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2018年9月の30件の記事

2018年9月30日 (日)

刺激

サッカーも野球に関心のない人にとっては、その勝ち負けに心がざわつくことがないかもしれない。その人だけの関心事には心がワクワクすることだろう。そう考えると、人間には刺激が必要なのかもしれない。人が最も恐れていることは単調さかもしれない。その刺激をどうやって作っていくかが人間の課題となるのだ。サッカーも野球も勝ってばかりでは面白くないだろう。広島カープが優勝したといっても、リーグ戦での勝率は5割8分ほど。10試合のうち4回は負けているのだ。私の夢解釈の正解率はどのくらいなのだろうか。

2018年9月29日 (土)

鞄を久しぶりに新しものに替えた。古い鞄からモノを入れ替える。中に入っていたものの多くはゴミ。よれよれの絆創膏、虫眼鏡、メジャー・・などなど。印鑑なども入っていたが、スピード違反したときに役立った…。多くの無駄を長年持ち歩いていた。それらを重い順に並べると、携帯電話、鍵、手帳、財布の順となる。体重も荷物も減らすことは可能だが、欲望の連鎖だけはとどまるところがない。

2018年9月28日 (金)

一人ぼっち

有名歌手の一言、「ステージ上で輝いていた自分が帰宅した今マンションに一人ぼっちなのだ」。この落差に人はショックを受けるか、ホッとするか、感想はそれぞれ異なるだろう。どちらが本当の自分なのかという問いかけである。自分が何者なのかが分からなくなることを人は恐れている。会社の役割を終えること、子が独立して家を出ていくこと・・そのとき自分は何だったのかという喪失感に襲われる。自分をしっかり持てと人は言うが、どうすればよいのか誰も教えてはくれない。

2018年9月27日 (木)

文字

文字は便利な道具である。文字を見ただけでいろいろなものを想像させてくれる。たとえば「恋」という単なるインクのしみにしか過ぎないものが、人に失恋したときのことを思い出させたり、小説のタイトルを思い出させたり、青春時代を思い出させたりもする。そこに起こってくるものが感情である。たった一つの文字が心臓を高鳴らせ、涙させたりする。文字とはこのように人の心を動かすものだから、人を生かすために使わなければならない。そのために必要な心構えとは何だろうか。

2018年9月26日 (水)

脱線

人との会話の中で、話が脱線していくということを私たちは経験している。現にこの文章を書きながらも横路に逸れ、回り道をし、元にもどり繰り返したりの連続のなかで書いている。その文章は私とは別の人格が書いているのではないかという感覚に襲われるほどである。しかし、そのことが文章に幅を持たせ、豊穣さをもたらしたりもする。ただしその中心を貫くひとつの核が必要だ。それが話のタネと言われるものである。

2018年9月25日 (火)

味覚

人間の味覚は意外に鈍感である。誰もが完璧な味覚を持っているわけではない。もしそうだとしたら、グルメ雑誌やクチコミなどはその役目がなくなるはずである。味覚に限らず、他者の言葉に頼らなければならないほどに、人間の感覚は当てにならないのだ。我々はラベルに書いてある「○○製」「新製品」などの文字を読みかつ口にしている。私は私の感覚で味覚で食欲の秋を満喫したい。

2018年9月24日 (月)

感覚

人が、「寒い」と言うとき、何を言おうとしているのだろうか。気温が寒いのだろうか、それとも、話のきっかけにしているだけなのか、心が寒い、懐具合がさむいと言っているのかもしれないのである。最初のそれは、単なる感想。第二のは口火、第三は悲しみ、最後はご馳走してくれということかもしれない。そこで聞き手が、「それで何が言いたい?」 などと言ってしまうと、相手から「話を分かってくれない」と思われてしまうだろう。本当に分かってあげるにはどうしたらよいのだろうか。

2018年9月23日 (日)

主客逆転

人が電信柱などにぶつかりそうになると、電信柱の方が迫って来るように感じることがある。ある事がらが起きた原因は私ではなく、柱にあるのであり、私には落ち度はないと思い込む方が楽だからだ。単純に考えれば、「相手が悪い」と思いたいということ。人が私を嫌っている、とか、私を無視していると感じるとき、人の心のなかで起こっていることは一体何なのだろうか。

2018年9月22日 (土)

欲望の渦

私たちの頭の中は、欲望が渦巻いている。あれが欲しいこれも欲しい、でもお金が…。言いだせばきりがないくらいである。いっそのこと欲望がなくなったら楽になるにちがいないと考えたりもする。ファッションの秋の新作が発売されても平気である。オリンピックが開催されようと、レアなコンサートのチケットが一枚余ってますよ、などと言われても心がざわつくことはない。その代わり、食欲も湧かず、美味酒肴にも箸が動くことはない。それも味気がないかもしれないのだ。人は心に刺激も欲しいのかもしれない。人間はなんと面倒な生き物なのだろうか。

2018年9月21日 (金)

錯綜

人の欲望には限りがない。遊びたい反面、働きたくもある。その逆に働きたくもあり、怠けたくてたまらない自分もいる。しかしそれも退屈だからやはり・・と頭の中で相反する欲望が錯綜している。そして人はそれを口にする。その言葉がしばしば人から誤解を受ける。「遊びたい」の言葉に対して人が否定するからである。「遊ぶ」という決定事項を言っているのではなく、思考の流れの途中経過を漏らしただけなのにである。本人の思考の最終地点にいたるまで、聞き手には黙っていて欲しいものである。

2018年9月20日 (木)

スイッチ

心に何かのスイッチが入らないと人は何もしないものである。作家や芸術家は編集者が玄関先に現れないとペンが進まないと言う。子どもたちの宿題も前日の夜中になってから始めたりする。するのは今しかない!というスイッチである。それで宿題などを済ませることができることを人も子供たちも知っているのだ。自転車競技と同じ展開である。そのスイッチが入るまで、観客も親もじっと待つしかないのだ。しかし、観客や親のスイッチの方が先に入ってしまうのはなぜなのだろうか。

2018年9月19日 (水)

寛ぐ

寛ぐとはなんだろうか。リラックスすることだろうか。寛ぐとは、緊張している状態から開放された状態ではないだろうか。緊張しているとは、何かを言えない状態である。今自分がおかれている苦境、訴えたいこと、伝えたい気持ちなどが心のなかにたまっていることをさす。それが言えたり、訴えることができたとき、人は寛ぎを感じるのである。言えるとは、相手の側に受け止める態勢が必要だ。心のなかのエネルギーは相手にむかって一気に放出される。部屋の換気が行われたように空気が変わるのだ。そして寛ぎを覚える。その先にあるもっと寛ぐ瞬間とはいったいどんなときなのだろうか。

2018年9月18日 (火)

受け容れる

ありのままの自分を受け入れること、それが幸せへの道である。走るのが苦手な人が苦しいのは、その苦手であることを受け入れていないからである。断れないために、いつも仕事を押し受けられてしまったり、カラオケなどで苦痛を感じるのは、その事実を受け入れていないからである。ところが、弱い自分を簡単には受け入れられないのも事実である。あなたならどうするだろうか。

2018年9月17日 (月)

わがまま

国立天文台が作ったすばる望遠鏡がハワイに設置されている。この望遠鏡には8億7千万画素という驚異的な性能の超高解像度のCCDカメラが搭載されており、これを使うことによって、ハッブル宇宙望遠鏡が1000年かかる観測を、たった5年で観測してしまうという。このカメラの開発は本来完成不能と言われていたのものであった。しかしチームリーダーの熱意によって試行錯誤の末に完成したものだった。彼の一言が印象深い。「わがままでなければいいものは作れない」。

2018年9月16日 (日)

意志

猛暑もやっと初秋にその席を譲ろうとしている。暑い時には暑いなりに、とか、冷房を積極的に使いましょうと連呼していたのがつい最近のことのように感じられる。自分は自分の考えで通してよいと知ってはいても、意志を通すのは厄介なことと感じることもあるものだ。どうやって自分の意志を貫徹すればよいのだろうか。

2018年9月15日 (土)

バリエーション

女性のほうが男性よりもバリエーションに富んだ人生を送っている。例えば、男性にとっての赤と女性の赤とはその世界が全く異なる。男性のそれは単に赤だが、女性のそれは色彩の宝庫である。リップクリームの赤の多彩なことは目を見張るばかりだ。化粧台を見渡せば色とりどりのビンや缶、スプレーなどが、静物画のように林立している。男性のものといえば何かがポツンと一本あるくらいなものだ。男性はモノクロの世界を生き、女性は目くるめくカラーの世界を生きている。両方の嗜好が一致することはなさそうである。

2018年9月14日 (金)

思い込み

人はだれでも思い込みをする。そうだったのだ、と思い込み、事実を認めないためにしているといってもよい。親は私を自由にしてくれた、は、放ったらかしの上書きであり、親は私を一生懸命指導してくれた、は、干渉しすぎる親と思い込みたくないための作文かもしれない。親の側から見れば、厳しく育てた、は、虐待かもしれず、優しい子に育てた、は、甘やかしすぎたのかもしれないのだ。その結果が数十年後に出てくるなど誰も想像しないまま、私たちは育てられ、かつ育ててしまった。この散々な結果をどうやって書き換えればよいのだろうか。

2018年9月13日 (木)

主張

「自分はこう思う」と周囲の人に主張しても、「?」の返事がかえってくることもあるものである。その瞬間、自分は間違っていたかな?と自信がなくなるものである。横並び社会においてはなおさらである。社会では、周囲にあわせるのが善、という風潮が根強いからだ。そのときは親が子供の味方になって上げることで自信がつくものである。さもなければ、子供は孤立化することになるだろう…とは頭で分かっていても、子供の「今日は学校にいきたくない」という主張にどう返事をすればよいかという対応法が用意されていない。長い目で見ることも大事なことかもしれない。

2018年9月12日 (水)

加減

気の抜けない日々を送っている人もいるだろう。反対に、気の抜けた毎日を送っていると感じている人もいるかもしれない。いずれにしても、ちょうどよい加減というものはなさそうである。人生の前半に気の抜けない毎日を送った場合、その後半ゆっくり休むかもしれない。前半を病気やケガなどで送った場合は後半で忙しくなりそうである。ほどよく忙しくした後はほどよく寛ぐことがよさそうである。ほどよく、とは、一体どんな程よさなのだろうか。

2018年9月11日 (火)

居場所

私たちが求めているもののひとつに居場所がある。会社にいけば自分のデスクやポジションがある。子供たちにとっても自分の机、椅子が本人の居場所である。それが失われることを私たちは怖れている。ある日出社したら、自分の机が片付けられていたという話をきいたことがある。公的な場面だけでなく、家庭においても、父は父の居場所、母の居場所、子供にも居場所が必要である。大人の場合のそれは、クラブやサークル、飲み屋などであるが、子供の場合には家庭が唯一の居場所になる。彼らは疲れ果てた体を癒すために家庭という居場所に戻ってくる。

2018年9月10日 (月)

退屈

忙しくしているとき、人は考えることをやめている。休日に退屈をかこつとき、人はあれこれと考えをめぐらす。それが新しい生き方やアイディアを生み出すきっかけになるのだ。勉強や仕事に忙殺されているとそれができない。人はときに退屈の中に身を置くことも必要である。仕事に行き詰まって散歩に出掛けたり、買い物に出かける途上でふとアイディアがひらめくこともあるものだ。そんな退屈を、発想のためのチャンスととらえることが大切である。

2018年9月 9日 (日)

知性

人間は他者と比べながら生きている。その差がなければ生きているという実感を感じないかのように感じてもいる。それを端的に示しているのがスポーツである。差で人と比べることはその世界だけにとどめておけばよかったものを、いつの間にか、身長や体重、誕生日が前か後か、果ては出生時の体重にまで無意識的に比較しているのが人間ではなかろうか。半面、それが科学技術の発展、進歩にもつながると考えると、比較にも意味があると考えざるを得ない。功罪両面あるということを認識すること、それが知性と呼ばれるものである。

2018年9月 8日 (土)

趣味

私たちの趣味のすべては、他者をマネすることから始まった。サッカーが好き、旅行が好きという趣味も、誰かがすでに楽しんでいたもののマネである。最初から私たちは趣味をもって生まれてきてはいないのだ。「この子は水泳選手になるために生まれてきた」とか「音楽の才能があるはずだ」などという言葉は子供のそれではない。私たちは生また環境の影響を大きく受けているのである。趣味をもつきっかけは誰かが与えてくれるものである。その役目を担っているのが周囲の人々である。その人々の趣味が釣りであれば、その子は釣りを始めるだろう。その後は釣りをしたり、山登りをしたり、キャンプ、写真・・・といったように模倣、修飾を加えながら変化していくのである。私たちはどれだけ多くの人たちの影響を受けてきたことだろうか。

2018年9月 7日 (金)

葛藤

ひとりでいるとき、心はニュートラルの状態にある。そこに、「電球の玉を交換してほしい」という命令が告げられれば、こちらはその言葉にしたがうことになる。その時、こちらの側にも、これから本を読もう、という声が重複すれば、先の言葉と自分の言葉とがバッティングすることになる。それが葛藤である。こちらの側に「何もしたくない」という声が重複しても同じである。大人の場合は、今自分はできない、とか、後にしてほしいということを伝える。それが対話による調停である。私たちの生活はこうした調停の連続である。大人にはできても、子供にはそれがむずかしい。親の命令には屈しがちだからだ。何が何でも自分を曲げない子供はしばしば、わがままな子として排斥される傾向があるからだ。わがままな子なのか、自己主張が強い子と言えるのか、その判断を間違えると、自分を主張できない子に育つことになるかもしれない。

2018年9月 6日 (木)

キャンプファイヤー

広場の中心に、宿の主人が組んでくれた焚火が煌々とオレンジ色の炎を上空に向かって火を噴きだしている。仲間の顔も炎に照らされて昼間の練習の苦しさを忘れたかのように笑っている。キャンプファイヤーを囲んで、40人くらいのメンバーによる踊りが始まった。マイクもスピーカーもない野外での踊りの伴奏を務めるのだ。道具はギターとめちゃくちゃなビートルズの歌声だけである。仲間を気持ちよく躍らせるコツは、曲と曲との間を開けないこと。これがむずかしいのだ。ただでさえ、頭の中でギターのコード進行を考えなければならない。そういうふうにしながらも、次の曲の頭出しを考えなければならないからだ。音響効果など考えられない中でギターをかき鳴らし適当な英語を叫びながらの20分足らずの狂乱のキャンプファイヤーは終了した。ギター一丁で踊ってくれる仲間がいた、人は一人ではないと感じた瞬間であった。

2018年9月 5日 (水)

馴れ

小料理屋の店主が「北陸か関東に来て、最初に感じたことは、「魚が匂う」ということだという。私には、あの匂いが魚の匂い、と思って暮らしてきた。慣らされたということだ。我々はこうして、環境に慣らされているのである。それが他の社会からみれば「変」なことと言われても、言われてもそう感じないのである。あ学校の不祥事、組織の腐敗・・・すべてにおいて、われわれは麻痺させられているのである。それは、一方では環境に馴染んできたことかもしれない。見方を変えれば、麻痺していると捉えることもできるだろう。自分は一体どちらなんだろうか、とつぶやきながら臭みのない北陸の魚に箸を伸ばしている。

2018年9月 4日 (火)

立場

人は自分が置かれた立場によって、言葉を変えている。私たちが動物のドキュメンタリー映画を見ているとする。視聴者がライオンの立場で見れば、餌をうまく捕まえてくれ!という気持ちで見ており、襲われる動物の立場で見れば、うまく逃げてくれ!という気持ちで見ているのだ。会社でいうならば、自分と部下が会話している場合、自分は上司、という気持ちで接している。そこに彼の上司が現れれば、上司としての立場は一気にその存在を失うことになる。私たちはこのようにして、どの立場で語るのかを考えながら会話しているのである。それは非常に高度な能力を必要としているのだ。いつそんな能力を学んできたのだろうか。

2018年9月 3日 (月)

自分のこと、人のこと

自分のことは棚にあげて人にはうるさい、という人もいるものだ。自分のことは見えないからで、見たくないというのが本当のところであろう。そこに管理職という部署ができる理由があるのだ。自分がしていることが見えてしまう瞬間がある。自分の部屋で作業した後、別の部屋でくつろぐ。しばらくして先ほどの部屋に戻ったときに「なんだこの散らかりようは!」と驚いてしまうのである。散らかしたのは自分なのだが、一瞬、私が他人に早変わりして他人の目線で自分をみているのだ。このとき、他人に厳しくするのはやめようなどと殊勝な気持ちになったりもする。私は一人の他者、という詩人の言葉が思いだされる。

2018年9月 2日 (日)

五官

人は何かをする時、五官を総動員して楽しんでいる。車を運転すれば、ハンドルの触感、車や街の匂い、耳に伝わってくるエンジン音、計器類のセンスの良い配置や色、車内を漂う空気を口で吸っている。いつでも、どんなときでも五官を喜ばせるモノや人に接していれば、おのずと自分自身も磨かれていくのは間違いなさそうである。

2018年9月 1日 (土)

楽しい会話

人との会話で、楽しいと感じる会話とはいったいどんな会話だろうか。誰かから何かを教えてもらったときだろうか、会話が弾んだときだろうか。前者の場合、こちらの求めている情報が余すところなく伝えられることなど皆無に等しいのではないか。子どもの学校選びについてこちらの欲しい情報を持ち合わせているとは考えられないからである。後者の場合、意見が一致したという時間の問題である。おそらく5分も一致し続けることはなく、その時間があったとすればほんの一瞬だったのではなかろうか。そう考えると、会話していて楽しいと感じるのはいったいどんな会話があった時なのだろうか。

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