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2016年10月の28件の記事

2016年10月31日 (月)

模様替え

私たちの生活は、ともすれば、単調になり勝ちではないか。そんな単調さを打破するための方法として、部屋の模様替えがある。机の位置一つ変えるだけでも、部屋の様子は一変する。部屋の雰囲気がかわれば、気持ちも変わる。動作もかわる。それが新鮮さである。日常を打破することから、何かがかわるのだ。

2016年10月30日 (日)

四季

四季があるおかげで、私たちは備えをする。寒くなるかもしれない、雪がひどいかもしれない、と考えて用意する。雪のニュースが報じられた翌日には、ホームセンターの店頭から一斉に雪かき用のスコップが売り切れてしまうこともある。私たちは、想像することで困難を未然に防いでいる。しかし、それも度を過ぎれば、心配性だし、なければ毎日をのんびり暮らしてしまうだろう。なにごとも節度が大切である。

2016年10月29日 (土)

不安

どこにいても不安を感じる人も多い。盤石という実感がないのである。考えてみればわかることだが、将来は安心、と考える人は、心のどこかで「そうあればいい」という想像を働かせているのかも知れない。不安だと訴える人も、実は自分でこしらえた「不安」のなかで生きているのかもしれない。不安を隠す方法として、人は不安を作ったり、隠したりしながら多大な時間を費やしている。

2016年10月28日 (金)

手際

寿司職人の手際よさに人はしばしば目を奪われる。ネタをつまみ、手のひらにのせ、シャリをとってネタに合わせて握る、一連の手さばきを経たすしを客の前に出す、手の働きの多様さが味わえる。それを食す味は格別である。人間は舌だけで味わっているのではなく、目でも実は食べているのである。

2016年10月24日 (月)

エネルギー

感情的になって大爆発してしまう人もいるだろう。あれだけ感情放出して、後を引いているかと思うと、何事もなかったように、すっきりとした顔をしている、ということもある。それは、言語によって、エネルギーを放出したからである。言いたいだけ、言わせてあげることで、心がすっきりするのである。もし放出しなければ、そのエネルギーはいったいどこに格納されてしまうのだろうか。

2016年10月23日 (日)

憧れ

憧れの人は誰?、と問われれば、人はさまざまな憧れの人物を心の中にもっている。タレント、俳優、スポーツ選手、歌手などは、憧れの対象として格好の人物である。東京ドーム周辺では「SAKAMOTO」などと書いたユニフォームを着たファンでいっぱいである。人は、こうして憧れの人物が身に着けている服などに、自分を嵌め込んでいるのである。憧れの対象とは、人間をその位置にまで引き上げさせてくれる、大切な人物なのである。

2016年10月22日 (土)

そっとしておく

人は、一日中仕事や勉強をしているわけではない。ときに虚空に目をやったり、散歩をしたり、クッキーのひとかけらをかじってみたりしながら、仕事などをしている。そんなとき、他人がやってきて、さっさとするように言われても、できないのが人情ではないか。もっともよい方法は、そっとしておくこと、それに限るのである。

2016年10月21日 (金)

見いだす

書店の棚をサッと見渡した瞬間、欲しい本が目に飛び込んでくることがある。雑踏の中に知り合いを見つけることもある。それを「見いだす」という。職業や結婚相手、仕事上のパートナーも、そのようにして見いだしているのかもしれない。そう考えると、人間は、目で見ているのではなく、心で見ていることになる。私たちの心が何なのかは、見いだしたもの、そのものかもしれない。そう考えると、人間の不思議さに心うたれる思いがする。

2016年10月20日 (木)

不満

人は、不平・不満を語ることはできない構造になっている。人はいつでも不満ばかり言っているように思うが、「本当」の不満は語れない、というより、自分でもそれが何なのかがわからないでいるのだ。もし、それがわかってしまったら、毎日が自己嫌悪感でいっぱいになり、生活に支障を来たすことになるだろう。しかし、訴えたい不平・不満は、ある瞬間に出口を見いだして一気に吹き出すことがある。あたかも、膨大な水が、小さな噴出口に殺到するようにである。それが未然に防ぐことができたら、どんないいいだろう。

2016年10月19日 (水)

会話

何を食べるか考えているとき、人は誰と会話しているのだろうか。それももう一人の私である。それは嫌な人であり、「また食べるのか?」、とか、「食べ過ぎるなよ」などと言ってくる嫌な人であり、癪にさわる人でもある。しかし、それが心のブレーキになっているのだ。効かなければ暴走するし、効きすぎれば、欲望のない人生を送ることになる。いずれにしても、バランスが大切である。

2016年10月18日 (火)

二つの世界

人間は、二つの世界を同時に生きることはできない。悲しみの最中には、楽しいことは考えられず、幸せの絶頂にいるときには、不幸が理解できない。男は女を理解できず、女もまた男を理解することはできないのだ。どうしたら、お互いがお互いを理解することができるのだろうか。

2016年10月17日 (月)

満たす

欲しいものがなかなか手に入らずに悩むのは、大人も子供も一緒である。何日も探し回ってやっと手にすることもある。場合によっては、先を越されることもある。そんなとき、大人は「ご縁がなかったのだ」と心のなかで繰り返している。おとなにはこれができるが、子どもはできないまま、悲しみだけが残ってしまう。社会は満足のない世界だ。せめて家庭のなかだけでも満たしてあげたいものである。

2016年10月16日 (日)

聞く

話を聞いてもらえますか?と頼まれたことはないだろうか。こちらが聞いているうちに、相手の方から、やはりこうすべきだ、などと一人で結論を出して立ち去ってしまうということもあるだろう。聞き手のほうが、その場に取り残されてしまうのだ。聞いているだけでいい、とは、このことである。こうした場合、アドバイスや、説教は役には立たず、有害でさえあるのだ。

2016年10月15日 (土)

理解

悪い天気の日が続くと、子どもたちのストレスは溜まる一方である。そのはけ口は当然親に向けられる。親にささいなことで不満をぶつけたりして体で訴える。それを正面から受け止める親御さんたちの苦労はたいへんである。しかし、子どもの精神が今、ストレスが溜まっていることを知れば、合点がいくのである。それが理解である。

2016年10月14日 (金)

本当のこと

「本当のことを言ってほしい」と言われても、実行できないのが日常ではないか。その一方で、子どもたちには「本当のことを言う」ように仕向けてはいないだろうか。もし、子どもたちが本当のことを言ったらどうなるか。変な人には、変な人と言い、嫌いな人にも同じように言う子になるかというと、さにあらず。そう言ったとき、周囲がこう言うのだ。「そんなこと、言うんじゃない」と。そのとき子どもは、どう言ったらよいのかわからなくなるのだ。いったい私はどうすればよいのか、と。子どもを神経症にしないためには方法があるのだ。

2016年10月13日 (木)

距離感

目的地まであと50メートル、と表記のある看板を見て、あと少しだと思えるが、3千メートル級の山頂近くでの、頂上まであと50メートル、はかなりの距離感である。感覚とはその時、場所、状況によって異なるのである。一人の人のなかでさえ感覚が違うのだから、他人の感覚を同じように感じることなど不可能である。相手の苦しい、楽しさなど分からない、と言ってしまえばそれまでだ。精神分析は、さらにその先にすすめますよ、ということを私たちに指し示してくれたのである。

2016年10月12日 (水)

日常

信号はいつも青信号、ガソリンは満タン、駅のホームにはいつも電車が到着し、気温は最適、欲しいものはすぐに手に入り・・というのが、自分の日常生活だったら、などと夢みることもある。しかし現実は、気がつけばクルマのガソリンは残り僅か、電車は出発したばかりで、暑すぎるか寒すぎており、欲しいものは売り切れに・・何が人にとって幸せなことなのだろうか。

2016年10月11日 (火)

待つ

子どもの要求は、いつでも待ったなしだ。「今すぐして!」ばかりを言い続ける。その要求に親はイライラさせられる。それは、親の都合をないがしろにされることへの不満なのか、親自身が子ども時代に待たされた体験が、そういう気持ちにさせるかのどちらかである。要求は旬だ。今すぐに対処してほしいのだ。そんな要求は「よく考えてから」とか、「後でもっといいものが手に入るかもしれないよ」といった、常識的とも思える声によって、かきけされてしまう。しかし、聞いてほしい要求は無意識界に閉じ込められ、後年、一挙に吹き出すことになる。小さな要求を、旬のうちに満たしてあげることで、子どもたちの精神は健全に育くまれていくのである。

2016年10月10日 (月)

書き心地

特殊なインクを使ったボールペンを入手した。サインぺンとも、万年筆とも異なるその書き心地は、書いている気持ちをも忘れさせてしまうほどだ。それでいいのかといえば、また、不満がのこる。ぺンを操っているのは私だ、という実感が少ないようだ。長年愛用のそれは、重く、ネバり、紙への抵抗も大きく、書けるものなら書いてみろ!と私に挑戦してくるようである。その戦いを受けて立とう、とばかりにこちらも気合いをこめてペンを走らせている。

2016年10月 9日 (日)

時間

今日一日をどう過ごすかを考えることを、時間の構造化という。何時に起き、何を食べ、計画に沿って行動することの楽しさと、充実感は例えようもない。しかしその構造はしばしば、他者の計画によって突き崩される。他者によるたった一つの計画で、自分の計画は、その再編成を余儀なくされる。崩された考えの破片を片付けながら、もう一度、形あるものにしていく労力は最初の労力を上回るエネルギーを要する。人はそんな頓挫を被るうちに、もういいや、とばかりに、構造化することも、そうしようという思考さえも本人の頭から奪ってしまうのである。

2016年10月 8日 (土)

誇大

ビールがジョッキから溢れる直前のポスターが貼ってあると、「飲みたい」という気持ちになるのかもしれない。実は、ジョッキの下に一円玉がおいてあり、ビール本体は一晩他の器に溜めておいたもの、泡は息で泡立てたものを上からもったものだという記事を、コマーシャルフォトという雑誌でよんだ。確かに実物より本物らしく見える。どちらの写真が好きかと問われれば、溜めておいたもの、とこたえるだろう。このように、われわれは真実と幻想の交差したなかで暮らしているのかもしれない。

2016年10月 7日 (金)

噴出

子どもたちは、不平・不満を、体を使って発散しようとする。おとなのように言語を使いこなせないからである。おとなは、言語、すなわち、自分で言い訳を作ったりして、ご縁がなかったから、などと自分に言い聞かせて、諦める方法を身につけている。幼い子どもにとって、それが可能になるのはずっと後である。そんな子どもたちに対して、おとながいくら説明しても無駄なのは、こうした事情があるからである。彼らの不平・不満を解消してあげなければ、後年、たまった不満が一気に噴出することになるだろう。

2016年10月 6日 (木)

考える

人は毎日、不平・不満を抱えながら生きている。それを一人でぶつぶつ呟くようなら要注意だが、頭のなかでグルグル渦を巻いているのが私たちの日常ではないか。その不満を、知と結びつければ発明・改善につながるであろう。知とは、考える力である。考える、とは、発明・改善を目指しているということである。考えてばかりいるとは、考える訓練をしている最中と考える柔軟性も必要ではないだろうか。

2016年10月 5日 (水)

真実

人が、誰かに向かって、「絵はいいですね」とモネの絵を想像しながら語ったとき、聞き手は、自分の思い描く画家の絵を思い浮かべながら聞いている。別々の絵を語りあっているようなものである。これでは、意見が一致することはない。こんなとき、カウンセラーは、絵という文字だけしか聞いていない。そしてそれができてしまうように訓練されている人のことである。だから、相手が絵をかたっているようで、まったく違う悩みを語っていることを理解できるのである。あなたがかかえているのは、こいいうことですね、と、相手に伝える。そのことに一番驚くのは語り手自身である。私が言いたかったのはそのことなんです、と、まるで他人ごとのようにびっくりされる。そして腑に落ちた、という語りでしめくくられるのである。そのとき、クライエントもカウンセラーも真実に出会えた喜びに浸るのである。

2016年10月 4日 (火)

受け答え

人と人との会話の楽しみは、相手の答え方一つにかかっている。ああ言われてたら、こう返す、という定型文があればいいのに、と思うこともある。これに失敗したとき、人は人に対する不信感を抱く。私のことを少しもわかってはくれない、といった具合に。その見本は父と母との会話である。家庭で、どんなやりとりがあり、どんな反応があったのかを、子どもたちはつぶさに見、聞き、感じている。後年、子供にとっての、受け答えに仕方に反映することはいうまでもない。

2016年10月 3日 (月)

景色

セラピールームの窓からは、熊谷駅が一望できる。向かいの自転車置き場の向こうが、高崎線上りホームになっていて、夜も10時を過ぎるころになれば、滑りこんでくる電車の車内にも人の姿は少なく、発車のベルを押す車掌の姿だけが動いている。二階は自転車置き場で、これまた人影はほとんどなく、三階に向かってそびえたつ太い鉄柱が存在感を誇示するのみである。その鉄柱の行きつくところは、上越新幹線のホームになっていて、一階から三階まで見渡すと、あたかも宇宙空間に浮かぶ宇宙ステーションのようにも見える。ふと、足元の道路上に目をやると、路上に椅子を並べている酔客の一群がいる。あたかも、その周辺にだけ、人間の温かみがあるかのように見えるのだった。

2016年10月 2日 (日)

旅行

「旅行しないか」という誰かの一声で、何人かが旅に出た。ところが、彼らの目的は、三者三様だ。ある人の目的はグルメであり、別の人にとっては、その土地でしか手に入らないお酒、別の人は温泉、景色、ボーっとする・・・全て違うのである。旅から帰って来てからの感想が一致しないのはそのためである。一人が、旅館の食事が美味しかった、と言っても、別の人にとっては、そうだったかな、という程度にしか感じられないだろう。銘酒が手に入って悦に入っている人がいても、お酒を飲まない人には、結果報告にしか聞こえない。彼らをつなぎとめているのは、「旅行」というたった一つのことだけである。我々は、その「何か」によって、かろうじてつながり合っているだけに過ぎないのだろうか。

 

2016年10月 1日 (土)

ベル・エポック

ライヴハウスに通うきっかけは、40年前、シャンソン好きの友人の誘いがあったからだ。吉祥寺駅前の小さなビルの二階にある「ベル・エポック」の店内は、客で一杯であった。ワンステージが終わるたびに、歌手が客の席に降りてきて、注文に合わせて水割りを作ったり、つまみを運んだりしながら、曲目解説や、苦労話を披露してわれわれの涙を誘ったりしていた。しまいにはサイン入りのレコードを買ったりしながら、歌手と話せるライヴハウスになっていた。以来、毎週、友人と通っていたのも、古きよき時代のことである。買ったレコードは、一発録りのもので、それは、編集や多重録音によらず、プレイヤーと歌手が息を合わせて、文字通り一発で録音するもので、誰かがミスをすれば最初から録り直しというものだ。その緊張感は、編集したものとは一線を画していた。セラピーも、レクチャーも、いうならば一回限りのライヴだ。そこでは、そのときだけの語りが展開され、台本も予見もない、率直な自分があらわれる世界なのである。

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