美食
いつも美味しいものを食べていると、慣れてしまう危険性もある。美食も極めつくせば、最後にはとんでもないものに興味を示すという話も聞く。ときには、さほどでもないものを食するのもよいかもしれない。そんな食事が続くと、たまに食べる料理がおいしく感じる。暖衣飽食から離れて、粗衣粗食、断食というのも、日常の食事の味を際立たせるきっかけになるかもしれない。
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いつも美味しいものを食べていると、慣れてしまう危険性もある。美食も極めつくせば、最後にはとんでもないものに興味を示すという話も聞く。ときには、さほどでもないものを食するのもよいかもしれない。そんな食事が続くと、たまに食べる料理がおいしく感じる。暖衣飽食から離れて、粗衣粗食、断食というのも、日常の食事の味を際立たせるきっかけになるかもしれない。
人はいつでもどこでもだれとでも対話している。対話がなければ、私たちはものを買ったり、品定めすることができないのだ。自動販売機とも対話している。どのコーヒーを選ぶか、好みか、新発売か、たまには違ったものにしよう、などと対話している。それを異常に感じないのは、声に出さないからである。異常に感じるのは、その声が外に漏れだしているときである。すなわち、私たちには閉じた世界があるのである。
登山の好きな人と、関心のない人とが会話をしても話は続かないのではないか。同じ登山愛好家でも、3000メートル級の登山者と、ケーブルカーで行く散歩程度の登山好きとはまた話は合わないだろう。3000メートル級の山を初めて上った人と、そうした山をいくつも踏破した人ともまた、話が続かなくなるだろう。同じ趣味でもレベルが違えば、かみ合うことは少ない。競争心もそこに一役買っているのかもしれない。私たちは、本当に話の合う人を求め続けている、それほどまでに、人は孤独の中にいるのである。
遠い道のりも、過ぎ去ってみると、さほどでもなかったと感じることもある。しかし、その途上にある人にとっては、先が見えないほどの道のりである。大切なのは、その途上を一歩一歩足を運ぶこと。平らな場所では100メートルは近いが、登山中の、「頂上まで100メートル」の長いことは登山の経験者なら理解できるだろう。そんな時、リーダーは、にこやかな顔つきで、あと少しです、などと軽く声をかける。かけられたメンバーはその顔つきに自分を重ねて、もうすぐだという確信を得るのである。先を行く人の使命とは、先にある快適さを声によって指し示すことではないだろうか。
私たちは、多くの言葉の中から自分に関係した言葉だけを選択して聞いている。逆に言えば、自分に関係のない話は聞いていないことになる。レストランなどで、臨席から聞こえてくるのは、自分に関係した言葉だけである。知っている名前、会社名、子どもの話題、上司への不満話、近所の噂話・・・すべて自分に関係していることだけだ。自分の中にもそうした話題があるからこそ、その話だけが聞こえてくるのである。すなわち、相手の話は自分自身の言葉である。
人間が情報を求めるのは、知る喜びを得るためである。しかもそれを他者に話したとき、相手が驚いたり、感心してくれたら、その情報の価値は一段と高まるものである。子供たちが、「聞いて」というとき、自分が知った、という喜びを親と共有してほしいからである。それを認めてあげることで、子供たちは知る喜びを得ることになる。学ぶ目的は意外にそんなところにあるのかもしれない。
ゲームに子どもが夢中になるのは、いつでも、どこでも、どんな時でも、ゲーム機が遊び相手になってくれるからである。電池切れや、故障でない限り、ゲーム機は年中無休で相手をしてくれる。赤ちゃん時代は、泣けば母はすぐに乳房を口に含ませてくれるが、大きくなると母も忙しく、子どもも待つことができるようになり、その間、ゲーム機が相手になってくれたら、こんなに都合のよいことはないだろう。かつて人は無聊をかこつために、本を読むか、友の家を訪ねるかであったが、それには能動性を必要とする。ゲーム機のスイッチをオンにするだけですぐに始められる便利さは比べようもない。
早朝の牛丼屋では、数人の客がそれぞれの器に箸をつけている。いつも目にする光景だ。毎晩のようにバーでカクテルを振っているバーテンダーが店にいて、バーの閉店後のひとときを、メニューの選択で過ごしている。彼にとって食事は至福のときであろう。隅の二人組はビールのジョッキーを傾けている。夜勤明けの夕げのようである。これから会社に向かう人と家路につく人とが店のカウンター越しで交差しながら街に散っていく。駅前の牛丼屋の風景である。
人によって時間の過ぎ行く感覚は千差万別だ。ある人にとって地獄にいるような時間でも、別の人にとっては天国にいるかのように感じるかもしれない。その同じ人も、異なった場面では地獄の攻め口を味わうかもしれない。私たちは天国と地獄の間を行き交うシャトルバスに乗っているだけなのかもしれない。そうだとしたら、もったいない話である。毎日が天国だったらいいのに・・いえいえ、地獄巡りツアーも面白いですぞ、と言うどちらかの博士の声が聞こえてきそうである。間もなくゴールデンウィーク、どう過ごすか。
人の一生は落ち着きのない一生である。家が落成すればローンがはじまり、子供が高校に進学すれば大学説明会の嵐に突入し・・昼食の後片付けをしながら夕飯の献立を考えた結果、残り物と決定し・・いつまで経っても落ち着くことがないのが人生ではないか。はやく落ち着いた生活を、と考えると、そこには大きな落とし穴が待っているかもしれない。そんな、落とし穴という落ち着き処に行きたくはない!
朝のコーヒーをコンビニの店員に淹れてもらおうと私は店頭にいる。店の左手のスロープを上がるとドアに到着するようになっている。正面からはスロープの分だけ階段が四ステップ分あって、一気にドアに近づけるのだ。どちらの道を選択するかで毎朝悩む。ゆるやかな成長はスロープのように目立たず、階段のそれは目にも明らかである、などと思いを巡らしながらスロープを選択する。若者は階段を二つ飛ばしに私の目の前を過ぎて店内に入る。明日は絶対に階段にしよう、と昨日も思っていた。
青春時代につっぱっていた子も、大人になるとすっかり角がとれて「お世話になります」などと言ったりする。それを進化と呼ぶ。進化したかどうかは挨拶、応対に表われる。自分は家族から大切に思われていて、両親が自分を見捨てることは絶対にないという確信が、安心・安全をその子の心に刻み込む。それが優しい思い遣りのある言葉となって発っせられるのだ。しかし、自分だけはつっぱっていなかった、素直な子供だったという人たちが多い。人は都合の悪いことは忘れてしまうのだ。
海外に行くと日本のよさが分かるように、まったく違った世界に身を置くことは、見えなかった面を発見できるチャンスである。私たちの日常は、ネクタイはいつも同じ柄を選択しており、重ねておいたシャツをひっくり返した結果、やっぱりこれ、などと誰に言うともなく呟いて数日前に着ていたものに袖を通している。一年に一度位は、着なれない服を着るのもよいだろう。難しい本、髪型・・人生一度きり、ちょっと羽目をはずすのも自分発見になるかもしれない。
ある古老から、けんかをとめる話を聞いた。二人が掴み合いのけんかを初めると同時に、椅子に腰掛けビール片手に、けしかけた途端に、両者どちらともなく、バカバカしい、と言ってけんかをやめたという。とめられればやりたくなり、禁止されるほどに覗きたくなるのが塀の穴の心理である。それができるのは、椅子とビールを持ち出す人の人間性にも関わってくるかもしれない。
旅は非日常との出会いである。訪問地に予想以上のものを発見したり、さほどではなくても、予想との違いを発見することで驚きを感じる。車窓の景色からして普段目にすることのできない姿の連続である。それに較べて私たちの日常生活は見慣れた景色にあふれている。毎朝鏡の前に立てば見慣れた景物がそこに立っており、いつもの食器で食べたりしている。そんな景色に「喝!」を与えるために旅に出かけるのだ。一方で、違った形で「喝!」を与えてしまう例もまた多いのである。
ラジオ番組の中で、「パーソナリティーさん今晩は」というリスナーからの言葉を、当のパーソナリティーがもう一回復唱して「今晩は」と言っている。パーソナリティーは一人二役を演じている。嬉しいのはリスナーである。自分の言葉が復唱されるのは嬉しいものだ。復唱された瞬間、私は私の言葉に出会うのである。こうして、私は私に出会う旅に出る。
人は強さと優しさの両面をもっている。この両面性が人を悩ますのである。言いすぎたかな、とか、甘すぎたかな?といった具合に。強い、優しいというのはあまり意味をなさない。自己主張して否定されると突然意見を引っ込めてしまう人もいる。このとき相手は「どっちなの?」などと聞き返すので、本人は葛藤をかかえることになる。人間はときに喧嘩したり仲直りしたり、押したり引いたり、いろいろなことをして生きていくのである。主張することが大切である。大事なことは、主張したことを曲げないこと、そして感情的にならないことである。
映画やテレビを見て、思わず手に汗したり、涙してしまうことがある。私たちの中にあるイメージする力のなせる業である。自分が何かしているそばで、それを見た人が感動することもあるだろう。人間には自分をそこに映し出してしまう無意識が備わっている。こちらが楽しそうにしていれば、相手も楽しそうである。俳優の名演技を見て、演技と知りつつどれだけ泣かされたことだろう。あまり感情移入してしまうのも考えものだが、冷ややかな目で見るのも人間的ではなさそうだ。何ごとにも度合いというものが必要なのである。
価値観とは、その人だけの意味である。人と較べたり、常識に当てはめて決めることではない。世界でただ一つの、誰とも較べられない意味である。しかし、だれよりも速く、高く、多いことが善で、それ以外は無価値とされてしまうのが一般的ではないだろうか。他と較べて勝っているうちはよいが、抜かれた瞬間に価値が下がったと感じてしまう。これでは永遠に満足を得ることはできない。人間はいつのころからか競争の世界に放りこまれてきた。その競争をやめた瞬間、自分がなくなってしまうことを恐れるあまり、へりくだることもまた学んできた。人間は一番が好きなのに、一番になればだれかに追い越されることで悩み、へりくだってまた悩み、私はいったい何を求めているのだろうか。
私たちは普段、空気に包まれているが、そのことに気づくことはない。おなじように私たちは文字に囲まれてもいる。周囲を見渡すと、文字だらけといった様相を呈している。目の前のものに「車」という文字を読んでいる。「タクシー」という文字を心にもっている人は目の前の車には目もくれず、タクシーの文字を探しているのだ。そう考えると、街は読む必要のない看板文字で溢れかえっている。ものを買えとばかりに人間の目に飛び込んで来る。そんな攻撃を避けるために、人はしばしば野や山に出かける。木の名前に疎い人間にとって木は木でしかない。自然に触れるとは、文字を捨てることだ。自然は説教しないところもよいではないか。
隣の部屋に移動したとき、何を取りにき来たのか忘れる、ということがある。そんなとき人は、歳をとったからと考える。果たして事実だろうか。思い立ったことは、たいした用事ではない。メガネ!と心のなかで叫んでも、私の無意識は「必要ない」といっているのだ。見るほどのテレビ番組ではなかった、ということだ。私たちはそんな欲望ではなく、本当の欲望をもつべきである。欲望は、叫べば実現することになるからだ。私たちは、あれが欲しい、これが不足だと心の中で叫びながら日々を送っている。ある意味、生きている証拠なのかもしれない。
私たちは名前を見ながら、母の名前と似ている、とか、昔の恋人の名前と同じ、尊敬する人と読み方が一緒だ、などと比較しながら見ている。さすがにペットの名前に似ている、というのは聞かない。立派な人になってほしいという親の期待が、名前に当てられるのであろう。裏を返せば、そんな人生を歩みたかったという親の願望だったのかもしれない。
不思議な文字の一つに数字がある。線がまっすぐだったり、くねったりしているだけで、そこに人は意味を見いだしている。何でも「一番」が好きな人にとって「1」は好きな数字だが、アヒルの姿の数字には、二の次、とがっかりしてつぶやくかもしれない。「し」「く」などは病院では使われないが、自分の誕生日なら平気だ。私たちは意味でとらえられているのだから、漢字の意味や読みにいたっては敏感にならざるを得ない。熊谷=暑いと言われて、それだけ?と思いつつ、地名が知られているんだという、小さなうれしさも感じている。
電車を待つ、人を待つ、明日を待つ・・私たちの生活は待たされることの連続である。そのことに苛立ったり、ときに平静であったりする。電車を待てるのは、必ず来るという経験の裏付けがあるからだ。人が私の期待に応えてくれた、という事実の積み重ねがあるからである。それが信頼である。待てど暮らせど応えてくれなかった経験をもつ人は、不信を学ぶだろう。要求したものと異なったものを与えられた人は疑いを学ぶだろう。期待をもって未来を待てるか、諦めるか、選択は経験の裏付け次第である。
「夢をもて」と言われて相手に語ったとき、怪訝な顔をされたことはないだろうか。私たちがいだく将来の夢は荒唐無稽、前後関係も脈絡もありはしない、いわばおもちゃ箱をひっくり返したようなものだからだ。しかし、それは本人にとってかけがえのない宝物である。将来どんな形で実現するかわからない未完の大器である。子どものときに考えていたことがなんらかの形で仕事や趣味に生かされるかもしれないものだ。あまりにも散らかっているので、周りの人は辟易してしまうようなものだ。そこで、ほとんどの場合却下されてしまう運命にある。夢を語ると否定されるのを知っているせいか、夢を語れ、とは言わずに夢をもて、というのはその辺の事情を知らせているのかもしれない。
私たちの心のなかには、どんな言葉が隠されているだろうか。そのほとんどは言い訳ではないだろうか。桜が散ってしまえば、ふたたび宴会の言い訳を考えることになるだろう。連休が近いから仕事を片付けておこうなどと考えてもいる。それは、普段の働きぶりを見直すための言い訳なのかもしれない。健康促進のため・・家族のため・将来のため・・そう考えると、自分の欲望はいったい誰のための欲望なのだろうか。
女優さんたちの変身ぶりにはしばしば驚かされる。彼女たちはときに少女、ときに老人、ときにははっとするような華麗・妖艶な姿で登場して男性たちの目を欺く。彼女たちは人間の多面性を現実世界で実現している。男性はどうか。そんなことはしないので、多面性は発揮できないまま、無意識世界にとどまったままである。そのエネルギーは別の放出口をめがけて一挙に吹き出すはずだ。どのようにして解消すればよいのだろうか。
日常の作業には調子がある。冷蔵庫の明け閉めのタイミングや力加減などがそうだ。それらは機械相手だから、調子はだいたい決まっている。繰り返しのなかで体が覚えて行く。ところが言葉の調子が難しい。相手の「こんにちは」にどんな調子で答えるべきか。元気に言うか言わないかはすべて、自らの調子で返答してはいない。人間相手に対する調子を推測しながら自分の調子を調整して・・しかし相手は顔が暗いぞ・・元気がなさそうだ・・相手の調子と自分の調子がこんがらがったまま、返事を返している自分がいる。
日差しの強い季節には、帽子は欠かせないアイテムである。数ミリにも満たない布地が、私を直射日光から守ってくれる。単なる切れ端が私を守ってくれているのだ。帽子以外にも、守ってほしいと思うことがある。それは自分の味方になってくれる言葉である。誰かから心ない言葉をかけられたとき、誰かが自分を守ってくれる言葉をかけてくれたなら、人はどんなに癒されることだろうか。
考えることで、もっとも大切なことはキーワードを見つけることである。それが見つからなければ、考えがあちこち飛んでしまい、一向に着地点が見つからないまま時だけが過ぎてゆく。それだけではなく、考えることを放棄してしまうことになるだろう。ひとつのキーワードが見つかれば、考えることが楽しく、快適で、長時間悩まずに済むはずである。見つからないときはまた別の方法があるはずである。