信頼関係
紳士服の店内でお客が店長に文句をつけている。昨日店員に選んでもらった背広が体にフィットしない、と言う。そうですか?と店長は言いながら肩に触れ、ボタンをかけ直し背中をサッと撫で、肩をポンポンと二三度軽くたたいて大丈夫です、ピッタリです!と頭から爪先まで見回しながら呟いた。背広の主はそうか大丈夫かピッタリしてきた!と言いながら店を後にしていった。店長との信頼関係のなせる技と言うべきであろう。
紳士服の店内でお客が店長に文句をつけている。昨日店員に選んでもらった背広が体にフィットしない、と言う。そうですか?と店長は言いながら肩に触れ、ボタンをかけ直し背中をサッと撫で、肩をポンポンと二三度軽くたたいて大丈夫です、ピッタリです!と頭から爪先まで見回しながら呟いた。背広の主はそうか大丈夫かピッタリしてきた!と言いながら店を後にしていった。店長との信頼関係のなせる技と言うべきであろう。
今日はどの服を着ようと考えているとき、自分の好みで選んでいるのだろうか。ブルーの服に手を伸ばしているのは、実はそれを着ると似合いますよと言う誰かの言葉がそうさせているのかもしれない。たまには違った柄を着ようかと思った途端、似合わないと言われ続けた結果かもしれない。そんな声を振り切って着たとしてもせいぜい一度か二度くらいである。個性的にいきたい私と平安を願う私とが今日もタンスの前で佇んでいる。
世間では、困難は人を強くする、などと言うが、その最中にいる人にとってはたいへんである。知恵が働くよ、の言葉も慰めにはならない。いずれ解決する、誰にでもある、たいしたことない・・役に立たない言葉ばかりかけられるのが決まりである。そんなとき人からどんな言葉をかけられたら安心を得られるだろうか。
誰かから、話があるなら言ってみてください、などと言われても言えるものではない。普段あれほど言いたいことが山をなしていたのに、と感じることはないだろうか。山のように言いたいことは、禁止された内容である。ということは、普段語っていることはいったいどんな内容なのだろうか。
私たちが話したいことはいったい何だろう。昨日起きたこと、目にしたことやテレビの話題などが多い。その中に語り手が訴えたいことがそっとそれとは知られずに隠されている。だから表向きの話題に惑わされず、語り手の本質に迫る必要がある。そう考えると、子どもたちが提出物を出すときに言う一言にもその奥に何かあることを賢いママさんたちは見逃さないのである。
人間の心のなかには言いたいことや訴えたいこと、ときには自慢したいことなんかも渦巻いている。それらは錯綜し、順序が入れ替わり立ち替わりして何が何やらごちゃ混ぜ状態である。だから、ときどき人に語ろうものなら支離滅裂となり、あなたいったい何が言いたいの?などと揶揄されるのがオチである。その思考が私をしていっそう無口に拍車をかける。ああ、この溜まりに溜まった話の放出方はないものか。
話すときの基本は相手の目を見て話すこと。にらむではなく見る。そのためには相手を理解しておくことが大事だ。相手は緊張していると心得よう。相手の緊張はこちらの緊張である。その源にあるのものはなにか。それは子ども時代にまでさかのぼる。そんなことを聞いてはいけない、とか、自分で調べなさい、などと言われた経験が未だに尾を引いているのかもしれない。その源を絶ち切ったとき本当のリラックスが得られるはずである。
人間は本来が怠け者。エレベーターや新幹線、クルマはこの思考が生み出したのだ。「楽することしか考えていない」子どもは実は人類の進化に協力しているとも言えよう。問題はそのことを自覚することかもしれない。無自覚でいるとそうした思考の人を許せなくなるかもしれないからだ。
時間は不思議。時計の針が私に指示してくる。「出かける時間だよ!」とか、「あと5分待て!」と。相手は機械、こちらは人間。機械に私たちが操られている。なぜ機械に指示されなくてはならないのだ、と思った途端に、それを決めたのは他ならぬ自分であることに気づく。機械のせいにしているが実は自分で自分に指示しているのだ。ああ、私はいったい誰なのか。
私たちもかつて誰かに向けてストレスを発散してきたはずだ。その相手は親かもしれず、友だちや理解ある上司かもしれない。そのお蔭で心の平安を保ったのだ。そんな過去はすっかり忘れている私だ。いったい誰がどれだけ受け止めてくれたことだろうか。
生きている以上人間にストレスはつきものだ。それを溜め込まない方法は、それを誰かにぶつけることである。子どもたちは誰にそれをぶつけるのか。兄弟に向ければ妹・弟いじめであり、友だちに向けてもいじめである。親がそれを受け止めてくれればよいのだ。パパの○○!ママの○○!といった具合にである。そうして受け止めてくれた子どもはいじめはしないものだ。大人は大きな手と体で受け止めてあげよう。
テレビを見ながら寝ている人がいる。音を消すと、起きて不満を述べたりする。なぜ消したのか、と。音は彼にとってバック・グラウンド・ミュージックなのだ。電車内の騒音、タクシー車内の振動・音などすべてBGMである。隣に停車したクルマの窓から大音量の音楽が流れてくる。その運転手にとって、その音量が心地よいのだろう。それが幼いころから慣れ親しんだ音量なのである。
人の語りはすべてが無意識の語りである。「思わず口をついて出てしまった」とか、「そんなことを言ったかな?」という体験は誰もがもっていないだろうか。すなわち、心にあることはどんなに注意していても口から出てしまうということ。したがって、相手のことを心底思っていないと、とんでもない言葉になって出てしまうのである。問題は語っている本人がそのことに気づいていないことである。それが無意識という領域が私たちの心の中にある証拠である。
私たちの身の回りは気になることだらけだ。スマホの画面のフィルムに入り込んだ一粒の空気だって気になって仕方がないものだ。他人さまから見ればどうしたと言われようと気になるのだ。ちょっとした一言、さっき口にしたケーキが美味しかったこと・・ほんの少しでもいい、誰か耳を傾けてくれる人はいないかと、人は人を求め続けている。