言表
車を運転中、左折のときにウィンカーを左に出すのは、かつて教習所の助手席の教官が「ハイ、左にウィンカーを出して!」と言った一言が私をそうさせるのである。これが他者の言表に従うということなのだ。こうしなければ危険だからである。周囲に危険を及ぼさないための掟を教わったのである。私たちは自分の言葉と、他者の言葉との間でいつも葛藤しているのである。街を歩けば「今がチャンス!」とか、「残り僅か」、「インフルエンザが大流行」といった他者の言明に私たちが惑わされている可能性は十分にあるのである。
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車を運転中、左折のときにウィンカーを左に出すのは、かつて教習所の助手席の教官が「ハイ、左にウィンカーを出して!」と言った一言が私をそうさせるのである。これが他者の言表に従うということなのだ。こうしなければ危険だからである。周囲に危険を及ぼさないための掟を教わったのである。私たちは自分の言葉と、他者の言葉との間でいつも葛藤しているのである。街を歩けば「今がチャンス!」とか、「残り僅か」、「インフルエンザが大流行」といった他者の言明に私たちが惑わされている可能性は十分にあるのである。
人に相談事を持ちかけた時、相手から、「それは考えものだ」などと否定的な意見を言われたことはないだろうか。相手は、何かコメントを言わなくてはならないと考えて言っているのだが、言われた側は、自分の考えを否定されたように感じることが多い。本人は、紆余曲折あってここまで考えを言ったのだが、相手の一言で考えが急にしぼんてしまうのである。ただ聞いて欲しいだけ、というのが本心である。そう感じているにも関わらず、他の人から相談事を持ちかけられたときに、コメントを言っていることはないだろうか。
人が大切な会議の発表などを控えて、「緊張している」などと訴えても、こちらから見ると泰然自若としているように見えるということはよくある話である。本人に向かって、「そうは見えないですよ」などとと告げても、相手は、気休めに言っているのではない?などと言う。このように、自分の心境は人にはなかなか伝わらないものである。だから自分は自分の考えを実行すればよいのである。人の顔色を伺うことから脱皮して自由に羽ばたくことが肝要である。
モノが捨てられないという人も多いのではないか。古くなった服、誰かからのプレゼント、学生時代のボタン・・・長い間に積もり積もった品物で部屋は溢れかえっている。それが捨てられないわけは、モノの一つひとつに想い出が張り付いているからである。あの時、あの人、あの場所であんなことがあったと思いだしているのである。他人は、「捨てればいいのに」などと言うが、そう言っている他人も自分のこととなるとやっぱり捨てられないのである。一番捨てなければならないのはモノだけではないのである。
欠点のない人はいない。もし完璧な人がいたとしたらその人は何も改善しようとしなくなるだろう。欠点こそが私たちをして完璧になろうとする道に向けさせるのではないだろうか。そのためには、自らにしっかりと向き会うことである。回避せず直面することである。その姿勢を示すだけで自分をとりまく世界が変わっていくからである。
どんな時間でも対応してくれて、いつでも相談相手になってくれる、嫌な顔一つせず応えてくれる、ジャンルを問わず何でも知っていているし、音楽だって聞かせてくれたりもする。それがスマホである。人はそれを肌身離さず撫でたり触ったりキレイなカバーをつけて大切にしている。これがなかったら不安でしかたがないといった風情である。本来、人がその役目を果たすべきではないのだろうか。ロボットが人に代わって癒しを与えるようになるのだろうか。絶対にそうはならないと私は確信している。
最近は、ものにクリーム状のものを塗布して光らせることが流行っている。秩父線の蒸気機関車も表面をテカテカにして秩父の平野を疾駆しているので、近所の公園に雨ざらしになっている機関車とは見栄えが全く異なっている。演奏会場の弦楽器もテレビ映えを意識しているせいかピカピカである。人の表情も顔に塗るクリームでずいぶん生き生きして見える。元気でない人も元気に見えてしまう。そのせいで本当の症状が隠されてしまっている可能性がきわめて高い。ところが、どうしても隠せないもの、それが声である。かすれた声、大きな声、小さな声…それらが示す意味がその人の本心を語っているのである。その声を正確にキャッチすること、それが分析である。
人はつねに物事に直面している。人によってこの場面から逃げ出したいとも思っている人もいるかもしれない。直面するか逃げ出してしまうかの二者択一の岐路に立たされた瞬間を迎えているのかもしれない。それを試練と呼ぶか、運が悪いと取るかはその人次第である。直面してしっかりとそれを正面から受け止められるには、大丈夫だよと誰かから言ってくれた体験が必要である。たとえ一つでもそんな体験があったとしたならば、人はきっと勇気をもって物事に立ち向かえるはずである。
モノに対する価値観は千差万別である。ある人にとって莫大な価値をもつモノも別の人にとっては石ころ同然であろう。反対に石ころが好きな人にとって、石は宝石以上の価値をもっていることになるのだ。それらの価値観の違いはどこから来ているのだろうか。それは国、生活環境、学校、クラブ仲間・・・それらがわれわれの価値観を決定づけてきたのである。私たちは最初から独自の価値観をもっていたのではないのである。人の価値観を尊重してあげられる人とは、自分の価値観をしっかり持っている人のことである。
夢中になるとは、自分だけの世界にいる状態を指す。人に理解されようとされまいとそれを意に介さない状態だ。それを人は奇人・変人と呼ぶかもしれない。多くの人はそんな呼ばれ方をされたくないために、夢中になることをあきらめるかもしれない。寝食も忘れて研究に打ち込む、本を読みまくる・・・それを許容する環境が個室である。誰にも侵害されることのない空間の中で、人は夢中になるモノがあることに気づけるのである。
人はいつでも悩みをかかえている。悩みとはなにか、それは選択である。人の歴史とは選択の歴史と言い換えてもよい。買う・買わない、言う・言わない、あっち・こっち・・・買えば買ったで財布が軽くなり、買わなければ後悔が残る。どちらかにしてしまえばよいのだ。片方を選べばもう片方は必ずセットになっているのである。ものごとに表と裏があるように両方あると考えることで前に進むことができるのである。
人は、「ファイトが湧く」とか、「気持ちが高まってくる」とか、「姿勢がピンとしてくるようだ」という。スポーツジムに行っているわけでもなくそんな気持ちになる原動力とはいったい何なのだろうか。それは「知」である。人が知を持てば元気にもなり、やる気も出てくるのである。スポーツジムに行こうと足が動くのも、この知が発生しているからだ。知とは考えることである。考えるか考えないかの違いが人間であるかどうかの境目なのである。
クルマを運転中も、食事のときにも、そのことに集中することが大切である。漫然と運転していれば危険だからである。食事中も食べることに集中することで味わうことができるのである。したがって食事の時はテレビを消すのが原則である。集中するとは、人間を一人きりにさせることが最初である。一人静かに考えさせること、自分自身と向き合うことである。まわりでああしろ、こうしろという声がしていたら集中することができなくなるのである。答えが見つからなくてもよいのである。自分で考え、自分で答えを出す集中力はこんな環境の中ではぐくまれるのである。
人は人に嫉妬してやむことはない。嫉妬とは、本来そのものを手にしているのは自分であるべきなのに、最も親しい友がすでにそれを手にしていることへの憎しみの感情である。相手が得たものに興味がなければ嫉妬は生まれない。すなわち嫉妬とは、恨みの感情であると同時に、人間の欲望の原動力にもなっているのだ。天は人に複雑な感情を植え付けているともいえるのである。
子どもはときに親を痛烈に批判する。しかも正鵠をえているので親はしばしばその言葉の前に絶句する。子どもは親を批判することで成長を遂げていく。もし完璧な親がいたとしたら、子どもはさぞ生きにくいことだろう。批判をし始めたら受容してあげることだ。「親に向かって何を言う!」という親の言葉は、「なんて的を得たことを言うのだ!」という感嘆の言葉に置き換えてもいいのだ。そんな批判が自由に言える家庭環境作りをしてあげることが親の役割なのかもしれない。
成功体験とは自分でも思いだせない体験である。それは本人にとっては些細なことであり、それがベースになって得た成功の陰に隠れてしまっているようなことである。いわば家の基礎であり、竣工後は確かめることができないようなものである。今あなたがしていることはそんな体験が下敷きになっているのである。思いだせない、というのが心情だと思う。それを思い出すことができたとき、人は自信をもてることになる。自慢ではなく、自信につながったこととは何だったのだろうか。
私たちは自分の意見を言うことはわがままなこととして抑制されてきた。とくに日本の風習として、周囲に合わせることが善で、皆と違っていることは悪として排斥の対象にされている。そうすることで周囲から称賛されるので、ますますそれをよいことに成長してきた。しかし社会に出てからその対処の仕方では排斥されるような場面に出会ってしまうこともあるのだ。皆のまえで主張してみた瞬間に、しどろもどろになることがあるという。やっとのことで二言三言は言えても、質問に答えられないケースにも遭遇するという。その繰り返しのなかで自信喪失になっていくのである。その起源は幼少期にあると考えられる。言いたいことを家庭で受け入れてくれたかどうかが主張できる子に育つかどうかの境目になっていることは間違いがないようである。
子どもたちはしばしば母に助けを求める。「ママ手伝って」と助けを求めるのは、いざというときに母が本当に助けてくれるかどうかの確認作業である。そのとき母が応えてくれればよいだけである。内容は些細なことであり、極端に言えばどうでもよいことであり、自分でできることなのだ。したがって母はそばに行ってあげればよい。100%そうしてくれることが確かめられれば子どもたちは安心を得て、何事も自分たちでやるようになるのである。助けてあげたのにもかかわらず何度も援助を求めてくることがあったとすればその理由は何なのだろうか。
その美容院は、明日朝5時の開店を控えて人の出入りが激しい。鏡の前でカットし、別室に移動して着付け、写真撮影もその場で行うのだ。スタッフは朝早くから立ちっぱなしで対応に当たる。私には縁のない場所なので別室を見せてもらった。着物の包みの上には若者たちの名札が置いてあり、棚には髪飾りがずらりと妍を競っている。スクリーンとおぼしき布が下げてある一角は撮影スペースであろう。明日ここに来て次第に仕上がっていく若者たちの喜びの声が聞こえてきそうである。ここが彼らのスタートの場所なのである。明日は成人の日。
人は人を肩書で見ているように、人は私という人物を付属物と一緒に見ている可能性がある。近所で人に出会っても誰だかわからないという話をよく耳にする。散歩中、近所の人と出会って思わず話しかけてみたら不審者を見るような目つきで私を避けて行こうとしたので、慌てて「マロン(飼い犬の名前)のパパです!」と言ったとたんに「「あーマロンちゃん!」と花が咲いたような笑顔を向けてくれて安堵したことがある。私はいったい何者なのだろうか。
書店の本棚には膨大な数の書籍が並んでいる。店先で私たちはその景観を見るだけである。ところが書棚の前に立った瞬間、ある背表紙の文字だけが目に飛び込んでくる。目を通さなくても、その本にだけ目がとまるのである。それを見出した瞬間である。本であれ、雑踏の中であれ、人間は自分に興味のあるモノや人だけを見出す構造になっている。犬に関心のある人は、犬の本や散歩中の犬の姿が目にとまるのである。それは自分自身を見出したということである。私が私自身を見出したということだ。人が好きとか、人に関心があるとは、私が私を好きになることである。その起源は両親との関係にまでさかのぼることは言うまでもないことだが。
どんな品物であっても、自分で選んだモノは愛着があるものである。それは自分自身を指し示しているからである。モノを入れるときの紙袋一つでさえ、たくさんあるデパートの紙袋の中から吟味すれば、それはそれで美しく見えてくる。人から見ればどんなものであっても遠慮することはない。自分で選んだということは、自分を見出したことになるからだ。人からそんなモノのどこがいいのか、新しいものに替えたらどうかなどと言われても、その言葉に決してひるんではならない。モノを否定されることは自分を否定されることも同然となるからである。自己否定ではなく、自己肯定の人生を歩むべきである。
幼い子どもたちの質問には限りがない。それに答える両親は一日中対応に追われる。答えは簡潔明瞭、しかも理解しやすい言葉で感情抜きで説明しなければならない。うまく答えられたとしても相手からの質問は矢継ぎ早だ。子どもたちの頭の中は新品のパソコンのように空っぽである。正常に作動させるためにはハードディスクに言葉の数々をダウンロードしなければならず、今その作業の真っ最中だ。正しい情報を彼らの頭脳にインストールすることは喫緊の課題である。新品のパソコンを買った時点で購入者に課せられる最初の試練である。
何十年も使わずにおいたモノを人に譲った途端、相手が異常なまでに喜んでくれたということはないだろうか。その瞬間、こちらの側に複雑な気持ちが沸き上がってくる。人間の心理として、モノは譲った途端に惜しくなるものである。モノ、役職など、譲られた相手が迷惑そうな顔でも、喜んだ顔でもこちらの心境は複雑である。しかしモノは大切にしたい。その葛藤を解消するにはどうすればよいのだろうか。
子どもが欲しいものは、兄や姉が持っているおもちゃである。兄や姉がそれを手にした途端に欲しくなる、それが年下の人間の欲望である。生まれたばかりの人間は最初から欲望などもってはいないのである。人間の欲望の最初の対象は、他人がすでに持っている、モノである。兄弟のおもちゃの取り合いはこうして起きるのである。自分が欲しがっているモノは本当に自分の欲望なのだろうか。ギターが欲しいなどという欲望は誰の欲望だったのだろうか。誰が私の心に欲望の灯をともしたのだろうか。
人はそれぞれ理想の形を思い描きながら生きている。こんな髪型だったら素敵に見えるだろう、こんな生活がおくれたらどんなに幸せなことだろう・・・といった具合だ。写真愛好家もきっとそれぞれの構図の写真を思い描きながらカメラを構えているのだろう。SLファンは元日から秩父鉄道を走るSLの撮影に余念がない。先頭に「初詣」というプレートを付けた汽車を待ち構えて駅前にカメラの山ができている。天候や蒸気の形や量、機関士が運転席から顔を出してほしい・乗客も手を振っている・・・いろいろな思惑を抱えながらSLの通過を今か今かと待ち望んでいる。しかし蒸気機関車は一瞬にして目の前を通り過ぎてしまい、カメラの放列はあっという間に散って行く。あとに残されるのは私と蒸気の黒い煙だけだ。彼らの理想はきっと次の撮影ポイントに発見されることだろう。
初詣の行列に接すると、だれもが幸せそうに見える。この人たちにこれ以上の願望があるのかと疑われるほどだ。当然のことだが、悩みのない人などいない。欲しいものが手に入っても憂いを抱く人もいるのだ。これで思い残すことはない、という人も思い残しの一つや二つは必ずあるものだ。これでいいと思える日まで道のりは遠いと心得よう。いっぽうで、この欠乏感が人生を前進させる原動力にもなるのである。靴下を替えなくてはというちょっとした憂いから壮大な願望まで憂いは当分続くのである。壮大な願望を抱きつつ小さなことに喜びを見出す自分でありたい。
人間には、ただ一つの自己というものは存在しない。自己は人間の中に数多く存在する。たとえば友達と談笑しているときは友達としての自己が登場している。絵の見方を教えてほしいと言われた瞬間、私は先輩としての自己に変身する。こちらが子育ての相談を相手にすれば、こちらは生徒としての自己に早変わりするのだ。その場面に応じた自己が現れるだけである。家庭ではどうだろうか。夫が妻に相談を持ち掛ければ夫は相談者になり、妻から相談をされれば夫は指導者になる。そこに子どもが登場すれば父の顔になり、子どもから駅伝の話をされれば友達になってしまうのだ。その場面において適切な自己を発揮できるかがポイントである。
「したい」の言葉は願望、「する」は実現に置き換えられる。遠くにあってまだ実現には至っていない言葉が願望である。「する」はすでに自分の頭の中で実現している言葉である。まずイメージの世界で実現させることが肝要である。人間はイメージを抱き、言葉に出すことで、実現するからである。言葉に出して言えないものは実現しないのである。それを語ること、そして語りあえる間柄こそ親友といえるのではないだろうか。
夜中の1時だというのに、隣のライヴハウスのピアノの音が漏れ聞こえてくる。気ままに引いたかと思えばベートーベンの音になったりしている。音楽仲間の集まりらしい。誰となく語り、ほかの誰かが弾きつつ、時の経つのを忘れているかのような雰囲気が伝わってくる。そんな仲間がいる人は幸せというべきだ。自由に弾いたり語ったりすることが許されるような環境に私たちはいるのだろうか。彼らの世界を羨ましく思う私がここにいる。
人が自らの能動性を発揮させれば周囲の人も変わる。変化を待っているだけでは何も変わらない。誰かがしてくれるだろう、いずれ変化が起こるだろうと口をあけて待っているだけでは何も得られない。受身性から得るものは何もないのだ。思えば我々はどれだけ待たされてきたことか。まだ早い、学校を卒業してからにしろ・・そんな言葉が我々の進歩を阻んできたのかもしれない。我々は若くはない。若いままでいたい私と、年齢を重ねた私とのあいだで葛藤している自分がいる。我々はいつまでも子どもではない。大人になれ!と自分に向かって宣言すべきときがきたのだ。