縁起
私たちは縁起をかつぐことにやっきになっている。虹を見ればよいことの前兆だと思い、番号札一番を引き当てて嬉しがったりもする。それは悪い方に考えると悪いことが起きるという、ほぼ確信めいた考えをもっているからである。良い方に考えればいいのにそれができないのは、人にそれを語ったときに、「楽天的だよ」と揶揄されたためかもしれない。だから縁起が良いことを見つけたら、そっと心のなかで、よいことがあるぞ、と確信をもってつぶやけばいいのである。
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私たちは縁起をかつぐことにやっきになっている。虹を見ればよいことの前兆だと思い、番号札一番を引き当てて嬉しがったりもする。それは悪い方に考えると悪いことが起きるという、ほぼ確信めいた考えをもっているからである。良い方に考えればいいのにそれができないのは、人にそれを語ったときに、「楽天的だよ」と揶揄されたためかもしれない。だから縁起が良いことを見つけたら、そっと心のなかで、よいことがあるぞ、と確信をもってつぶやけばいいのである。
日本語は潤滑油入りの言語である。天気予報では「大雨にお気をつけ下さい」と視聴者に注意を促し、店の店員は、「お傘をお忘れではないですか?」と私の背中に聞こえるかどうかのきわどい声量で言う。スポーツの世界では決して聞くことのできない言葉の世界を、今日も生きることにしよう。
「わが酒蔵は平安時代から続く日本最古の酒蔵です。」などと宣伝文句に書いてあると、どんな味なんだろうと思ったりもする。最古だから美味しいと限らないぞ、という内なる声も聞こえたりもする。最古・最高・最大・・なんと最の字が好きなことか思い知らされる。大事なことは最善を尽くすことなのかもしれない。
在庫一掃セール、残り僅か、などの言葉に私たちは心奪われる。その言葉に刺激されて冬物のセーターなどを買うこともあるし、実際買ってしまってもいる。それらの宣伝文句は買うためのきっかけであり、もともとは私の無意識に存在していた欲望なのである。自ら買いたくて買った、と素直に言えればいいのに、今日も何かのきっかけの言葉を探している。
レストランで4人の女性が会話をしている。このときの特徴は3人が同時にしゃべっていることである。一人は夕飯を作ることの煩雑さを、一人は誰かの噂話を、もう一人は受験のそれを同じトーンで語っている。まるで交響曲のようだ。残りの一人は食事を口に運びながら耳を傾けている。この方はきっと聖徳太子に違いない、私はそう確信した。
電車内の広告に、「酔っぱらったら何してもいいの?・・暴力は犯罪です」の言葉があった。考えてみると、何してもいいときは寝ているときである。夢の世界だけである。その世界ではヒーローにもなれるし、その反対の人物にもなれるのだ。セラピーで夢解釈をすることで日常ではなかなかできないことや人物になれることが自覚できる。ちょっと怖い反面、知りたくもある世界、それが夢の世界である。それを正確に解釈する方法をフロイトは私たちに残してくれた。
子どもが運動会で負ければ親御さんはがっかりし、その感情が顔に表れてしまう。オリンピック選手だってずっと勝ち続けて来たわけではない、などという情報も親にとっては役に立たないかもしれない。私たちは今しか見えないのだ。未来まで見通せる目、それが長い目である。仏さまのような目があったらいいのに。
人間は新しくしたいという欲望と今までのままでいたい欲望との間で葛藤している。その場合前者の考えがわずかに勝ることで前に進めるが、後者が勝れば停滞ないしは後退してしまう。前者が優勢になるにはなんらかのきっかけが必要だ。それか故障である。冷蔵庫が壊れる、ものがなくなるという現象がそれである。病気になったりケガしたりするのも今のままではいけない心理の表れとしてとらえることが大切だ。それが前に進むきっかけになるかもしれない。心の声と呼ばれるものがそれである。
私の体はすべて誰かの模倣でできている。食べ物の好み・趣味などすべては誰かのマネである。言い方がお母さんそっくり、などと言われてゾッとしたことはないだろうか。マネしていることは自分でも無意識になっている。良し悪しの判断もできないまま、いつまでマネを続けていくのだろうか。
人間にとってよい日はあるのだろうか。私たちはいつもお腹がすいており、食べれば食べたで苦しいーなどと訴える。仕事が終わった次には家事が控えていて、そのあとには・・何かに追われる毎日が続いている。よい日とはほんの一瞬にしか訪れないのかもしれない。
人間の耳には選択能力がある。空気中を飛び交うさまざまな音の中から自分に必要な音だけを聞き取っている。ファミレスの店員は何十人もの客の発する声や雑音の中から店員を呼びつける声や、呼び出し音のピンポンの音だけを聞き取っている。したがって私が友達と会話している内容など隣席の客にとって何の役にも立たず、雑音にしか聞こえてないはずだ。もし隣の客の話が耳に入るとしたらその内容は自分にとっていったい何を意味するのだろうか。
私たちはたとえボールペンひとつ選ぶときでさえあれこれ悩むものである。それがこだわりだ。選ぶとは自分自身をそこに見いだそうとしている私の姿そのものである。何でもいいなどと言ってはならない。色・形・感触・メーカー・・購入を決めた瞬間こそ私を見いだした瞬間である。こだわりはモノだけに限らない。空模様・出会う人・食べ物、ありとあらゆるものの中に私はいるのだ。
朝出かけるときにスマホを持参しているかを確認するようになってしまった。それだけではなく、パソコンが不調だと言っては落ち着かない不安な毎日を感じるようになってしまった。機械がすごいのか、人間があてにならないのか、それとも自分自身が信用できないのか・・いったい何をあてにすればよいのだろうか。心に真理をもてばよいのだが。
気がつけば私たちの身の回りはモノで溢れかえっている。腕時計はひとつあれば十分、ハンカチはせいぜい2~3枚あればいいし、メガネだって老眼鏡とそうでないのとで事足りるという人だって、きっと自分だけでこっそり集めているモノがあるはずだ。自分だけはモノの洪水から身を遠ざけたいというのは難しいことかもしれない。
暖冬である。寒くもなく雪もないから楽である。それでいいのかと思えばさにあらず。寒くなければ経済への影響もあるはずである。寒いときは寒くてたいへんだと言い、人間は勝手である。言いたい放題言っても自然は聞く耳をもたないから平気だが、人間は人から言いたいだけ言われたら傷つく一方である。木々が風を受け流すように、人の批判を聞き流せたらきっと楽な生活が送れるに違いない。
「今」のとらえ方は人によって異なるだろう。今が幸せ、という場合、それはどのくらいの時間なのだろうか。それをほんの一瞬ととらえる人、前後5分くらい、1時間くらいなどと、人さまざまではないだろうか。お腹がすいている時にあるつく食事でさえも、口に入れたときなのか、味がわかってきたときか、あるいはその両方がごちゃ混ぜになっている間なのか・・その至福の「今」も、食べ進めるにしたがって至福の瞬間は遠のいていく。しまいには満腹という苦しみが私を襲う。楽しみの今とはほんの束の間の幻だったのだろうか。
人が人を評価するとき、好き嫌いで判断していないだろうか。その人がどれだけ努力家であり、好意を示してくれていてもである。洋服を選ぶように人を見ている可能性があるのだ。人間は人間だ、モノなどではない。その人の存在をそのまま見ること、それが尊重である。
人を評価するときに使うのが絶対評価である。幼稚園の運動会で一番になるのも一番。町内の競走で一番になるのも一番である。その人が何秒で走ったかを記録するのが相対評価である。これにこだわるとどこまで競争しても満足は得られない。一番は人の数だけ存在するのである。
私たちが生きていると実感するのは、誰か隣の人が同じ言葉を繰り返してくれたときである。おはよう、に対しておはようと返してくれたときほっとするのがこの実感である。どこかの雄大な景色をみて、すごい!と感嘆の声を挙げたとききっとその人の隣には同じ言葉を返してくれた人がいたはずである。このように私たちは感動や実感を感じるために他人を必要とするのである。この最初の人物こそ母なのかもしれない。
時が解決してくれる、と言われる場合の時とはなんだろう。ずっとそのことを思い続けていたら、きっと思いが膨らんでますます苦しみ、悲しみの感情が増えることだろう。その場合の解決法は語る時間をたくさんもつことである。何度でもそのことを繰り返し語り、詳細に語り尽くすことで、それらの感情は薄らいでいき、やがて何事もなかったように日常生活を送れるようになるのである。その聞き手になることこそが傾聴と呼ばれることである。
自分は会社に必要な人間だ、と思っていてもある日違う人がその仕事を難なくこなしているのを目にしたとき、あれっ?と思うことがある。風邪で2~3日休んだときになどにそんな感情を強く抱くものである。自分の代わりは誰も務まらないという思いこそ自己愛と呼ばれるものかもしれない。
私たちは毎日意味にとらわれている。金メダル、成績・・それもあと数十年経ってしまえば価値は薄らいでしまう。場合によっては過去のそれにとらわれてしまい、前が見えにくくなる可能性も否定できない。もしモノから意味を抜き去ってしまったとしたら、そのあとに残るものとは一体何なのだろうか。
私たちの周囲は私たちを誘惑するものばかりだ。テレビ画面からは新商品のパッケージが目に飛び込んでくる。街に出れば買わないと損ですよと訴える看板だらけである。いっそのこと文字も声も認識できない人になってしまえばいいのだ。
人間はモノをそれ自体として見ることはできないのである。ペン一本でさえ、あの店で買ったもの、といった具合に思い出とともに見ている。その記憶が美しいほど捨てられないでいるのだ。それを捨てることができればもっと良いものを手にすることができるのである。
私たちは常に人の顔色を見ながら暮らしている。会社では上司の顔色を、店では店員の顔色を、家に帰れば家族や両親のそれを気にしている。なぜ自分を出せないのかと思うほどだ。顔色を全く見ないで暮らせたらどんなに楽なことかしれない。そういう人を他人はKYさんと呼ぶ。
私たちはモノを見る度に、そのモノの上に何かの痕跡を探している。ある人はネックレスを見て、プレゼントしてくれた人を想い出しているかもしれない。またある人はブランド名の上にモデルを見ているのかもしれない。写真、日記、年賀状・・すべて何かを想い出させるモノで私たちの身の回りはあふれている。古い痕跡を見るだけではなく、新たな痕跡を残していきたいものである。
初日の出を拝んで帰宅したらその日の用事はすべて完了してしまった。することが何もない。出しそびれた年賀状も二、三枚書いておしまい。普段している仕事とはいったい何なのだろうか。
新年の近所に人の姿がない。SLも通らない。新年会にも誘われない。時おりの犬の鳴き声で人がいることを知るのみである。こんな日が続くと人と会話したくなる。きっと振り込め詐欺の付け入る隙はこんなところにあるのかもしれない。
とりたててSLファンではない私も近所を通る元日のSLだけは楽しみにしていた。去年隣のSLファンに一緒に手を振ってほしいと頼まれしぶしぶ手を振ったところSLが盛大に汽笛を鳴らしてくれた時から、私の中に自信が芽生えはじめた。今年も手を振る練習を入念にしてから出かけたが、駅員からSLが解体されると聞いた。チャンスはめったにないのだ。昨年の出会いは一期一会の邂逅だったのである。
新年を迎えるとは、新しい信念を迎え入れることである。昨日の考えを捨て去り、新たな自分を生きることである。区切るとは生まれ変わったことの宣言でもあるのだ。区切ったあとに残っているもの、それは一体何だろうか。
あけましておめでとうございます。本年も皆様にとりましてよい一年でありますことを念願しています。一年、一念、一貫…すべて一の字が今年の目標です。わき目も振らずその道に邁進すること、それが一貫です。自分を貫くことで自らの道も、人の心も自ずと開けてくるものです。一点に力を集中させれば力は何百倍にも増幅することでしょう。この道を歩んでよかったと思える年でありますように願っております。