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2018年2月の28件の記事

2018年2月28日 (水)

未来

私たちは未来に目を向けている。なかには過去ばかりに目を向けている人もいるかもしれない。未来には、近い未来、中くらいの未来、そして遠い未来がある。遠い未来ばかり追いかけていれば、明日の予定を見失うし、明日のことばかり考えていればその日暮らしというそしりを受けてしまうことになる。中くらいの未来とは何か。それは少し手を伸ばせば手に入るくらいの未来だ。私たちはそれを希望と呼んでいる。そして、そうした話を語り合える人のことを同志という。

2018年2月27日 (火)

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「今」とは、いったいいつを指す言葉だろうか。楽しい友達との会話の時にふと、幸せだと感じる瞬間がある。その瞬間とはどのくらいの時間なのだろうか。友達と会う前から楽しく、別れたあとでも楽しければ「今」とは、とても長いものとして感じられるだろう。話が合った瞬間だけ楽しいと感じられれば、その「今」とは、ほんの一瞬ということになるだろう。子どもたちが「今」を感じるのはいつのことをさしているのか。それは、母から承認と賞賛の言葉をかけられたときである。しかし、母が他に目を向けた瞬間に「今」は跡形もなく消え去ってしまうのである。そう考えると、「今」とは、蛍光灯の点滅のように瞬間瞬間にしか存在しないはかないものなのかもしれない。

2018年2月26日 (月)

マラソン

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人生はマラソンに例えられる。コースは山あり、谷あり、競走相手との駆け引き、沿道からの声援、天候、景色・・一人ではないと感じる時間なのかもしれない。一方、分析家は伴走者に例えられる。クライアントのペースに合わせて語りに耳を傾ける。語りのペースが速くても、ゆっくりでもついてゆく。相手に合わせる、などという意識があってはついてゆけない。ついてゆく、という意識すらない。これを「無心」という。そして語り終えたとき、分析家の姿は消える。分析家が「無心」から「無」になってしまう瞬間である。

2018年2月25日 (日)

人柄

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F市にある中華料理店は20数人の客でごった返していた。開店早々に入店したのでスムースに食事ができたが、後から後からお客が入店してくる。住宅街の真ん中、その店にだけぽつりと灯がともっている。。メニューもお酒の種類の多いことは一流店と同じだが、たった二人だけで店を切り盛りしている。客は待たされても苦情を言わないが、清算のときになると、わざわざマスターが笑顔で手を振ってくるのだった。人はモノを買うのではない、食べるだけでもない。その向こうに人柄を見ているのではないだろうか。

2018年2月24日 (土)

聴覚

人間の耳は常に開いてはいるものの、すべての音を聞いているわけではない。もしそうだったとしたら、近くを通る電車の音はもちろん、クーラーの風音、テレビから流れてくる音などがぜんぶごちゃ混ぜになって何がなんだかさっぱりわからなくなるはずである。しかしそうならずにいられるのは、脳の選択能力のおかげだ。数ある音の中からある音だけをチョイスして聞いているのである。その音とは、自分に関係のある音にかぎられている。誰かのことを語っていたら、当の本人が「私のことを言っていたよね」と言われて驚くことがある。壁に耳ありの諺通り、愛の言葉だけを胸に思い語っていれば自分にもかえってくるものである。

2018年2月23日 (金)

言葉の裏側

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言葉には裏がある。豚児というからどんなお子さんかと思えば、それは目から鼻に抜けるような好青年であったりする。「お茶しよう」という言葉は、私の愚痴話を聞いて欲しい、と言っているのであり、「私は○○で」は、本当は悧巧なのですよ、と言っているのである・・わたしたちが率直に言うことは世間では、はしたないこととされている。嘘をつけ、と言っているに等しい。相手が「本当のことを言ってほしい」というので、「本当のこと」を言ったばかりに口もきいてくれなくなった、という人もいる。真実を知りたい気持ちと、お世辞の一つも言って欲しい気持ちと、二つの思考が人間の心の中に存在している。

2018年2月22日 (木)

思い遣り

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相手の求めているものを察知して与えることを思い遣りという。その起源は母子関係にある。言葉が喋れない赤ちゃんはただ泣くことで自分の要求を訴える。その泣き声をきいて、母は推察して与える。乳を含ませても、赤ちゃんが飲みたくないときは、飲みたくないのだ。大人社会にもこれがある。食べたくない時に出されたものは胃にもたれるし、聞きたくない説教をされれば心の負担が増すだけである。それをお節介とよんでいる。思い遣りとお節介の境界はいったいどこにあるのだろうか。

2018年2月21日 (水)

ストーブ

彼は、朝も暗いうちから教室で一人せわしく働いていた。教室のダルマストーブを焚くために、彼は誰よりも早くから登校してくるのだった。彼の焚き方には作法がある。まず新聞紙をひねったものをたくさん用意し、その中の適当な一片にマッチで火を着けてストーブの中に大事そうに入れる。すでに用意の紙片を次々放り込むと火はまたたく間に大きくなり、それと同時に彼の顔もオレンジ色に染まりはじめるのだった。次に、薄い木の皮を入れたりしながら、、彼が手にするものは次第に大きな木片に代わっていった。「よし」と彼は誰にいうともなく呟き、仕上げとしてコークスの黒い塊を慎重に、かつ慈しむようにストーブの投入口にくべていくのだった。まるで幼児に離乳食を与えるようだと思った。級友が教室に集合するころには、ストーブは皆で囲まれていたが、彼は感謝されるでもなく、要求するでもないのに、彼の顔は満足感に満ち溢れていた。春になれば、早朝に彼の姿はなく、ストーブも用務員の手で取り片づけられ、教室の外は満開の桜の季節を迎えるのだった。

2018年2月20日 (火)

姿

森のなかに一本の白樺の木が立っている。通りながら横目で見ると、先ほどとは木のおもむきが変わって見える。木を離れて振り返って見るとまた違う。一本の木が角度を変えれば変えただけ、違った表情を見せてくれる。人もまた、華やかな人がふと淋し気な風情を見せたり、豪快な男性がふとした瞬間に繊細な仕草で振る舞ったりする場面に遭遇したりする。同じ赤子としてこの世に生まれてきても、環境や習慣によって、私たちはその姿形や行動様式までも変えながら生きてきた。そう考えると、その人の姿はそのときどきにみせるほんの一面だけなのかもしれない。

2018年2月19日 (月)

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わたしたちがモノを見るときに、その形を人間の「顔」として認識している。クルマのフェイス、家の形や窓の配置、動物や昆虫などはまさにそうだ。人間の顔と較べながら、あれはかわいいとか、怖いとか呟いている。そのワケは、われわれが最初に出会う唯一にしてかけがえがない、この人がいなければ一日たりとも生きていけない重要人物が母という人間だからだ。その顔が基準となり、好き・嫌いの根拠となっている。これは変えられないスタンダードになってしまっている。後年、私たちがデザインの好みだけではなく、配偶者選択の根拠にもなっていることを知る術もないまま過ごしてきている。

2018年2月18日 (日)

思い出

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私たちの周囲にあるモノの表面には、思い出の言葉がペタリと張り付いている。モノを目にしたとき、その言葉を読んでもいるのである。目の前にあるコップを見れば、誰かの結婚式のプレゼントだったなと読んでおり、名前はもちろん、時代、参列者、式場のホテルなどの名称を読みながらコーヒーを飲んでいる。その記憶が楽しく思い出深いものであれば、そのコップの価値はいやがおうでも高まる。手にもなじみ、心地よく、深い味わいを与えてくれることだろう。逆の場合においては、使いにくく、粗雑に扱ったりしている。それでも食器棚に残っているのはなぜなのだろうか。良い思い出も、そうでないものもごちゃ混ぜのなかで暮らしている自分がいる。

2018年2月17日 (土)

傷つき

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人はささいな言葉で傷つくものである。周囲の人は「そう言われたくらいでどうした」などという。そうした言葉にこちらの傷は深まるばかり。その人のことはその人のこと。虫歯のうずきも、骨折の痛みも、共感してさえくれれば、痛みは半減するというのに。過去を反省させられたり、「時が解決するよ」、と未来に目をそらされても不満は残る。慰められる方法とは何か。それは自分の語りに寄り添ってもらうことである。それは容易にみえて難しいかもしれない。しかしそれが
最も有効で、唯一の方法である。

2018年2月16日 (金)

自我

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自我はどれだけ存在するのか、という質問に、ユングは、「ここにおられる人の数だけ存在する」と答えた。真面目、ずぼら、社交的、付き合い下手、思索的、享楽的・・人間の心のなかには、考えられる数の自我が存在する。誰か気になる人を見て、うっとりすれば自分だし、憎しみの眼差しで見てしまえばそれも自分なのである。嫌いな私の自我の部分を相手のなかに発見してしまった瞬間である。「あの人は好き」「あの人は嫌い」と言っているのはいったい誰のことを語っているのだろうか。

2018年2月15日 (木)

また明日

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子ども同士がそれぞれの帰路につくとき、「また明日ね」と言い交わしながら別れてゆく。よほど楽しく遊んだのだろう。スキップしながらの帰り道である。その言葉は楽しみがずっと明日まで続くことを意味しており、その先にもまた「明日」が続いているという確信がある。それが希望と呼べるものだろう。大人にそれがあると言えるだろうか。明日も明後日も、そのまた先にも希望があると確信することができるだろうか。彼らの帰り道の上には真っ赤な夕焼け空が広がっていた。

2018年2月14日 (水)

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その店は意外にも混雑していた。そこは開店したてのハンバーガー専門店である。街の量販店とは違うその店は、若い男女であふれかえっていた。やっとのことで店の片隅に案内されて、店内のお客を見渡すと、オシャレな服で身を固めた若いカップルばかりである。車を洗車したばかりの格好で店に駆け込んだ私とは大違い。私はあんなにおしゃれだっただろうか、そして今の私はどうなんだろうか。人は見かけだけではない、が身上の私は考え方の改変を迫られる思いであった。

2018年2月13日 (火)

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人がいつも考えていることは何だろう。真面目に・・・家族のため・・・必死に・・・すべて正解だが、真面目にやるワケは、その後で「楽」をしたいからではないだろうか。蒸気機関やエンジンの発明を始め、すべての思考は、いかに「楽」するかが原動力だ。たったその一言が人をして必死に仕事をさせることになるのである。子どもたちが最後の最後まで宿題をしないのも、何かの効率を考えてのことに違いない。

2018年2月12日 (月)

欲望の行方

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私たちの欲望には限りがない。あれも欲しいし、これも欲しい・・・。コマーシャリズムが私たちに、どんどんお買いください、と訴え続けている。人が手にしたと聞けば、余計に欲しくなるのが人情ではないか。本日限りの文字が、欲望の炎を一段と燃え上がらせる。鶴の恩返し「見てはならない」の禁止の言葉も、欲望を一段と募らせることを私たちは知っている。逆に、買ったものはいつのまにかほったらかし。その品物は本当に自分が欲しかったものなのか、他者が持っているから欲しいと感じたものなのかがわからない。そんなつぶやきを胸の中にしまったまま、
今日も何かを求めて街をさ迷い続けている。

2018年2月11日 (日)

蔵の街

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G市は足袋の街であると同時に、蔵の街でもある。路地の奥のいたるところに蔵を改装したカフェがある。表札も大正時代の面影を残しており、庭はもちろん、机、椅子、天井、襖、調度品の一つ一つにレトロが色濃く残っている。古風なテーブルのレトロなランプを灯せば、時代を超えて、時代をたくましく生きぬいてきた、この家の主人の繊細な一面に接する思いがする。私たちの心の中にも、変えなくてもいいものと、変えなくてはならないものの両方がある気がする。どちらもかけがえのない自分である。なんでも変えればいいというものでもない。趣のあるカップから立ちあがるコーヒーの香りを嗅ぎながら、この街を大切にしている人々の心意気に感じ入っている。

2018年2月10日 (土)

言葉

言葉は人を活かすために使うべきである。言葉には人を活かすだけではなく、人を脅しつける力もある、それが人をして、その心を傷つける動因になっているのである。「頼んでおいたのにまだできてないのか」、「君は○○だ」という否定的な言葉が私に脅しをかけてくる。人が社会に出ていくことは、雨の中を傘もささずに歩くようなものである。毎日どこかで言葉の雨に打たれながら生きていくに等しいことになるのではないか。その人にとって人生とは傷つきの歴史と感じることになるだろう。私たちはどのようにしてそんな雨をかわしながら暮らしてきたのだろうか。

2018年2月 9日 (金)

散らかる

海岸に面した、ある宿泊施設がある。建設中のマンションが、バブル崩壊に見舞われて急遽宿泊・研修施設に変更した建物である。オーシャンビューの各部屋の内部、宿泊施設とは全く趣を異にし、ごく普通の部屋にしか過ぎないのだ。キッチン・リビング・風呂・・・自宅に来たような錯覚に襲われる。生けた花や家具も飾り物もないただの空間がそこに存在する。なんとなく部屋にいても落ち着かないのだ。部屋から出たくなるのはなぜだろうと考えた。それは殺風景という一語に尽きる。モノが散乱している部屋が妙に懐かしい。程よく家具があり、趣味の良い絵が飾ってあり、適度に散乱している、そのルーズさもまた人に安らぎをあたえるのかもしれない。

2018年2月 8日 (木)

愉悦感

私は毎日、10年落ちの中古車に乗って出かける。このクルマはデザイン優先の設計なので、運転席は後輪のほぼ上に位置する。従って路面の凸凹をストレートに運転者に伝える。上下の振動はそのまま脳天を直撃し、ハンドルは路面の影響を受けて左右に振れる。燃費は悪く、快適な乗り心地など皆無である。しかしこのクルマには、乗り心地だけではない操る楽しさがある。いつでもどこへでも、こいつで行きたくなる、それが愉悦感ではないだろうか。

2018年2月 7日 (水)

演ずる

人間はたくさんの仮面をもち、時と場合に応じその中から最もふさわしいと思われる仮面をつけて自らを演じている。男がネクタイを結んで背広を着るのは、ちゃんとしたサラリーマンを演じるためであり、カラオケルームで歌を歌うのも、その歌手になり切って演じているのである。女の子たちにカメラを向ければ一瞬ファッションモデルのようにポーズをとってくれます。彼女らは普通の女の子であることを一瞬捨てて、モデルを演じているのだ。その時ばかりは素の自分のままではいられない。家庭ではどうか。父を演じるだけではなく、夫も演じ、親と同居していれば子も演じなければならない。芝居の一人二役などという役の数ではない。いったい素の自分はどこにいるのだろうか。

2018年2月 6日 (火)

平凡な話

カウンセリングでは、ご本人が重要な話と思っていたはなしがそれほど重要ではなく、ちょっとした話の中にある重大なことが隠されている、などということがあります。会社の同僚がちょっと変わった人で、毎日顔を付き合わせているとイライラしてしまう。その人とどう付き合えばよいか、などという話の場合などがそれにあたります。少し詳しく聞かせていただくうちに、合点がいって、その人はこういう風に見て差し上げればいいのですねと分かって(これを気付きと言います)、相手の見方、受け止め方が180°変わる、ということがあります。語り手の気持ちがフッと楽になるということがあります。どんな平凡な話にも意味があるものです。

2018年2月 5日 (月)

写真

通りがかりの人から、「シャッターを押してください」と渡されたカメラが、本格的一眼レフカメラだった。ズシリと手にこたえた。ファインダーを覗き込んだ瞬間、カメラがびくともせず、ファインダーに写っている像に揺るぎがない。そのマシンからは、見た目の存在感、手に伝わる重量感、画像の美しさ、もつ喜びなど、すべてが伝わって来たのだった。カメラはみな同じ、と言ってはならないのだ。趣味の世界は経過が大事なのだ。目的地に着くまでの車窓の景色が旅の楽しみであるように、写真の世界にも、感性を満足させてくれるマシンの存在も必要なのである。

2018年2月 4日 (日)

折り合い

社会生活のなかで、人は相手の欲望と自分の欲望との間で折り合いをつけながら生活している。相手が手伝ってほしいと思っていても、こちらにはこちらの都合がある。相手に合わせればこちらは不満足だし、こちらの意志を通せば、相手は不満足を感じるだろう。互いに折り合いをつけるのは容易ではない。相手をよろこびと私のよろこびを探りながら合意点を見つけていく。これを妥協という。互いにすこし不満を残すことになる。100パーセント満足を得られる場所は一体どこにあるのだろう。

2018年2月 3日 (土)

独立

父は父のことだけをしていて、母は母のことだけに専念しているのが望ましし形態である。子どもは遊びに夢中で、それぞれ自分の世界だけにしか関心がない、それがよいのかもしれない。狭い家のなかで互いがそれぞれ半畳ほどの独立国家を持ち、そのなかで暮らしているのがいいのである。誰かは、トランジスタ・ラジオに耳を澄ませて落語に耳を傾け、大きな声で笑ったところで、他の人に影響を及ぼすことはないはずである。仲がよいようで悪いが、食事の時だけは一緒、そんな家庭のなかにこそ幸せはあるのかもしれない。

2018年2月 2日 (金)

無駄話

つまらない話をするな、と子供時代に言われた経験はないだろうか。日常私たちの会話はこの無駄話で埋め尽くされているといってよいだろう。私たちの日常には、不急不要な会話で満ちており、肝心な話などは数割にしか満たないのが実情である。しかしまた、この無駄話が生活上の潤滑油にもなっているのではないだろうか。もしこの世から無駄話が排除されたとしたらどうだろう。その会話とは結婚後数十年経った夫婦の会話ではないだろうか。「出かける」「飯」「風呂」だけの会話がそれである。無駄話ができるということは、親密の度合いの高さを物語っていると言っても過言ではなさそうである。

当研究所では、寛ぎと癒しのお喋りルームを開設しております。日常生活でのさまざまな話を気軽に語っていただける場所です。人の心は語るだけで癒されていくからです。子育て上の苦労、愚痴話に付き合わされたなど、どんなことでも語ってください。ぜひお気軽にお越しくださることを願っております。

2018年2月 1日 (木)

感動

翌日の部活も宿題もない時代だった。母親の、早く寝なさいという叱責の声も、弟のいびきもなかった。睡魔も空腹も忘れてラジオから流れてくる音楽に聞きいる毎日が続いた。とうぜん学校の成績は振るわなかったが、それを揶揄する教師も、蔑視の眼差しを送る友もいなかった。これが良かったか、悪かったかは今ではわからないが、ひたすら聞き続ける毎日だった。音楽や人の話を聞くことは好きだ。なぜならそのたびに感動があるからである。

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