« 2019年3月 | トップページ | 2019年5月 »

2019年4月の30件の記事

2019年4月30日 (火)

消去

店から出て忘れ物に気づいて引き返すと、先ほどまで私が占領して食事を楽しんでいた席がきれいに片付けられていて、私の存在などなかったかのようである。私がいたなどということはいったい何だったのだろうか。店員も私のことなど覚えてはいない。置き忘れのケータイしか覚えてはいないだろう。私という存在は、現れては消える泡のようなものに過ぎないのだ。だとしたら生きているうちにしたいことをしたらいいのだ。ところがしたいことが見つからないのもまた事実かもしれない。

2019年4月29日 (月)

喜び

ラグビーワールドカップを控えて熊谷駅前の整備が進んでいる。今朝はバス停の上を覆っている屋根のLEDライトがきれいな点滅を繰り返している。見れば、そばにある配電盤に作業員が群がってテストを繰り返している。初めての点灯に立ち会えてささやかな喜びを感じた。それはライトがきれいだったからではなく、作業員たちの目が輝いていたからである。人の生活もあのように喜びに満ちたものであったら皆が幸せになることだろう。ご心配なく、私は幸せにやっています、という人もいるのかもしれない。

2019年4月28日 (日)

忘却

「お買い得商品」の名札に誘われて購入した家具も、今となってはそのときの値段は忘れ去っている。「最後の一着」といわれて買い求めたセーターもタンスの奥にしまわれたままである。気に入ったモノも、特別なモノも時間がたてばただの物体になっている。そんな記憶とは裏腹に、思い出したくない記憶だけが思い出されてしまう。何もかも忘却できたらいいのに。それを実行できた一群の人たちもいる。

2019年4月27日 (土)

自分の姿

私たちは自分の姿を見る手段に欠けている。鏡を見てもそれは逆像であり、澄ました顔をしていたりする。それがよく分かるのは、車を運転しているときである。同じ道路上を走っていて、目の前にピカピカのタンクローリーが走っていたりするとつい近づいて自分の車を見ようとするのがそうだ。私たちは私たちを正確に知ることなどできないのである。もしそんなことができたとしたらそれはそれでちょっと怖いことかもしれない。

2019年4月26日 (金)

胸を焦がす

胸を焦がすとは、そのことを考えただけで胸が熱くなるようなことである。サッカー好きの人はボールを見ても、選手の名前を見ても胸を焦がしているのだろう。本好きはそれを手にするだけでウキウキするのだ。そんなモノが一つあるだけで人生は楽しく忙しいことだろう。胸を焦がす衝動の源はいったいどこからくるのか、そしてそれはどのようにして形成されたのであろうか。

2019年4月25日 (木)

立場

立場が違えば、受け取り方も違う。行楽地で人にシャッターを押してもらっている。撮影された写真を確認して、カメラの持ち主がこう言う。「私の頭に桜の木が生えているみたいだから、位置をずらしてもう一度押してくれませんか?」。相手はこう切り返す。「そんなところに立たなければいいのだ」と。それくらいのことを私も親に言いたかったのかもしれない。

2019年4月24日 (水)

買い物

私たちが買うものは、本当に自分が欲しいものだろうか。デパートの地下の売り場でなにやら列ができている。見知らぬ女性が声をかけてくる。早く並ばないとなくなってしまいますよ…そんな言葉を聞き流すことができるのは仙人ぐらいなものだろう。つい並んでしまうのが人情ではないか。並ぶ心理も、声をかける心理も同じである。みんな一緒がいい、というものだ。その深層には、並ぶことができたのは私たちだけ、という心理も同居しているのである。

2019年4月23日 (火)

映し出す

新聞やテレビでは、オリンピックの記事が日増しに増えている。写真には、選手たちがメダルを手にして微笑んでいる。私たちはその写真の上に何を見ているのだろうか。過去に得られなかった栄光…今後得られるかもしれないメダル…自分ももしかしたらスポーツの才能があったのではないか…空想は膨らむばかりである。選手を見ながら、じつは自分をみているのかもしれない。私たちはこれからどんな栄光を得ようとしているのだろうか。

2019年4月22日 (月)

手順

私たちは常に「手順」を考えながら行動している。駅に行く途中でポストに寄り、コンビニで飲み物を買って、スイカにチャージして電車に乗る…という風に、思考して行動している。子どもたちの場合も手順を考えながら帰宅する。しかし、その手順がしばしば狂わされることがある。手順を考えていたのに、家の手伝いや、犬の散歩を申し渡された瞬間、それらの計画をしなおさなければならないのだ。大人もそのとき、何かを忘れたりするだろう。手順を狂わせられることなくれスムースに計画が実行されたらどんなに気持ちがいいことか。

2019年4月21日 (日)

価値観

価値観は人それぞれ異なる。国、地域によっても異なる。タコは日本では、たこわさ、たこ焼きなどで好まれるが、外国では悪魔のように見られている。クジラも時に日本では食べられるが、捕鯨禁止の国では牛肉を食べている。どちらも哺乳類なのにである。食べ物でさえ価値観が異なるのだから、考えが違って当たり前である。だから理解し合うためには、そう、とうなづくだけでよいのである。それが分かっているのにできてはいなさそうである。

2019年4月20日 (土)

想い出(2)

語りつくすこと、とはいっても、たった一つの記憶でさえ消し去れることに困難を覚えてしまうのが実情ではないだろうか。それなら、心に深く刻みつけられるほどのよい想い出をつくればよいことになる。そのためには、その都度の出来事をどう受け止められるかにかかっている。プラスに受けとめるかマイナスに受けとめるかということである。その受けとめ方こそ、人間の何らかの能力にかかっていると言えるのではないだろうか。

2019年4月19日 (金)

想い出(1)

私達の頭の中にはたくさんの想い出が詰まっている。それがよい想い出であれば懐かしく想い出され、悲しいものであれば否定的に想い出されることになるだろう。ところがよい想い出の方はいつの間にか流されてしまう一方、後者の記憶だけが強く印象に残っているのはなぜなのだろうか。それは私たちの心に深く刻みつけれられているからである。「消え去ることのできない記憶」などと表現されるのはこうした事情によるのだ。それらの想い出は繰り返し語られ、詳細に、深く語られ続けることだろう。それらを語りつくした時、人は新たな目標に向かって進むことができるのではないだろうか。

2019年4月18日 (木)

車内での会話

電車の車内で友人同士が会話している。一人がいう。「昨日、ドイツから帰ってきたばかりなんです」。もう一人が答えて言う。「今、私の娘がドイツからイタリアに着いた、とメールが来たばかりです」と。一つの地名を介して会話が成り立っているように聞こえる。これが普通の会話ではないだろうか。互いが互いに認められたい、という欲望の応酬となっている。片方が自分の話を一切出さずに聞くこと、それを対話とよんでいる。

2019年4月17日 (水)

もう一人の私

私は私自身の主人ではない。会社に行こうと出かけて道を間違えたり、反対方向の電車に乗ってしまったりする。そんなとき、私がもう一人の私の愛を動かしているとしか思えないことがある。私という人間を私の中の無意識が動かしている証拠である。そんなとき、もう一人の私と会話してみることである。どうして道を間違えたのか、遅刻したのかと。そのとき本当の私が語り出す。それを、無意識の声に耳を傾けるという。

2019年4月16日 (火)

姿

写真撮影に際して、カメラマンから「胸を張って」とか、「アゴを引いて」などと注文される。できあがった写真を見ると、それなりに撮れていて安心する。考えてみると、普段は決してそうしたポーズなどしてはいない。日頃はいったいどんな姿で暮らしているのだろうか。知るすべもない。自分の本当の姿を知りたいか、知りたくないか、いったいどちらだろうか。

2019年4月15日 (月)

記憶

近所の桜も散りはじめた。寒さと暖かさが交互に訪れたせいであろうか、桜が長い間咲いていた…そんなことも葉桜の頃になれば、私たち記憶からキレイさっぱり消え去ってしまうことだろう。去年の桜がどうだったかという記憶などあるはずもない。人間の記憶とは、いい加減なものである。過去の悲しい記憶も忘れることができたらどれだけ前に進めることだろうか。忘却とは忘れ去ることである。

2019年4月14日 (日)

無知

私たちは知らないことばかりではないか。自分の経験で知っていることなどたかが知れている。人から「あなたは分かっていない」と言われても、それは当然のことなのである。私たちが一番知らないことといえば、それは子育てであろう。自分が親から育てられたことなどとうの昔に忘れ去っている。育てられる側の気持ちと育てる側のそれとが一致することなど夢のまた夢だ。でも育ててしまった。どうすればよいか。

2019年4月13日 (土)

能力

ひとつの米粒の表面に般若心経の200数十文字を書ける人がいると聞いた。人間の持っている能力に限りがないことを表わしている。虫眼鏡を使えばいい、という考えが私たちの能力の成長を妨げているのかもしれない。幼い子供たちも虫たちを追いかけ、観察に余念がない。親御さんとしては宿題や家の手伝いを優先してほしいところだが、彼らは目の訓練をしていると考えれば、それもまた成長のためである。そう考えると、われわれの視力の衰えは違うものばかり見てきたせいかも知れない。

2019年4月12日 (金)

イベント

暖かくなったせいか、駅周辺ではイベントの数々が繰り広げられている。ひとつイベントを前にして多くの方々が数週間は楽しめることだろう。準備、練習、時間の調整など、日常とは違った世界が楽しめるからだ。人生もまた同様。私たちの毎日はイベントの連続ではないだろうか。朝食は何を食べ、昼食までの間何をするか、何を着て誰と会ってどの道を歩くか・・・本当の楽しみとは毎日の計画そのものである。

2019年4月11日 (木)

本当の私

私という存在は二つに分裂している。それがよくわかるのが人と会話をしている時である。相手の「私って本当に⚪⚪?」という質問に対して「あなたは⚪⚪よ」とは言わないであろう。相手に対してそう思っている私と、相手を思いやって本当のことを言わない私とが分裂している。相手を思いやる私が、真実を言げてしまう私を凌駕しているのである。それを防ぐための方法が、私を分裂させることなのである。真実を告げない私を続けてしまえば、本当の私がなくなってしまうことだろう。そこで本当の私を取り戻す必要がある。そのための時間が、瞑想すること、読書すること、一人静かに過ごすことである。人生の静と動、この二つの間を行き来する私がいる。

2019年4月10日 (水)

名称

写真家の悩みはたったひとつだという、人から、「この写真に写っている桜はどこの桜ですか?」と聞かれることだという。写真家はあくまでも写真の構図・色調・背景とのバランスなどを見る人に楽しんでほしのだが、見る側は場所にしか興味がないという。これこそ撮影する側と見る側の意見の相違を表していないだろうか。見る側は、自分が行ったことのある場所であれば、それだけで安堵し、美しいとさえ思ってしまう。多くの人は、写真家の作品を見ているのではなく、自分の経験した世界を見ているのである。私たちは人の目で見ていると同時に、自らの目の、両方で見ているのである。本当の私の目はどちらなのであろうか。

2019年4月 9日 (火)

幽玄

日本古来の能の世界を一言で表現すれば、幽玄と評される。幽玄とは、現実とあの世の世界との境目を言う。能舞台の上で舞っているのは、小野小町なのか、それとも舞っている能楽師なのかが分からなくなる状態をいう。その境目を見ることができる場所は、能面の縁から見える能楽師の顔の一部である。それを見た観客が、「中は生身の人なんだ」と、ちょっとホッとするのである。本当に怖いのは、頭全体をおおってしまう伝統芸のいくつかである。私たちも完璧に怖いだけの人にはただ恐怖を覚えるが、怖い中にもどことなくユーモアのある人柄に触れてホッとするのである。厳しさとユーモアと、その両方を兼ね備えた人を人と呼ぶのである。

 

 

2019年4月 8日 (月)

スムース

電車の車掌の動きには無駄がない。電車が駅に停車する、停止位置を確認し、ドアを開けベルを鳴らして乗降客が安定するまでじっと前方を凝視する。客の安全は守られている。それに比べて私たちの生活はいかに無駄な動きに満ちていることか思い知らされる。服はどれにするか、合わせるネクタイは、靴下は・・。会社に着けば探し物で一日が始まる。もっとスムースに行かないものか。そうなったらそれで退屈なことに違いない。

 

 

 

 

2019年4月 7日 (日)

置き場所

国宝級の壺なども、美術館などに置かれていれば風格があるが、庭の片隅に放って置かれればただ壺に見えてしまうだろう。人間も置かれた場所によって見え方が変わるはずである。人はそれぞれが居心地の良い場所を見出そうとやっきになっている。会社が居心地が悪ければ転職するだろうし、学校、クラブ、サークル…何度でも置き場所を変えればいいのである。ところが、子どもは居場所を変えられない。居心地のよい場所に置かれればよいが、家の片隅に置かないように細心の注意で扱わなければならない。家の宝だからである。

2019年4月 6日 (土)

選択能力

最近の電車の車内の掲示物には数ヵ国の言葉で埋められている。私たちはそれらのすべての文字を読んでいる訳ではない。瞬時にしてそのなかから必要な言葉だけに目がいくようになっている。少し似た文字があってもスルーして日本語だけ読んでいる。もしすべての文字を考えながら選んでいたら脳が疲れてしまうだろう。その機能を選択能力というのである。

2019年4月 5日 (金)

変化

人は常に変化を求めている。少し落ち着いた生活をと望んでいる人は、日々忙しく働いているのであろう。四国八十八箇所巡りのなかで、いちばん辛いコースは海岸線に沿っての道のりだと言われている。反対に、山道や平地が目まぐるしく入れ替わる道の方が楽だと言われている。四国には行かなくても、通勤の道を変えたり普段入ることのない店に入るだけでも発見があるかも知れない。

2019年4月 4日 (木)

身体

ドイツ製の機械と言えば、頑丈なイメージを抱く。スイス製の時計と聞けば、緻密で正確なイメージで見てしまう。機械を単に「機械」、時計を「時計」と単純には見ていない。コンビニ弁当のパッケージの上には「新潟県産」の文字があったし、今朝飲んだコーヒーはキリマンジャロだったなどと思いながら食べ物を口に運んでいる。今食べているのは食物なのかどうかといえば、文字を食べているとも言えそうである。

2019年4月 3日 (水)

芽吹き

野や山の草木が一斉に芽吹き始めた。気温だけではなく、秋から冬にかけて古い葉を落とすメカニズム、土の中の微生物の働き・・芽吹きとは自然の織り成す一大芸術といってもよい。人も自然の一部だから、心もいろいろな働きによって芽吹きや落葉のタイミングを無意識にはかっている。その働きとは言葉の力である。プラスの言葉、マイナスの言葉の両方を使い分けることの一点に我々の人生はかかっていると言えるのではないか。

2019年4月 2日 (火)

変換

店員から、「お一人さまですか?」と聞かれて、「はい、お一人さまで」と答えてしまうことがある。恥ずかしい気持ちはとうに消え失せていて、「お・さま」を取り去って答えることの難しさを改めて感じる。大人たちの「⚪⚪ちゃんは何歳?」の問いかけに、「ぼくは・・歳」と人称を変換して答えることはたいへんな進歩なのである。大人たちの感動も、「俺は・・」という語彙の増加とともに薄らいでいくのではないだろうか。

2019年4月 1日 (月)

経験

人一人の経験はたかが知れている。それに比べて人から聞く話の何と興味深いことか。聞くだけで世界中どこにでもいける、甲子園球場でホームランだって打てる。オリンピックの観戦も聞くことができる。その語り口は書物で知るより生き生きとしており新鮮である。語る側は誰かに話したい内容に満ちているから迫力満点である。こちらは空調の効いた部屋でコーヒーを啜りながら南極だって意のままである。語り、聞き、そのあとには静寂の時間が訪れるのである。茶の湯における一期一会の世界がそこに現出する。

« 2019年3月 | トップページ | 2019年5月 »

2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
フォト
無料ブログはココログ