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2016年8月の32件の記事

2016年8月31日 (水)

学び

学びたい、という欲望はどこからくるのだろうか。日常生活のなかで、子どもたちは、「どうして?」「なぜなの」と答えを求めてやむことはない。その源はどこにあるのだろうか。そう考えると、大人は鈍感になっているかもしれない。大人もかつて、なぜ?と、大人たちにくいさがっていたのではないだろうか。いつのころからか、そんなことは聞くものではない、とか、はしたないなどと言われてきたのかもしれない。問いかけてはいけないという言葉が、私たちの質問のふたをしているのかも知れない。そんなこと、あんなこと、はしたない、くだらない・・蓋の意味さえ明かされないまま、気がついたら、自分も同じことをしているかもしれない、いや、しているに違いないのだ。

2016年8月30日 (火)

希望

子どもの進みたい学校と、子どものそれとが一致することはまずないのではないだろうか。それは、価値観が異なるからである。親御さんがよかれと思っても、子どもは二つの道のうちの一つを選択することになるだろう。一つは親の進める学校に行く。そうすれば家庭内の平和は保たれるからである。もう一つは、断固自分の行きたい学校名を連呼する道とである。さあ、あなたならどうしますか?

2016年8月29日 (月)

不満

今年の夏がいつまでも暑いのは嫌、と不平をも漏らしたり、夏なのに冷夏では困る、と不満を言ったりして、人は不満を語ることがやまない。人間とはいったいなんなのだろう。それは不満の塊と言ってもよいのだ。子どもが大きくなれば小さいころが可愛かったと言い、成績優秀だったとしても、よい嫁さんが見つかればいいのにと親は不平を言い、嫁が見つかれば見つかったで、あの嫁は・・と近所に言いふらしたりしているのが人間だ。ところが、不平をぶつけられている自然は、ものひとつ言わず、ただそこにいるだけである。

2016年8月28日 (日)

夏休み

あれだけ長いと思っていた夏休みも終わった。毎日塾通いだった子も大変だったが、その送り迎えに奔走させられた親御さんたちもさぞ大変だったことだろう。家に一日いる子も、対応の大変さは同じだ。一日三食用意する苦労は、親御さんにとって、夏の休みにならないかもしれない。それもあと数年、と受けとるか、まだ数年と受け取るか、それが問題である。

2016年8月27日 (土)

趣味

生まれながらにして趣味を持った人はいない。「この子は囲碁のために生まれてきた子」などというのは、言う人の欲望を語っているのである。ほとんどの場合、両親や兄弟の趣味を模倣することから趣味選択は始まる。それは多様化され、枝分かれしながら、趣味の世界は広がっていく。しかし、いつの頃からか、この趣味は自分には合わないと感じる時が来る。そのとき、周囲は「もったいない」、「せっかくここまで来たのだから」と引きとめがちである。本人の意志を通すか、周囲の意見を取り入れるか、それが問題となる。

2016年8月26日 (金)

兄弟

兄弟は、社会に出てからの「同輩」を学ぶ最初の人物である。兄弟との交流を通して、交渉や分かち合いを学ぶ。兄弟げんかも、主張したり譲ったりする練習と思えば、それも大切なことである。喧嘩が始まったとき、その仲裁役が両親である。どちらの味方をするのでもなく、公平・中立な立場で両者の言い分を聞くことで、兄弟は、仲裁の仕方をも学ぶ。それと同時に、両親を尊敬することを学ぶのである。

2016年8月25日 (木)

電車が走行中の映像を延々と放映しているテレビ番組がある。運転席にカメラを据えて、駅を出発して鉄橋を過ぎ、トンネルを過ぎ、田園風景に変わっていく様を映し出している。途中、「次は新発田」と放送しているので、奥羽本線と知れる。車窓の景色の移り変わとともに、ポイントの通過音や、「侵入確認!」という運転手の声も時折混じっている。人はなぜ旅に出るのか。旅に出ない人は、なぜ延々と映る画像に釘付けになるのか。人はそこに何を見ているのだろうか。

2016年8月24日 (水)

癒し

どんな時に人は癒されるのか。それは自分の存在が受け入れられたとき、そして、自分の言葉が受け入れられたときの二つである。前者は「よく来たね」、後者は「そうだね」の返事が返ってきたときである。そう言われたときにのみ、私はここにいていいのだ、生きていていいのだと感じる。もし言われなかった場合、来なければよかった、とか、私は間違っていると、不信感を抱くことになる。人は他者に認められたときにのみ、生の実感を得るのである。

2016年8月23日 (火)

優秀

勉強しろ、の一言で子どもたちの成績があがったという記録ない。それで成績が上がるようなら、とうの昔に学習塾はなくなっていただろう。親御さんたちの多くが、勉強できる子が羨ましい、とか、言わなくても勉強ができるのは何故?と問いかける。親が優秀だから子も優秀とは限らず、さほどでもない親のもとで優秀な子が育ったりもする。そもそも、優秀とは何かがわからない。その問いに答えが出せたら、子は自然に学ぶようになるはずだ。

2016年8月22日 (月)

子どもは天才

子どもは天才、子育て中、そう思う親御さんも多いのではないか。夜店で買った亀に名前をつけたり、親の説教を聞き流したり、扇風機のスイッチは足で操作したり、・・・。そんな学びの天才たちも、いつのころからか、フツーになってしまった。フツーがいいか、天才がいいか、見極めるのはフツーの親か、天才か、どちらかであろう。

2016年8月21日 (日)

傷つき

人間の歴史は傷つきの歴史と言えないだろうか。人は、自分がされたことをするので、その人も他の人を傷つけてきた可能性は高い。したがって傷ついたのは自分だけではない、と思うことができれば、それは悟りに近いものとなるだろう。人は何によって傷つくのか、それは言葉によってである。有頂天になるな、とか、調子に乗るなの言葉で、人生の喜びの大半を放棄してきた。楽しそうだねと言ってくれたら、大変だったねの一言をかけてくれたら、人は違った人生を生きてきたかも知れない。もう取り戻せないと考えるか、だから自分を生きると決意するか。どちらを選択するか、それも自分自身である。

2016年8月20日 (土)

点数

点数とは、相対的なものである。たとえ試験などで満点近くを獲得しても、他が満点なら、不満は残る。ところが、他の人の点数が低ければ満足?と感じていても、次は満点を取れと言われた瞬間に高得点の価値は一気に下がる。こうして私たちは一喜一憂のなかで、真の楽しみがわからなくなっている。

2016年8月19日 (金)

家の役割

家の役割とは何か。それは、集団という面と、集団から個が認められる面とがある。集団に合わせるだけでは、私という「個」が存在しえない。個を認めるだけでは、集団に合わせる、とか、人を尊重する、という気持ちが養えない。両者をバランスさせることが大切だ。そのためには、山本五十六の言った言葉の通り、親がやって見せて、言って聞かせて、褒めてあげることで、人はバランスを学んでいく。

2016年8月18日 (木)

生きる意味

何のために生まれてきたのか、人はこうした問いを立てることもある。生きるとは何か、生きてあるとはどういうことか、などと。そんなとき人は、「好きなことを見つけることだ」と教えるが、それが見つけられないから悩むのだ。生きる意味に関する答えは、誕生の瞬間にまでさかのぼる。母の胎内にいたときに、母が何を思ってくれたか、私に何を望んでいたのか、どうあって欲しいと感じていたか、その答えを私も母も知らないまま今日まで生きてしまった。その答えがわかったとき、人は自分の生きる意味を歩み始めるのである。

2016年8月17日 (水)

日常生活

われわれは、平凡な日常生活を望んでいる。生活も普通、子供たちも、両親もそれぞれがまあまあ、夫は帰宅時間には家に帰り、妻は家事をそれまでには終える、なんていう暮らしはどこにあるのだろうか。なくて当たり前とも思っている。人はそうした日常に飽きているのだ。だから人はときに旅に出る。風景、食事、もてなしなど、文句は言いたい放題だ。部屋が狭い、広い、天気が悪い、階段が多いとかいいながら、日常の退屈を発散しているのかもしれない。旅から帰ったきた最初の一言が、日常の平和を語っている。しかし、人間はときに、非日常を欲してもいる。ありもしない恋愛話、スポーツや国技館での勝ち負け・・ありとあらゆる営みが非日常の出来事なのである。

2016年8月16日 (火)

信じる

私たちは、どれだけ疑い続けてきたことだろう。スポーツがいいと言われてチャレンジしても続かない、あなたにふさわしいと言われた学校になじめない、理想のカップル、と言われたのに・・・。疑うことだけを学ばされてきたのではないか。そう言っている自分も、誰からも信じてもらえなかった経験があるのかもしれない。対象を信じられず、疑い続けているし、これからも信じないとも思っている。相手の意見を、「本当?」と心のなかでつぶやきながら聞いているから、相手の意見が耳に入らない。いっそのこと対象に自分を任せ切ってしまえばいいのだが、過去の体験がそれを躊躇させるのだ。無意識のなかに、「信じたら裏切られた」トラウマがあるのかもしれない。幸せとは、信じること、信じ切ること、信じる対象を見つけ出すことである。

2016年8月15日 (月)

枕詞

人の顔には、文字が刻みつけられている。会話をするとき、人はその文字を読みながら会話している。お酒好きの誰さんといえば、本人の名前よりお酒が優先している。大阪出身の誰さんとか、入社したばかりの誰さん、塀を直した誰さん、引っ越してきたばかりの誰さんというように。そう考えると、古来から親しまれている「枕詞」などその最たるものと言えるのではないだろうか。

2016年8月14日 (日)

関心

誰かの話を面白く聞くにはどうしたらよいだろう。それは、こちらが相手に興味を抱くことである。なにかある、という気持ちで接することである。この人から何を聞きたいか、どの時代、趣味、仕事、苦労話、どこにいたか、どんな人とどんな出会いがあったか・・あらゆる角度から切り込んでいくと、話の糸口が掴めるのである。一つあればそこから話はどんどんつながっていく。教わることは無限である。その前提になること、それは自分が人から関心をもたれたかどうかにかかっている。

2016年8月13日 (土)

空に浮かぶ雲を見て「あんなに自由ならいいな」と思ったりもする。また別の日にはこう考える。「山の頂きにまとわりついている雲など、うっとうしいな」などと呟やいたりもする。どちらも、その時の自分を語っているのだ。どちらも自分と思った瞬間、問いが浮上してくる。「いったい本当の私とは何?」と。

連想

人は、一つの言葉からいろいろなことを連想する。「京都へ行ってきました」、と聞いて「お寺めぐりかな?」と受けとるひともいれば、「歴史に興味があるのだろう」と受けとり、べつの人は「食べ歩き」を連想しながら聞くことになる。いわば、自分の範囲のなかで聞いているのだ。そこに会話の楽しさと齟齬が生まれる。したがって、最後まで聞いてみて、初めて真相が明らかになるのである。さらに「四泊しました」と続けば、聞く側は、どれだけ寺や歴史、食べものを堪能したことかと連想が膨らむだろう。最終的に、「連日、京都競馬に行きました」という話に落ち着くころには、やはり人の会話が噛み合うことの難しさを痛感することになる。同じ人が競馬愛好家と会話しても、また、100パーセント一致することはなさそうである。

2016年8月12日 (金)

真相

人が「暑い」と言うとき、暑いという感想以上のなにかを訴えている。何か冷たいものを飲みたいのかも知れず、暑いなかを頑張っていることを認めてもらいたいのかも知れない。私を褒めて、という代わりに暑さを引き合いに出しているのかもしれない。あるいは単純に、挨拶のきっかけとして提出しているのかもしれないのだ。それに対して、そうですね、と返せば相手は本題をだすことになるが、それがどうしましたか?、と答えてしまえは、話の腰が折られてしまうだろう。「暑い」と言う言葉で、何を言いたいのかは、本人でさえも分からないのだ。したがって、否定せず、聞いてあげることで、いつかきっと真相が表れてくるのである。

2016年8月11日 (木)

否定

話が否定されたとき、人はもう語るものかとさえ思う。語ったら損をした、とか、語らなければよかったなどとも思う。暑い、寒いなどのちょっとした感想さえ否定されただけで不快を感じるのだから、考え、工夫、アイディアなどの価値観が否定されたら、人の心は壊れてしまうだろう。それほどまでに、人間の心は傷つきやすくできているのである。美味しい、に対してまずい、と周囲のすべての人から毎日のように否定され続けたら、彼は二つの道のいずれかの道を選択することになる。一つは会話することから撤退する道を、もう一つは自分の精神を病むことである。会話しなくなるとは、後者の危険な道を歩まないためにとる最後の手段なのである。

2016年8月10日 (水)

真意

人が「暑い」と誰かに言ったとき、「そうかな?」とか「暑くない」などと否定する人も多い。場合によっては「何が言いたい」などと言われてしまう。普段からわれわれは、相手の言葉の真意を汲み取る訓練をしていないからである。真意とはどうやって知ることができるのか。それはやはり、本人に語ってもらうしかない、ということになるのだが、訓練を重ねればそれは可能である。ではなぜ、それをしようとしないのか。人には、自分の真意を知られたくない、という無意識が存在することも考えに入れなければならない。本当のことを言ったら嫌われた、という経験がそれを物語っている。それが訓練へのブレーキになっていることまた事実である。

2016年8月 9日 (火)

寄り添う

海岸にいると、とくに風もないのに突然大きな波が寄せてくることは、海に詳しいひとたちの知るところだ。それに巻き込まれて、ときに海難事故に巻き込まれたりする。私たちの思考も、ときに高揚し、多弁になり、情熱的になることがある。聞き手の役割は、その話についていくことである。「急にどうしたの?」と怪訝な顔をせず、話の高下についていくこと、それが話に寄り添うということである。

2016年8月 8日 (月)

同じ絵を見ている二人が、同じものを見ているという保証はどこにもない。人の数だけ絵は存在するのだ。ある人は、構図や絵の具に着目し、別の人は画家の人生に思いを馳せ、他のひとは絵の値段を尋ねている、といった具合である。帰り道でいい絵を観た、と一致したように感想を述べながら帰路に就くのである。

2016年8月 7日 (日)

聞き方

人の話を聞くとき、人はつい自分の経験と照らし合わせながら聞いてしまいがちである。したがって、相手の話を聞きながら「それでいいのかな?」と疑問符をつけながら聞くことになるのだ。それが続くと、聞いている方が疲れてしまうのである。相手に顔は向けても、心ここにあらずの状態が続くのである。話し方もさることながら、聞き方を学ぶことも必要ではないだろうか。

2016年8月 6日 (土)

念願

それを手にしないではいられないほどの願望が募ったときにのみ、願いは叶うものだ。それ以外の選択肢がないかのように。そう考えると、われわれは社会からどれだけ願望されてきたのだろうか。「営業の星」と言われた人も、会社を去れば、ほかの人が星になっていたりする。そんなことはない、と思いたい願望もまたあるのは事実だ。学校からも、社会からも、私を必要とされてきたかが問われる瞬間である。それ以前に、私たちは誰かから必要とされてきているはずである。それが明らかになったとき、自分は一人ではないと確信するのだ。

2016年8月 5日 (金)

語り

人は本当に語っているだろうか。「おはよう」、「営業してきました」、「部屋をかたづけなさい」これらは本当の語りと言えるだろうか。これらは連絡事項にすぎない。真の語りとは、欲望の語りである。業務以降とか、子どもへの命令以外のとき、それが語れるかどうかが問われるのだ。それが「ない」と感じたとき、人は再び業務や子どもへの命令が再開されるのである。

2016年8月 4日 (木)

叶える

何かを叶えたい、と願えば叶ったことはないだろうか。強く念願した場合はことさらである。子どもに結婚して欲しいと思っていても、いつまでも家から出たがらず、結婚する意志もない、というとき、そこにどんな願いがこめられているのだろうか。年頃だとか、孫の顔がみたいという言葉の裏側に、いったいどんな願いが込められているのだろうか。

2016年8月 3日 (水)

機能

カメラには、たくさん機能がついている。機能の多さで購入しているのかもしれない。しかし、実際使うのは、そのうちのほんの一部に過ぎない。アナログカメラだったら特殊なレンズを必要とする写真も、今のカメラだったら簡単に撮れてしまう。そうした機能も、一回使ったら、それきりである。私たちの能力も、使わない機能が眠っているのである。それを潜在能力と呼ぶ。一度は使ってみる価値があるはずだ。もしかすると、そちらの方が本当の能力かもしれない。使うか使わないか、それは自分次第である

2016年8月 2日 (火)

評価

親の言い付けを守るのが一番、という意見がある一方で、勘当された結果、大成して故郷に錦を飾るという話もよく耳にする。どちらが正しくて、悪いということはないのである。家を守りつつも、新しい思想を盛り込んでいけばそれも意味であり、親を振り切って自分の人生を切り開くのもまた意味である。いずれにしても、その人なりの評価を与えてあげる人がいればよいのである。

2016年8月 1日 (月)

ラストシーン

外国映画で、極寒の地で大ケガをし、仲間からも見捨てられた主人公が、クマに襲われたりしながらも、生きぬき、その仲間を次々に襲っていくストーリーの映画を観た。激しい戦いで最後の仲間を倒した果てに、彼が手にしたものとは何かを問いかける映画である。怨みをはらしたり、戦争もやめてしまうには、対話しかないのである。

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