周波数
電話で送信できない音は、蝉や鈴虫の鳴き声だという。周波数が高すぎる音は電話機が受け付けないのだ。人間の耳は低音から超高音まで、小さな音から大きな音までキャッチする優れ者だ。ところが、相手の声を聞いていなかったり、ときには歪曲して聞いたりもする。どうすれば正確に相手の声を聞くことができるのだろうか。
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電話で送信できない音は、蝉や鈴虫の鳴き声だという。周波数が高すぎる音は電話機が受け付けないのだ。人間の耳は低音から超高音まで、小さな音から大きな音までキャッチする優れ者だ。ところが、相手の声を聞いていなかったり、ときには歪曲して聞いたりもする。どうすれば正確に相手の声を聞くことができるのだろうか。
不満を放出するためにはいろいろな方法がある。モノに当たる、海岸で大声で叫ぶ、カラオケで歌うなどなど・・。呟くのもそのひとつに数えてもよい。何が不満なのかわからない場合はタメ息になる。これも言葉にならない言葉だ。それを明確な言葉に置き換えることができれば、不満は軽減される。もちろん、聞いてくれる相手がそっくりそのまま受け入れてくれれば、その効果は絶大なものになることは明らかである。
ほかがよく見えることを、隣の芝生は青い、などというが、実際青いと感じることがある。きっと遠目だから密に見えるからだろう。どの家庭も幸せそうで、仲良さそうだ。ときどき庭でバーベキューの楽し気な声が聞こえたりすればなおさらだ。もし100パーセント幸せな家庭があったらどうなるだろう、などと考えながら、芝生の伸び放題を眺めている。
人間の頭のなかは願望で満ち溢れている。どこかに行きたい、美味しいものを食べたい、何かをしたい・・。そんな願望を一人で抱えているだけではなく、誰かに聞いて欲しいとも思っている。その全てを実現することはできない、という事実も無意識には知っている。その語りに賛同してくれたらどんなに幸せな気持ちになるだろう。それを期待して誰かに語るうちに、次第に実現することより、もっと楽しい気持ちになるのはなぜなのか。
人が何かを誰かに語るとき、意見を求めていないことが多い。たとえ、あなたはどうおもう?と問いかけられたとしてもである。「雨の日が続くね」と言葉をかけたときに、「梅雨ですから当然」という返事を求めてはいない。その場合、そうね、という返事では、聞く側が素っ気ないように思われると考えて、ちょっとしたことを返すのだ。口火を切った側はただ単に共感して欲しいだけであることに気づくことはないかもしれない。
言葉をもった人間は常に言葉に従って生きている。交通標識に「止まれ」と指示があれば自動的にとまっている。止まらされている、と言い換えてもよいくらいだ。そのことになんの抵抗も感じない一方で、人の命令・指示には抵抗を覚える人もいるだろう。命令・指示しているのは、人だけではない。私の中にいる、もう一人の自分も命令をくだしている。それがどんなものなのか、自分でも知ることができない。私はいったい何を求めようとしているのだろうか。
同じ言葉に接しても、感じ方は人それぞれだ。音楽家にとっては、店などで流れているBGMにも音符が浮かび、救急車のサイレンも誰かの叫び声も音程の違いが気になるらしいのである。言葉も全く同様で、敏感な人にとっては、ちょっとした言い方でも気になるに違いない。ひとはこのように、一言で落ち込んだり、元気になったりするものである。それを考えると、何も語れなくなる気がしないでもない。
人は、強さと弱さの両方をもっている。交渉事、指導のときなどに、自信がなさそうな態度ではこちらが不安になる。そんな人がときに弱腰になったりすると、周囲は、なんだ、どうしたのだと驚く。しかし、それでよいのだ。逆におとなしいと思われていた人が、決然とした姿を見せたりする。その両方を知ること、それが自覚である。
多くの人混みのなかでも、目の前をサッと通り過ぎようとも、すぐに誰かを見出だすことができたら、その相手に関心があることになる。たとえマスクにサングラス姿でも、見つける能力のことである。おそらく一瞬のうちにスキャンしている、あるいはそれ以上の力が人間に備わっているに違いない。その起源は、幼少期にさかのぼる。多くの人のなかから母だけを見出だすことが起源である。母にだけ関心を向けざるを得ない。授乳してくれる、抱っこしてくれる、自分だけを見つめてくれるのが母だ。その眼差しの向け変えが他者への関心である。それがひいては、モノや事柄への関心に結びつくとは教わってこなかったのかもしれない。
人が人に語るとき、何を語るだろうか。もっとも多く語られるのが体調のことではないか。胃が痛い、スッキリしない・・。それは今一番の心配事の場合もあれば、その奥にもっと大きな心配事が隠されていて、話の切れ間に話題として出す機会を狙っているのかもしれない。いずれにしても、不調であることだけは明らかである。それほど、人は不調、苦しみのなかに生きている。それらと別れを告げる日はくるのだろうか。
嫌いなものは嫌いである。健康にいいですよ、貴重なものです、などと言われても嫌いなものはどうしようもない。それが価値観の差だ。その価値観は、かつて両親や兄弟が私に植え付けたものである。私たちはその価値観をもとにして、好き、嫌いを判断しているにすぎない。その基準は私のものではないのに、いつの間にかそれに従わされている。一度それを取り払って、白紙の心で全てのモノを見てみることである。それによって今まで見えなかったものが見えてくるのである。
好きなものの背後には意味が隠されている。昔、家族が連れていってくれたレストランでの楽しい記憶が隠されていたり、誕生日プレゼントをもらったときの感動の記憶がそのものに刻みつけられているのである。その記憶はとうの昔に無意識の奥にしまいこまれていて、思い出すことはできなくなっている。しかし、そのときの感情だけがよみがえって楽しい気持ちになるのである。だから好きなモノや色、形は人によって異なるのだ。それを気に入っているときには、それをそっとそばの人につぶやけばよいのである。
働いたら休息し、休んだ後は再び働く。この当たり前のことを忘れることもある。家族のために、といった使命感が私たちの脳に命令するからだ。それが疲れを体に残すことにもなる。それはある日突然一気に放出される。それが怪我や病気である。それを防ぐには仕事以上に夢中になれるものをもっておくことがよい。人は、それよりも仕事に没頭すべきだというが、自分を通すことがよい。まわりのことばに影響されないこと。それが強固な自我と言えそうである。
人間には五つの知覚が備わっている。それらは有機的に結びつき、連携し合って、しばしば私たちを過去に引きもどしてしまう。ポップコーンの匂いから昔両親に連れていってもらった映画館を思い出や、食堂や帰りの電車やなにやらを思い出したりする。それが良い思い出ならよい記憶を、辛ければ辛い過去の経験を引き出してしまう。それらがゴッチャになっているのが 私たちの記憶である。ときには記憶喪失になってしまえばいいのなねそれができないのはなぜなのか。
人生は思い通りにならないことばかり。特別なものを手に入れた、と思っていたら、隣の席の人がすでに持っていたり、子どもたちは言うことを聞かず、家族は不平不満ばかり訴えてくる。買ったものはすぐに新製品にとって替わられ、天気はいつもぐずついている。どうすれば、こんな不平不満が解消されるのだろうか。そして解消されたあとには何が残るというのだろうか。
何事においても自分を優先してもらうのは気分がよいものだ。店などで、隣の人より先に料理を出してくれればなおさらだ。時間にすればほんのわずかな差でも、先は先だ。だから人は競走の試合が好きなのかもしれない。それを観戦することで、いくらかの癒しを得ているのかもしれない。
人の悩みは尽きない、という。もし満足してしまったら、その先はないことになる。欲しいものが誰かに先を越されてしまうこともある。欲しいものを手に入れても悩むこともある。他人は、贅沢だ、とか、欲をかくななどと言うが、食べたいだけ食べても後でお腹はすくのである。満足することなど、人間にとって永久にないのである。
それを特に感じるのが、グルメ番組の食レポだろう。味という感覚を言葉に置き換える能力に、聞いている側はいたく感心する。「食材の旨味をカリカリの皮のなかにそっくり閉じ込め・・」。聞いている側の食欲をそそる語りである。そこには、食材という共通のモノがある。ところが、食材に比べて、心というものは、語る側、聞く側の両者に共通のようでいて、そうでない。それが間に横たわっている。これが誤解を生み出す源なのであろう。
人のつぶやきは気になるものだ。つぶやきとは人の口の入口にとどまっている言葉にすぎない。口偏に玄の字を書くことでそれがわかる。言っている本人は、自分が何をいっているのかさえ覚えてはいない。聞かされる方はしっかり覚えているので、聞く側が辛くなってしまうのである。必死に仕事をしたのに、「これだけ?」の一言がこちらをいたく傷つけるのである。私たちもつぶやいていないかと不安になってくるではないか。
成長するにつれて、男の子は父親と背比べをする。父親は負けまいとこちらも背伸びする。子は父親を越えようとし、父親も抜かれてはならじと頑張る。互いが切磋琢磨することで二人とも成長する。社会に出てから頑張る練習をこのときにしているのだ。父親が程よいところで負けてあげればよい。三回に一回負けてあげることで子どもに自信がつくが、父親が偉大過ぎれば最初から背比べの苦しみを放棄して弱さの中に閉じ籠るだろう。弱過ぎる父の場合は背伸びの相手にならず、競う男らしさが身につかなくなるだろう。父親は偉大過ぎても弱過ぎても競争の相手にはならないのである。
人と人との交流の基本は挨拶である。おはよう、こんにちは、などの言葉そのものには意味はない。やあ!おー!などの挨拶にいたっては内容はない。挨拶とは呼びかけることと、それに答えてもらうための手段であることがわかる。挨拶されたら必ず返事を返すことが原則である。
人がもっとも欲しいもの、それが自由だ。奔放に生きて来た、と思っていても、そうでない可能性もあるものだ。自由には、三つあるだろう。一つには感情の自由。自由に泣いたり笑ったりすること。二つには、欲望の自由。食べたいものを食べたいだけ食べる自由である。そして三つ目には、言葉の自由。何でも自由に言える環境に身を置けたかどうかである。
こちらの言ったことを、すべて「その通り」と言ってくれたらどれほど幸せを感じるだろう。何々という仕事に就く、とは決めていないのに、あなたには無理と言われれば悲しくなるだけである。こちらはただ希望の一つを提出しただけなのにである。それほどこちらが希望を持っていることが不快なのかと思うほどである。人を幸せにすることは、同時に自分も幸せになることでもあるのだ。
帰宅すると炊飯器が5分後に炊き上がると表示がある。すぐにレトルトのカレーを温め始め、炊き上がったばかりのご飯にかけて食べる・・うまい!こんなにうまくタイミングが合うことなど滅多にない。食材はいつも何かが足らず、頼んでおいた品物は遅れに遅れており、歯が痛くても歯医者は休みだ。それらのタイミングの悪さをどう乗り切るか。それを考えるのが工夫である。工夫とはことばを連鎖させていく知的作業なのかもしれない。
日々の暮らしが連続していると、すべてが当たり前になっていることがある。家事をしても当たり前、仕事・通学・近所付き合い・・すべてが当たり前のことだらけだ。そうすることで通勤などの苦労を麻痺させることもできるだろう。しかし、当たり前にしておいてはいけないこともある。それが感謝である。
未来には三つある。近い未来、もう少し先の未来、そして遠い未来の三つだ。しかし、ひとは目先の未来に夢中だ。今晩の献立・明日の仕事・宿題・・それらを済ませているうちにすっかり体力を使いきってしまっている。未来のためにも体力・気力、そして時間もとっておきたいものである。
人の歴史は失敗の歴史と言い換えてもよい。失敗から学ぶものはたくさん・・などと強がったところで、その恥ずかしさは本人にとっては逃れられない現実である。失敗を恐れないために私たちがしておくこととは何か。
現在という「今」とはいったいどのくらいの時間だろうか。たった「今」(なんだこれは?)を境にして前後1分間?5分間?1日・・・ことばも動きも音もその刹那の連続の上に移ろっている。私という存在も波間に移ろうはかない存在なのである。
どうしても振り返ってしまうのが過去である。なぜ人は振り返るのか。それはその時が確実に存在したからだ。その証明のために、その証言者と会うことをためらわない。それに比べて未来の不確実なことはこの上もない。やはり確実な方を向きたくなるのが人情ではないだろうか。
人が人を理解するとはどういうことだろう。仕事で一日頑張った、と人が語るとき、それを知っているのは本人しかいないではないか。すべて本人の語りを受け入れるしかないのだ。それが「信じる」ということである。そう考えると、私たちはどれだけ疑い続けてきたことだろうか。そして疑われ続けてきたことも事実である。
人の心の中には語りたいことが渦を巻いている。そんな渦巻きを解消したいとも思っている。しかし、文句を言わずにいることが善であるかのように私たちの心にインプットされてきた。部屋の換気をするように、心の換気も時には必要だ。大声を出したり叫んだりするのも解消につながるかもしれない。人にはそれぞれの解消法があるのだろう。