自分だけ
私たちはある事象に出会ったとき、それらを自分と結びつけて考える習慣があるようだ。車の運転中、赤信号が自分の前で点灯すれば、これは何かの啓示なんじゃないか、急がば回れと誰かが教えてくれているのではないか、などと考えてしまう。哲学者になったかのように、目の前で起きた現象と自分とを結びつけながら考えている。信号機を見ただけで考えてしまうのだから、誰かの一言には特に敏感になるのだ。いつも青信号ばかりの人生、説教されない人生を送ることができたらどんなに幸せなことだろう。
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私たちはある事象に出会ったとき、それらを自分と結びつけて考える習慣があるようだ。車の運転中、赤信号が自分の前で点灯すれば、これは何かの啓示なんじゃないか、急がば回れと誰かが教えてくれているのではないか、などと考えてしまう。哲学者になったかのように、目の前で起きた現象と自分とを結びつけながら考えている。信号機を見ただけで考えてしまうのだから、誰かの一言には特に敏感になるのだ。いつも青信号ばかりの人生、説教されない人生を送ることができたらどんなに幸せなことだろう。
美術館で入場券を買う人が、「65歳以上です」と係員に言っている。この美術館は65歳以上の人なら半額で入場できるのである。係員が「何年生まれですか?」と問いかける。彼は「○○年生まれ」と答える。係員はさらに身分証の提示を求めている。承認されたと見えて彼は入場券を手にすることができた。次は私の番だ。彼にならって「65歳以上」ですと宣言した。ところが、生まれ年を聞くこともなく、身分証の提示を求められることもなかった。もちろん半額で入場することができたのだが、彼と私との違いは何だったのだろうか。私の顔に年齢が書いてあったのだろうか。
人はいろいろな顔をもっている。優しい顔、厳しい顔、怒っている、泣いている…いろいろな顔をもっているのが人間ではないか。一面だけで生きていたらさぞ苦しいに違いない。仕事中などはそれに徹しなければならないからだ。部下の前で甘い顔など見せられないのである。そうでない面をどこかで発散させることで人はバランスを保っているともいえよう。それが趣味、生きがいの仲間とのふれあいである。
春休みに入って、駅前は若者たちであふれかえり、久しぶりの開放感を味わっている。普段は教科書から目を離すことのない若者たちは、今胸を張り目を輝かせてファストフード店の前で列をなしている。長い行列さえも楽しんでいるかのように見える。それに比べて大人はどこで開放感を味わっているのだろう。若者たちの目の届かぬところで心を開放しているのかもしれない。あるいは花吹雪の下でつかの間の寛ぎを味わうことを今から楽しみにしているのかもしれない。間もなく桜堤に人が集まる季節を迎える。
人生とは失敗の連続だ。左足から踏み出すつもりが右足を出しそうになってつまずきそうになったり、言い間違い、道を間違えたりしているのが日常ではないか。いったい正確にできたことがあるのだろうかと思うほどである。研究者やモノ作りの人たちはそれが当たり前ではないか。失敗の半面、考え、工夫し、発見し続けているのではないか。失敗から学ぶというより、失敗を楽しむことが人生を楽しく過ごすコツではないだろうか。
人はそれぞれ異なる考えをもっている。そのことを誰もが知っているにも関わらず、相手の考えを否定している。人と会話をしていて、それは違う、などと言われて戸惑ったりすることはないだろうか。違いを知っているのに相手を理解できないのである。自分の感情が発生しているからである。感情を交えずに人の話を聞くことができたら、どんなに人は癒されることだろうか。
個性は人と比べることから生まれることはない。一方で、人をマネルことから生まれるものである。まず初めに人のすることから始まる。その作業の中で、自分は周囲とは違うやり方をしたいと感じることから自分を構成していく。そのとき周囲はそのやり方を修正するかもしれない。絵を描いていて、長い手を描いたとき、人がこんなに長い手はありえない、と言ってしまえば、子どもは相手に合わせようとするかもしれない。個性とは、周囲が見守ることから生まれるのである。
ゲレンデを賑わしたスキー客もまばらになり、斜面を覆い隠していた雪の隙間から土が見えてくるころになると、頬をかすめる風もどことなく厳しさが薄らいでくるようである。あの厳冬はどこに行ってしまったのかと思えるほどの季節となった。自然の一部分である人間も、疾風怒濤の時代を通り越せばやがて平穏無事な時代が来るのだろうか。平穏無事とはいったいどのような生活なのであろうか。人間は一生涯疾風怒濤の生活を送るほうがよいのかもしれない。ちょうど、自然も一年ごとに厳冬の季節がやってくるように。
近所の空き地にいくつかの土管が転がっている。ばらばらに置かれている姿は芸術作品のようでもある。子供の頃土管の中で友達と秘密基地を作ったり、ひそひそ話に場所にしたことを思いだす人もいるだろう。今はスマホで秘密の話をするのだろうか。人には誰かに聞いてほしい話の一つや二つはあるものである。そんな話も土管の大きさの中に吸い込まれていつか消え去っていく。そのあとに残るのは土管の丸みで区切られた春の青空のみである。
人は何かにつけていろいろな批判をする。天気が続けば乾燥して困ると言い、雨の日は足元が濡れるなどと言いたい放題である。ところが天気の方はまったく我関せずである。自然とはこんなことを言うのである。人間も何を言われても聞き流すことができたらどんなに幸せなことだろう。そんな批判を自分のパワーに結びつけることができたらもっと幸せになるはずである。
久しぶりに机の引き出しを整理した。99パーセントのモノがゴミ箱行きだった。汽車の形の鉛筆削り、とうの昔に処分したミニコンポの説明書・・・昔がいまだ私の中に存続している。その品物を大切にしていると考える私と、不用品と考えるもう一人の私がいる。前者が後者をしのいでいたのだ。それは引き出しの奥深くに隠されて目に見えなくなっているからである。白日の下に曝されたとき、それが本当に必要なのかが明白になるのである。
誰かが自分の味方になってくれた、と感じるときはいったいどんなときだろうか。それは、自分の言葉が肯定されたときである。何かを買ってほしい、と言ったとき買ってくれた、手伝ってほしいという要望に応えてくれたときなどである。しかしそうした要望がいつもあるわけではない。日常の会話の中で自分を肯定してくれれば、相手は自分の味方だと感じるものである。そうした要望が満たされなかった場合、モノを得ることで満たすことになるのかもしれない。
人が表に出していない能力を潜在能力という。それは生涯活かせないまま埋もれてしまうものかもしれない。たとえば、親は絵が上手でないのにその子は絵が得意だ、といった姿で現れている能力でもある。それを親が認められるかどうかに親の力がかかっている。子どもの能力を活かすか殺すか無視するかは親自身に課せられた重要な課題である。それは師匠と弟子、経営者と後継者との間でも表れてくる問題でもある。両者の思惑が異なるから、前者は後者の潜在能力をなかなか認めることができないし、後者も自分のそれについて知ることができないのである。こんな場合、その能力を引き出すものがあるはずである。
どんなことでも、極めるのは大変である。仕事・趣味・生きがい・・・やってもやってもキリがないと感じるのが私たち人間である。ところが、何事も極めてしまうと飽きてくるのもまた人間である。クラスで一番になる、仕事の要領がつかめるようになる・・・他人から見ればすごいと感じることでも、本人にとってはつまらないことこの上もなく感じたりもするものである。それを極めたと感じるか、自分には違う能力があると感じるか、それはその人次第である。
毎日同じ生活をしていることには両価性がある。会社員は会社にいきたくなくても行かざるを得ないし、普通の暮らしをしている人でさえ、それにもなんとなく慣れてしまっているのではないだろうか。そんなことをしているうちに、気がつけば定年を迎えているのが普通である。日々起こる問題にいちいち悩んでいては身が持たないだろう。そこで、私たちはそんなことを感じないようにしている。それが慣れである。慣れることに飽きてきたとき、人の体に何が生じるのであろうか。
他人から批判されて落ち込まない人はいないだろう。それをパワーに変えてしまう人がいたとしても、それはほんの一握りの人だけかもしれない。多くの人は批判を常に気にしている。それは、他人からの言葉を否定する習慣をもっていないからである。親や先生の言葉に従うことが善であると教わってきたからである。そこに振り込め詐欺の付け入る隙があるのである。人の批判を気にせずに生きられたらどんなに幸せなことだろうか。気にしないぞと決めていても、買い物などで店員の褒め言葉をやたらに気にしている自分がいる。
人はときに嫉妬の炎を燃やす。何と言われようと、誰かが持っているモノや地位などが欲しくなってしまうのである。それをもつべき人物は彼ではなく自分だと言いたげである。知らない人が宝くじに当選しても、嫉妬は生まれないが、会社の同僚が当選すればやはり嫉妬のとりこになるだろう。そう考えると、身近な人に対して抱く心理が嫉妬で、遠い人に対して抱く心理が羨望ということになる。
人は多くの場合、自分のことを知らないし、知ることができない構造になっているのだ。たとえば自分の背中。鏡を見ればいいと思っても、じっくりと見ることなどできはしない。人から指摘されたときのほんの一瞬だけ知れるに過ぎない。背中についたゴミなど、教えられた時だけわかるにすぎない。誰さんはお喋りで、批判ばかりすると言うとき、それがなにを語っているのかさえ、本人が知ることはできないのである。そのことが自分でもわかる瞬間があるのである。
電車の車内で、友達同士が話をしている。一人が「君は今日は昼食を食べた?」。相手は「食べてない」、と答える。そんな時、私たちは食べたか食べないかを自分の身に置き換えて聞いている。あ、まだ食べてないな、と。自分とは関係ないこと、と聞ける人は少ないのではないだろうか。スポーツや映画でも同じことが起きている。ところがカウンセリングでは、自分の身に置き換えることはカウンセラーは厳しく戒められている。すなわち、カウンセラーが、私ならそうは思いません、とか、私ならこうする、と言ってはならないことになっている。それは、相手のことは相手のことだからである。両親に言い切られた、とクライアントが言ったなら、
わたしのように強く言いなさい!と言わないのがカウンセラーの立場である。指示するのではなく、支持するのがカウンセラーだからである。
「怒ってる?」と子供から聞かれて困ったことはないだろうか。人はいろいろな感情を抱きながら生きている。さっきまで機嫌がよかった人が、ちょっとした一言でご機嫌斜めになったり、人間は気分の生き物という言葉が思い出される瞬間である。私たちはいつも恵比寿様のような顔をしているわけにはいかないのだ。どんな顔が本当の自分の顔なのか。仏教では十一面観音さまがいるように、いろいろな顔があってもよさそうである。
日本の庭園とは、ある一点から見るだけが庭園の美ではないと言われている。その美とは、どんな角度からも「絵」になるものが美であるというのだ。人が逍遙しながら見たり、振りかえってから再び見たり、距離を置いて見たりしても、それぞれの趣が感じられるのが庭園の美だと言われている。したがって、この角度から見れば良い、というものではないのである。人の長所も、角度を変えてみれば、良い所や今まで見えなかった点が見えてくるものだ。人の一面だけを見ず、多面的に見ることでまた新たな発見があるのかもしれない。
人がもっているものを欲しがったり、ブティックの店員さんが着ているもの、半額の値札がついているものを欲しくなったりするのは、人間として当たり前のことだ。人間には元々欲望がないからである。みた瞬間にほしくなるのが私たちである。欲望を消すためには買ってしまうことである。買えないから欲望の渦がますます強まるからである。もうひとつの方法は、見ないこと、デパートなどに出かけないことである。経済は楽かもしれないが、どこかむなしく感じたりもする。人間は生きている間、欲望は消えることはなさそうである。生きているって素晴らしい!?
駅構内にある食堂に客はまばらだった。そこに一人の女性客が入店して女性店員に文句を言っている、挨拶がダメだ、とか、ブツブツ言い始めた。店員がおろおろし始めたところで客たちがそれに気づき、「あなた変だ!」誰彼となく言い始めた。一人が言い始めたので私も調子に乗って、何か言ってやった。さらに誰かが言う・・・。四面楚歌状態に追い込まれた彼女はとうとう退散したのだ。こんな悪態をついたのは生まれて初めてだ・・・。