成長
成長の原動力は悩みである。今のままではいけない、何とか現状打破しなくてはという悩みが人間を成長へと押し出す。どうすれば前に進めることができるかの答えは無意識のなかに存在するのだが、わからないままである。それが本当の悩みかもしれない。
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成長の原動力は悩みである。今のままではいけない、何とか現状打破しなくてはという悩みが人間を成長へと押し出す。どうすれば前に進めることができるかの答えは無意識のなかに存在するのだが、わからないままである。それが本当の悩みかもしれない。
誰もが欲しいと願っているものが愛であろう。自分には必要はないよ、と言う人の無意識にもあるのが、愛されたいという欲望ではないか。子どもたちのそれは渇望といっても過言ではない。それは、カッコいい?という問いかけにとどまらず、悪さをする、といったかたちでもその欲望を表現する。それに応える母の愛こそが無償の愛と呼ばれるものである。
通いなれている道を間違えるのは、何故なのだろうか。それは通いなれたのではなく、変わった風景を見たくなったためである。そこに意外な発見があるだけでちょっとした感動があるからだ。そうした積み重ねがいずれ大きな感動へと我々を導くことになるのである。
大人は時間で生きている。子どもは自分で生きている。大人は時計を見るのが当たり前だが、子どもはそんなことはお構い無しだ。そんな夢のような生活に別れを告げ、大人の時間にどこまで合わせるかを考えるようになるのが大人になるということである。そんなつかの間の夢を大人になってから見たくなるのも自然の摂理かもしれない。
人はいつでも誰かと対話している。子どもたちも対話している。相手がいないときは頭の中の誰かと対話している。子どもがテストで満点をとったとき、すごいねと言ってくれる誰かが彼の頭の中にいる。たとえ満足のいく点数でなくても、よくやったねと言ってくれる誰かがいれば、彼はいつでもその対話相手のもとに帰ってくるだろう。
話がいつの間にか元に戻ってしまうことを堂々めぐりという。遊びに行くか行かないか、食べるか食べないか…どうして人は堂々めぐりをするのか。そんな選択の悩みに一石を投じてくれるのが友達である。「遊ぼう!」とか「食べよう!」と言ってくれる友達がいるかどうかで人生は悩まずに済むのである。友達とはもう一人の自分自身なのかもしれない。
遊び戯れる子供たちに時間は存在しない。それが無時間性である。それがないように思われるのは、彼らには変化があるからである。同じ遊びでも、ルールを変え、形式を変え、役割を変えて遊んでいるからである。それに比べて大人の遊びには変化がない。すぐに飽きてしまうのは、自由、すなわち常識にとらわれているからである。常識を外したとき、大人でも時間を忘れて遊びに興じることができるはずである。常識を外すことを童心に帰るというのである。
体調とは不思議なものである。何もしていないのに体調がすぐれないときもあり、忙しくて睡眠不足気味なはずなのに体調は絶好調ということもある。自分で自分の体調を決められないもどかしさこそ、自分の体を支配しているもう一人の自分がいると考えられる。その相手と会話ができたらきっと体調不良などなくなるかもしれないのだ。
ものごとの道理が分かるとスッキリする。リンゴが落ちて月が落ちないのはなぜか・・その探求心が科学の進歩を推し進めてきた。人間も自然の一部であるならば、原因と結果は一致するはずである。こう育てればこう子供は育つ成、と科学的に解明されたら子育てもうまくいくはずなのだがそうはいかない。無意識が子供を育てているからである。知りたくもあり知りたくもない、それが無意識なのである。
私という存在は、その都度その場に登場する私でしかない。その場の数だけ私は変幻自在に姿を変える。それは家庭で実感できる。子どもに向かって親らしいことを言っている場に、自分の親が現れた瞬間、私は子になる。一人二役を演じることになる。親になるとはたいへんなことなのである。
教室の窓からは山並が見える。冬枯れだった木々のみどりが色濃くなっていくさまは、「装いを変える」という表現がピッタリである。自分も自然の一部であると実感させられる。一方この我々は自然にとって不都合なゴミ捨てをやめることはない。昔のように籐で編んだ買い物籠に戻る必要があるだろう。同時に精神はますます成長しなければならない。昔のよさと前進と二つの目標が我々に課せられている。
語彙の豊さが心の広さである。色でも緑と青の間に様々な色調があるように、言葉にも様々な表現がある。優しい・思いやりがある・人を寛がせる・・言葉の豊さが会話場面で問われることになる。言葉を豊かにすることが必要だ。映画の翻訳者はたった一言の翻訳に心血を注ぐという。ちょっとした一言で相手を安心させたり、悲しませるのも言葉の力である。映画やドラマを観ていても、本を読んでもそれはかなえられるはずである。
ままならないものは鴨川の水と比叡山の僧と言った天才がいるが、これ以上にままならないものは自分の体である。会社に行きたいと思っていても腰が痛くて起き上がれない、その場所に向かっているのに道を間違える、眠りたいのに眠れない・・・気持ちがあるのに実行できないことばかり。私は私の体の主人ではないのである。心身を一致させるにはどうすればよいのか。
現実とは、例えるならば心臓のことである。からだのなかに心臓があることは誰でも知ってはいても見ることはない。見たいか、と問われれば誰でもが見たいとは思わないだろう。現実とはすぐ近くにありながら触れることのできないものなのである。
生きがいとはその人だけの価値観のことである。生きがいには良いも悪いの区別はない。程度の差があるだけである。人から何と言われても私は私の生きがいが揺らぐことはない。とは言え、何が面白いの?の一言の前で人は揺らぎがちだ。そこで人からよい趣味ですね、素晴らしいお仕事ですねと言われるモノを生きがいとしているのかもしれない。
私たちは、人から言われた言葉の意味を考えてしまう。「あなたは⚪⚪だ」の言葉が言われる側の心を傷つけるのは言葉の意味を考えてしまうからだ。言葉を意味としてとらえず単なる音としてしまえばよいのである。それは海外に行ったときに実感てきるだろう。何を言われても感じなくなっているからである。傷つかず感じず動じることのない堂々とした私がそこにはいる。
木々の青葉を見上げると、葉の一枚一枚が太陽の光に対して重ならないように葉を広げている。互いに邪魔しないように配慮しているかのようである。それに比べて人間は互いに覇権を争い、敷地の境界線でもめている。それを上から見下ろしながら、葉はただ優しいみどりを広げるだけである。
カメラのレンズはかなり使い勝手が悪い。ホタルを写すことは素人には困難で、高い建物を写せば傾いてしまう、手ぶれはする、水に落とせば厄介だ。それに比べて人間の目は全天候型の優れものである。少しの雨など平気だし、暗がりでもモノや人を認識できる。それにも関わらず人はしばしば相手を見誤まる。全天候型がわざわいしているからかもしれない。
「眼鏡にかなう」という言葉がある。広辞苑には、「目上の人に認められ気に入られること。教授の眼鏡にかなう、など」とある。相手だけの度に合ったということである。裏を返せば、相手の眼鏡にかなわなくても他の人の眼鏡にはかなうということである。その範囲が広いことを度量が広いというのである。
ぼやくことで有名な野球監督がいるように、人がぼやくことをやめることはない。仕事がうまくいかない、給料がアップしない、子供が言うことをきかない・・そんなぼやきを聞かされると、周囲の人はつい答えてしまいがちである。こうしてはどう、もっと働け、などと答えたくなるのが自然ではないだろうか。ぼやき始めた人にこちらから答えた瞬間からバトルが始まるのが定石である。どうすればよいのだろうか。
私たち善人のふりをしていないだろうか。「遊」、「楽」の文字に「悪」のレッテルを張りつけて澄ましこんでいる自分がいる。その悪人感情を誰かになすりつけていないともかぎらない。
私たちの一生は失敗の連続ではないか。成功者と呼ばれる人でさえ、失敗を語ることはない。なぜなら失敗したことは無意識になっているので意識の上に現れてくることはないからである。大小さまざまな失敗を気に留めていたら大変なので、日々流しているにすぎない。だから、どんな失敗でもいちいち気に病む必要はないのである。頭にかけたままメガネを探してうろたえた、という程度に受け止めればよいのである。
天気は日々刻刻変化してやむことはない。同じように、人の気分にも波がある。機嫌がよいと感じても長くは続かない。本人は平静を装っているつもりでも、その機嫌は急上昇・急降下を繰り返している。反対にいつも笑っている人がいたとしたら、それはそれでちょっと怖いことかもしれない。人の気分には波がある、それが自然だと考えること、それが平常心なのである。
植物に人間が声をかけると、成長が早いといわれる。人間も言葉によって生きているのではないだろうか。食べて寝るだけでは生命維持しているにすぎないからだ。活き活きとした人生を送るためには、他者による言葉がけが必要である。プラスの言葉が愛の言葉であり、マイナスの言葉は悪い言葉である。それらの言葉は、われわれが言葉を覚え始めたときから延々と繰り返しわれわれの脳裏に刻み付けられてきたものである。刻み付けられた言葉が再びわれわれの口を介して出されていると思うと、ちょっと恐ろしい気がする。ときには書き換えることも必要であろう。
「類は友を呼ぶ」の言葉通り、同じ志を持った者同士が集まるものである。それは価値観が同じだからである。お酒好き、ゴルフ仲間…そんな仲間の会話はいつも弾んでいる。気楽そのものである。こんなとき、苦言を呈する人は仲間から疎遠にされ、嫌われるだろう。その両方の友がいたら精神のバランスがとれるはずである。どのくらいのバランスが適切であろうか。
男性が夏服を着用するようになるころ、街でよく見かけるのが、背広の後ろの仕付け糸が切られてないことがある。それを指摘してあげるにはかなりの勇気が必要だ。それができないのは、自分が指摘されることを恐れているからかもしれない。いつか誰かが気づいて伝えるに違いないという人任せ心理も無意識に存在しているからかもしれない。もし指摘されても恥じることはない。ありがとうというだけでいいのである。
本当の自分について人はいつも知りたいと思っている。しかし、私たちはそれを知ることができないのだ。もし自分自身についての知が得られたとしたら、毎日が苦しくなるに違いない。そこで、他人にその役割を託す人もいる。自分がどんな人間なのかを包み隠さず言ってほしい、と人から告げられて、相手は正直に伝えたところ、その人から絶交された、という話を聞いたことがある。われわれは本当の自分を包み隠しておいてほしいと思ってもいるし、包みの上側の包装紙の部分だけを言ってほしいとも思っている。そうした努力をどれほど続けていても、いつかその事実に直面させられる日が来るものである。それはいつか。
見た目で人を判断してしまうのが人間の心理であろう。反対に、見た目通りだったということもある。正確に人を判断するためには、一言二言会話をすることである。その言葉のなかにその人の人生が凝縮されているからだ。そのためには、正しい会話を身につける必要がある。そのときに養われた会話と参照しながら相手を理解することができるからである。私たちはどれだけ正しい会話を身につけてきたことだろうか。
人が他の人のことを語るとき、人は相手に何を伝えようとしているのだろうか。Aさんは仕事で成功した、とか、Bさんは勲章をもらった、などというとき、その人は自分の願望を語っているのだろうか、あるいは嫉妬心を語っているのだろうか。なぜ、多くの友人、知人の中からある特定の人物だけを選択し、しかもその人のいろいろな性格や能力・功績の中から、その一事だけを選んで語ったのだろうか。それが分かれば、語り手の中に隠されたものが実現する糸口になるかもしれないのだが。
「水は方円の器に従う」といわれるように、器は水を一ミリの隙間もなく受け入れる。別の器に移し変えればその器に従って平然としている。その表面は安定し、何事もなかったかのようである。それと同じように、人の話をそのまま聞いてくれたら、どれだけ癒されることだろう。それでいて聞き手は泰然自若としていたら、の話である。器は水の直径より大きいにもかかわらず器はそのことを誇らない。器が大きいとはこのことをいうのだろう。相手の話についていけるとは、器が大きいと言い換えることができるだろう。