新鮮
いつも新たな気持ちでいたいと思う。そのためには、散歩コースを変える、髪型を変えるのもいい。変化とは日常の一掃。部屋の模様替えもよい試みである。部屋での歩き方が変わり、物の整理・廃棄・追加など、こんな配置もあったのかと驚くことも多々。心を変えるには環境から変えるのが一番である。
« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »
いつも新たな気持ちでいたいと思う。そのためには、散歩コースを変える、髪型を変えるのもいい。変化とは日常の一掃。部屋の模様替えもよい試みである。部屋での歩き方が変わり、物の整理・廃棄・追加など、こんな配置もあったのかと驚くことも多々。心を変えるには環境から変えるのが一番である。
レストランなどで店員に注文の品物を告げるときに、店員が復唱する。その効果は二つ。一つは、注文の確認。二つには、自分の言葉を店員の口を介して聞くことで、自分の声を二度聞くことになることだ。店員のなめらかな声で聞くと、自分の注文したものが素晴らしくよいチョイスをしたかのように感じられる。人間は自分の声を自分で聞くことができない。それは丁度留守電に録音した自分の声がまるで不気味な人物の声のように感じられる、その不気味さである。店員の声はその不気味さを見事に払拭してくれる。
私たちはずいぶんわがままを親に向かって言ってきた。それを受け止める側はてこずったことだろうが、そんなことを憶えてはおらず、自分だけが素直に育ってきたとすましこんでいる。なぜ記憶にないかと言えば、困らせたのではなく、ただ単に自己主張したにすぎないからだ。親の考えとは違っていたにすぎないからだ。今や自己主張などしにくい社会に放り込まれてしまった。わがままを言えた時代は夢のまた夢だったのか。
人間は、外見でその人を判断しがちではないか。見た目はもちろん、役職や持ち物、住んでいる所までを判断の基準にしている。それらを取り払い、その人自身を見られればよいのに。その心理を巧みに利用しているのが詐欺グループであろう。そう考えると、私たちが人の目を気にするのも、相手からどう見られるだろうかという心理が働いているとも言える。あまり気にしないのもどうだろう。やはりほどよい程度が大切なのである。
そのラーメン店には開店前から大勢の客が並んでいるというので、50分並んで開店と同時に一番乗りだ。すぐに作ってくれるのかと思うとさにあらず。客の注文を取り終わり確認し、器を並べてまた確認。その間店員はピクリとも動かない。ところが最後の器を確認し終わったとたんの店員の手さばきは見事であった。彼らは器と客を確認しながらイメージトレーニングし、そのイメージ通りにしているのだ。その落ち着き払った姿に影響されたせいか、客はもくもくと食べ続けた。味は上手い!カウンセリングはこうはいかない。どんな話が提出されるかわからないからだ。子育ての相談が仕事の悩みに発展すれば、ただちにその話にカウンセラーはついていかなければならない。それをフロイトは、「平等に漂う注意」、と表現した。これも上手い!
最初、その言葉がなにを言っているのかさっぱりわからなかった。牛丼店の客が店員に指示している「汁だく」の意味がである。したがって、その言葉が通じたときの喜びは例えようもないほど(?)であった。子どもたちにとって、ことばを使えることは世界が変わるほどのことであろう。最近では、子どもたちに、「ワンワン」とは教えず、「犬」と教えることが当然のことのようである。子どもたち混乱から救うにはよい方法である。
人と人とが会話が通じるのは、互いに同じ経験をしているときである。どこかのハンバーグが美味しかったと人が言うとき、同じ味を味わった経験があるときは、そうそう!と共感できるだろう。ところが同じ店を知っていることや、同じメニューを食べたということは少ないものである。ほとんどの場合、それほど美味しかったのだ、と返事を返すことがほとんどではないか。もし、同じメニューを食べたとしても、そのときの体調、空腹具合など十人十色ではないか。ではどうやって同じ感情を共有しているかと言えば、それは言葉という共通の道具を使うことでしかできないのである。だからこそ相手の言葉を尊重してあげることが大事なのである。
待つ方が待たされるより不満はない。能動と受身との違いはここにある。前者は自らの意志がある一方、後者は自らの意志を放棄させられ、従属させられている姿である。自ら決めたことにするのだ。それによって、自らが自らの主になれるのだ。どれほど待たされてもひとのせいにすることはなくなるだろう。暑さにだって立ち向かえば、火もまた涼し、となればよいのだが。
誰かが芸能界の最新ニュースを話題にしているとき、他の誰かが、「その話知ってる」などと呟いたとき、話を切り出したひとの顔が一瞬曇るのを見たことはないだろうか。そのときは知らない振りをするのがエチケットなのかもしれないが、振りをする人の顔が曇ってしまうかもしれない。話を切り出した人には自分だけが知っている、という唯一性の心理があるものだ。人の心には同じ話題を他の誰かと共有してほしいという願望と、唯一性との隙間にひっそり生きている生物なのである。
昔おとなしかった人が後年活動的になったり、学業の振るわなかった友人が優等生になったりすることがある。その人は能力を温存していたといえる。その反対の人たちも温存していたことになる。甲子園などで活躍した人が目立たなくなったとすれば、その活躍は本当の能力ではないことになる。一番厄介なことは温存しっぱなしで一生を過ごすことかもしれない。
ドラマの一シーンで、店員が横柄な客に水を盛大にぶちまける場面があったが、きっと撮り終えてから、俳優はじめスタッフ全員で快哉を叫んだことだろう。すべてが虚構のなかでのことだからだ。われわれも、演技させられているのかもしれない。子の前では親の役を、生徒を前にして教師は教師の役を、さらに、子は子、生徒は生徒の役割を互いに演じ分けているのかもしれない。つまり、私たちは演じているのではなく、演じさせられているのだ。いったい、本当の私とは何者なのか。その場合、監督はどこで采配をふるっているのか。
仕事に没頭していると、途中で訳が分からなくなってくるこてがある。ところが、終電が近づき、会社をあとにしたとたんに、「こうすればよいのだ」と、アイディアが浮かぶことがある。それがもう一人の冷静になっている自分である。没頭する私から離れて第三者の立場にたつためには、いったんその位置を離れる必要があるのである。
私たちが欲しいものは、最初から、その欲望があるわけではない。そのモノが欲しくなるのは、それを見た瞬間である。店で見るから欲しくなるのだ。だから出掛けなければいいのだ。ところが、家にはネットやテレビコマーシャル、折り込み広告などなど、こちらが欲望してなくても目に飛び込んでくるのを防ぐことはほぼ困難である。目をふさいだとしても、耳や鼻からだって入ってくる。だから人は自然に触れたくなるのかもしれない。おっと、触れたい、というのも欲望だった。
心地よい椅子に身を任せているときの気持ちは何ものにも例え難い。それは自分の体の凹凸にフィットしているせいだ。面と面の間が隙間なく一致しているからこそ心地よく感じられるのだ。それはかつて母の腕のなかで安らいでいた自らの過去を再現しているのかもしれない。遠い遠い昔の話だが・・
「本音を言うと、自分は・・・」と言うとき、それが本音を語っているとは限らない。本音とは、心のそこに埋もれていて、自分でも言うことができなくなっている言葉だ。言えない、ないしは、気付きたくないものなので、他人はもちろん、自分でも、その「音」に触れることができないでいる。まるで幽霊みたいに、ある日とんでもないとこらから聞かされるものなのである。
せっぱ詰まってから仕事に取り組むひとがいる。その訳とはいったい何だろうか。それは「せっぱ詰まってからやる」と自分で決めたからである。だから、人によっては、すぐにやる、とか、2~3日前にやる、と決める人もいるのだ。いずれにしても、自らが決めたことなので、誰が何と言おうと、曲げられない。そんな言葉を、誰がいつ頃私のなかに植え付けたのだろうか。そして、書き換えることは可能なのだろうか。
悩みは、今すぐに聞いてほしいものである。ところが、相手には相手の事情で、すぐに対応してくれるとは限らない。後回しにされた悩み事は忘れてしまったかのように思い込んでいる。それなら、たいしたことではないのでは、と問われれば、そうとも言えるし、やはり聞いてほしいものでもある。「たいしたことではない」ということで、自らを納得させてもいるから、やはり悩みは深刻だ。後回しにされた悩みは、あとになってもっと深刻度が増してくるものである。悩みの芽は早いうちに摘んでおくことが望ましいのである。
暇にかこつけて、庭石の黒ずみを削ぎ落としてみた。高圧洗浄機はコンクリートまで破壊するというので、見向きもせず、ただひたすらたわしでゴシゴシ。新品とはいかないものの、黒い部分は目立たなくなった。表面が乾くと、何かがおかしい。風情がなくなってしまったのだ。ここまで黒くなるのにどれだけの月日を要したことか。それを暇潰しのせいでなくしてしまった。ものにはすべて歴史と意味と風情があるのかもしれない。
欲しいものは手にした途端消えてしまうものである。あれほど渇望していたのに、である。もし、たった一つのもので満足してしまえば、それは欲望とは言えないものである。それはどうでもよく、なんでもよく、筆記具でいえば、書ければよい、というだけのものである。欲望とは、どうしてもこれでなければならず、代わりのものでは決して満たされることのないものである。それは、自分を生んでくれた母以外には考えられないひとである。
私たちは本当のことを言うことはまれではないか。誰かから、「ご家族はお元気ですか?」などと問われて、「ハイ、おかげさまで」、と言うだろう。正確に報告しようものなら、後でどれほど誤解をされるかわからないことを知っているからである。では本当のことはいったいどこで語っているのか。
人間はよい面と悪い面との両面を生きている。天使と悪魔、ジキルとハイド、だけでなく、大人と子ども、利口と愚か、男と女など、相反するものをもっている。女らしい人が男性的な振る舞いをしたり、反対に、男が女みたいな振る舞いをすることだってある。問題は、その両面を自覚できるかどうかである。それができないと、バカにされたなどと相手を非難することになる。女々しいぞ、と言われて、ハイその通りです、と言えればいいのだが。
言うことを聞かない子は正常、ということを聞いてはいても、いざ逆らう姿を見せられると、たじろいでしまうのが親御さんの心理ではないか。逆らうときの顔、態度を見て、心から喜べる人がいたら、きっとご先祖さまはお釈迦様かなにかであろう。そんなお方にであうために、仏像を拝むのかもしれない。あるいは、そんな人になりたいと密かに思っているからかもしれない。
従順な人は否定されることはない。ペットがそうである。散歩にはついてくる、待て!の指示には従い続ける。人間も家庭や職場でそうしていれば何かもらえる、と頭では分かっていても感情がわきあがるのをとめることができない。感情がでないまま従い続けるにはどうすればよいのだろうか。
モノは見る角度で見えたり見えなかたったりする。クモの巣取りを例にあげるまでもなく、角度を変えるだけで、モノの見えかたは異なるからだ。見る対象がモノである場合は、立ち位置を変えればよいが、考え方の場合はどうすればよいのか。もう一人の自分になる、分身の術を使う・・いずれにしても、自分にとって都合のよい角度で考えているのかもしれない。
同じモノでも、その価値は人によって異なる。子どもたちの人気者クワガタは、ブルーベリーの木にとっては害虫に早変わりだ。どんな人でも、置かれた環境・時代によって生き生きとした人になるのである。その環境が適正かどうか、それは自分ではなかなか分かりにくいものである。それを知る方法とは何か。
思い出には感情価が伴っている。思い出とともにそれが心のそこからわきあがってきて不覚にも涙にむせんだりする。周囲からみれば何?と思うようなことでも、本人にとっては真剣だ。その思い出に寄り添うこと、それが尊重である。
偉人に歴史があるように、すべての人にも歴史が存在する。それは悲しく、悔しく、切なくもちょっぴり甘いものである。どんな些細な経験にもどうしようもない事情に裏打ちされているものである。そんな歴史の一ページ一ページを振り返っていくことこそ精神分析の意味があるのである。それを知ることで前に進めるこたは多いものである。それを温故知新というのである。
買い物をしたあとで、後悔することはないだろうか。進歩と後悔は必ずセットになっている。もしそれで満足してしまえば進歩はない。作家が作品を排泄物にたとえるように、手にしたものは既に過去のものである。そう考えると、モノを追い求めているのか、追われているのかわからなくなるのだ。せめて前者の私でいたいものである。
人の一生はあれかこれかと迷うことばりだ。片方を選択すれば片方が立たず、こちらを通せば、わがままだ、頑固だと周囲の反対に会う。こうする、と言い切るためにはどうすればいいのか。根回しすればいいと言うが、たった一人で決めるにはそれなりの方法があるはずである。
人名や英単語などを記憶しているのはすべて言葉のおかげだ。一方、味はどのようにして覚えているか。それもやはり言葉である。舌が記憶しているのではなく、「美味しかった」という言葉に置き換えて記憶しているのだ。だからもう一度食べたいと思うのである。ところが言葉に置き換えられないまま無意識に貯蔵されているものがある。それは何か。
私たちの記憶は、五感の記憶とセットになっている。普段無意識の中にあるそれは、香りなどを嗅いだとき突然思い出されるようなものである。そのとき、「懐かしい」と感じて、思い出そうとしている自分に気づくものである。しかし、それができないのだ。なぜなら、それは言葉に置き換えて記憶できない時代の記憶だからだ。そこでなにがあったのだろうか。