« 2018年6月 | トップページ

2018年7月の23件の記事

2018年7月23日 (月)

捨てる

不要な品物は捨てるのが得策である。人様の家の庭先に目をやると、いろいろなものが大切そうにとってある。割れた植木鉢、朽ちそうな物干し棹・・・捨ててしまえばいいのに、と思うのは他人だからである。自分のことになると、なかなか捨てられないのは、モノには思い出がくっついているからである。ラベルのように付着している思い出をはがしてしまえば単なるモノになってしまう、その思い出を捨てられないでいるのが人間である。捨てられないでいる最たるものがコンプレックと呼ばれるものである。捨てればすっきりします。

2018年7月22日 (日)

手際

食事のたびごとにレストランに出かけるのは、空腹を満たすためだけではない。店員のきびきびした身のこなし、料理を作っているコックの手際の良さ、それを運ぶ姿の良さ、ちょっとした花がテーブルに添えてある手際の良さなどを料理が運ばれてくるまで楽しんでいるのかもしれない。待っている間も食事なのである。あまりにも手際が良すぎてすぐに料理が運ばれてくるのが私の夕食である。便利なようで物足りなくもある。待たされる時間にも程よい待ち時間というものがありそうである。

2018年7月21日 (土)

行きつけの店

人は誰もが「行きつけの店」をもっている。そこに行けば、何がどこにあり、どう注文すればよいのか、すべて体が覚えているので心地よく過ごせるのである。そこは心のよりどころである。夫にとって行きつけの場所が家であり、子どもにとっても家が行きつけの場所であれば、夫も子供も自然に家に帰ってくることだろう。そこで夫も子供も心を癒し、寛ぎを得てリフレッシュし、翌日はまた会社に学校に行くことだろう。私にも、徒歩50歩のところに行きつけの店というものは、ある。

2018年7月20日 (金)

完璧

だれが見ても良妻賢母、炊事洗濯はもちろん、身のこなしも、洋服のセンス、立ち居振舞い・・・すべてにわたって完璧な母がいたとしましょう。そんな母親に育てられた子どもは幸せになるのだろうか。母が料理に不得手だったがために、その子は料理に詳しくなったかもしれず、母がどうやら勉強が苦手だったがために、学校の成績が良くなったのかもしれない。子どもは親の欠点を見つけては批判し、攻撃することをやめない。それは、子供の成長にとって欠かせないのは親を越えて、完璧な人間になろうとする意志の表れなのかもしれない。

2018年7月19日 (木)

対話相手

人が誰かと会話しているとき、相手その人と会話しているのではない。「社長のネクタイは素敵ですね」と誰かが社長に言ったとき、「社長」という肩書と会話しているのだ。その人自身に似合っているのではなく、「社長」という名称に似合っていることになるのだが、そのことに気づく人は少ないのではないか。あなたの飼い犬がかわいい、と言ってくれる人と駅で出会い、挨拶をしかけた時、相手から怪訝な顔をされたことがある。あわてて「〇〇(ペットの名前)のパパですよ」と言い添えたとたん、「あー」と思い出してくれたのだった。

2018年7月18日 (水)

見た目

見た目くらい、私の目をだますものはない。一見優しそうな人の口から強烈な言葉が飛び出したかと思うと、いかにも怖そうな男性が丁寧な物腰で店員と話していたりする。顔は歴史という一方で、顔は防衛であるという説もある。人から恐れられる風貌がいやで、あえて優しくなったとも考えられ、甘く見られないために、わざと怖い声を出しているのかもしれない。普通に会話すればいいのに、その普通がむずかしいのが現実ではないだろうか。

2018年7月17日 (火)

無くて七癖と言われる通り、人には自分でも気づくことのできない癖がある。スープの飲み方、お辞儀の仕方、歩き方などなど、人それぞれだ。それらは、すべて親のマネである、良きにつけ悪しきにつけ、すべては親のしていたことである。自分が言葉をおぼえ始めたときに教わった日本語さえも親の口移しである。オリジナルなものは一つもないのである。いっそのこと、物まねのすべてを投げ捨ててしまいたい衝動に駆られる、というのもまた親の言っていたことかもしれないのである。

2018年7月16日 (月)

厳しさとユーモア

高校時代、バスケットボール部に入部して「失敗した!」と思った瞬間は、コーチであった。彼はあちらの世界の親分としか見えなかったからだ。特に、夏の合宿は過酷を極めた。部員の中でエスケープする者が出なかったのも、このコーチのおかげである。練習終了後は宿が手配したトラックの荷台にメンバー全員が乗せられる。その道のり、疲れと暑さで声も出ずうなだれていると、彼は練習中とは打って変わって、ルイジアナママを歌うのだった。「やってきたのはニューオリンズ♪」と楽しそうに歌うのだ。厳しさとユーモア、耳に残る歌声に支えられたのは、その時だけではなかったのである。

2018年7月15日 (日)

存在

雨漏りがすれば、瓦が気になり、メモする必要が生じれば、机上の紙が目に飛び込んでくる。私たちは、ある現象が起きてはじめて、その存在に気づくのである。裏を返せば、その現象が現れる以前には、瓦も、紙も存在してはいないのである。「お前は必要とされた子だ」「望まれて生まれてきた子」の言葉によって、私たちはこの世に誕生するのである。

2018年7月14日 (土)

目標

生きるための目標は何でもよい。俳優、大河内伝次郎は60年かけて京都に山荘を作った。他の人が何と言おうとかまわない。自分だけの目標をもつことが大切だ。人と比べることはない、私だけのオリジナルの目標をもつことができれば、人の批判も苦にはならない。そのことだけを考えていれば食事をとらなくても平気である。それを生きがいというのである。

 

2018年7月13日 (金)

驚きから感動へ

レストランの鍋料理の鍋が紙でできていることに驚いたのはずいぶん昔のことである。今では当たり前になり、驚くこともなくなったが、ちょっとした変化にもすぐに感動しなくなるものである。そのために日々を自然に過ごせるが、たとえば、子供の靴がある日突然大きなものに変化する、生意気口をたたくようになる、そんなことにも驚くことができれば、それは驚きから感動につながることだろう。

2018年7月12日 (木)

可能性

人はすべての可能性をもって生まれてくる。しかし、私たちは、そのうちのほんの一部しか実現できないでいる。できたかもしれないその可能性について、私たちは小さいころから「ぶつぶつ」言っていたかもしれない。いや、確かに言っていたと思う。私の発した「サッカーをやりたい」の言葉に対して「無理」という言葉が私の声を蠅叩きのように襲いかかる。私たちの人生を振りかえってみると、否定された意志が死屍累々と横たわっているかもしれない。その否定された職業を知りたくないために、私たちはある言葉を使って、今の仕事がいいと思い込むのである。

2018年7月11日 (水)

見るものはすべて自分である

人は自分しか見ていない。それに気づかされるのは人と会話しているときである。「ここは、いい所ですね」と人が言うので、駅に近いからだと思って会話していた。今のセラピールームは、レストラン(丼屋)まで50歩、マクドナルド・コンビニまで40歩、新幹線・高崎線・秩父線まで徒歩3分の好立地である。ところがその人は、周囲が居酒屋で囲まれていていいというのだ。開設して数年経つのに、そのことに気づかされたのはこの人のおかげである。このように、身近にあっても見えないのは、自分をみていないからである。人間は自分に関係ある物(人)しか見ていないのである。自分に関係があるとは、好きな人と、嫌いな人である。あの人は嫌い、と言った時、一体何を語っているのだろうか。

2018年7月10日 (火)

二面性

天使と悪魔、善と悪のように、私たちの心には二面性がある。この相反する面の片側だけで生きれば、わがままで自分勝手、人の迷惑を顧みない人生を送ることになるだろう。反対に、善だけで生きれば、人の顔色をうかがい、他人の命令だけで生きることになり、後年、自分では何もできない人になるだろう。どう生きれば葛藤のない人生をおくれるのだろうか。

2018年7月 9日 (月)

思い出

私たちはあらゆる思い出を所有しているが、そのすべてを思い出す能力にかけている。写真フィルムを見たときに「こんな写真を撮ったかな」と思える記憶が入っている。忘れていた記憶が突然よみがえってくるのが、ひとのかおや、風景を見たときである。ある人にとっては美しい夕焼け空でも、本人にとっては失恋の記憶がよみがえったのかもしれない。いっそのこと記憶喪失になってしまえば楽なのかもしれない。

2018年7月 8日 (日)

絵を見ているとき、見ているものは自分自身である。絵のなかに赤ん坊とその母親、祖母が描かれていれば、三人とも自分である。可愛かった自分、子どもを可愛がっている今の自分、将来の自分。さらにもう一人自分がいる。それは絵をしみじみ見ている自分を見ている私。私は一人の他者である、という言葉が思い出される。

2018年7月 7日 (土)

今を生きる

人間はすべてのことを記憶しているが、思い出せるのはほんの一部である。すべてのことを思い出していたら、日常生活に支障をきたすからだ。悲しく辛いことだけではなく、楽しいことも思い出せないでいる。遊べばお金がなくなり、お金が入れば入ったで失うことに悩むからである。考えない人は悩むことはない。考えることをやめて、楽しむことに徹すればよい。それを「今を生きる」という。

2018年7月 6日 (金)

作法

朝食の食堂の席は通勤途上の人たちでいっぱいである。作業員風の人、サラリーマン、大学生、山登りの出で立ちをしたグループのなかにまじって和服を着た人が食べ終わったばかりである。目の前の紙ナプキンを彼は綺麗に折り畳み、○〇家のロゴのある丼の縁を丁寧に拭っている。きっと彼は茶道教授に違いないと確信しながら自分の丼をテーブルにのこして私は店を後にした。

2018年7月 5日 (木)

清掃

洗面所の水の流れが悪くなったので、伸縮性のある掃除器具で清掃した。水の流れが一気に変わった。主婦の方々はこんな快感を毎日のように味わっていると思うと羨ましい。たまにやるからよく感じるのだという声が聞こえてきそうだが、ついでに洗面台も磨いてみた。男性諸氏は、会社で仕事ができて当たり前、失敗すれば冷や飯を食らい、命令されれば残業も当然の世界にいる。賞賛はほぼゼロに近く、せいぜい表彰状という名の厚紙一枚だ。それをもらっても仲間の嫉妬をかうだけ。ずっと続く快感はどこにあるのだろうか。

2018年7月 4日 (水)

期待

熊谷駅の上部から涼しげなミストが通行人の頭に降り注ぐ季節だ。某テレビ局がカメラを据付けて、通りすぎる人たちを狙っている。ミストにはしゃぐ子どもや女子高生を待っているのだろう。そのシーンだけを見た人は、市内の全員がはしゃいでいるように写るのではないか。私たちの知っている世界は想像以上にせまいのである。

2018年7月 3日 (火)

肯定

人の話を聞くときに、否定はしないことだ。会話のはじめは肯定から入ることである。「それは考えた方がいい」「変じゃない」といった返事は語り手の話の腰を折ってしまいがちである。肯定することがすべてである。肯定なき会話は会話とは言えない。肯定はすべてのコミュニケーションをスムーズにするための第一歩である。

2018年7月 2日 (月)

褒める

歯をみがく時間は1回7分、一日5回磨くので、一日に35分も歯ブラシを握っていることになる。なぜこれほどまでに歯をみがくのかといえば、定期的に歯の検診を受けるので、注意を受けないようにという配慮である。受けないというよりも、行くたびに褒められるからだとわかった。歯科医院を後にするとき思わずステップを踏みたくなるほどだ。なにを言われててもうれしくなくても、このときだけはうれしい。

2018年7月 1日 (日)

今朝のコーヒーはキリマンジャロである。といってもコーヒーには詳しいわけではない。ただ店員に言ってみただけである。まず香りをかぎ、最初の一口はストレートで啜る。他のコーヒーとの違いがわからない。私たちの行動には制限がかけられている。コーヒーの飲み方、食事のマナー、お礼を言う、音を立てずにスープを飲む、そこにはマナーという名の制限があるのだ。それが適切になされていなければ野蛮だし、あまりに厳しくしつけられれば寛ぐことが困難となる。躾とは、厳しく叱ることではなく、親が見本を示すことだろう。文字通り、美しい身のこなしをみせることではなかろうか。

« 2018年6月 | トップページ

2018年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
フォト
無料ブログはココログ