変える
見方を変える、考え方を変えるなどとよくいわれるが、それによって何が変わるのか。見えなかったものが見えてくるのだ。女性の場合、髪型を変えたり、化粧品を変えることで、今まで隠れていた自分の何かを発見しているに違いない。男性はそれほど変化のある生活をしていない。会社勤務のかたは特にそうなりがちである。変えようとするには、歩く道順を変えるのもよい。手近なところでは、部屋の家具の位置を変えるのはどうだろう。きっと変化を感じるきっかけになるのではないだろうか。
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見方を変える、考え方を変えるなどとよくいわれるが、それによって何が変わるのか。見えなかったものが見えてくるのだ。女性の場合、髪型を変えたり、化粧品を変えることで、今まで隠れていた自分の何かを発見しているに違いない。男性はそれほど変化のある生活をしていない。会社勤務のかたは特にそうなりがちである。変えようとするには、歩く道順を変えるのもよい。手近なところでは、部屋の家具の位置を変えるのはどうだろう。きっと変化を感じるきっかけになるのではないだろうか。
嫌いなもの、食べたくないもの、それらはなぜそうなのか、本人でさえ説明できないものだ。ところが人は、美味しいよなどと言って、こちらを変人扱いして平気である。それらにはきっと自分でも思い出したくないほどの苦しみが隠されているに違いない。フロイトはそうした好き嫌いの意味を明らかにする方法を著書で明らかにしてくれた。それがわかれば、好き嫌いはなくなるはずである。
子どもがティッシュを次々に取り出しては床に放っている。それをどう見るかが問題となる。いたずらの始まりと見るか、遊んでいるだけと見るかのどちらである。取り上げてしまえば、幼い子供の心に、好奇心を出すと否定されるというシーンが植え付けられるだろう。しかし、そう見る方が普通なのかもしれない。
ある都市のパチンコ店がすべて閉めてしまったために隣の都市の店にまで押し寄せているという。ファンの一人がラジオのインタビューに答えて語っていた。「日本中の店を閉めてくれさえすれば、自分だって出かけずに家にいるのに。あいているから出かけるのだ」と。相手のせいにしている、などと思う前に、私たちもいつの間にか、見るから欲望が発生していると言えるのではないだろうか。ショー・ウィンドウ、コマーシャル、新聞記事・・その人のつぶやきは私たちのそれとは違う、と誰が言い切れるだろうか。
どんな小さなモノでも自分で選んだものには愛着がある。それをいつも身に着けていたい、それが愛着だ。幼い子供たちがぬいぐるみを手放さないのも愛着だ。近くに見当たらなければ泣き叫んだりもする。子供たちがそれを手放す時期がある。それはいったいどんなことが子供の心に起きているからなのだろうか。
一つのことを取り上げてみても、受け取り方は人によって異なるものだ。天気一つとっても、ある人は洗濯日和ととるかもしれない。旅行に行きたいと思う人もいるだろう。それだって、国内・海外・子どもの所・・どんどん枝分かれしていく。事柄でさえこんなだから、感情にいたっては話が合うことはなさそうである。何かの感情が沸き上がってきたら、そっとそばの人に呟けばいいのだ。
男性は不変、女性は変化といえるだろう。男性は一度好きな食べ物を見つけると、とことんそれを食べ続ける。一方女性は一つのものにこだわらない。次々と新しい食べ物を見つけ、さらに工夫を加え続ける。母の手料理がその都度味が変わるのはそのためだ。家族はそのことに気がつかない。だから母の料理はよい変化を体に起こしている。それは多様性である。あらゆるものには幅があり、甘いも辛いもすべて人生の味であることを無意識のうちに学ばせてくれているのだ。それが人生の味わいの起源になっているのかもしれない。
人は社会生活を営む関係上、心が多方面に向きがちである。ところが、家から出ない状態が続くと、心は内に向くようになる。自分とは何者か、どこに向かおうとしているのか、について思いを巡らすようになる。他人と比べない私の価値はいったい何だろうかと。人はときに内省的になる必要があるのである。
誰でもよい、誰かに自分のことを語っている最中に、「そうだ、自分はこんなことを考えていたのだ!」と自分自身で気がつくことがある。それは、漠然とした考えも、いざ相手にわかるように話すと、まとめようとするからである。そのまとまった話をもう一度自分の耳で聞くことになる。Aの商品とBの商品のどちらを買うか・・決めるのは自分自身と知っていても誰かに話をする理由はここにある。話かけられた側は驚くことだろう。語り手は勝手にAはここがよくて、Bはここがよくて・・と語りながら勝手に自分で決めているからだ。相談に乗った私はなんだったのかということになる。しかし、それでよいのである。
「このスキー板はあなたにあげる!」と言った瞬間に相手の目が輝くのを目にして、今まで邪魔と感じていたものが突然素晴らしいスキー板に見えたりすることがある。すなわち、私にはもともと欲望などなかったのである。私の欲望は他者の目のなかに存在しているのである。他者が自分の欲望の鏡になることで欲望は発生するのだ。邪魔と感じていたものがキラキラした品物に見えることを考えると、私がそのモノを本当に欲しいのかどうかあやしくなってくるではないか。
私たちが欲しいモノとはすでに他者がもっているものである。スプリングコートが欲しいのは、誰かが私にさきがけて手にしているモノである。すなわち模倣である。他者がそれを着るまで私にはそんな欲望はなかったのだ。ひとたびそれを目にしたとたん、私の欲望のスイッチが入ってしまうのだ。人の影響など受けない、などと嘯いていても、テレビ画面には素敵なモデルがすでにそれを着ているではないか。それが似合うとか似合わないなどという忠告など役にたたないことも知ってはいても私のスイッチはいとも簡単にオンに入ってしまうのである。
話が噛み合うとはどんなときか。それは、自分の話に相手がそうだね、と返事を返してくれたときではないか。そうかな、とか、それはおかしい、などと言われたり、期待する答えが返ってこないときは話が噛み合わないと感じるのではないか。店の店員に何々をください、と告げて、そのものをくれれば話が噛み合う、それは業務連絡にすぎない。本当の意味で噛み合うとは、感情の交換ではないか。今こんな気持ちだ、とか、こんなことを考えている、というプライベートなことではないか。話が噛み合ったとき、人はちょっとした幸せを感じるものである。
私たちは自分で自分のことを決められるだろうか。私だけのこだわりがある、と思っても、実は人との違いを語っているだけであったり、その服に決めた、といっても、モデルや俳優の着ていた服が心のどこかに印象として残っていてそれを選んだだけかもしれない。もし誰の影響も受けずに決めることができたとしたら、その姿は人の目に奇妙なものとしてうつることだろう。どこまで自由に振る舞ったとしても、私たちは私の個性と社会の流れとの重なり合いのなかで暮らしているのだ。だからどんなに個性的であってもたいしたことはないのである。
人が滑らかに話すときは本音が語られることは少なく、ポツリと話す一言の中に本音が隠されていることが多い。失言、言い間違い、名前の失念などの失策行為の中に本当の苦しみや葛藤がそっと隠されていることに聞き手は気づくことが必要である。それは当の本人てさえ驚くほどの真実である。そこにたどり着く方法をフロイトは私たちに示してくれたのである。
人間のもっとも根元的な問いは、私とは何者か、というものである。今生きて仕事をしている私は、かりそめの私である。本当の私の姿は、目の前の仕事に熱中するあまり、それそのものを考えられなくなっている。もし、それに気がついてしまえば、目前の仕事に集中できなくなることを知っているのだ。それが見えた人のみが本当の自分と出会えるのである。知りたい気持ちと、不安とがその先の未来のドアを開けさせなくしているのである。そのドアを開けられるのは自分一人だけでもある。
人は一つのことを決めるまで、どれだけの道のりを経てきたことかはかりしれません。洋服を決めるときでさえ、さまざまな思いが交錯しているなかで決定している。これを買えば店員の言いなりになってしまう・・とか、先輩が着ていた服と同じでは・・とか、みんなとは違う色を・・などといった考えのなかでの苦渋の選択の結果である。いうならば、英知の結晶とよんでもよいほどのものではある。それを簡単に、ダメ、などと一蹴しないでほしい。もっと私の考えを大切に扱ってほしい。それが私たちに共通の考えではないだろうか。
話すとは、舌のおもむくままにしゃべること。すなわち、相手のことはさておき、一方的に話し続けることともいえるだろう。舌を動かしているのは当然のことながら無意識である。したがって失言、失念は当たり前である。無意識に世間話をしているつもりでも、その話の中に本心が隠されていることも知らず、私たちはしゃべり続けている。そしてこれからもきっとしゃべり続けることだろう。
切れる、という表現がある。ちょっとしたことに爆発的な言葉を返してくることをいう。自分を上手く語れない状態である。自分の考えを言葉に置き換えることができないのである。すなわち、「語」の文字の「言」と「吾」の文字がくっついておらずに、切断されている状態を「切れる」というのである。「あなたの言いたいことはこうだね!」とまとめてくれれば、私は理解されたと感じただろう。それをくっつけてくれる人が必要だ。それは誰か。
語るとは、聞かれたことに対して語ること、と辞書にはある。聞かれたときに、自分の考えをまとめ、適切な言葉を見つけ、相手に理解されやすい言葉に置き換えて語ることだ。これはかなり難しい。体操競技のように、毎日の訓練が欠かせない。そのためには、体操の演技の見本となる人が必要だ。「これは何?」と聞いてきた子どもに向かって、「こういうことだよ」と、分かりやすく語ってくれたら、私も演技が上手くなっただろう。そして、答え方をまた次世代にも伝えることができたはずである。
欲しいものが手に入った瞬間に欲望が消えてしまうことはよくある。手に入らないからこそ欲しくなるのだ。欲望を生かしておくためには手に入れないことが一番だ。子どもがオモチャが欲しくて泣き叫んでいても、ひとたびそれを買い与えてしまえば、子どもはそれに関心がなくなり、放ったらかしにしてしまう。そんな心理が大人にもあるのだ。なぜそのモノが欲しくなるのか。
人間は気分の生き物である。気分が良いときとそうでないときが交代に現れるのが日常である。ずーっと良いということもないかわりに、悪いことが続くこともない。良いときは印象に残らず、そうでないときの方が長く感じる、それだけである。今自分がどんな状態にいるのかを自覚すればよいのである。そうすれば悪い気分を誰かにぶつけることもなくなるのである。
学術的な書物であるにもかかわらず、面白い表現に出会ってつい笑ってしまうことがある。「地球になぜ月があるのか」の項目に目をやると、「地球の引力に捕まるためには、地球のそばをうろうろしていなければならず・・・」、とか、「地球の平均比重は5.52で、これは地球の物質をごちゃまぜにして、それから角砂糖一つ分を計った値で・・・」といった具合だ。天文学が親しみやすくなる。これがバランスというものではないだろうか。
人物評は大方の場合、正確であるとはいえない。評価する人の色メガネで見ているからである。素晴らしい人という評価をされている場合でも、仕事がらみ、ということもあるだろう。特に歴史上の人物は脚色されやすい。その一方で、脚色された表現を好んでもいる。その人物が自分の心の支えになっている場合はなおさらである。人に対する評価は人の数だけあるともいえるのである。
このままでいさせて・・という歌詞がある。今自分が寛いでいたければ、そのままにしてもらうことができ、夢中になって遊んでいたければ思う存分遊ぶことができたらどんなに幸せなことだろう。人間はもともと怠け者なのだ。このまま寛いでいたいし、このまま夢中になりたいときもあるのだ。それがたまたま学業ではないかもしれない。でもそんな自分を受け止めてほしい。今、私は夢を見ているのだろうか。
人と人が仲が良いことは何で判断できるかというと、食事を共にできるかどうかにかかっている。食事をご一緒させてくれませんか?と言われたらそれはすごい申し出なのである。お母さんと一緒に食事をしたい、ということは、母のよいところを自分の体の中に摂り込みたいということだ。母はそれくらい魅力と包容力のかたまりなのである。
「月にむら雲、花に風」と言われる通り、思うようにいかない例えがある。名月は雲で邪魔をされ、見頃の花は風で飛ばされる、それが人生、などとすましこんだりする。もし月は永遠に輝き続け、花も咲きっぱなしということがあったら、それはそれで面白くないかもしれない。やはりそれも人生。
ものごとをいったん人に任せたら口出ししないのが原則である。変に気のきく人はそれが難しいようだ。よくある例として、障子のさんを指でさっとふく行為がそれ。相手はもう二度と手伝うことはしなくなるだろう。任せる側は片目をつぶること、それが一番である。
完璧な親などいない、そう心得ることができれば親の気持ちは楽になる。もし完璧な親がいたらどうなるか。子どもはやる気をなくしてしまうことだろう。子どもは親を馬鹿にすることで自らを高めていく。そんな悪態の数々をにこやかに受け止める心を度量というのである。
人がもっとも嫌いなもの、それが説教ではないか。中学生くらいになると親から言うことはほとんどない。自分で決め、行動するようになる。親がすることは「世話のみ」と心得ることだ。世話とは言われたことだけに対応すること。要求していないのに言うのが説教である。親自身もしてほしくなかったことをしてしまう、困ったことである。
一つの欲望が満たされるともう一つの欲望に不満が残ってしまうのが人間である。宴会に誘われれば楽しく嬉しい反面、本来の自分の時間が取られるだろうし、誘われなければ寂しい思いをすることにもなるものだ。人間はどうしても片方を諦めなくてはならないのだ。それを断念という。
人間の心には言いたいことがいっぱいつまっている。お花見に行きたい気持ちと行きたくない気持ち、誘われたい気持ちと誘われたくない気持ち・・相反するものが往復運動を繰り返している。それを心に秘めていられないのも人間の本心である。ところが、往復運動の言葉を聞かされる側はたいへんだ。一体どうしたいの?と聞き返したくもなるだろう。語る側は聞いてくれるだけでいいとも思っている。話に付き合って欲しい人と、付き合いたくない人とが今日もすれ違っている。