになり、誰も信じられない人生を歩むことだろう。
自分の欲望を、命懸けで獲得した子どもは突然静かになる。欲望とは、与えられた瞬間に消え去ってしまうものである。泣きわめいていた赤ちゃんが母の胸にいだかれたとたんに泣き止むのと一緒である。大人のわれわれも、注文以外の品を出されれば、当然不快を露にするのである。そうした子どもじみたことは無意識の隅っこに追いやっておいて、大人の姿を演じている私がいたりする。
大人は欲しいものを、自らの手で入手することができるが、子どもはそうはいかない。親に欲しいと告げなければ、それがかなわない。それによって、伝えることを学ぶ。思い通りのものが与えられれば、自分の欲望の実現を目の当たりにして、笑顔と共に自己実現を学ぶ。問題は、求めるものが否定されたときである。身分不相応だ、歯に悪い、などの理由とともにその願いが却下されれば、子どもは命懸けでそれを主張する。さらに否定されれば、我慢をするよう命じられる。親のほうも命懸けで否定する。たかがコーラ一本と言ってはいけない。今、レストランの隣席で繰り広げられているそれは、まさに命を懸けた闘いなのである。
色を見て人が感じるものは何だろう。それは感情価である。赤、白、青・・それぞれの色には感情価が附着している。単なるインクでしかないその色に、人が勝手に価値をつけているのだ。そしてその背後にある何かを思い出している。赤を見て、暑苦しさを感じる人と、情熱を感じる人とがいるのはそのためだ。色を見て、何も感じないというのも困ったことである。色気とは色を感じる心なのである。