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2018年5月の22件の記事

2018年5月22日 (火)

こだわり

人にはそれぞれこだわりがある。「自分のこだわりは和室」という人もいるだろう。自転車はマウンテンバイクでないと、という人もいるだろう。食、旅、趣味、嗜好品など、すべてはその人だけのこだわりである。そんなこだわりを持つことは、個の表れでもある。自分のこだわりをもったら、他人の意見に左右されることはない、と思いながらも、自分のこだわりなど、風前の灯と感じることもあるものだ。対話とは、相手のこだわりを否定せず、こちらのそれも否定されないことが前提である。だから人は同好の士を求めるのかもしれない。

2018年5月21日 (月)

安心

昼時、定食を食べるだけなのに、財布を持って出かける心理はなんだろう。それは安心感である。私たちの身の回りは、空気、太陽の光、蒲団、友などで囲まれているという安心感がある。それらはいつも一緒にいてはくれないので、モノで代用して安心している。ポイントカードも、どこかとつながっているという安心感を得るためである。私たちは永遠に安心感を手にすることができないのだろうか。

2018年5月20日 (日)

探しもの

作家の言った一言を探している。その言葉がどの本に掲載してあったのかを調べようとしている。しかし見つからない。歌のように「さがしものがみつからない」状態に陥ってしまった。夜中の捜索に疲労困憊し、その日は一時撤収した。翌朝早く起き、すぐにその言葉が見つけることができた。ほっとして嬉しくなり、また寝てしまった。安堵の休日である。

2018年5月19日 (土)

探求

人はときに、「自分とは何者か?」という問いをたてる。誰かにそれをぶつけたときから、人は問いをたてなくなったのかもしれない。それを知ったからといってなにが変わる、と言われたかもしれない。そこで問いをたてるという愚挙をおかすよりは、ディスティネーションに出かけるのかもしれない。アーモンドチョコレートを噛まずに口にいれると、外側は滑らかなのに、中はサクサクで、さいごにアーモンドが出て来るよ、と語る子供たちに、探求心の兆しを見る思いがする。かつて大人にも好奇心満載の時代あったのだ。

2018年5月18日 (金)

落差

太陽の光がまぶしいころだ。あらゆるものや人が輝いて見える。街を行き交うひとびとの洋服は、くすんだ色から一気に白っぽいいろに変わる。こんな季節に気をつけなければならないのは、気持ちの沈んだ人である。暗い季節のときにはさほど感じなかった人も、キラキラした世界が容赦なく目に飛び込んでくることで、気持ちとの落差が一段と広がり、それが本人の落ち込んだ気持ちに拍車をかけるのだ。天気がいいから外に出るといい、などというアドバイスは無益という以上に危険でもある。じっとしていたい人にとってはその状態がベストと理解してあげることである。

2018年5月17日 (木)

欲しいもの

私が欲しがっているものは、本当に欲しいものだろうか。その品物は俳優がかけていたサングラスかもしれず、女優が身にまとっていたファッションかもしれない。だからそれを購入したのだ、とわかってしまえば、マネしていることになり、自尊心が傷つくので、これは私が選んだもの、ということにしている。その瞬間、俳優も女優も姿を消し、素敵なサングラスだけが残る。行きつけの眼鏡店でサングラスを試している人がいる。日差しが強いから、などと言い訳をしながら。

2018年5月16日 (水)

表裏

いつもいいことばかり自分に起こるとは限らない。反対に、いつも悪いことばかりも起こらない。良いことか悪いことかはわからないからである。良し悪しは裏表の関係。失敗から成功が生まれ、挫折経験がその人をさらなる高みへ導くことだってある。要は、捉え方一つにかかっている。どのようにその事象を受け取めるか、どんな言葉に置き換えられるかにかかっているのである。

 

2018年5月15日 (火)

「ボク」の発見

「マーくん、バナナ食べたい」と言っていた子どもが、ある日突然、「僕バナナが食べたい」と言うようになる。母親の「マーくんは何食べたい?」に対するおうむ返しから一気に変わった瞬間である。母子の対話をもう一人の人間が眺めていて、その場合は「マーくん」ではなく、「ボク」と言うのが正しい、と子どもに告げているかのようである。これこそ主体の発見である。ボクは母の所有物ではなく、一個の人間であるという宣言である。このとき子どもは自分を支配する主になるのである。

2018年5月14日 (月)

言葉の豊かさ

言葉の豊かさがその人の豊かさである。「静か」と「静寂」とでは、示す世界を異にする。静寂を生きられる人にとっては、静寂はその人の世界観を表わしている。スマホの取り扱い方を知らない人にとって、その扱い方は、不必要な機能である。スマホの世界が広がってはいないということである。言葉を豊かにして、精神生活も豊かにしたい。

 

2018年5月13日 (日)

目は口ほどにものを言い、というくらいに、人は目で語っていると言ってもよい。いくら「よくやったね」と言っても、子どもから「口ばっかり」と言われた経験は誰にでもあるはずだ。会社の同僚の成功談に口では「おめでとう」と言いながら、複雑な感情もそこには見え隠れする。どうしたら心からそう言えるのか、心の底に文字を登録することである。

2018年5月12日 (土)

会話

人との会話は、あたかも、川面の波が重なり合いながら波頭が消えてしまったり、ぶつかり合ったり、静かに流れ去ったり、いろいろな動きがあるものだ。相手の話に調和できたときは会話がスムースに進行するが、そんなことはほとんどないといってよい。ただやみくもにぶつかり合うだけで、何となく終わってしまっているのではないか。音楽が「ジャン!」と終わるように、会話も気持ちよく終われたら気持ちがよいのに。

2018年5月11日 (金)

同じ絵を見ても、その受けとり方は千差万別である。絵を見ながら、私たちは過去・現在、そして未来をも見ている。こんな景色のところに住んでいたな、とか、行ったことがあような景色だ、などと思いを巡らし、今その場所はどうなっているか、将来はそんな土地で暮らしたい、などと須臾の間に三つの次元に自分を移動させている。私たちは過去にも生きており、今も生きている。そして未来にも生きている、生きていいのだと感じてもいる。

 

2018年5月10日 (木)

対処

難しい局面に接したとき、人はまず対処法を考える。考えても対処法が見つからない場合、誰かに相談する。その時の聞き手の対処法とは、ひたすら聞くことである。対処法を間違えるのは、説教した場合である。聞くだけに徹していないということである。相手はわらをもつかむような気持ですがってくるので、聞く側はつい、こうしたらいいと、早急に返事を返してしまう、それが相手にとって負担に感じてしまうのだ。「こんなときどうしたらいい?、教えて?」などと言われて、ついアドバイスをしてしまうのではないか。

2018年5月 9日 (水)

期待

いったい、ひとに満足はあるのだろうか。気に入った服も、季節が移れば色あせ、しまいこまれた服は箪笥の肥やし、などと格下げもいいところである。スポーツ選手がホームランを打てば、次の打席では二本目を期待されるといった具合である。私たちは相手に期待した分だけ自分にもその期待が課せられている。相手にも期待せず、自分にも期待しない、と決めれば、苦しみから解放されるのだが、と期待している自分もいる。

 

2018年5月 8日 (火)

不安

人はいつも不安を抱きながら生活している。不安がない、というのも、ある意味で無理しているのではないか。逆に不安があるからこそ、このままではいけないと感じて対処している。不安こそ、備えのための原動力である。しかしその不安も大きすぎれば、押しつぶされることになってしまう。乗り越えられた、対処できたという事実にもとづいた体験が不安を安心に導く力になるのである。それを自信と呼ぶ。

 

2018年5月 7日 (月)

会話

連休中、人と会話することなく過ごした。昼食では、店員にどんぶりを注文したのが最後である。人恋しい、というのは、こういうことかと思った。いうならば、独り暮らしの老人である。それが数日間続くと、誰かとしゃべりたくなる。そこに振り込め詐欺の付け入るすきがあるのだ。会話しないということは、人間から遠ざかることにもなる。人の意見を聞く、議論をすること、といったことが必要だ。否定されるとは、自分の意見がある、ということでもある。人はひとりでは生きていけない、寄る辺なき存在、というフロイトの意見がいかに真実を語っているか、思い知らされる。

2018年5月 6日 (日)

汽笛

休日の1012分になると、秩父線の蒸気機関車が出発する。汽笛の音でそれと知れる。ボーっ!という盛大な音の割には、客車内は静かである。曳かれているだけの客車には駆動のためのモーターがない分、静かなのだ。車窓からは、鉄道ファンに交じって沿線の人たちが手を振るのが見える。並走する道路を走る車の窓からも手が振られる。これから目的地に向かう期待、そして車窓での邂逅、目的地に着いた時の機関車とのわかれ、子どもたちよりも、大人の方が興奮しているのは、ノスタルジーなのだろうか。

2018年5月 5日 (土)

好きなもの

好きなものの表面には肯定的な言葉が張り付いている。私たちはそれを読み、経験と照らし合わせてそれをながめている。その文字が肯定的なものであれば、そのことが好きになるだろう。よくやったね、頑張ったね・・といった風な言葉に、われわれは快の感情を得る。反対に、否定的な言葉が張り付いていたとしたら、そのことが好きになるだろうか。答えはもちろん「否」である。あまつさえ、それに触れようともしなくなるだろう。子どもの行為の一つ一つに肯定的な言葉を張り付けていくことで、子どもは肯定的な人間に育っていく。その快の感情が人生のすべてを決定づける、と言っても過言ではなさそうである。

2018年5月 4日 (金)

出会い

ぶらりと本屋に立ちよって、サッと書棚を見渡せば、読みたい本の背文字が目に飛び込んでくる。それは、無意識の中にすでに読みたい本が存在しているからである。自分の無意識と本のタイトルが一致したとき、その本を手にするのである。友からこんな本を読むといいよ、と言われてもらった本も、自らの無意識がその本を引き寄せたのである。そう考えると、私たちは自らの無意識で取り囲まれている。身の回りを見渡せば、全てのものは自分自身なのである。

2018年5月 3日 (木)

感触

品物を選ぶとき、私たちはそれに触れて選んでいる。触ることで何がわかるというのか。それはかつて母を求めて触れた柔らかな肌である。母に触れた時、触れ返してくれた母を再び取り戻そうとする行為である。机、ソファー、食材選び・・・すべての品物の中に、今はもうこの世にいない母のぬくもりを探し続けているのである。したがって、とげとげしいものより柔らかく、ふんわりしたものが私たちは好きなのである。

2018年5月 2日 (水)

願望

私たちは子どものころから、多くの願望を持ち続けてきた。そのほとんどは、実現されずに廃棄されたり、放置されたりしたものばかりである。それらは、自分の才能、好みと見比べながら、「これは無理」と自らの手で葬り去ったものでもある。しかし、自ら捨てたのでなくても、手つかずに無意識界にとどまっているものもあるかもしれない。それらは他者の価値観によって排除されたものかもしれない。そうした中に、自分でも気づかない宝物のようなものが、そっとそれとはわからぬ形で心の奥底に置いたままになっているかもしれないのだ。

2018年5月 1日 (火)

まなざし

まなざしは便利である。遠くの相手にもかけることができ、声を出す必要もなく、まなざしをかけるだけで、「よくいらっしゃいました」という言葉の代わりにもなる。さらに、「それで大丈夫です」「帰ってきたんだね」「了解した」という言葉にも変換できるからだ。それに比べて、握手は近寄らねばならず、声は相手に届かなければ、不満の種にもなりかねない。そう考えると、まなざしの交換はきわめて大切な交流の道具である。当然のことだが、まなざしは、温かいまなざしでなければならない。

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