約束
子どもたちは親と交わした約束事を覚えている。一方親は忘れている。買う買わないで親子の間でしばしば口論になる。親は親の意地を通そうとし、子どもは子どもで必死である。片方が折れればいいのだ。さてどちらが折れるべきか。
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子どもたちは親と交わした約束事を覚えている。一方親は忘れている。買う買わないで親子の間でしばしば口論になる。親は親の意地を通そうとし、子どもは子どもで必死である。片方が折れればいいのだ。さてどちらが折れるべきか。
私たちは何かというと想像し勝ちである。先のことを想像することで事態に備えているとも言えよう。道路が混雑していると言われれば迂回路を考えたり、早目に出ることで備えている。それがほとんど当たることがないことを私たちは経験済みである。さらに、そこに私たちの願望が付着していることに気づくことはない。想像とは願望なのであろうか。
早目に目的地に着く方が好きな人と、時間通りに着いているのが好きな人といる。余裕を感じているからかもしれない。一方、いつも遅れて来る人もいる。相手を待たせて一向に平気である。その心理はなんだろうか。
どんな物も私たちは読んでいる。例えば車のナンバー。「96」「8080」などの数字をついつい読んでしまう。それはそこに意味を見いだそうとするからである。やはり人間は意味に生きる生き物なんだと感じてしまう。
紙コップで飲み物を口にするときの塩梅は実に難しい。ホットのものは余計だ。そんな塩梅を相手との会話に使えればいい。相手の一言でこちらが大袈裟に反応してもダメだし、感動しているのにこちらが無反応では相手は物足りないだろう。そのためのキーワードは、相手への関心だろう。
黙っているように見えて、人はいつも誰かと話しをしている。ファミレスのドリンクバーの前に立っているときのことだ。ホットコーヒーをさっき飲んだから、二杯目は紅茶にしよう、と言っていたり、いやいや紅茶では物足りないからココアだ、それも濃厚でなくてはね・・などと心のなかでしゃべっている。いったい誰としゃべっているのか。
人から「自分の話に乗ってほしい」と言われたら、聞き手が何やかやと言うことはできない。「自分の車に乗ってほしい」と言われたも同然だ。こちらが運転することも、指示することもできないようにである。ほとんど拉致されたに等しい。これは怖い話だ。その恐怖から聞き手が逃れるには、聞き手の意見やアドバイス、ないしは否定語を使うしかない。自分だったら、とか、こうしたら、とか言うことになる。最後にじっくり話を聞いたあとで、「でも・・」と言えば相手の話に拉致されずに済む。この瞬間、運転は語り手から聞き手によって乗っ取られている。私たちは無意識のうちに乗っ取られたり、乗っ取っているのかもしれない。この方が余程怖い話だ。
人が口に出したことはすべて一大事である。ここが痛い、あちらが痛いのは心の痛みであることを誰も信じてはくれない。たいしたことない、とか、そんなこと気にするな、などと言われて、そうかな?と思うが、違うとも思う。大切なのは真摯に耳を傾けてくれることである。それだけで人は癒される。そして前に進むことができるのである。
買った腕時計も机の上に置きっぱなし。服に至ってはタンスの中に何年も眠ったまま。それでも捨てられない。持っているだけで満足している。反対に靴などは3足しかない、ではなく、3足もあるとさえ感じている。私は私自身である。
私たちの日常は臨機応変の連続である。フォークの代わりに箸、メモ代わりの広告、ご飯からパンに変更、JRが不通なら地下鉄・・。こうした技ができるようになったのはいつ頃からだろうか。それは言葉を覚え始めた頃に遡る。ところが、覚えればそれでいいかと言うとさにあらず。その言葉を親がそう、と認めてくれてはじめて自我が成立するのである。そのとき子どもは、こんな考え、やり方でもいいと感じ自信を得ることになる。私たちはどんな子ども時代を送ってきただろうか。
働いては休息し、そしてまた働く、このリズムが大切である。ところが家庭の主婦は年中働き通しだ。いったいいつ休息しているのかと案じられるほどだ。出掛けても食事のためだったり、子どもたちの世話の一環だったりして、毎日休みがない。せめて子育てあとのカラの巣症候群にならないようにしてほしいものである。そんな殿方の心配ひ不要かもしれない。母は強し、だから。
私たちは感情の生き物である。誰かの言動で傷ついたり、ちょっとしたことで有頂天になったりしている。いちいち感情に左右されない人生を送れたらいいのに、と思っていても、映画にも音楽にも心が動かなくなってしまった先にあるものを考えるとそれも恐ろしい。その辺の落ち込みすぎない程度がなかなか難しい。
分かるとは何か。それは安心である。自分に向けられた相手の一言で傷ついた場合、相手の心境が分かればいいのだ。分かった瞬間、ああそんな心境だったのかと安心を得るのだ。貧乏揺すりがとまらない人、自分を否定ばかりする人のそれを知ることを繰り返していくことである。すると、気にならなくなりました、とか、楽に接することができるようになりました、などと報告するようになる。分かることによって、心の安心が保てるようになるのである。
タレントの誰かが番組から降板させられたなどという報道に接しても、私たちはきっと隠されたその人の次へのステップのせいだなどと思う。そんな具合に、覚めた目で私たち自身のことも見られればよいのだ。そんな鏡があればいいのに。
皆といるとき、私たちは周囲の意見に合わせることを考えている。そうすることが善と教わって来たからだ。馴れとは恐ろしいもので、相手がこちらに合わせてくれることも当たり前になっている。お互いに個性や主張を出し合うことを自動的に避けるようになっている。そうした平和主義にドップリつかっている一方で個性的に生きたいとも考えている二人の私がいる。
人の気分は刻々と変化する。猫の目のように変わる相手の気分に合わせていたらたいへんなはずなのに、なんとなく合わしていたりもする。もし気分が一定の人がいたらどうだろう。それも人間的でも猫的でもなくてつまらないかもしれない。私たちがいちいち天気に腹を立てないように暮らすことはできないのだろうか。
ユングは、自分の回りにいる人の数だけ自我がある、と言った。意に反して遅刻するのも自我のなせる技、思わぬことを相手に言ってしまうのも自我・・。そうなると本当の私などどこに存在するのかと思ってしまう。本当の自我にいつ出会うことができるのだろう。そしてそれがかなったときどんな発見があるのだろうか。
モノを選ぶとき私たちは何を優先しているのだろうか。たった一つの果物を選ぶときにも、山のように積み重ねられた果物のなかから一つのモノを選び出すとき何を見ているのだろうか。それが文字だ。果物の上に文字が?などとあなどってはいけません。人間は他のそれと比べて新鮮、とか、重そう、とかの感覚を文字に変換してそれを読んだ後に選択しているのだ。それに加えて生産地、値段などの文字がどんどん加わってたいへんなことになっているのだ。人間は文字を優先させる複雑な処理をいとも簡単にしているのである。
あの人にこんなことを言ってよかったのか悪かったのか考えてしまうことはないだろうか。モノを買ってから悔やんだり、出かけなければ出かけないで悔やみ・・私はどうしたかったのかでまた悔やみ・・。いずれにしても悔やみ続けるのが私たちの日常ではないか。そのどちらかに決めて一方を切る、それが決断だ。その決断は私のなかの誰がしているのだろうか。
近くにあるものだけを見ながら暮らしていると、遠くのものに気づきにくくなる。あっても気づかないようになるのだ。たまには遠くに目線を送ろうと試みてもすぐにまた目の前の仕事の方に目を移しがちだ。目標も今日明日のことだけでなく、遠い未来の目標にも目を注ごうではないか。
表出されるものの一つに声がある。元気な声だとか、元気がないとか言われて、そうかな?と不思議に思えるのは表出が無意識的だからである。無意識は隠せないのだ。普段から平静な気持ちなどなかなか保てるものではないから平静を保つことは難しい。反対に声が過剰なまでに大きくなったりするのも何か訳がありそうである。
歩くとき私たちは自動的に足を出し、手を振る動作をする。今から立って左足を出し速さはどのくらいで・・などといちいち考えてはいない。すべて無意識的になっている。動作の一つひとつに脳が指示を出していたら間に合わないからだ。同じように私たちの言葉も無意識的になっている。失言・言い間違い・度忘れなどが止められないのはそのためだ。訂正すればするほどボロが出たりもする。無意識のなせる技にどう対処すればよいのか。
情報社会と言われるように、私たちは誰かからの情報を頼りに物事を把握している。伝わる間に情報提供者の主観が混じってもいる。グルメ情報などはその典型だ。反対に自分で見つけ出したお店の味は格別である。その発見も、誰かから教わった情報がベースになっている。その提供者と親密な関係が結ばれていればいるほど、味はさらに濃いものになることは間違いない。
テレビ体操の画面では、音楽に合わせて3人の体操の人が体操をしている。一人は正面、二人目は横向き、もう一人は椅子に腰かけて体操している。視聴者は、自分の姿を3方向から見ることになる。音楽が進むにつれてその人数はさらに増える。あたかも自分が体操しているようだ。こちらは体操のメンバーになったような気分を味わえるのだ。私たちは鏡像のなかで暮らし、笑い、満たされていく。
写真を見ても、絵画を見てもいろいろなことを思い出す。記憶に彩られたそれらがまた、感情をも呼びさます。映像だけではなく、文字からも思い出すことは多い。そう考えると私たちの身の回りは思い出と感情で溢れかえっている。そこから抜け出して新たな記憶を作り出したいとも思っている。
人と会話しているとき、どうしても相手の表情が気になる。相手に嫌われていないか、とか、オーケーをもらうにはどう言えばいいかなどと考えながら何かをしゃべっている。いつの間にか自分のことより相手の立場に立ってものを言っている。立場が反対になればなったで、ちょっと難しい顔になってものを言っていたりもする。そんなことを考えずに言いたいことを言い合うにはどうすればよいのだろう。
私たちの身の回りにあるモノは何かの縁でここにある。無限に存在するモノの中からそれを選択したと考えると捨てがたいのが人情だ。きっとそれを選択した記憶が刻みつけられているからだろう。縁はモノとの間にだけあるのではない。友人・会社・学校・自分が産んだ子どもとの間にだって存在する。私たちはすべてのモノと縁で繋がっているのだ。
言い訳をするとさらにその言い訳をせざるを得なくなり、そしてさらに・・・と言うように、自ら墓穴を掘ることになってしまうのだ。遅刻の原因が電車にあろうと運転手の体調不良にあろうと言い訳をしない、が原則である。フロイトは失策行為には自らの無意識が隠されており、自らの隠された欲望から目をそらせてはならないと言っているくらいだ。とはいえ見たくないのが無意識。すべてが見えてしまった暁にはいったいなにがあるのだろうか。
すべてのことを知ることができない人間はどこからかの情報を頼りにしている。それにしばしば振り回されてもいる。とくに人についての情報には伝える人の感情がくっついているので厄介だ。そちらが優先してしまうこともしばしばである。怖いと言われていた人がさほどでもなかったりする。自らの目で確かめるにはどうすればよいのであろうか。
私たちは常にイメージを抱きながら生きている。クルマを運転しているときも、食事や人前でプレゼンしたり、歩いているときだってイメージしながら生きていることになる。クルマの前輪がどのようにコーナリングしているか見ることができなくても大雑把なイメージを頭の中で絵描き、それに近づけようとしている。その誤差が近いほどイメージ能力が高いと言えるのかもしれない。そう考えると未来もイメージすれば現実化できるのかもしれない。
子どもたちは変化してやむことはない。大人はその早さに追いつくのが大変だと感じる。大人だって変化し続けているのだが、そのことにはなかなか気づきにくい。それに気づくことができれば、子どもたちの変化についていくことができるはずだ。変化とは、一定の考えに固執しないことだ。すべてのことを驚きをもって受け入れることである。その時、すべてのものが輝いて見えるに違いない。