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2019年9月の30件の記事

2019年9月30日 (月)

交換

対話するとは、互いの考えを交換することである・・・と言えば簡単に思えるが、それが意外に難しい。その理由は聞く側が、自分とは違う、と感じてしまうからである。相手は「寿司が好き」と言っているだけなのに、聞く側が「自分は寿司が嫌い」と自分と比較してしまうので、聞き入れられなくなるのである。「相手は寿司が好きなんだ」とだけ受け取ること、それが意見の交換である。

2019年9月29日 (日)

食事

食事のときに必要なことは、楽しい会話である。お説教は禁物だ。つまらぬ話で盛り上がり、笑いあうことが大切である。可能な限り家族の全員が顔を合わせられれば一番である。一緒に食事しようと声をかけることは、相手の存在を認めてあげることでもある。それが一家団欒である。

2019年9月28日 (土)

信頼

人には人を信頼したいという気持ちがある。言われたままに振り込んでしまうのはそんな心理を利用している。それは、かつて、「本当に僕のために自転車を買ってくれるの?」と聞いたときに、信用していないのか、と叱られた体験が、確認することを抑圧しているのである。聞き返すとは、確認だと心得ること、それが信頼である。

2019年9月27日 (金)

機嫌

いつも機嫌がよいという人はいないのではないか。いつも笑っている人というのも少し考えものだ。「今機嫌悪くない?」などと聞いてくる人の心理はいったいなんだろうか。いつも相手の顔色ばかり気にしていたら、頼むことも話しかけることも難しくなるに違いない。どうすれば、人の顔色を気にすることなく暮らせるのだろうか。

2019年9月26日 (木)

照明

照明の当て方で、その姿は千変万化する。懐中電灯に照らされた顔の不気味さだけではなく、テーブルの上に揺らめくキャンドルグラスに心安らぐこともある。人の姿だけではなく、人の心も見方を変えれば欠点と思われることも長所に変わることもある。見方を変えれば、相手のこちらを見る見方も変わるのである。

2019年9月25日 (水)

挨拶

私たちが誰かに「おはようございます」と挨拶するのは、そのあと相手から期待する答えが返ってくることを想定しているからである。「ただ今」とドアを開けたとき、「お帰り」の言葉の代わりに、「何時だとおもっているの」、とか「誰と遊んできたの」などという答えが返ってきたら、もう二度と挨拶をしなくなるだろう。そう考えると、私たちの会話も、あらかじめ欲しい答えを求めて発言しているのかもしれない。

2019年9月24日 (火)

受け身

自然災害は大きな爪痕を残していくが、自然はそのことに気づくことはない。当たり前のように思っていることが、私達の身近で起きている。それは、自分を傷つけるような言葉を他人から言われることである。言う側が傷つかなくても、言われた方の心はズタズタということである。そのことを本人に訴えても、「そんなことを言った覚えはない」とか、「そのくらいのことで?」などと言われるのがオチだ。その一言が私を傷つけるのである。傷つける方が気づかず、言われた方が傷つく、それを不条理というのである。

2019年9月23日 (月)

二人関係

二人の人がいると、自動的に調整してどちらか一方の人が受け身、あるいは指導的立場になることは知られている。どちらも受け身であれば物事が進まず、両者が積極的だと意見がぶつかり合うからである。一方がキレイ好きだと片方は散らかし屋、一人が計算上手の場合、片方がニガテ…といった具合に無意識的に調整しあっている。偉大な人物の陰でその能力を発揮できない子供たちや、その反対に大きな発展を遂げる子供たちもそうした調整をさせられている可能性は大である。人間とはその環境の中で適応しようと必死に頑張っている生き物なのである。

 

2019年9月22日 (日)

弁護

人から「誰々さんに叱られてショックだ」などと言われたとき、聞き手が「相手にも訳があるはず」、などと無意識的に言っていないだろうか。それは、聞いているうちに、聞き手が非難されているように感じて、あわてて弁護する側に回っているからである。語っている方は聞き手を非難しているわけではないが、同じようなことは日々起きている。教師の悪口を母親に向かって言う子供の表情がそれだ。教師への非難があたかも母親に向けられたように感じたりしないだろうか。赤ちゃんが泣いているのを、母親の養育への不満を告げているように感じたりするのがそれである。100パーセント語り手の側に立つことができたら、相手はどれほど癒されるか計り知れない。

2019年9月21日 (土)

聞き役

テレビドラマを見ていて、主人公よりも、聞き役の演技ばかりが気になりだしたとしたら、それはカウンセラーの目線をもったということである。聞き手のうなずき方、目線の合わせ方、間の置き方…それらは語るよりも難しいかもしれない。語る側は語る内容をあらかじめ知っているが、聞き手は唐突に出された話題に瞬時についていかなければならないからである。聞き役の合わせ方が適切でなければ、語り手は敏感に気づくに違いない。語り手より困難だが、やりがいのある役目、それが聞き役なのかもしれない。

2019年9月20日 (金)

個性

個性とは伸ばすものではなく、勝手に伸びていくものである。その勢いを邪魔しないこと、それが伸ばすということである。多くの場合、才能や体力的な成績で否定してしまい勝ちである。彼らの言葉を否定することが邪魔するということである。どんなに野球に夢中になっても、すべての野球少年がプロのなれることはなく、いつか自分でこれは自分には合わないと感じる日が来るからである。その時まで温かい目で見守ることこそ個性を伸ばす原動力ではないだろうか。

2019年9月19日 (木)

誤解

人はしばしば人の話を誤解して聞いている。相手が自分が飼っている猫の話をしたとき、聞き手は昔飼っていた猫のことを思い出しているかもしれない。ライオンもネコ科だったな、などと動物園で耳にした話を思い出しているかもしれない。そこに好き嫌いの感情が加わり、相手の猫のことが置き去りにされてしまう可能性もあるだろう。そう考えると、誤解されて当然なのかもしれない。

2019年9月18日 (水)

地動説

陽が落ちて行きますね、と隣の人に言えば、そうですねと答えてくれるだろう。しかし、陽が西に落ちていくように見えるのは、地球が太陽の周りを回っているからで…などとつぶやく人がいたら、その人は変わった人と言われるだろう。ところがどちらも正解なのである。間違いかどうかという問題ではなく、実生活と科学は別のものなのである。私たちの視点はどちらの見方でモノを見るかの一点にかかっているのである。常識という枠で物事を見るのではなく、常識の枠から出た視点から見ることも必要ではないだろうか。

2019年9月17日 (火)

事実

事実には二つある。一つは事実、もう一つは心的事実である。後者は、言うならばその人だけの事実であり、その時だけの事実である。普段私たちが語っていることがそれである。心臓が止まるかと思った、とか、後ろから頭を殴られたようだなどと言うのがそれである。それは誇張され、別のものに置き換えられているものである。事実はいったいどこにあるのだろうか。

2019年9月16日 (月)

聞く

人の話を聞ける、聞くのが好き、話が面白く聞けるという人は、周囲の人たちが本人に向かって肯定的な言葉を投げかけたからだろう。それだけではなく、本人の言った言葉を聞き入れて「君の言いたいことはこういうことだね」と趣旨をまとめてくれた経験があったからだろう。本人が受け取りやすい言葉をかけ、的外れな話も100パーセント受け入れてくれたからに違いない。言葉のキャッチボールとはそうしたやり取りを言うのではないだろうか。

2019年9月15日 (日)

触る

われわれはモノを買うとき、必ず触ってから買っている。スーパーなどでは触りっぱなしである。手の上で重さをはかり、撫でたりさすったりして神経をジャガイモに集中している。なぜ人はモノに触るのか。それは母に近づいていったときに母に手を差し伸べたからだろう。そのとき母がその手を握り返してくれた経験があったからに違いない。出せば返してくれた手のぬくもりを無意識的に求める心の表れなのではないだろうか。

2019年9月14日 (土)

言葉

人から「口調がおとうさんそっくり」などと言われて驚いた人もいるのではないか。われわれは知らず知らずのうちに父や母のマネをしているのである。あたかも日本語は両親のマネで覚えてきたように。家庭でそんな心地よい言葉のやり取りがあれば、人は人と話すことが好きになるだろう。どんなことを言っても肯定され、面白いねと言ってくれて、言ったことが実現してくれたら、自分の言葉に自信を持つことができるはずである。そんな世界は社会にはないだろう。それが家庭にしかないことを子供たちは知っていて、自己主張を続けているのかもしれない。

2019年9月13日 (金)

われわれが耳にする音はいったい誰の声なのだろうか。それは母の声である。この世に誕生して最初に耳にした音が母の声だからである。その声が優しく、温かく、肯定的な調子であれば、われわれは人の声を「快」として受け取ることになるだろう。人のアドバイスや説明などもわれわれの耳にすんなりと入ってくることになるはずである。風の音、虫の声、子守歌などに郷愁を抱くのも、きっとその奥に母の声を探しているのかもしれない。

2019年9月12日 (木)

匂い

人間が最初に発達する器官は嗅覚と言われている。それは言わずと知れた母の匂いがデータベースとなっている。それが基本となって、いい匂いとそうでないものとを区別する機能を育てることになる。長じてからは、匂いと記憶がセットになってわれわれの頭にインプットされる。空き地に七輪を出してもうもうと煙を上げながら母が焼いてくれたサンマの味と母の顔が同時に思い出されるのである。それは無意識になっているので、サンマという名称に接するだけで「何かいい感じ」として思い出されることになる。すべてのものに好感を感じることができれば、幸せな一生を送ることになるのだろうか。

2019年9月11日 (水)

見るもの

街で見かけたもの、それは自分自身である。時計のショーウィンドウを見かければ、時計を欲しいと思っている自分を発見したということである。ファッション・車・映画の一シーン…そこに自分自身がいるのである。裏を返せば、関心のないものに目が行くことはない。誰かと一緒に過ごしても、相手の関心ごとと自分のそれとが一致することはない。私たちの目は自分にしか興味がないのだろうか。

2019年9月10日 (火)

悔い

私たちの毎日は悔いの連続ではないだろうか。食べすぎれば食べすぎたことを悔い、食べなければもう一品食べておけばよかったと悔い、人に一言言っておけばよかったなどと悔い、言わなければよかったなぁとも悔いている。もし悔いることがなかったらどうだろう。自分は完璧だ、自分の言った通りにすれば間違いがない…そうした考えは自己中心的であろう。悔いることからまた新たな方法を編み出すともいえよう。悔いること、迷うことを悟りというのだそうである。そう考えると、悔いてばかりの人は悟りを開いているともいえるのではないだろうか。

2019年9月 9日 (月)

満たされているもの

われわれの中にも、身近にもいっぱいあるのに気が付かない。自分の身体のすみずみ、あるいは空気や水その他のようなものとはいったいなんであろうか。それがなければわれわれの心も身体もカサカサ、ギスギスしたものになるものである。それは外部から与えられねばならない。あたかも貯水池に水を注ぎこむように注入しなければ決して満たされることがないもの、それが愛である。どうすれば人に愛を与えることができるのだろうか。

2019年9月 8日 (日)

支え

重い脚立に代わって軽いものを購入した。室内で運ぶのに持ちやすく、私の体を支えるにも十分であった。ところが高さ70センチの上部に乗った途端、きしみ音がするし、ステップの幅が狭いので不安定である。かつての重高長大な脚立に比べて安心感は半分以下だ。人はその機能だけでなく、身を任せられる大きさも必要だと感じた。子ども時代、われわれはふっくらとした母の手や、大きな父の手に触れているだけで何かを感じていたのだろう。人間が感じる「安心感」の源は両親の手だったのである。

2019年9月 7日 (土)

悩み

人の悩みは、するかしないかの間での悩みである。洋服を買う・買わないの間で揺れ動いているのが悩みである。買おうとしている私の頭の中で、もう一人の私が「買わない方がいいよ」と言っているのである。どちらか一方を切ることを決断という。それで悩みは解消したかにみえるが、店をあとにした直後、もう一人の私が言う「返品するなら今だぞ」。そこでもどちらかを切ることになる。人間が生きているとは決断の連続といえるのではないだろうか。

2019年9月 6日 (金)

場所

街でふと見かけた人が誰だったかな?と思うことがある。顔は覚えているのにどこの人かが分からないのだ。後になって、その人が歯科医院のスタッフだったり、コンビニの店員だったりと気づくことがある。すぐに思い出せない訳は、われわれが人を認識するときに、場所と本人とをセットにして記憶しているからである。われわれは本人を見ているのではなく、役割・環境とともに見ているのである。それにもかかわらず、その人がどこの誰かが分かる場合、相手は私にとってどんな存在なのだろうか。

2019年9月 5日 (木)

差異

色調には微妙な差異がある。同じ赤でも、ちょっとした違いがあって、それが女性たちを悩ましている。リップクリームの色の豊富さは目を見張るばかりである。男性にとってはリップクリームの微妙さは理解できないかわりに、競馬ファンにとっては、競走馬の調子、血統、得意なコースなどの微妙な差異は理解できるのかもしれない。当たるか当たらないか、それが問題ではあるが。差異を感じるジャンルは人それぞれである。自分はどんな差異を感じているのだろうか。

2019年9月 4日 (水)

見いだす

駅前はいつも人でにぎわっている。その雑踏のなかから、待ち合わせの人だけを見出す能力が認識である。一人一人の顔をチェックしているわけではないのに、である。その認識機能の源は母である。赤ちゃんは母にしか関心がない。呼べばいつでも目の前に現われるアラジンと魔法のランプのような母による対応が、われわれに認識という機能を教えているのかもしれない。

2019年9月 3日 (火)

目にする

今自分が欲しいものは、目に飛び込んできたものである。裏を返せば、欲しくないものは目には入らない。秋冬物の服がないときはデパートの売り場の「秋冬物」の服だけが目に飛び込んでくるし、家にお米がなくなってくると、米屋の看板だけが目立つように感じられるのである。人間はすべてのものを見ているようで、すべてを見ているわけではない。今自分が興味のあるものはいったい何だろうか。

2019年9月 2日 (月)

消え去る

あんなに欲しかったものも、いったん手にしてしまった瞬間にその欲望は消え去ってしまう。欲望を生かしておくためには、与えてしまうことはよい方法とは言えない。子どもがあれほど欲しがっていたおもちゃも、買い与えれれば放ったらかし状態である。われわれはこのようにしてコマーシャリズムの渦に巻き込まれている。そこから脱出する方法は何か。

2019年9月 1日 (日)

受け入れる

人は何かを信じながら生きている。その根元になるものは何だろうか。それは自分自身である。自分を信じることから始めることである。自分の何を信じればいいのか。それは自分の言葉である。自分はできる、という言葉だけではなく、今日は何もしたくない、という言葉も受け入れることである。人間はすべてのことができるわけではない。誰もが100メーターを10秒で走れないように、人間にはできることとできないこととがある。そのどちらも受け入れてしまえばよいのである。

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