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2021年4月の31件の記事

2021年4月30日 (金)

嘘(2)

本当のことは書けないものだ。子どものころ夏休み日記帳に毎日の天気を書くときのうしろめたさはどうだったか。それは、天気がコロコロ変わるからだ。昼から曇ってきたら何と書けばよいのか、雨が降ったり止んだりしたらどちらを優先するか、夜中は・・そこで適当に書き入れるのだが、鉛筆の先に力が入らない。ああ、真実はいずこに。

2021年4月29日 (木)

小悟

大悟という言葉がある。大きな悟りを得ることて辞典にはある。そんな境地にいたるなど夢のまた夢。しかし小さな悟りには至っているかもしれない。この道を進めば早く駅に着けますよなどと教わって、ああそうか!と思えば、それも小さな悟りと言えないだろうか。そんなささやかなことにも驚ける私でありたい。

嘘(1)

ある高名な作曲家のエッセイのなかで、老人に電車のなかで席を譲ったと作文に書いたところ新聞に採用されたと書いてあった。それは嘘なのだが、それ以降文筆家てしても活躍しているという。このエピソードよりも、文章をいつも父が添削してくれたという方が彼にとって重要だったのである。

2021年4月28日 (水)

視覚

ラジオの「正午です」の声を聞いてつい時計を見てしまう。それは、二つの針が重なっているのを見てお昼休みやランチを思いだすからだろう。視覚から想像力が働くことを意味している。放送を疑っているのではない。対人関係においても、人そのものよりも外見で判断してしまいがちではないか。外見ゼロでその人を見るにはどうしたらよいのか。

2021年4月27日 (火)

思い出せない(4)

もし、隣家から回されてきた回覧板に自分の名前が書いてなかったとしたらどう考えるだろう。これは何かの間違えだから係に伝えよう、と考えるだろう。ところが、子ども時代に何らかのトラブルで忘れられた、名前を削除されたなどという経験がありそれが回りの人たちの嘲笑の的になったなどという体験があったとしたら、子ども心にそれがトラウマになる。すなわち「単なるミス」という具合に言語化できないという場合に悲しい記憶として登録される。その記憶が、回覧板の名前の不掲載に結びついて怒りとなって放出されるのだ。これがコンプレックスの恐ろしいところである。人から見れば「そんなことで・・」ということがトラウマ。その人のことはその人の悲しみであることに思いを致すこと、それが相手に寄り添うことである。

2021年4月26日 (月)

思い出せない(3)

思い出せないことは実はたいしたことではない。思い出すだけでイライラする、などということも、些細なことである。なぜなら、その事を言葉に出すことができているからだ。絶対に思い出したくないことは、言葉に変換できない状態になっているほどの苦痛である。それらを抑圧することで心の傷つきから自分を遠ざけることに成功している。それがちょっとした瞬間に体が反応してしまう。その瞬間が訪れても自分ではどうしようもないのだ。それはどんなことか。

2021年4月25日 (日)

思い出せない(2)

私たちは記憶するときに事柄に優先順位をつけて記憶している。頭のなかでこれは大事であれは後回し、こっちはゴミ箱に捨てて・・我ながらたいしたものだ。中には腕に書いている人もいる。覚えようとしても覚えられない事にはやはり訳があるのだ。その訳はやはり思い出せない内容である。

2021年4月24日 (土)

思い出せない(1)

記憶力の強い人とさほどでもない人とがいる。後者の人と一緒にいる方が好きというのも理解できよう。いつまでもこちらのことを覚えていられたらたまったものではない、という心理であろう。

2021年4月23日 (金)

タイミング

鶯の声を録音した。タイミングが難しい。朗々とした響きの背後で、通過するローカル電車の通過音や橋の上の暴走バイクの音が入ってしまう。それ以外にもや風の音などが四六時中流れている。それらが止むのを息を殺して待ち続ける。部屋に戻ってチェックすると、録音されていた音の中で最大のものは足音だった。自分のせいだ。バイクのせいにして自分を顧みていなかった。

2021年4月22日 (木)

次々と

人の悩みは尽きることがない。欲しいものが手に入らなくて悩み、入っても悩む。あちらの店で買えばよかった、後でもっとよいモノが出るのではないか・・。欲望は次々と生まれ出てくる。それがまた未来に生きる源になるとも言える。もし私たちが一つの製品で満足してしまったら科学の進歩も未来への希望もなくなることだろう。要は、買ったことを悔やまないこと。もっと欲しがる自分を受け入れることである。

2021年4月21日 (水)

聞き分ける

人からいろいろな意見を聞くことは大事だ。しかし、多くの意見のなかの一つはやはり自分の意見である。聞き分けているようで聞いてはいないのかもしれない。それは洋品店の店員がどれほど多くの服を私の目の前に並べようと、なぜか同じような柄を選んでしまうことに似ている。他人になりきることの難しさ、その反面自分らしく生きてもいたい。

2021年4月20日 (火)

提示

人はなぜ誰かに向かって語るのか。自分で自分に語るのではダメなのか。それは自分の考えを呈示することで客観的になれるからである。そのとき私は他人になる。呈示された考えを他人として見ることができる。自分のなかでは考えがごちゃ混ぜになっていて良し悪しが判別できなくなっているからだ。一旦呈示したものを見たとき、それは良い、とか、悪いとかが明白になる。それをしないと思わぬ過ちを繰り返すことになるかもしれない。

2021年4月19日 (月)

選択能力

私たちの耳はすべての音を聞いている人はいない。ファミレスでBGMの音や隣席の話など聞いてはいない。たまに隣の話が耳に入ることがあれば、それは自分にとって興味ある話だからである。もしすべての音を聞いていたらどうなるかと言えば、音同士がこんがらがってしまい、ワーンとした音になって聞こえるだろう。耳には選択能力が備わっており、いつの間にか選択しながら聞いているのだ。人間はすごい。

2021年4月18日 (日)

逡巡

私たちの考えは行ったり来たりの連続である。片方を選べばもう一方が立たないからである。早く出かけても遅れて出かけても待つのは一緒。しかし悩む。買う、買わないで悩み、食べても食べなくてもやはり悩む。悩まないで済む方法はないものだろうか。

2021年4月17日 (土)

元から断つ

ニオイは元から断たなければダメ、というコマーシャルがあった。悩み事も元があるのだ。人に悩みを聞いてもらったとしても元々の元まで到達していないかもしれない。その内容は世間話の範囲内である。もし元々の元を語ろうものなら自分のことが拡散されてしまうことだろう。しかしそれでよい。そのためのレストランがあるのだから。

2021年4月16日 (金)

評判

ラジオのパーソナリティーがあの店の天婦羅が旨いと言えば直行する人がいるらしい。店の数だけ名店はあるのだが、人は誰かの評判をあてにしている。そのパーソナリティーが最後に言う。日本中に美味しい店はあると。不味いモノを食べに行く計画を人としたことがあるが、確かに不味かった。こちらの方がレアかもしれない。

2021年4月15日 (木)

個性

どれほど個性的に生きたいと思ったところで多寡がしれている。ちょんまげ姿で歩けば個性的ではなく奇妙である。私たちは社会が作った目に見えない枠の中で暮らしている。それを文化と呼んでいる。

2021年4月14日 (水)

信頼関係

紳士服の店内でお客が店長に文句をつけている。昨日店員に選んでもらった背広が体にフィットしない、と言う。そうですか?と店長は言いながら肩に触れ、ボタンをかけ直し背中をサッと撫で、肩をポンポンと二三度軽くたたいて大丈夫です、ピッタリです!と頭から爪先まで見回しながら呟いた。背広の主はそうか大丈夫かピッタリしてきた!と言いながら店を後にしていった。店長との信頼関係のなせる技と言うべきであろう。

2021年4月13日 (火)

今日はどの服を着ようと考えているとき、自分の好みで選んでいるのだろうか。ブルーの服に手を伸ばしているのは、実はそれを着ると似合いますよと言う誰かの言葉がそうさせているのかもしれない。たまには違った柄を着ようかと思った途端、似合わないと言われ続けた結果かもしれない。そんな声を振り切って着たとしてもせいぜい一度か二度くらいである。個性的にいきたい私と平安を願う私とが今日もタンスの前で佇んでいる。

2021年4月12日 (月)

困難

世間では、困難は人を強くする、などと言うが、その最中にいる人にとってはたいへんである。知恵が働くよ、の言葉も慰めにはならない。いずれ解決する、誰にでもある、たいしたことない・・役に立たない言葉ばかりかけられるのが決まりである。そんなとき人からどんな言葉をかけられたら安心を得られるだろうか。

2021年4月11日 (日)

言う

誰かから、話があるなら言ってみてください、などと言われても言えるものではない。普段あれほど言いたいことが山をなしていたのに、と感じることはないだろうか。山のように言いたいことは、禁止された内容である。ということは、普段語っていることはいったいどんな内容なのだろうか。

2021年4月10日 (土)

内容

私たちが話したいことはいったい何だろう。昨日起きたこと、目にしたことやテレビの話題などが多い。その中に語り手が訴えたいことがそっとそれとは知られずに隠されている。だから表向きの話題に惑わされず、語り手の本質に迫る必要がある。そう考えると、子どもたちが提出物を出すときに言う一言にもその奥に何かあることを賢いママさんたちは見逃さないのである。

2021年4月 9日 (金)

言いたいこと

人間の心のなかには言いたいことや訴えたいこと、ときには自慢したいことなんかも渦巻いている。それらは錯綜し、順序が入れ替わり立ち替わりして何が何やらごちゃ混ぜ状態である。だから、ときどき人に語ろうものなら支離滅裂となり、あなたいったい何が言いたいの?などと揶揄されるのがオチである。その思考が私をしていっそう無口に拍車をかける。ああ、この溜まりに溜まった話の放出方はないものか。

2021年4月 8日 (木)

話し方

話すときの基本は相手の目を見て話すこと。にらむではなく見る。そのためには相手を理解しておくことが大事だ。相手は緊張していると心得よう。相手の緊張はこちらの緊張である。その源にあるのものはなにか。それは子ども時代にまでさかのぼる。そんなことを聞いてはいけない、とか、自分で調べなさい、などと言われた経験が未だに尾を引いているのかもしれない。その源を絶ち切ったとき本当のリラックスが得られるはずである。

2021年4月 7日 (水)

怠け

人間は本来が怠け者。エレベーターや新幹線、クルマはこの思考が生み出したのだ。「楽することしか考えていない」子どもは実は人類の進化に協力しているとも言えよう。問題はそのことを自覚することかもしれない。無自覚でいるとそうした思考の人を許せなくなるかもしれないからだ。

2021年4月 6日 (火)

時間

時間は不思議。時計の針が私に指示してくる。「出かける時間だよ!」とか、「あと5分待て!」と。相手は機械、こちらは人間。機械に私たちが操られている。なぜ機械に指示されなくてはならないのだ、と思った途端に、それを決めたのは他ならぬ自分であることに気づく。機械のせいにしているが実は自分で自分に指示しているのだ。ああ、私はいったい誰なのか。

2021年4月 5日 (月)

発散(2)

私たちもかつて誰かに向けてストレスを発散してきたはずだ。その相手は親かもしれず、友だちや理解ある上司かもしれない。そのお蔭で心の平安を保ったのだ。そんな過去はすっかり忘れている私だ。いったい誰がどれだけ受け止めてくれたことだろうか。

2021年4月 4日 (日)

発散(1)

生きている以上人間にストレスはつきものだ。それを溜め込まない方法は、それを誰かにぶつけることである。子どもたちは誰にそれをぶつけるのか。兄弟に向ければ妹・弟いじめであり、友だちに向けてもいじめである。親がそれを受け止めてくれればよいのだ。パパの○○!ママの○○!といった具合にである。そうして受け止めてくれた子どもはいじめはしないものだ。大人は大きな手と体で受け止めてあげよう。

2021年4月 3日 (土)

テレビを見ながら寝ている人がいる。音を消すと、起きて不満を述べたりする。なぜ消したのか、と。音は彼にとってバック・グラウンド・ミュージックなのだ。電車内の騒音、タクシー車内の振動・音などすべてBGMである。隣に停車したクルマの窓から大音量の音楽が流れてくる。その運転手にとって、その音量が心地よいのだろう。それが幼いころから慣れ親しんだ音量なのである。

2021年4月 2日 (金)

語る

人の語りはすべてが無意識の語りである。「思わず口をついて出てしまった」とか、「そんなことを言ったかな?」という体験は誰もがもっていないだろうか。すなわち、心にあることはどんなに注意していても口から出てしまうということ。したがって、相手のことを心底思っていないと、とんでもない言葉になって出てしまうのである。問題は語っている本人がそのことに気づいていないことである。それが無意識という領域が私たちの心の中にある証拠である。

2021年4月 1日 (木)

気になる

私たちの身の回りは気になることだらけだ。スマホの画面のフィルムに入り込んだ一粒の空気だって気になって仕方がないものだ。他人さまから見ればどうしたと言われようと気になるのだ。ちょっとした一言、さっき口にしたケーキが美味しかったこと・・ほんの少しでもいい、誰か耳を傾けてくれる人はいないかと、人は人を求め続けている。

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