自分とは
自分とはいったい誰なのだろうか。自分という存在は、自分が自分を決める以前から他者によって規定されている存在である。テレビのアナウンサーは、視聴者がこうしてほしいという話し方によって私たちに語り、落語家は、あらかじめ面白いことを言うはずだ、という他者の規定に合わせて語る、といった具合に、その都度の自分がいるだけである。子どもを前にした自分、部下を前にした自分、上司の前での自分・・・人間という存在はこのように分裂していると言っても過言ではなさそうである。
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自分とはいったい誰なのだろうか。自分という存在は、自分が自分を決める以前から他者によって規定されている存在である。テレビのアナウンサーは、視聴者がこうしてほしいという話し方によって私たちに語り、落語家は、あらかじめ面白いことを言うはずだ、という他者の規定に合わせて語る、といった具合に、その都度の自分がいるだけである。子どもを前にした自分、部下を前にした自分、上司の前での自分・・・人間という存在はこのように分裂していると言っても過言ではなさそうである。
私にとって歯を磨くことは毎食後の儀式みたいなものである。歯医者から言われた一言、「歯垢をそのままにしておくことは、玄関先に生ゴミを放置しているようなもの」の言葉が私をその気にさせている。言葉が人間の行動を後押ししているのかもしれない。その言葉も、適格で、正鵠をついているものならなおさらである。老人になるほど歯は大切にしなければならないのだが、そんな知識より現実を正確に言い当てる言葉の方が説得力がありそうである。
立秋を過ぎて感じることは太陽の光である。今まで猛威を振るっていた灼熱の太陽がおとなしくなるのだ。陽ざしを見て「あれ?」と思う人も多いはずである。民宿を出て海岸に出れば、風の温度も違う。私たちの皮膚に容赦なく熱風を送っていた風がどことなく和らいでいる。そうした日々の果てのお盆を過ぎるころから、海岸に密集していた海水浴客の数が激減していくのを毎朝目にする頃には、海岸に打ち寄せる台風波も高くなり、空の輝きはその光度を日に日に落として行くのだった。やがて会いたくもない現実の学校生活を目前にして、寂しげな海岸の風景とダブルのため息をつくのが夏の終わりの結論だということを知っているのは、ほかならぬ自分自身だったのである。
暇だと碌なことを考えない、というのは事実だろうか。忙しくしている方がかえって「碌なこと」を考えなくなっているのではないか。暇だからこそ空に浮かぶ雲を見ては「アイスクリーム」「船」「怪獣」などと想像の羽をはばたかせるようになるのではないか。それを空想という。大人になると空想しなくなる代わりに妄想するようにならなければよいのだが。
ゲームソフトの中に、スーパーMがキノコの家に隠れている仲間を探すゲームがある。そのキノコの家というのが、赤いカサに白い斑点があるキノコで、私は思わず、これはベニテングダケという種類の、毒キノコなんだ、と言うと、相手は、「知っているよ」とのご託宣。彼らは、毒キノコとイメージキャラクターとをしっかりとわきまえて認識しているのだ。いわば、夢と現実との線引きができているということ。かえって、大人の方がその区別が混乱をきたしている可能性が高いのかもしれない。
ものごとにはタイミングというものがある。買おうと思っていた服が誰かに先を越されてしまったり、言おうと思っていた言葉を言いそびれたり、人生はタイミングそのものである。タイミングを逸しないためには、即つかむことにかかっている。明日に回したことは、その場になってうまくいかないことが多い。幸運の女神は二度微笑まない、と肝に銘じるべきである。そのためにはどうすればよいのか。人に話さないこと。そうしてしまった場合、否定されるだけである。考えた方がいいとか、後にすればという言葉でどれだけの欲望が砕け散ったことかしれません。すべては自分で決め、自分で責任を取る、と決めることの一点にかかっている。
子どもは天才である。彼らは道端の石ころをサッカーボールに変身させ、広場に落ちている段ボールを野球のホームベースに流用し、箸袋はスポーツカーに早変わりさせて遊んでいる。一方の大人はどうだ。石は石、ゴミ、不用品にしか見えなくなっている。彼らは勝手に夢をもっているではないか。夢を壊しているのは一体誰なんだろうか。
隣家にクリーニング屋の車が止まり、配達員が仕上がったものを届けに来ている。そこに家の幼い子どもが出てきて、配達員の様子をうかがっている。配達員がポケットからサービスの飴を出して幼い彼の手に渡そうとしているが、子どもは素直には受け取らない。その代わり配達員にこう告げている。「ウチの兄弟は三人」と。配達員は大笑いしながら、あわてて三つの飴を渡す。あとから出て来た母親に彼は、「お宅のお子さんは立派な交渉人だ」と告げている。子どもは配達員に「三つよこせ」とも「は少ない」ともいわず、「兄弟は三人」という事実しか伝えていない。しかしそれが功を奏することになったのだ。嘘偽りのない事実だけが、相手を行動へと導くのである。
野生動物のドキュメンタリー番組を見ているときに、私たちは二つの視点で見ている。獲物を追いかけているライオンの視点で見れば、うまく捕まえてほしい、というのがそのうちの一方の視点である。かたや、獲物の側に立ってみれば、うまく逃げてほしい、という視点になる。人の話を聞くときに大切なことは、どちらの視点に立つかということだ。「子供が言うことを聞かなくて困る」という親御さんの視点に立って助言すれば、「それは困りますね」と答えるだろう。「お子さんにも考えがあるのではないですか」と答えれば、子供の視点に立つことになり、その時点で、母親は疎外されるだろう。聞く側はそのどちらの立場にも立たない、公平・中立の立場をとることが求められるのである。
子どもたちにしてあげたかったこと、それは何もしないことだった、子どもの言いなりになることだった、と気づくのは20年後のことである。子育て中は、ああしろ、こうしろ…お前のことを思って言っているのだ…と言っていた親御さんたちばかりである。子どもたちは、親の考えとは違った道を歩むことになるのだが、それがわかるのも20年後。誰も子育ての秘訣を教えてくれなかった、子育ては理不尽だ…それがわかっていれば、子育てで悩むことはなかったのに、と分かるのも20年後とは…。子どもたちにしてあげるべきことは、何もしないことだった、ただ世話するだけでよかったのだ。
人の家を訪問して、「何か飲みたいものはありますか?」と問われて、つい自分の飲みたい飲み物をリクエストしてしまった。すると「ちょっと待っててください」と言って、近所の店まで買いに行ってくれたことがあった。こちらは身の縮む思いだったが、その家ではそれが当たり前らしい。その家を訪問した理由は覚えていないが、そこでのもてなしのあたたかさが忘れられない。おもてなしとは、相手の欲しいものを与えることなのかもしれない。
人からの相談を聞いているときに、相談者がこちらに向かって「あなたならどう思う?」などと聞かれることはないだろうか。そんな時、つい「私なら…」と答えてしまうのが常であろう。こちらは一生懸命アイディアをひねり出して答えているつもりなのに、相手は「でも…」とか「そう言われてもね…」などと不満を表されることが多々である。実はこの時、聞き手の中に答えはすでに存在しているのである。ただ聞くだけでいいのである、このことを常に心において聞くことがベストである。
人はつい自分のことを話しがちである。風邪をひいた、などという誰かの言葉が種となって「私もなんですよ」などと、自分の苦しみを語りだす話をよく耳にする。「子どもが言うことを聞かなくて」、という話に「そうですか」と静かに耳を傾けてほしいのに、「ウチの子もなんです…」といって自分の話をする人も多いのではないか。人は人の話を聞くよりも、自分の話をしたがるものである。すべての会話場面で沈黙を守ること、それが語り手に癒しを与えることになるのだが。
自己規定とは、「私は何々である」ということ。この時、何々会社の社員、というのは自己規定にはなりにくい。いずれ定年という時がくるからである。主婦というのも自己規定としては危ういだろう。子育てが終わり、いわゆる空の巣症候群が親御さんを襲うからである。自己規定とは、他人にマネされず、比較されない自分だけにしかできないことを指しており、それとともに社会貢献にもなっていることである。多くの人たちは、周囲と一緒、横並び、突出するなと言われながら育てられてきた。教育とはいったい何だったのだろうか。
我が家の夏のイベントの定番は雑草取りである。ひたすら取る。感情を出さずに取る。雑草の中でも、わざわざ人が踏んで歩く場所に生えている種類もある。ヒトデみたいに地面に張り付いている。あんなに踏まれては可哀想だと、柵を設けて保護すると、その途端に、踏まれなくなったことで他の雑草が大繁栄してヒトデみたいなあれは完全に滅びるということを植物学の本で読んだことがある。雑草の世界も大変なんだな、と思いながら雑草を根っこから引っこ抜いていくのである。
夏の高校のバスケットボール部の練習は過酷を極めた。屋外、炎天下での練習中何人もの仲間がバタバタと倒れていく。水をかければすぐに復活するのは定番だった。私も仲間に倣って倒れてみた。付き合いはいい方である。バケツの水が底をついていたらしく、上級生がすぐに駆け寄ってきて黙って背中をさすってくれた。これで休めるという気持ちと嘘をついているという気持ちが交錯した。私の「大丈夫です」という声と共に上級生はその場を離れたが、無言でいてくれたお蔭で、私は嘘をついたという罪悪感を感じてしまった。その時以降、嘘はついたことがない、というのも嘘かもしれない。
楽なことの一つに、プールの中で浮かんでいることがある。プールから上がった時、あ、重い!と感じたりもする。人は誰しもが、「楽」を前提に生きている。ネット通販、クルマ、新幹線、エスカレーターが開発されたのも、その欲望のなせる業である。会社を辞めたらどんなに楽か、と思ってもそうはいかないのも現実である。仕事が「楽」と感じる職業につければいいと思いつつ、一方で、人間は「楽」以外の欲望をも持っている。それが「楽」な人生への道を妨げているのである。
人の話を聞いているようで、自分にとって都合のよいところしか聞いていないのが人間ではないだろうか。聞いていないと思って話をしていたら、遠くにいた人から「僕のこと?」と言われて驚くこともあるものである。ボイスレコーダーに録音した人の話も、聞き返してみると、こんなことを言っていたのだ、とハッとさせられることもある。説教が役に立たないのは、本人が聞きたいと思っていない内容だからである。聞きたいことがすぐに返ってきたら心地よいものである。会話の基本は、質問に対して即答することが基本である。それがレスポンスである。よい車はそれが早いらしいのだ。
台風も過ぎれば、「たいしたことはなかった」と喜んでみたり、「予想通り甚大な被害だった」ということもある。熊谷は災害がなくて住みやすい、と感想を述べたら、150年くらい前に利根川と荒川の水が氾濫して熊谷駅前が水浸しだった、という古老の話を聞いた。人間は忘れやすい生き物なのかもしれない。すべてを記憶していたら頭がパンクしてしまうからだ。いつまでも記憶が残っている人がいたとしたら、ちょっと怖い人かもしれない。頭は少々悪い方が幸せなのである。
愛着とは、文字通り愛してくっついて離さないものである。肌身離さず大事にしているモノだ。愛車・愛用のペン・電車の中で触れ続けているスマホ・ファッション・帽子…。その起源は自分が愛着された経験による。母から愛着されれば快を感じる、その裏返しで、モノが自分に置き換わるのだ。愛しているモノはすべて自分自身である。私が私を好きになることで人やモノへの愛着はどんどん広がっていく。
立秋を過ぎても、目の前のサッカー場にサッカー少年たちの歓声が響くことはない。日本中が熱中症対策で揺れているころだ。練習中に熱中症にかかる子供がいれば大問題となることは十分に想像がつく。3面あるサッカー場の静けさは、コートにしみ入る蝉の声によって一段と際立っている。こんな夏休みを子どもたちはどう過ごしているのだろうか。塾でクーラーに当たりながら勉強しているのだろうか。学校のクラブ活動に精を出しているのだろうか。正しい夏休みの過ごし方は一体なんだろうか。家に居続ける子供たちの面倒を見ることで、お母さんたちは、毎日大変な夏休みを過ごしていることだろう。
人間は無意味のなかに身を置いている。最初からサッカー・ボールを手にしながら生まれてきたり、メスを片手に生まれてきた人はいないように。無一物でこの世に誕生させられてきた。人生は無意味なのである。だからこそ、人は無意味を意味に変えようとして躍起になる。スポーツ界の会長職に身を置いたりするのも意味を作り出そうとしている姿なのである。それを批判するということは、批判する側に、そんな職でもいいから意味を身につけたいという思いがあるからだと言えなくもない。
私の趣味は…です、と言えたとしても、自分だけのオリジナルの趣味というのは少ないのではないか。その大半は、昔の記憶の彼方にある誰かのマネにしか過ぎないからである。多くは、父や母が楽しそうにしていたことや、夢中になって打ち込んでいたことである。管理された現代社会では、時間と周囲に合わせて生きることにならされているので、趣味に打ち込むことがむずかしくなっている。寝食を忘れるほどの趣味に出会う確率は極めて低いのかもしれない。もし、自分だけの趣味に出会うことができたとしたら、幸せなことかもしれないのだ。
皮膚科に診察に行った。診察後、医師は口を閉ざしたまま症状が印刷された紙を私の目の前に差し出した。そこには「老人性」という文字がひときわ太く印刷されていた。医師の配慮なのだろう。かえって傷つくではないか。電車で席を譲られる、年齢を聞かれる、それもまた傷つく要因である。人には、他人には理解されない「そんなこと」や、「些細なこと」で傷ついているのである。外出するということは、言葉の雨に打たれるようなものである。傷つかないためには部屋に籠るのが一番と決めて、毎日籠りっぱなしである。
「笑いの絶えない家庭にしたい」。結婚式でよく耳にする言葉である。「ずっと笑っているの?」という疑問を感じるのは私だけだろうか。人はときに笑い、泣き、悩み、感動する、それが人間ではないか。その時その時の感情に身を任せればよいのだ。泣いている人に向かって笑え、とか、笑っている人に向かって、何がおかしい。などと言うのは無理無体というものだ。人の感情に寄り添ってあげる、それが人間ではないだろうか。
ニュースなどで、「今度の台風は以前より強力な勢力」という報道に接すると、大変だと思う反面、元気をも感じてしまわないだろうか。それは、私たちが日ごろから、比べることに慣れているからである。比べるものは何でもよい。身長・体重・年齢・住まい・子供…なんでもかんでも他人と比較することで一喜一憂しているのが日常である。比較することをやめた時、自分には何もないことに気づかされるからである。他人と比較することなく、自分は自分の価値をもっていること、それを自立というのである。
私たちは自分の言っている言葉を聞いているようで聞いてはいない。きっと麗しい声でしゃべっていると思い込んでいるふしがある。ところが、自分の声は意外に自分の好みではないのだ。それに気づかされるのが、留守電に入っている自分の声をきいたときの、あの不気味な感じがそれである。俳優の誰かになりきってしゃべっているようである。それと同様、その内容さえに本人が気づくことはない。そんな言い方は人を傷つけるよ、と説明しても本人は一向にへいきである。いつになったら、その人は自分の言葉に気づくのだろうか。
私たちの体は、私の思うようにはならない。たとえばぎっくり腰や腹痛がそうである。便秘、頭痛…ありとあらゆる症状が自分で作り出せないからである。それでもそうした症状が出てしまうのは、そこに何かの働きがあると考えざるを得ない。それが無意識である。どうすれば無意識を知ることができるのだろうか。ぎっくり腰になったとして、それを知ることができなさそうである。家族のため、給料のため…働かなくてはいけないという表の理由を飛び越えて、無意識の力がまさってしまっているのだ。それを知った時、人は症状から解放されるのである。ところが、症状の出ない人も一方では存在する。それはなぜなのだろうか。
私たちは、何かを言って相手から返事が返ってきたときにのみ、自分が生きている実感がするのである。相手から返事がなかった時のむなしさをだれもが経験しているはずだ。その瞬間、自分がこの世から消え去ってしまったかのように感じるのである。それを打ち消すために人は三つの方法で自分をこの世にあらしめている。一つは友だちをたくさん作ること。これは忙しくてならない。もう一つは独り言を言うこと。ちょっと怪しい人に見えるかもしれない。三つ目は、頭の中の人物と会話すること。それが歴史上の人物・芸術・理論である。この方法を使えば、いつでも呼び出し可能である。
感情にも程度というものがあるだろう。何事にもいちいち泣いてしまったり、感動しっぱなしというのも問題だ。一方、何事にも感情が発生しないのも考えものだ。たとえば、男にとってお産の苦しみは理解できないし、失恋にしても男と女の感じ方は違うだろう。ではどのようにして相手の感情を理解すればよいのだろうか。してはいけないことは、自分の身に置き換えて理解しようとすることである。失恋したと打ち明けられた場合、聞き手自身の経験を蘇らせながら聞いてはいけないのである。その人だけの感情をそっくりそのまま受け取ることである。それを思い遣りと呼ぶのである。
人に対する評価は、人によってさまざまである。絶対的な評価などというものは存在しないのだ。「あの人は明るい」という評価も、とらえ方によっては、「能天気」とも受け取れる。「暗い」は「思慮深い」に、「ユニーク」は「変人」、「芸術的振る舞い」は「狂人」・・・といった具合に、評価というものははなはだ危ういものなのだ。自分の目でとらえる、といっても、自分の母に対する評価は「善」にとらえがちである。自分の母が「陽気だった」のか「お調子者だった」のか、真相は闇の中である。