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2018年3月の31件の記事

2018年3月31日 (土)

イメージ

大工さんたちの仕事を見ていると、無から有を生じるごとくに立方体を出現させてしまうことに驚く。棚ひとつ付けるのさえ、彼らはたちどころに縦・横・高さのあるものを現出させてしまう。そう考えると、こちらは二次元、大工さんは三次元の世界にいるのかもしれない。二次元とは、テレビ・アニメの世界、三次元とは近未来のことかもしれないのだ。

2018年3月30日 (金)

教える

教えるとは、質問者の求める答えを与えることである。求めてもいないのに答えれば説教になり、求めた答えになっていなければ相手に不満を残す。相手が子どもであれば、年齢に相応しい言葉で説明することである。相手が納得するまで、いろいろな角度から論理的に説明するのである。大切なことは、感情的にならないこと。手を替え品を替え、わかりやすく説明することである。教えるとは教え方の再発見なのである。

2018年3月29日 (木)

教わる

自分の知りたいことを誰かから教わったとき、満ち足りた気持ちになるものだ。それは自分の心の中にぽっかりと空いた穴にぴったりの部品が埋まったように感じるからである。「0」が一気に「一」になったような充実感を感じるからである。教わるとはおのれの心を空にして聞くことである。あらかじめこうであろうという、予断も、予測も、先入観ももたずに聞くことが大切である。それを無心になって教わるというのである。

2018年3月28日 (水)

理論と現実

わかってはいてもできないことはたくさんある。お酒がやめられない、モノをすてられない、名前が覚えられない・・・数え上げればきりがない。理論では人の心は癒されず、寄り添うだけでは前に進めないのだ。これは、カウンセリングにおける難問である。ただし、寄り添ってもらうだけで、本人の心はずいぶん変わっていく。強くなり、自己主張するようになっていくことは実際のカウンセリングでしばしばみられることである。しかし、当の本人が「変化した」ことに気づくことは少ない。いつの間にか変化していくのである。まるで植物のようである。人間も自然の一部。余計な手をくわえない方がよいのかもしれない。

2018年3月27日 (火)

天気

春先の天気は変わりやすい。晴れたり曇ったり、雨が降ったりして定まらないことはなはだしい。子どもたちは道の水たまりさえ遊びに取り入れてしまう。大人の融通性のなさは惨憺たるものがある。要は捉え方である。晴耕雨読などと強がることもなく、雨だからと舌打ちするでもなく、あるがままを愉しむ心を、いつのころからか忘れてしまっているのではないだろうか。

2018年3月26日 (月)

日付

私たちは、日付にあわせて生活している。月曜日には不用品を出す、会社の会議があるから準備をする・・・。日付がなくなったら、なにもできなくなるかのようである。私たちは、時間を管理しているようで、実は管理されているのだ。そんな意識がないのが子どもたちである。彼らには、食事の時間も、登校班も、宿題のための時間もありはしない。食べたい時に食べ、寝たいときに眠り、遊びたいだけ遊んでいる。管理されず、自由に時間を過ごしている彼らに嫉妬している大人たちがいる。

2018年3月25日 (日)

一文字

人の心のなかには「一文字」が登録されている。それが中心となって生活のすべてが動いている。その一文字が「重」であれば、重い仕事についたり、どっしりしたものが好きになったりするだろう。「軽」がその人の中心にあれば、軽量化の仕事や、薄味嗜好に向いていくだろう。しかし、その文字は生まれながらにしてもっているわけではなく、書き込む人を必要とする。それを登録してくれる人こそ、父や学校の先生なのである。

2018年3月24日 (土)

美食

美味しいものをいつでも、お腹いっぱい食べたいと思うのが人情である。「美味しい」という言葉がくせものである。ひと仕事を終えてすする一杯のかけそばの味が生涯の想い出になっていることもあるだろう。昼間、高級レストランで食事をしたその夜に、同じそばを食しても、生涯の味にはなりそうもない。美食ばかりしていれば、ジャンク食品を食べたくなるかもしれず、反対もまたしかり。ただ、美食の基準を持っている必要はありそうである。その基準とはもちろん、おふくろの味である。

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インテグレーター養成講座、新規開講。
平成30年4月10日(火)午前10時~午後1時(途中休憩あり)
インテグレーター養成講座第Ⅰ期、第1回目を開講します。
ご参加ご希望の方は互味(090-7261-5001)までご連絡ください。
皆様のご参加をお待ちしています。

2018年3月23日 (金)

真実

本当のことは言えないものである。言ったとしても、ひどく長い説明になってしまうだろう。旅行はどうでしたか?と問われても、34日の旅を一言で説明しようがないのです、などと真実を述べたら、熱でもあるのかと言われるのがおちである。しかしそれが真実である。そこでふつうに、ええ、楽しかったです、とか、少し雨に降られましたが大方は天気で・・・などと言っている。ほとんど嘘をついているようなものである。自分はうそつき?などと心配することはない。私たち人間は長い言葉を「概念」という便利な単語を伝えあっているにすぎないからだ。もし正確無比に伝えようとしたら、言葉がいくつあっても足りないだろう。こうして、私たちは概念という共通語でわかり合ったように暮らしているのかもしれない。ではいったい、真実はいつ顔を出すのか。

 

 

 

 

2018年3月22日 (木)

好きなこと

人にはだれでも「好きなこと」がある。何もありません、と言う人は、それが口に出せないでいるのである。彼らの欲望は、強い力で抑えつけられ、否定され、心の片隅に追いやられているのである。そのため、彼らは、それを思いだすことに強い罪悪感さえ抱いている。かつて何をしたい、と口にした途端に、そんなことより手伝いを先にしなさい、などという叱責の言葉をかけられて、その記憶が想起されてしまうことへの恐れがあるのだ。そんな言葉の数々が私たちの欲望の上にどっかりと漬物石のように横たわっている。それを外すことができたら、こんな欲望が自分にもあったという大発見につなるかもしれないのである。

 

 

2018年3月21日 (水)

楽しいこと

スポーツ根性漫画に夢中になっていた人も多いのではないか。昨今のスポーツ選手のインタビューを聞くと、楽しんで走りました、という言葉をよく耳にする。かつて部活で先輩にしごきまくられていたのはいったい何だったのだろうか。漫画は幻想だったのだろうか。自分で選び、それが楽しければ、何年でも、雨の中でも、周囲から何を言われても楽しいのである。それが1つでも探し当てたとすれば幸せなことではないだろうか。

2018年3月20日 (火)

最初の一歩

進歩の基本は最初の一歩である。人は前に進もうとしているだけで、じつは最初の一歩を出せないでいるだけである。明日から、とか、今回だけは、とつぶやいているのが実情ではないか。自動車は出だしにパワーを使う。しかし、いったん走り出してしまえば、快適で、楽しく、あっという間に目的地についてしまうのだ。最初の一歩をどう出せばいいのか、それはサッと出す、ただそれだけである。

2018年3月19日 (月)

成長(2)

成長の度合いは無限である。毎日、時々刻々、人は成長し続けている。一週間前の子どもはもう前の子どもではない。写真や、洋服で大きくなったことがわかるように、精神的にも大きく変わっている。同じことが大人にも言える。体の成長は子どもほど顕著ではなく、老眼が進むなどのマイナス面だけが目についてしまいがちだ。一見大人の成長が止まったかに見えるが、内面の成長は無限に続いている。その見本こそ、目の前にいる子どもたちだ、ととらえれば、子どもは我が師、我が鏡になるはずである。

 

2018年3月18日 (日)

成長(1)

成長とは変化である。成長は、変化しているかどうかで知ることができる。小さかった子どもが、いつの間にか強烈な言葉を使いはじめたり、ちょっとした身のこなしや、靴下を自分でやっきになって履こうとしているのを見て、ハッとさせられ、差しのべた親の手を振り払う態度にびっくりすることもあるものだ。それが成長である。それを親がどのようにとらえるか。親自身も成長していれば、子どもの成長を見守れるはずである。

 

2018年3月17日 (土)

節度

人間の欲望は無限である。「男子ご出産です」と言われた瞬間、「女の子がよかったかな」という思いがよぎったり、念願通りの男の子を産んでも、別の欲望が顔を出したりと、いつまでも満足を得られない構造が人間には備わっている。日常を見渡してみても、商品を手にしてわずか数か月後には新製品に目を奪われているのが私たちの毎日ではないか。しかし、もっと良いものを、もっと記録を更新して・・・と「もっと」を求め続けるのもまた人間である。その折り合いをどこでつけていくか。それが私たちの節度である。

2018年3月16日 (金)

寒い

人が「寒い」と言うとき、その人が本当に言いたいことは十人十色である。ある人は気温のことであり、別の人にとっては冷たい言葉をかけられたからそんな言葉になって出てきたのかもしれない。ふところ具合が寂しい人にとっては、そう言いたくもなるだろう。自分のプライドが傷つくようなとき、気温のことに掛けて表現している場合も多いのだ。いずれにしても、自分を正直に表すことは難しそうだ。子どもたちの、「お腹が痛い」という言葉の裏にも、なにか意味がありそうである。それを十分に汲み取ってくれる人がいたら、その子の人生は幸せと言ってよいかもしれない。

2018年3月15日 (木)

後味

食べる楽しみの一つは後味である。後味がよければ、もうそれ以上は食べたいと思わないはず。それが悪ければ、後味がよくなるまで食べ続けることになるだろう。小説や映画のラストシーンなど、すべては最後の後味で決まる。あるチョコレートは口の中で消滅するまで「甘い」味だけが持続するのに対して、別のそれは口の中から消滅するちょっと手前で「にがみ」が一陣の風のごとく吹き抜けるのである。それが口の中を爽快にする。また食べたくなる製菓会社の作戦なのかもしれない。

2018年3月14日 (水)

壊す

ものを壊すことには二通りの意味がある。一つは、そのものを持っていることに対する不快感。二つには探究心である。前者の場合、そのものにつらく、悲しい思い出がくっついていれば、それを見るたびにそのときの記憶が想起されるので、破壊ないしは捨ててしまうことで、心の傷つきを避けている。しかしそうすることには大きな罪意識が派生してくるので、「いつの間にか壊れた」「気づかない内になくした」ことにしているのだ。あんなに大切にしていたのに、なぜ壊れたのかについては絶対に思い出せない理由はここなのである。壊すことのもう一つの意味は、中を詳しく知りたいという探究心だ。偉人伝のなかにはそんなエピソードが多い。時計を壊して叱られたことから探究心が失われたかと言うと、さにあらず。壊してみたら、部品の多さにビックリし、パーツの重要性に気づけば、その子は小さな部品を大切にすることになるだろう。すべては、本人がその経験をどうとらえたかにかかっている。

2018年3月13日 (火)

ちょっと嬉しい

人が「ちょっと嬉しい」と言うときの「ちょっと」とはどのくらいの量なのか。ちょっとどころか、「とても」の意味で使っているはずである。なぜ少なめに言うのか。謙遜・・相手への思い遣り・・ではなく、あまりの嬉しさに圧倒されてしまうことへの恐れがあるからだ。外界からやってくる嬉しさに飲み込まれて自分がなくなってしまうことへの恐怖心が、防衛機制を働かせてしまい、ちょっとにしておくためなのである。ちょっと悔しいも同様だ。悔しい感情に押し潰されてしまう恐れからたいしたことではなかった、と自分で言葉を置き換えているのである。そうすることで、自我の崩壊から身を守ることができるのである。しかし、それを続けていくと、「本当に嬉しいこと」に出会えなくなる危険性をもはらんでいるのである。

2018年3月12日 (月)

欲しいもの

子どもたちが欲しいと感じているモノは、実は最初からは存在しないのである。他の子どもがご満悦の顔で持っているモノを見た、その瞬間に欲しくなるようなものである。他人が持つことで欲しくなるのである。それを巧妙に仕掛けてくるのがコマーシャルである。そう考えると、なぜそれが欲しいか?と聞かれても言えない理由がわかるだろう。「誰々さんが持っているから、自分は悔しくて欲しいのだ」などと言える人がいるだろうか。口が裂けても言えないことが「嫉妬」ではないだろうか。子どもが欲しいと言ったものは「はい」と言って与えること、そうすることで子どもの自己愛は傷つかずに育っていくのである。

2018年3月11日 (日)

欲望

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人の心は相手に通じる。その起源は母のまなざしの中にある。母は自分を必要としているかというものだ。それを必死に母のまなざしの中に見出だそうとする。母は私に何を欲望しているのか。健康に育って欲しいという欲望以外に、私に何を求めているのか、と。それを想像することが、子ども時代の生活のすべてといえる。大学に入って欲しい、プロゴルファー、タレント、金メダリスト・・次々と繰り出される言葉に子どもたちは翻弄され続ける。しかし、そうした母の欲望も、提出されなければまた、子どもたちは目標を失うことになる。必死の思いで母の欲望を満たしたと思った瞬間、母はこのセリフを口にすると言われている。「わたしは、そんなことを言った覚えはない」。

2018年3月10日 (土)

自分の欲望

人が一人でいるとき、本人には欲望はない。そのとき、他者からの、営業に行くように、とか「勉強しなさい」という言葉が入ってくると、人は自動的にその言葉に従うようになる。まるで人形のように操られてしまうのである。常識的には、そうすることが好ましく、従順で非難されず、あまつさえ賞賛を受けたりする。しかし、それは本人の欲望ではなく、他人のそれを生きていることになる。それはそれで、中年くらいまでは暮らしていけるのである。中年をすぎたころから、自分とはなにかと考えるときが必ずやってくる。そのとき自分に何の欲望がないことに気がつく。指示待ちの人生を歩むか、自分の欲望を設立するかの二者択一の岐路に立たされることになるのだ。そのとき自分の欲望を見出だす話し相手が必要になるのかもしれない。

2018年3月 9日 (金)

羞恥心

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私たちを苦しめるものの一つに羞恥心がある。古くは親による「ダメ」「ほらごらん」などの言葉だ。その言葉をかけられることが少なければ厚顔無恥でやりたい放題の人になるし、年中その言葉をかけられ続けられれば、その人は失敗を極度に怖れるようになるだろう。両親は、子どもを応援する言葉と、そのくらいにしておくようにというブレーキの両方の言葉をかける必要があるだろう。車のブレーキは必要な道具であるが、ブレーキにはブレーキの機能があり、アクセルにはアクセルの機能がある。その両者を兼ね備えているのが人間である。それは、幼少期における両親による適切な言葉のかけ方である。適切さとは、子どもが何かに反応したときに、敏速・適格な言葉をかけること、これに尽きる。

2018年3月 8日 (木)

感情

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自分の気持ちを一定に保ち続けることは難しい。感情をもっているからである。自分の考えだって揺らいでしまうのだから、他人の言葉を聞くたびに、一喜一憂してしまう自分がいる。私たちの毎日は、目まぐるしく変化する天気そのものだ。天気図をみると、高気圧に覆われている日本列島の片隅に、はやくも低気圧の渦がうずまいており、それが瞬く間に我が町の上にやってきたりする。人の気持ちも、泣いたり、笑ったりの連続ではないか。そんな波のような感情に翻弄されないために必要な心とはいったい何なのだろうか。

2018年3月 7日 (水)

愛着

愛着とは、それなくしては一日たりともいられない大切な対象である。寝ても覚めてもそれから頭が離れることはないモノである。それは人・モノ・コト・・何でも良いのである。本好きは寝床の中まで本を持ち込むだろう。ガーデニング好きは庭を一日中手入れして飽きることはない。対象を愛するとは、自分を愛すること。誰かから自分は愛の対象だっただろうか、と自分に向かって問いかけているのである。

2018年3月 6日 (火)

五感

食事のとき、人間は五感を総動員しながら食している。目は、料理の盛りつけ、器の色や形などを見ている。手はフォークや箸が触れたときの触感、鼻で湯気や香りを嗅ぎ、口で味わい、耳で音を聞き、食事というすべての情報をまるごと体内に摂り入れている。そこに、家族のたわいもない話や笑い声が加われば、食べることが大好きになるだろう。ひいては、知識や情報を摂り入れることに快を覚えることになる。すなわち学ぶことが好きになるということである。

2018年3月 5日 (月)

しつけ

人前での振舞い方を教えることを「しつけ」と呼ぶ。食事のときはこう食べ、挨拶はこのように・・と、その場で身をもって教えることである。電話中に、親と相手とのやり取りを子どもたちが真似る姿に、はっとさせられたことはないだろうか。家庭とは日々、見本を示す場といってもよいだろう。私たちの姿もまた両親の真似だと思うと、人間とはコピーのまたコピーであるともいえるのである。

2018年3月 4日 (日)

憧れ

誰もが抱いているものは憧れではないか。ときに羨ましく、ときに悔しい存在でもある。そんな人物像をもつことが私たちを未来へと牽引していく。憧れがなければ、私たちの生はその活力を失うことになる。すでに手にしたものは憧れとはいわない。憧れとは、私たちが一生追い続ける逃げ道のような存在といえるだろう。引っ張っていく力とともに大切なものは欠如感である。もっと豊かに、幸せにという欠如感である。欠如感が私たちを押し出す力になるとは、私たちにちょっとした調味料を与えてくれているのかもしれない。

2018年3月 3日 (土)

身体症状

自分だけは正しいと思っていても、周囲からそれは違う、と言われた場合、「自分は正しい」が揺らいでしまうのが人情ではないか。横並びがよしとされる日本ではとくにそう感じることだろう。そんな中で自分の考えを押し通すのは大変である。そのときの対処法は二つ。一つは、自分を貫くこと。二つには、自分を棄てて周囲に合わせる、たとえば、飲みたくなくても周囲の人に合わせて酒を飲むということ。たとえ飲めたとしても、体の方は悲鳴を上げることになる。その叫びは本人の耳には届かず、病気となって表れる。症状とは体の叫びといわれるゆえんである。

2018年3月 2日 (金)

郷愁

私たちは想い出という郷愁をいだく。ときに甘く、優しいものだけとは限らない。悔しく、悲しく、また切ない想い出も多いのではないか。それが明日へのパワーになる、などといえれば聞こえはいいが、過去を振り返っている時は未来を見る暇がないかもしれない。栄光に輝いた過去があったとしたらどうだろう。やはり、それにとらわれてしまい、未来は見えないのだ。苦難の過去、栄光の過去、どちらも未来を描くための原動力にはなりにくいものかもしれない。いっそのこと過去など棄ててしまえばいいのではないだろうか。

2018年3月 1日 (木)

情け

人から情けをかけられて嬉しかったことはないだろうか。こちらが弱っているときには余計ありがたいものだ。情けをかけることはある意味で、勇気が必要とされる。情けをかけなければ情け知らずと称され、かけすぎれば甘やかしと評価されることにもなる。情けをかければかけるほど良い時代はいつか。それは子ども時代である。幼い子どもは、一人では生きていけない弱い存在である。情けだけで生きているといっても過言ではない。子どもたちに情けをかければかけるほどすがってくる。それなしでは僕たちは生きていけないのです、と言っているかのようである。そんな無限の欲望にブレーキをかける人物こそが父である。

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