人の目
私たちが共同生活をしている限り、人の目を気にせずにはいられない。人からどう思われているだろうか、迷惑をかけていないだろうか、嫌われるのではないか…などと。一方の隣人はそんなことはつゆにも思ってはいないのだ。音楽の音が隣家に迷惑をかけているのかと思って挨拶に行ったところ、こちらの方こそ騒々しいかもしれません、と言われた経験がある。ことほとさように、人はこちらのことには関心がないと心得れば、私たちの不安は杞憂にすぎないことを知るのである。
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私たちが共同生活をしている限り、人の目を気にせずにはいられない。人からどう思われているだろうか、迷惑をかけていないだろうか、嫌われるのではないか…などと。一方の隣人はそんなことはつゆにも思ってはいないのだ。音楽の音が隣家に迷惑をかけているのかと思って挨拶に行ったところ、こちらの方こそ騒々しいかもしれません、と言われた経験がある。ことほとさように、人はこちらのことには関心がないと心得れば、私たちの不安は杞憂にすぎないことを知るのである。
何事においても、自分で決められない人は、頭の中で誰かと相談しているのである。これを買おうかどうしようか…どう思う?と言った具合に聞いているのかもしれない。そうすると、その誰かは必ずこう言う。違う方の品物の方がいいよ!と。考えてみればわかることだが、どの品物を買ったとしてもそう大した差はないのだ。たとえ自分で決めたとしても、帰宅したとたんにもう一人が再びつぶやく。返品するなら今のうちだ!と。その繰り返しが自分を苦しめてしまうのである。相談はするが最終的には自分で決めること、それが決断である。
人が相手の話を聞くときに自分と較べながら聞いている。聞き手がそっくりそのまま聞いてくれることはなさそうである。お酒が嫌いです、とこちらが言うと相手は、人生の半分は損している、とか、日本人なのに日本酒が分からないとはざんねんですね、などと余計なコメントを加えてくる。分からないことが悪いとでもいうのだろうか。そのくせこちらの趣味には関心がない。それほどまでに人は自分のことにしか興味がないのだろうか。相手に興味を示すこと、それが関心である。
沈黙は金というように、沈黙を守っていると相手は勝手に考えてくれる。多弁だと、相手は考えることをやめて、否定する言葉を考えているかもしれない。多弁は何かを隠しており、それを勘ぐられることを恐れているかもしれない。沈黙の効果を沈黙して考えてみたいものである。
物事を後回しにすると、その時に何をしたかったのか忘れることがある。後になってからあれがない、これがないと慌てるのは、後回しにしたせいである。思い立ったときにやる、すぐにやる、適切にやる、それが原則である。後回しにしてよかったことは一つもないと心得ることが大切である。
道路わきや踏切のそばに住んでいる人にとって、車や電車の音は気にならない。引っ越して1週間も経てば平気に暮らせる。それが慣れである。人間にそうした機制が備わっているおかげである。家庭内でいつも大きな声が飛び交っている場合、子どもはそれに慣れてしまう可能性があり、かえって静寂が不安になることがある。そうした子供は将来、軽躁な音楽や車の中で大きな音を響かせることが好きになるかもしれない。ほどよい音、会話とはいったいどんなものなのだろうか。
子どもたちがおもちゃの取り合いをするのは、他の子どもがそれを手にしているからである。部屋の隅に打ち捨ててあるおもちゃも、他の子どもが興味津々と眺めながら手にした瞬間、そのものの価値が現れるのである。相手がそれを譲ろうとしなければそのものの価値は高まる一方である。そんな取り合いをわれわれ大人もしていないとは言えないかもしれない。
人はしばしば思い込みをしがちである。待ち合わせした友達が来ないとき、どうしたのかと想像してしまう。その結果、当の自分の方が早く来ていたりする。ただ事実のみを考えれば相手のせいにすることもなくなる。思い込みを排して物事に接すれば、いらいらすることもなくなるはずである。ただし、相手に対する思いやりだけは忘れないようにしよう。
人間が本当にしたいこととはいったいなんだろう。そのほとんどは他人がしていることである。われわれはそれを真似しているに過ぎないのだ。それが本の書評であったり、友達が腕にしている時計であったり、好きなタレントが着ている服だったりする。そのことをわれわれが自分で意識することはできない。そんなことをしたら自分に欲望がないことに気づいてしまうからである。トレンドを無視して本当の自分を出すことはできないものだろうか。
私たちの記憶は日常思い出されることはない。しかし、何かの拍子にそれらが思い出されることがある。そのきっかけは、五官が刺激された時だ。何かの匂いを嗅いだ時などに思い出されたりする。音しかり、見た目、味、触覚しかり…その刺激がきっかけとなって、あまりにも悲しい記憶が呼び覚まされてしまうのである。それはあまりにも突然なので、当の本人でさえなぜこんなに泣き出してしまうのかわからないほどである。それを思い出すかわりに、涙で表現しているのである。それらを言葉で言えるようになれば、涙はとまるのである。
われわれは日々一喜一憂しながら生きている。ちょっと褒められては有頂天になり、些細な失敗を責められて悔しがったりする。思い通りに行ってもぬか喜びだし、失敗が自分に何かを教えてくれていることに気づけば誰でもが幸せになれるのだ。それを邪魔するのが感情である。感情さえなかったら一喜一憂しなくて済むはずだ。それはいったいどんな世界なのだろうか。
あらゆる所に楽しみを見つけることが随所に楽しむ、ということである。人から命令されたことは楽しくない。自ら、進んで、喜んでするのがよい。礼を言われてもどこ吹く風、という風情でいられる。そろそろ大掃除が迫ってきた。言われる前にやるか、言われてからやるか。
人間は良い面と悪い面をもっている。良い面だけだと振り込め詐欺に騙される。悪い面だけで生きれば誰も相手にしてくれない。いじめられても言い返せばよいのにそれがなかなかできない。悪い面は普段自覚することはできず、自分だけは良い人だと思い込んでいるかもしれない。自分はなんて悪い人だろうと思っている人は正常だ。今日の私はどちらだったかと考えることが反省である。
部屋が温かいと、空気に包まれているように感じる。私たちが温泉に行ったり、寝具にこだわるのも体全体が包まれていると感じたいためではないだろうか。さらに、よいものが身の回りにあれば目でも実感できるにちがいない。壁紙にこだわり、日用品を吟味して体の近くに置いては心を豊かにしているのかもしれない。ぬくぬくと暮らしたい、贅沢、それとも心のぬくもり?
人はなぜ悪い方に物事を考えてしまうのだろうか。結果が悪かったときの落ち込みがひどくなるからだろうか。楽天的と思われたくないからだろうか。プラス志向になるにはどうすればよいのだろうか。
スピーチの前に緊張する、舞台の袖で緊張するという人が多い。周囲の人には本人の緊張感は伝わってはこない。スピーチなどが終わった後でも足の震えが止まらなかったなどと訴えるが、もちろん周りの人たちにはごく普通にこなしているようにしか見えない。手のひらに人の字を書いて飲む、聴衆をじゃがいもと思うことなどというアドバイスは壇上では役には立たない。すなわち、緊張感は本人が作り出しているのである。
人間が変化するのは突然である。丁度、土砂崩れのように一瞬にして変わるのである。徐々に変わることもあるが、その積み重ねがある日、一瞬にして別人のように変わるのである。ちょっと見ない間にその人に何があったのかと思われるほど変わることがしばしばあるのである。それは、本人の無意識の中にある「変わりたい」という欲望がそうさせるのだ。そのためには、その欲望を持ち続けること、その一点に尽きるのである。
冬、木々が葉を落とすのは、下から新芽が出てくるからである。古い葉を押し出すものがあるのだ。葉を落とし切った後の新芽がその証拠である。人間にもきっと来年の新しい考えがあるのだ。それは無意識になっている。ちょうど新芽が新芽のままであるように。どんな花や葉に成長するか、それは来年の楽しみにしておこう。今は今の自分を生きることである。
家のことはまったくしない。ましてや冷蔵庫の在庫状況に関してもまったく把握していない。白い冷蔵庫の中はブラックボックスであり、卵を見つけたときなど、牛丼屋の卵は白いのに、茶色い卵は変じゃないかと思ったりする。見上げるような冷蔵庫を背に、自分は自分のことだけをすればよい。それはテレビの録画予約である。
上司に叱られた場合、「上司も辛いのだろうな」、などと想像して叱られたことを理解しようとする。しかし子供にはこれができない。「僕はダメな子なんだ」とストレートに受け止めてしまう。大人には文章作成能力が備わっているので、いろいろな文章を作ることで自分を癒すことができるのだ。時間も自由に使えるから、息抜きに寄り道もできる。文章や時間を自由に作れるようになるまで、子どもたちはいったいどうやって憂さを晴らせばいいのだろうか。
話が通じないと感じるのは、とくに飲食店などでの店員同士の会話だ。「ノーマル味噌」は一番安価な味噌ラーメンのことで、わたしがいつも注文する奴だ。「テン・テン」は何の略?と店員に問えば「テン・テンではなく、テン・テイ、天津麺定食の略」だという。一文字違えば通じない。目の前に無事運ばれてきた中国と日本の合成ノーマルをすすっている。
同じ音楽を聴いていても、人によって思いはさまざまである。プロ音楽家は一音一音に耳を澄ますだろう。音符を思い浮かべているかもしれない。普通の人でも、映画の一シーンを思い浮かべたり、コンサート会場を想定しながら聞いているかもしれない。録音している側はスタジオで仲間や録音機と格闘しているかもしれない。それらの思いが一致することはないのだ。そうなると、言葉などはもっと一致することはないのかもしれない。
毎日つまらないと感じている人は正常である。普通に過ごしている人はそうは感じないからである。つまらないと感じている人は、どうすればよいのか分からないのではなく、したかったことがことごとく否定されてきた可能性が高いのである。あれはだめ、これも無駄、それも無理…という言葉が本人の欲望の灯を消したのである。もう一度その灯を燃え上がらせることができればいいのに。
私の中には二人の私がいる。それは例えば電車に乗ったときなどに登場する。すわっている私の目の前に老人が立ったとき、ひとりの私がこう言う。「席を譲れ」、と。ところが、その背後からもうひとりの私が現れてこう言う。「譲るな」、と。その二人にとっての仲裁者は不在のままなので、私は相変わらず二人の私に分裂したままとなる。このとき、仲裁者は、実はいるにはいるのである。
私たちの思考は親の思考である。親が真面目一辺倒で生きてきたとすれば、子供はさぞ窮屈な家庭と感じるだろう。そうなると子供は怠惰な生活を送ることによって、精神の安定を図ることになるのだ。なぜそうしてしまうかというと、親の無意識に怠惰が隠されているのを、子供は無意識に感じ取って、そうするのである。本人がそれを知ることはない。立派な両親のもとに育った子供がそれほどでもないというのもその現れである。子供自身もまたそのことを知らない。こうして無意識は世代から世代へ、祟りのように伝承されていくのである。
服を買うとき、ブランド名を気にしてしまう。それが似合うかどうかよりも名前が優先してしまう。名前を見ただけで似合っているような気がするのは、企業の戦略に乗せられているのだろう。何となく着心地が悪くても無理して着ている。いっそのことブランド品などなくなればいいのに。そうなった時、何を基準に選べばいいというのだろうか。
人から「本当のことを言ってくれ」と言われてその通りにしたら激怒されたという話がある。本当のことを知りたい気持ちと、知りたくない気持ちとの間でさまよい続けているのが人間ではないか。知らぬが仏、と言われるとおり、知らないまま一生を終えるのもいいかもしれない…という気持ちと、やはり知りたい、という気持ちと両方あるようである。
私たちは誰かの真似をしながら成長してきた。仕草・クセ・言い方・趣味・生き方…すべて誰かの真似である。しかし本人がそれを意識することはない。他人からそのことを指摘されても、受け入れない。日本語をしゃべっているのも真似だ。ちょうど、幼い子供たちが突然「オレ」と言って大人たちを驚かせたりするが、本人は一向に気づかないようにである。良い・悪いの区別なく真似しているので、人に迷惑をかけているかもしれない。「それがあなたの悪い点だ」などと指摘してくれる人もいない。自分の本当の姿はどこに見ることができるのだろうか。
食事の基本は、五感を満足させることである。味はもちろん、香り、食欲の三拍子がそろうとともに重要なのは視覚である。盛り付けは料理の華と言われるとおり、作り手は食器選びに神経を使うのである。それに楽しい会話が加わればさらに良い。すなわち家族団欒である。12月、父は家族と時間を共有することが少なくなりがちである。せめてクリスマスくらい、父は家にいてほしいものである。
分かったつもり、理解したつもりでいることのなんと多いことか。絆を結びましょう、隣人を愛しましょう・・などと言われて、ハイ、と返事はするものの、どうすればいいのか教わらないままこんにちまで来てしまった。結んでもらった、愛されたという実感もないまま・・どうすればそれらが実現できるのか。
話を盛る、という表現がある。おおげさな言い方、と言ってしまえばその通りだが、正確な言い方よりも誇張した表現が好まれる場合もある。驚いた、というより、冷や水を浴びせられたようだ、とか、煮え湯を飲まされた、などと言ったほうが驚きが伝わってくるように感じられる。では真実はどこに表現されているのだろうか。