見つける
カレンダーをめくるたびに壁止めのピンを落とす。床の景色に同化してしまって見つからない。さんざん探し回った結果の感動は、さほどでもない。「なんだ、こんなところに」くらい。私たちが見つけたいものは自分自身なのだが、それがなかなか見つからない。無意識が蓋をしているためである。それが見つかったとき、「なんだ、これが私…」といったものであるかもしれない。知りたくもあり、知りたくもない…やはり知りたい!私とはいったい何者なのか。
« 2019年9月 | トップページ | 2019年11月 »
カレンダーをめくるたびに壁止めのピンを落とす。床の景色に同化してしまって見つからない。さんざん探し回った結果の感動は、さほどでもない。「なんだ、こんなところに」くらい。私たちが見つけたいものは自分自身なのだが、それがなかなか見つからない。無意識が蓋をしているためである。それが見つかったとき、「なんだ、これが私…」といったものであるかもしれない。知りたくもあり、知りたくもない…やはり知りたい!私とはいったい何者なのか。
照明があるおかげで、単なるモノも貴重な美術品に見えたりする。土産店で並べられているワイングラスなどもキラキラしていて全部欲しくなるのも照明のせいだ。吟味に吟味を重ねて我が家に持ち帰ったグラスを見て、自分の鑑賞眼を疑ったりすることもある。人間もおかれた場所によって偉い人にも普通の人にも見えるものだ。どうしたらその人自身を見ることができるのだろうか。
私たちは自らの欲望を持たずに生まれてくる。誰かがこういう人間になれ、と言われてその言葉を裏切らないようにと考えながら成長する。ところが、その人間になることに疑問を抱く時がやってくる。自分は人形だったのだ、と気づく瞬間である。他者が私に欲望を書き込んだのだ。しかしそのおかげで、初めて自分の欲望に気づくのである。そのとき、両者との間で軋轢が生じる。それをどのように克服するかが青年期に課された課題である。
人間の欲望はとどまるところを知らない。今日買った靴は明日になれば「すでに手に入れた」ものとなり、友達が手にした新製品と比べてどことなく陳腐なものに見えてしまう。そこでまた買う、の連続から逃れるすべはないものか。ところが、この気持ちが人間の向上心にもつながっているのである。向上心と欲望のはざまで、今日もデパートの中をさまよい歩いている。
人は誰でもが淋しがりやである。独りぼっちでも平気、という人はどこかで無理している。正直に淋しがりやだ、と言うには勇気がいるだろう。それほどまでに自分をそうではないと思い込みたいのが人間である。その淋しさをどのようにまぎらわすか、何をしていればそのことを思い出さずに済むだろうか。そのために人は莫大な出費も厭わないのかもしれない。
私たちはどうして人と較べてしまうのだろうか。あの人よりいいものを、その人とは違ったものを欲しい…その連続である。それは相手を基準にしているからである。自分で決めた基準があれば、相手のモノには関心がなくなるのである。自分が決めた基準とは、と考えてみると、それは親が決めたものであったりする。お前は誰よりもかけっこが上手だった…、計算が人より得意だったなどと言われてこなかっただろうか。そんな無意識に誘導されるように、今日もまた、誰よりも早く出社しようなどと考えていたりする。
店を出るとき、店員から、またお越しください、などと言われると、よほどのことがない限り嫌な気はしない。そのとき、ハイなどと返事しながら店員を振り返ると、当の店員はすでによその方を向いていたりする。しまった!と気づいたときにはもう遅い。そんな些細な言葉でも言われなければ愛想がないということになる。そんなことは昔から知っていると思いつつ、またお越しください、と言われながら店を出る私がいる。
同じ本を再度読み返してみると、こんなことが書いてあったのだ、と思うことがある。読んでいるのは著者の言葉ではなく、自分自身を見いだしているからである。アンダーラインを引く、余白に感想を書き込むということも自己を発見して思わずそうしてしまうからである。このブログを読んだ方々が、こちらが意図していない箇所に心をとめてくれれば、それもまた私の楽しみでもある。
どんな場合でも、最初に言い出すことは勇気がいるものだ。その理由は、他人がすぐに否定・批判してくるからだ。相手が複数だとなおさらだ。言う側は「勝手」、というのは言い出した人を否定することで、勝った気持ちになりたいという心理が働くためだ。言い出した側は、そのことを理解すればよい。そうすれば相手に負けたことにはならないからである。言い出す、という行為は実はすごいことなのである。
家電量販店の店員に、CDディスクにパソコンからプリントする方法を尋ねたところ、詳しく教えてくれるかと思いきや、取り扱い説明書を読めとのご託宣。さっそく事務所に帰り説明書を見ながらプリンターの下側を探ったところCD プリント用のトレーを発見し、パソコンを操作したところあっという間にプリントすることができた。自分で調べろ!という店員はなんと親切なことか。
私たちの目の能力がすごいのは、暗から明までどんな明るさにも対応できる点だ。どれほど優れたカメラも目の能力のすごさには及ばない。それに加えてどんな気象条件にも対応可能な全天候型でもあることだ。雨風だって少し我慢すれば平気である。さらに、車のワイパーより優れた液体が常時瞼を保護してもくれている。そんな優れた目も、ときに見誤ることがある。モノや人、能力、骨董・・・見誤らないためのメガネはないものだろうか。
物事にはコツというものがある。車の運転のコツを掴む、機械のコツを覚えるなど、練習・訓練に努めるのは、このコツを覚えるためである。ところが夢の分析となると、一筋縄ではいかないことばかりである。ある夢の分析の仕方が別の分析では役に立たない。それがまた妙味なのである。人間の心を扱う夢分析のコツを掴んでしまったら、分析の技術が止まってしまうだろう。それが難しさでもあり、感動でもあるのである。
私たちは常に安定を求めている。生活・仕事・家庭…何事においてその状態を希求してもいる。その一方でそこからの脱出も考えている。なにか変わったことはないか、という心理である。モノも知識もそれを得た瞬間に過去のものとなる。安定とはほんのつかの間の状態なのである。安定の後にすぐに不安定となる、それをクリアしようとして次を考える…その繰り返しの中で、私たちは常に前に向かって進まざるを得ないのである。
本を読むと知識が豊富になるとともに、語彙も豊かになる。語彙の豊かさが人間の豊かさと言ってもよい。静か、静寂、静謐…それぞれ心的世界の違いを表している。作家は一言一言に心を配りながら文章を紡いでいく。その差異を味わい分けることで人生も豊かになっていくのである。
今回の台風で多くの河川が決壊した。人間の不平不満もため続ければいつかあふれたり決壊したりする。それが感情爆発である。ある日突然切れたり、些細なことで怒り出したりするのがそれである。普段から否定的な感情は誰かに向かって放出しておくことで、それは避けられる。急に感情的になって家族に被害が出るようなことがあった場合は、すぐに避難することである。
人にはそれぞれ得意・不得意がある。計算が得意、料理、ゴルフ…それらはすべて周囲の人が苦手としていたことである。誰かが計算が不得意だったから相対的に計算が得意になったのである。それらは無意識になっているので、自分のオリジナルだと思っているだけである。子どもたちが得意なこと、それはゲームだ。親や先生が見向きもしないものが得意になったと考えられる。それに対して年長者はしばしば制限を加える。それは自分ができないことへの嫉妬なのかもしれない。
じっとしていると毎日がつまらない。動けば辛いことが起きてくる、それが人生なのだろう。人間の心に安心は永遠に訪れないのだろうか、などと考えるのも、両方の体験をした結果、どちらにも一理あることを知っているからである。じっとしているだけの人生を送る、と決めてしまったら葛藤はなくなるかもしれない。それは死を意味している。どちらか一方に決めかねている、ということは生きている証拠なのである。生きるって大変だ。
誰でも独り言を言っている。「ちょっと味見してみようかな?」、「そろそろ出かけようか」…。自分が自分に語りかけている。「私はもう一人の他者」という名言が思い出される…などと、やはり自らに語りかけている。それがなければ自分は何も行動することができないのである。それを口に出すときと、出さないときとがある。その違いはなんだろうか。
私たちの人生は選択の歴史と言い換えることもできる。あちらを選べばこちらが立たず、これを選択すればあれも良かったかもしれないと思う毎日である。だから人は反省するのだ。あの学校に行っていれば、あの人と出会わなければ…あれを買っておけば、これを買わなければ…そんな反省の連続毎日に終止符を打つにはどうすればよいのだろうか。
人が「昔のことは忘れた」というとき、実は「忘れたことにしているだけ」ということが多い。すべての記憶を思い出していたら、今を生きられないし、未来のことも考えられなくなるからである。忘れたことにしているだけの記憶は、ふとしたことで思い出してしまう。スポーツの試合をテレビで見ていて、ひいきのチームが負けたときに流す涙は、過去の記憶の再現であり、友達の失恋話に同情するのも自分のその経験を思いだしているのである。やはり忘れてはいないようである。忘れたことにしておくほうがよさそうである。
人間はいつの間にか、他の人や他のものとの差を考え、感じ、生きている。身長・体重が平均より多いとか少ないとか、学業成績が級友だけではなく、自分の過去の成績との差を見せつけられるたびに一喜一憂している。たった1点の差で気分が左右される世界から脱出したいと思って社会に出ても、そこはまた競争社会。せめてスポーツでも楽しもうと思ってもタイムを競っている自分に気づく。どこまで行っても自分で自分に追いかけられているようである。
言葉にはエネルギーがある。プラスのエネルギーは、顔色がよい、姿勢がよい、声に張りがあるといった形で現れるだけではなく、人に親切にするという形でも現れる。一方、マイナスのエネルギーは、些細なことで部下や配偶者、あるいは子供に当たったりするといった形で現れる。不平不満が言えずに、「別の放出口めがけて一気に放出されて」(フロイト)いるので、言われた相手は、なぜそんなことを言われるのかわからずじまいということになる。不平不満の放出口を見つけておく必要があるだろう。
悪い言葉を口にすると実現してしまうのではないかと私たちは思ってしまう。日本人は特にそう思い勝ちである。キリスト教式の結婚式のときの神父さんは、めでたい言葉とともに、反対の言葉も言う。「汝、富めるときも、貧しきときも…、健やかなときも病めるときも妻(夫)を愛するか」と問いかけるので、新郎新婦はそれに答えて「ハイ」と言っている。神前結婚式では反対の言葉は使わず、めでたい言葉の連続である。悪い言葉を言ったりすると「縁起でもない」と言われるからである。その一方で、プラス志向の言葉を言うと「楽天的だ」と言われてしまう。いったいどうすればいいのだろうか。
人からの頼みごとに、「ノー」と言える勇気はなかなか出ないものだ。日本人はとくに、相手に嫌われたくない心理がはたらくからだ。できないものはできない、という意思表示をすることは、幼少時の経験によるものだ。1・5歳から4歳の間の、いわゆる反抗期を両親がどのように受け止めてあげたかということが、その子の後年の、断る勇気に結びついている。そう考えると、我々の行動のすべては子供時代にその起源を有しているとも言えるのである。
人は人と競ってしまいがちである。人より1点でも点を取り、人より1秒でも速く走ることを求められてきた。それを自分の子供にも求めていないだろうか。競うことで科学技術やスポーツは向上してきたことも事実である。しかしそれによって得をすることができたのはほんの一握りの人たちだけである…と知りつつ、ラグビーワールドカップで熱狂している自分もいる。もし競争のない世界というものがあるとしたら、それはどこにあるのだろうか。
自分が好き、と言えるだろうか。なかなか言えないというのが真実ではないだろうか。自分が好きになれる起源は、他者から「あなたは素晴らしい」と言われた経験があることである。その言葉が自分の頭の中で反響し、否定されたり、傷つけられたりしても、その言葉で、これでいいのだと自分で思えるのである。他者の存在、それがすべてである。
人は、相手から何かを命令されたとき傷つくものだ。「言われる」、「させられる」、「受ける」…。すべて受身形の言葉である。無防備の自分が無理矢理に動かされている状態である。毎日がその連続ではないだろうか。やられっぱなしの自分に追い打ちをかけるようにかけられるのが否定の言葉である。受け身の自分から能動的な自分への転換が必要なのではないだろうか。
記憶力の低下は、よいことも悪いことも忘れ去ることができるという長所もある。いつまでもくよくよしたり、恨みや憎しみからも解放されるからである。人から、どんなことでも覚えています、と言われたときに感じるある種の恐怖心はこんなところに潜んでいるのではないだろうか。忘れっぽくて、と言われて安心している自分も忘れっぽくなっているのかもしれない。
精神を集中するとは、いったいどういうことだろうか。文字通り、気持ちを真ん中に集めることである。人が本を読んでいるとき、周りであれこれと言われると、本人は読書に集中できなくなるだろう。将来、本を読む気持ちになった時、周りからあれこれ言われた経験がいつの間にか読書に集中できなくなるきっかけになるかもしれない。本人が何かに集中しているときは、そのことだけに集中させてあげることだ。そのために必要なものが個室なのである。
私たちはいつも揺れ続けている。消費税増税前に買うか買わないか、もう一つ買い物かごに入れるか入れないか…なぜ人は揺れるのだろうか。片方を立てれば一方が立たず、そちらにすれば財布の中身に影響する…追加して買えば冷蔵庫がいっぱいになる…という風に、どちらも満足させることはできないからである。揺れないためには、どちらか一方に決めて後ろを振り向かないことである。
言葉には力がある。モノのように目に見えるわけではないが力があることだけは確かである。人から言われた一言で、力が湧いてきた、とか、ホッとしたというのがその証明である。半面、自分はダメだ、というのも力である。そのマイナスの力は誰かに語ることで癒される。あたかも不快なモノがあって、それを相手に渡してしまったかのようにスッキリするのである。語ることで癒されるとはこのことを言うのである。