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2016年9月の31件の記事

2016年9月30日 (金)

尊重

レストランなどで、食後のコーヒーを注文するときに、食後に、という人と、食事と一緒、という人とがいる。それぞれが自分の欲望にしたがって指示している。そういう時、人は、一緒では冷めるではないか、などと言う人がいる。欲望とは、極めてパーソナルなものである。人からとやかく言われたくないものでもある。ミルクや砂糖の量まで言われる家庭もあると聞くと、個の尊重とは、どういうことであるかを考えさせられてしまうのである。

2016年9月29日 (木)

溺れる

買うつもりもないのに、つい買ってしまう、行きたくもないのに、誘われるままにどこかについて行ってしまうのは、自分の欲望ではなく、店員の欲望、友達の欲望が無力な私のなかに侵入してきたからである。そんなとき、人は、これも何かの縁、とか、折角だから、などと理由をつけて安心している。考えてみれば、他人の方が圧倒的多数だから、われわれは他人の欲望の海の中に放りこまれたも同然である。どうすれば、溺れずに生きていけるのだろうか。

2016年9月28日 (水)

主張

レストランでパフェなどを注文すると、子ども時代に返ったような気分になる。マスカットパフェの頂上にはペパーミントの葉がちょこんと載せてあり、コーンでできたスティックなんぞが添えてあって、いかにも甘党を喜ばす布陣ではある。アイスクリームを引き立てる脇役たちも脇役然としてはおらず、堂々と自分を主張しているではないか。それにくらべて、今の生きざまはかなり主張が鈍くなっているような気がする。「言いたいことは言っていますよ!」と人は言うが、子ども時代の私はといえば、ちっぽけなフルーツポンチひとつで、自分の主張が封じられていたのかもしれない。

2016年9月27日 (火)

誘惑

誘惑に負けて甘いものを食べ過ぎてしまったと、などと後から反省するものだ。だったら食べなければいい、などと人は残酷な言葉を言う。そんなとき、本人にどう言ってあげればいいのか。どんどん食べればいい、ともいえないだろう。制限しろ、も命令になるし、などと考えながら、かりん糖を一つ口にする。

2016年9月26日 (月)

悩み

悩みのない人はいない。あなたほど幸せな人はいない、などと言われた経験はないだろうか。とんでもない!と叫びたいくらいであろう。学校時代、ずらりとならんだ算数の問題をすらすら解くように、悩みが解決できたらいいのにと思う。2×3=6と解くように悩みが解決できたらいいと誰もが思う。算数が解けるのは、そこに法則と数式があるからだ。悩みの解決に法則と数式を見いだしたのがフロイト、ラカンであった。

2016年9月25日 (日)

空が高い

空が高くなった。厚ぼったい雲の姿はもうどこにもありはしない。木々の葉先が風にゆれている。季節は確実に移り変わっているのだ。そして人の心も移り変わっているが、人はそのことに気づかない。何年か経った友に出会ってそれを知るのみである。人は、自分だけは老いないと思っている。そして洋服屋の店員も同じことを言う。だから、また今日も服を買うはめになるのである。

2016年9月24日 (土)

許容範囲

人と人との意見や感情が一致することはまずないだろう。室温からして、暑すぎたり、寒すぎたりしてちょっとしたイライラした気分が生じやすい。私たちが一緒に生きていけるのは、この許容の範囲の広さが、どれほどのものか、にかかっている。許容範囲が広すぎれば鈍感であり、狭すぎれば神経質となる。ほどほどの範囲をキープし続けることが人間関係を円滑にする秘訣かもしれないのだ。

欲しいもの

欲しいものには目がない、という人もいる。スイーツはつい手が出てしまう人もいるだろう。そのとき、私の中のもう一人の私が、こうささやくのである。食べ過ぎるな!と。これがブレーキになるのだが、幼い子どもにはこれがないから、欲しいものに向かって突進する。それをあまりに厳しくさえぎれば、欲望が出せない人に育つだろう。制限が全くないのも問題である。家庭の中での欲望のアクセルとブレーキ、どちらも必要不可欠である。

2016年9月23日 (金)

期待と不安

人は、新しいことに対しての期待と不安を抱く。こころ踊っているだけでなく、いつでもこの二つがセットになっているかのようである。周囲の人は、「大丈夫」とか、「何とかなるさ」などと言うが、そう言われてホッとできるのは、ほんのつかの間。自分に告げて欲しい言葉を、人は言ってはくれない。だれもその言葉をしらないからである。なぜ人は不安を抱くか。それは未知の世界だからだ。人は毎日違うことをしているようで、実は同じことを繰り返しているに過ぎない。そうすれば安心だからだ。それが続くと、未知へのチャレンジ精神に影を落とす。ちょっとした変化だけでなく、大きな変化にも挑戦することも必要である。

2016年9月22日 (木)

聞く

五歳の子どもが「シャンシャン音がするんだけど・・」と親に言ったという。発達論的には、音が「聞こえる」から、「聞く」という能動性を身につけたということである。たくさんの音のなかから、たった一つの音を特定する機能の萌芽である。人間にはもともと機能が備わっているが、「それが虫の声だよ」と言ってあげることで初めて「聞く」に変換できるのである。育てなければ、育たないのだ。正しく育てれば、人の話に集中する力を養うことができ、放っておけば、みんなが僕の悪口を言っている、とか、秘密が知られているみたい、など訴えることになるだろう。機能の良し悪しを問うのではなく、どう育てるかが大切である。

2016年9月21日 (水)

レストランにて(3)

レストランの私の隣席で、親子連れが食事中である。子どもたちが食べている間、ママの質問が止まらない。塾はどうなの?誰と帰ってきたの?何時ころ塾を出たの?・・子どもが適当に答えているのは明らかだ。子どもがなにか質問するとママは、早く食べなさい、を返している。当然、子どもはしゃべらなくなる。この繰り返しのなかで、子どもたちは寡黙を学んでいく。子どもたちが自由に発言するためには、どうすればよいのだろうか。

2016年9月20日 (火)

レストランにて(2)

レストランのテーブルに店員が呼び出されたとき、店員の頭のなかの状態は「無」そのものだ。こちらが何々と品名を告げれば、怪訝な顔一つせず、はい、というだろう。家庭では果たしてこういくだろうか。たいていは、否定的な言葉が「エッ?」という顔とともに親の口から出るのではないか。そんな言葉や顔色とともに食べる食事が美味しいという保証はどこにもない。美味しい食事とは、団らんのなかで食べるのが一番である。

2016年9月19日 (月)

レストランにて(1)

レストランのテーブルで、チャイムを鳴らせば店員がやってくる。この当たり前の対応がもし家庭で行われていたら、子どもは自信をもって親に自分の主張をすることができるようになるだろう。しかし、このときの親の反応はおそらく次のようなものではないか。我儘になるのではないか、と。むしろ、我儘にならない子の方が問題だ。これは我儘ではなく、自己主張ととらえることが大切だ。その主張が受け入れられたとき、子どもは自信がつくのである。大人でさえ、自分の主張が受け入れられば、人にも優しくなれるからである。

2016年9月18日 (日)

第一印象

第一印象で人が人を好きになったり、嫌いになったりしがちである。第一印象が悪いと、いつまでもその人が好きになれない、ということもあるのではないか。他人がいくら、その人のことを「いい人だ」と言ってくれても、嫌いなものは嫌いである。とはいえ、仕事上で一緒に作業しなければならないこともあって、不思議なことに、その人と組むはめになったりする。人の心にはなぜ、好き・嫌いの感情が発生してしまうのだろう。いっそのこと、感情がなくなればいいのに、とさえ思いたくなるのも、また人情である。私たちはこうして感情が上がったり下がったりの忙しい毎日を送っているのである。

2016年9月17日 (土)

人はモノを見るとき、何かの形に当てはめて見ている。山を見て、富士山に似ている、とか、真ん中がえぐられているから、磐梯山みたいだ、とか、鋸みたいだなどと呟きながら見て、安心している。人は基準となる形と比較することで安心感を得ているのだ。対人における基本型はいうまでもなく両親である。丸顔、背が高い、優しい、陽気、世話好き、料理好き・・幼少期から見慣れた両親と見比らべて、あの人は好き、この人は嫌い、と言っているのかもしれない。人の好みはこのようにして形成されていくのである。

2016年9月16日 (金)

欲望

人間の欲望には限りがない。高校に入学すれば、もっと上の学校のほうが良かったのではないか、近かったら、公立だったら・・・それが満たされても、部活だ、クラスだ友達だと、欲望はそのとどまるところを知らない。いっそのことそんな欲望は捨ててしまえばいい、などと考えていることも欲望である。人の欲望と、私の欲望、子どもの欲望…どれが一番大切な欲望かがわからないまま、夏休みも終わろうとしている。

2016年9月15日 (木)

かわいい子には旅をさせよ、と簡単にいうが、これほど実行の難しいものはないだろう。冒険には危険がつきものだからである。悪の道に迷い込んだらどうしようなどと、親は考えがちである。そんなとき親はつい口を出し勝ちだ。そうした忠告は役に立たないばかりか、かえって子どもに、見たい衝動を掻き立ててしまうこともあるからだ。親はただ見守ること、そして、いつでも帰ってこられる環境にしておくことである。それしかできないのだ。子どもが「やっぱり家が一番」と思わせる家庭とは何か。それは「和」である。

2016年9月14日 (水)

安心

安心はどんなときに得られるのだろうか。それは、自分が今いる状態が否定されないときである。自分がくつろいでいるときに、手伝いをさせられたり、勉強をしいられたりすれば、たちまち安心は失われる。逆に自分が手伝おうとしたり、勉強しているときに、遊びなさい、といわれても同様だ。どんな状態でありたいのかは、そのときによって異なる。その状態を受け入れらるだけで、人は安心を得られるのである。

2016年9月13日 (火)

環境

人は安住の地を求めている。ここなら安心、安全、くつろげる場所と感じられる場所を求めてやむことはない。とくに、子どもたちにはそうした環境においてあげたい。そこで子どもたちは自由に発言し、自分を見つけることができるからだ。その一方で、大人は変化も求めている。大人にとっての安心は停滞をも意味するからである。散歩のコースひとつ変えるだけでも、新しい発見はあるものだ。ファッション、髪型、読む本・・ガラリと変えることで、なにかと出会えるかもしれないからだ。

2016年9月12日 (月)

チャイム

深夜、郊外の、とあるスーパーに私はいる。レジには店員の姿がない。あちこち見渡しても人の姿が見当たらない。レジの台の上に、用がある場合はチャイムを鳴らすように立て札があるので、私は指示に従って小さな音でチンと鳴らして見た。その音に呼応するかのように、はいの返答とともにどこからともなく店員が現れた。彼らは、BGMの音に比べてもはるかに小さなチャイムの音に反応するように言われているのだろう。店員にとってチャイムの音が、「レジに客がいる」というメッセージに聞こえるのである。

2016年9月11日 (日)

深夜

深夜2時、電車もバスも動いていない駅前に、多くの人たちが歩いている。普通の人の生活とは異なる時間帯に暮らす人たちもいるのだ。世界は、人の数だけ存在する。さらに3時、雨の駅前には、さすがに人っこ一人いない、と見えたが、一人いる。ベンチと同化して見失いそうなその人は、今夜もベンチとセットになってそこに存在していた。コンクリートに囲まれた世界の中で、その存在だけに生命が宿っているように見えた。名画「ベニスに死す」の一シーンのような静謐な時がそこに流れていた。

2016年9月10日 (土)

赤ちゃん王子

バギーに乗っている赤ちゃんの堂々とした姿はどうだ。それは、ひじ掛けに両腕を置いた一流会社社長然とした佇まいである。素足を前のバーに乗せたりもしている。王子さま、王女さま時代をいつまで続ければいいのですか?というママさんたちの質問も多い。いったい母親である私は、誰に甘えればいいのですか?とも聞かれる。そこで答えると一言呟かれる、「無理」と。

2016年9月 9日 (金)

対話

私たちはいつでもどこでも何とでも対話している。ジュースの自動販売機とだって対話している。糖分、大きさと金額との兼ね合い、デザイン、メーカー・・あらゆる情報と対話し、最終的には、「よし」と心のなかで呟きながらボタンを押す。このとき、違ったものが出てきたのでは納得はいかない。自動販売機なら、間違いなく指定のものを手にすることができるが、私たちの幼少期はどうだったのか。「これで我慢しなさい」、「うちにはお金がないから」、「お兄ちゃんでしょう、お姉ちゃんだから」・・そのときに欲しくても手に入らなかったものはいったいどこにいってしまったのだろうか。

2016年9月 8日 (木)

自分

自分のことが理解できない原因はいろいろだ。自分がこの資格を獲得するためにどれだけの努力や経済的負担をしいられたか、そして、今更やめるなどもったいないと感じている、ということもあるだろう。またある人は、その仕事を継続することで、周囲の賞賛を得ているという事実があるからだろう。そのことが、自分がこの仕事を辞めたいという本心を隠していることもあるのかもしれない。高い所得が、辞めたい、という心を覆い隠している場合もあるだろう。本当の自分に出会うことの難しさはこの辺にあるのだ。しかし、本当の自分に出会えた人は幸せである。

2016年9月 7日 (水)

買い物

買い物をするときは誰でもが悩むものだ。買うか買わないかでまず悩み、値段で悩み、よしと思っていると、店員が色ちがいがあります、などと余計な親切心で言ってきたりするから、悩みに拍車がかかってしまう。「残り僅か」という言葉もいけない。しかし、私たちは悩んでいる一方で、悩むことを楽しんでもいる。簡単に手に入ったものには愛着は生じにくいかもしれないからだ。

2016年9月 6日 (火)

退屈

仕事がスムースに進捗するときと、そうでない時とがある。前者の場合はあまり印象に残らない。毎日がそんな調子だったとしたら、どう感じるだろうか。退屈、と感じるか、それでよしと思うかである。後者の場合は普通に生きていけるが、退屈をかこつ人たちはそれを紛らわすために莫大な投資をする。それもしない人は、仕事上で生じたトラブルやスタッフの陰口を探すことで、退屈を忘れようとしているのかもしれない。

2016年9月 5日 (月)

自分とは何か

自分とは何か、と人が考えるとき、私は私だ、と自明の如く問いに入って行ける人と、はて?本当の私とは何だろうと立ち止まる人とがいる。前者の方が自信に満ちていて、頼もしく目に映る。私は私だ、という人と、自分に自信がない、という人も、実は同じことを言っているのである。

2016年9月 4日 (日)

関心

人の電話に聞き耳を立てる人がいる一方で、まったく関心を示さないひともいる。関心を持たないひとの心理は道徳心だけなのだろうか。聞いてはいけないと教わったからだろうか。もしかすると、その人自身が、人から関心をもたれなかった可能性も否定できない。逆にもたれなかったかこそ、過剰なまでに関心をもつようになったと考えることもできる。何事も節度が大切である。

2016年9月 3日 (土)

もう一人の私

買い物最中、私は買うか買わないで葛藤している。なぜなら、その二つとも私だからだ。このとき買わない、が強い人は欲望が押さえつけられてきたことが考えられる。買うことを否定されたり、罪だ、と罪意識を植え付けられてきたということも想像できる。買う、が強い人は自由人であるか、押さえつけられたタガが外れた人とも言える。買う、買わないで悩んでいるときに、どこからか「買おう」とか「やめよう」と言っているもう一人の「私」がいる。人はもともと分裂しているのだ、そしてそれが正常と言えるのである。

2016年9月 2日 (金)

自分に正直

自分に正直でありたい、と誰もが思っている。人は、したいことをしろ、などと軽く言う。それでは、と言って自己主張しても、罪意識や他者の評判が自分を襲ってくるようにも感じられるのだ。会社勤めの人はなおさらその感が強いだろう。そしてまた元の自分に逆戻り。行ったり来たりしながら、今日も明日も暮らしている。そしてこう呟いたりもする。平和が一番。

2016年9月 1日 (木)

適正

適正検査というものがある。質問事項に答えると、「あなたの適正は何々で、この仕事が適しています」という回答がくる、というものである。大切なことは、その答えに自分が納得できたかどうかである。なぜなら、自分で答えを書き込むとき、心のどこかで自らを美化しているからである。そこで、回答に接した時、「どこか違う」と感じるのである。その差は何か。私たちには、本当の自分の欲望を、自分では知ることができない構造になっているからである。ただし、知る方法はあるので、それがわかったとき、人は活き活きと生活できるのである。

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