環境
子育て中の親御さんがよくする話に、「子どもが幼稚園に行くようになったら言葉遣いが変わった」というものがある。言葉数が飛躍的に増加する。自分のことを「俺」と言う、悪態はつく、兄貴風を吹かせたりもする。大人だって同じ環境に生活・仕事している限り人格は変わらない。孟母三遷の教えのごとく、自分を変えるには環境を変えることである。
子育て中の親御さんがよくする話に、「子どもが幼稚園に行くようになったら言葉遣いが変わった」というものがある。言葉数が飛躍的に増加する。自分のことを「俺」と言う、悪態はつく、兄貴風を吹かせたりもする。大人だって同じ環境に生活・仕事している限り人格は変わらない。孟母三遷の教えのごとく、自分を変えるには環境を変えることである。
私たちの身の回りはモノであふれている。捨てるに捨てられないモノばかりだ。それらは他人から見れば、何なの?と思うモノである。一つひとつには思い出というラベルが表面に貼ってあるからだ。誰さんからのプレゼント、というラベルをはがしてしまえば単なるモノとして見られるのだが、それがなかなかできない。どうするか。
パソコンのプリンターの表面に、「印刷面は下です、注意!」と手書き文字が張り付けてある。もちろん私が書いて張ったものだ。私が私に指示している。「私は他者」という詩人の言葉の通りだ。印刷する私と、注意を喚起する私とが分裂している証拠だ。店で何かを買おとする私の耳元で、「買わない方がいい」と言っているのもそうだ。私はどちらの声を聞けばよいのだろうか。
生きるとは、断つことの連続だ。買う・買わない、行く・行かない・・A案を取ればB案が不満だし、B案を選択すればA案に未練が残る。どちらを選択しても片方に不満は残る、などと悟った風を装っていては何も決まらない。だから片方を切断することが必要だ。その切断機能こそ父である。父が子どもの目の前で片方を断念することを示すのである。子は学んだことではじめて学べるのである。
国道を車で走っていると、何台かの車と同じ方向に向かって走っているように感じることがある。ところがしばらくすると周囲の車のほとんどがメンバーチェンジしていることにも気がつく。みなそれぞれ目指す場所も帰る家も異なる、この当たり前のことが、私たちの生き方にも当てはまる。人からこちらの生き方を言われてもできることではない。同時に、人の生き方に口出しすることも必要ではないのだ。みんな違っていいのである。
質問とは心の開口部を指している。開口部めがけてベストの答えを放り込めばよいのである。バスケットボールのゴールを決めた瞬間の快を得られるのだ。質問なきところにこちらの考えを投げかけても弾き返されてしまうだろう。さらに、ピタリとくる答えが入ってこなければ、心は満たされないだろう。質問と答え、この言葉のやり取りほど興味深いものはない。
初対面の人と接すると何を話したらよいか分からなくなることはないだろうか。無口を通していて、後になってから、思慮深そうと言われたり、反対に愛想を振り撒いて軽い人と思われてもという両方の自分に悩んだりしないだろうか。そんなときは、どちらか一方に決めてしまえばよいのである。必要なだけの挨拶でよい、と決めること、それに尽きるのではないだろうか。
高校時代の合宿所の壁には、「花札・トランプ禁止」という貼り紙が至る所に貼ってある。ある日、卒業した先輩たちがわれわれをシゴキにやって来た。その晩のことである。卒業生たちはわれわれの目の前で花札をやり始めた。そこに突然合宿所の館長がドアを開けて入って来た。「先輩諸君ご苦労さん!」と言いながら入ろうとする相手を先頭の一人がブロック、花札に一番近い一人が花札を鷲づかみ、さらに一人が折りたたんだ座布団(花札にはつきもの)を枕に寝たフリ、それ以外のメンバーはあらぬ方向を見て、ロダンの傑作「カレーの市民」さながらの風情。ブロック担当が館長とひとしきり会話を交わしたあと、相手は帰って行った。その後はみんなで大爆笑。先輩のチームプレーの見事さに、私もはやく大人になろうと決心した。
帰宅したとき、机上のものの位置が微妙に違っていることはないだろうか。出掛ける前にいちいちチェックしたわけでなくてもである。人間の記憶力はいったいどうなっているのか。きっと、ものは自分自身だからだろう。ペンひとつさえも自分である。机上のホコリさえも自分なのである。そう考えながらチリを片付けることにしよう。
同じ時間でも、時間の経過が遅く感じられる場合と、矢のように時が早く過ぎ去るように感じられる場合とがある。その差はいったい何か。それは、自らがその時の主人公になっているかどうかである。時を支配しているのは自分だ、中心人物だという意識がその差である。本を読まされている、のではなく、自らが主となって読んでいるのである。それを自意識と呼んでいる。
長い人生の間には、予定通りにいかなかったことはないだろうか。というより、その連続と言えよう。逆にすんなりいきすぎると拍子抜けしてしまうほどだ。きっと自分自身がおおざっぱな人生を歩んでいるからだろう。ところが、このことだけは絶対に譲れないものが一つや二つある。それ以外は大目に見ることにしよう。
近くのゴルフ場が休みなので、隣家の御主人がゴルフクラブに磨きをかけている。プレーをしないときでもクラブに触れ、ゴルフ番組に目で触れ、雑誌に目を通している。いつも、いつでも、どんなときでもそのことに触れていること、それを、余念がない、と言うのではないだろうか。その起源はいったいどこにあるのだろうか。
ある一つのことを極める人は、他のことに無関心であることが多い。絵を描くことの好きな人は一日絵筆を持ち、お昼ご飯は、と尋ねると、おにぎり一つあれば平気だと言う。レーシングコースでタイヤをギューギュー言わせているスピードマニアのお昼もおにぎりだと言う。その反対に、グルメファンはグルメ一筋であろう。みんな求真していることはきっとあるはずだが、それに自ら気付くことはなさそうだ。それを夢中になると言うのではないだろうか。
広場の一角に焚き火の灯りが見える。いずこからともなく人が集まってくる。ある人は手をかざし、ある人は背中をあぶる。誰かがたわいもないことを口にすれば別の誰かが唱和する。打ち合わせした訳でもなく人は集まってくる。会話する、笑い合う、それが温かさの力である。
見ている側はさほどでもないが、見られている側が特に感じるのが、相手からの視線である。仕事に追われている間仕事に向けていた視線を家族に向けるようになってからがたいへんなのだ。他人は、関心をもたれて幸せですね、などと言うが、向けて欲しいときに向けてくれず、向けて欲しくないときに向けてくるのが視線である。かわすにはどうすればよいか。
初日の出を見ようと早起きして、ゆっくりブログなど書いていたら、今度は出るのが遅くなってしまった。余裕→油断のしりとりである。余裕がない方が効率よく作業を済ませることも多いのではないか。時間的にも、精神的にも余裕と緊張が必要なのかもしれない。
20年間で1000キロメーターしか走ってない中古車を見せてもらった。どこもかしこもピカピカでチリ一つ付いてない。買い手が現れないという。買っても運転できなくなる。私たちにもそうした未だ使ってない機能があるのかもしれない。ホコリ高い何かが。
初日の出を見ようと暗闇の中を歩く。誰もいないのではないか、危険はないか。そんなとき向こうの方で幾人かの人影がかすかに動いている。いささかほっとする。その幾人かも初日の出とともに橋の上から姿を消す。そしてまた一人。まぶしい朝日のなかをとぼとぼ歩いていく。
人はつい人の意見に従いがちである。それは、相手から嫌われたくない気持ちの表れではないか。この人には素直なのにあの人にはかたくなと思われたくないからだ。意地を通せば窮屈、というのならいっそのこと全部従ってしまえ、と、従う方を選択した結果かもしれない。それもいいではないか、などと考えながら暮らしているとやはり苦しくなってくる。その苦しさの元は、自分の身が削られて最後には消滅してしまうことへの怖れだ。消されてなるものか、私は存在し続けたい。その思いを強くするにはどうすればよいのか。
確立とは継続である。ずっとその状態が続くこと。人間が立ち続けるにはかなりの困難を必要とされる。人間は立つために独楽のように動き続けなければならないからだ。それは思考する心である。人の意見を尊重しながら最終的には自分の意見に従い、それを貫き通すことである。たいへんと言えばたいへん、容易と言えば容易。回っている独楽を見ながら考えた。倒れたらまた回せばいい。
われわれが二本の足で歩くようになったのは1歳前後である。両親にとって喜ばしいことであったに違いない。しかしそれはまた、両親の思う方向とは異なった方に行くことで、両親との葛藤を生むことにもなる。それが「自律」の時期である。自ら考え、行動し、責任を取るのだ。その時、どれだけ自分のとった行動に承認を与えられたかが問われることになる。その時期を無事に育てられることで、責任感の強い人間に育っていくのである。
出立とは、今までの自分の殻から飛び出すことを言う。われわれはヤドカリのように誰かから借りてきた鎧のようなものを身に着けて生きている。そうすることが社会での交流を円滑にするからだ。ある場合は俳優の誰かを、ある時には教師や上司、歴史上の人物・・・いくらでも借りてくる対象は存在する。そうしなければ何を見本にしたらよいのかわからないのが人間だからである。一度その鎧から出て自ら作った鎧を着ることである。それが難しいというなら、また別の鎧を探せばよい。今一番ぴったりする鎧がきっと見つかるかもしれない。そのうちオリジナルの鎧が出来上がるかもしれないからだ。
今年のテーマは、「出立・自立・確立」です。古い私から出て、自分だけの位置に立ち、それを確実なものに仕上げていくことが目標です。すでにその道を歩んでいる人はそれを自覚することによって、その意味を強く感じることができるでしょう。今年もよりよい年になることを祈願しています。