花火
花火が5分間だけ打ち上げられるというので近くの土手に上がって見ることにした。その辺は女子高校生たちがにぎやかだ。きっとどこにも行くことができないストレスを発散しているに違いない…それにしても賑やかなことこの上もない。突然花火が打ち上げられた。その瞬間女子高校生たちも周囲の人たちも沈黙してしまった。ほんの一瞬の出来事であった。
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花火が5分間だけ打ち上げられるというので近くの土手に上がって見ることにした。その辺は女子高校生たちがにぎやかだ。きっとどこにも行くことができないストレスを発散しているに違いない…それにしても賑やかなことこの上もない。突然花火が打ち上げられた。その瞬間女子高校生たちも周囲の人たちも沈黙してしまった。ほんの一瞬の出来事であった。
私たちが今好んでしていることは、誰かの手引きで身につけたもの。サッカーは面白とか、誰々の本は役に立つ・・膨大な手引きの中から自分の体力や才能と照らし合わせながら選んだものだ。どれだけ手引きが多くされてきたかが、その後の生き方を左右しているのかもしれない。今自分がしていることの手引き者はいったい誰だったのだろう。
近所の公園の入り口に看板が立て掛けてあって、「所有者 埼玉県」と書いてある。誰かが自分は埼玉県だと名乗っている。私が行きつけのレストランを知っていれば、(もちろんそんな店を知ってはいないが)その店は私の所有物になる。曰く、この店のことは詳しいのだ、とばかりに。こうして人はその店や景勝地、はたまた路地の奥にある飲み屋などに愛着が生まれるのだ。自分の店というときの「の」を文法上、所有格と言うと、私の辞書には書いてある。
本当のことはあるのだろうか。「坂道を駆け上がって行くと海が低くなる」、などという文章を読まされると、本当とは何かを考えさせられる。そもそも坂道を駆け上がるのは駅伝ランナーに任せるべきだ、とか、駆けっぱなしのはずはない、海が自分で下手に出るはずがない・・などと屁理屈をこねていたら友だちはいなくなること受け合いである。表現とは詩的である、そしてその方が本当に聞こえる。私たちは本当と言えるものを一個も持ち合わせてはいないのだ。
人は仕事に追われ、家事に追われ、子どもたちは宿題に、作家は締め切りに、家を建てれば月末になるたびに追われ。一生追われっぱなしである。いっそのことそれから逃れようと思っても、その声に追われている。自分の部屋に閉じこもって安心と思って本を読もうとすれば、それを選らんだのか、選らばされたのか分からなくなっている。えいとばかりに本を投げ捨てればこれまたそうするように命令してきた何者かがいる。あなたはいったい誰?
公園の奥の鬱蒼とした森のはじっこに池がある。休日ともなれば池の畔に三脚を据えたカメラマンが十数人じっと被写体を待ち続けている。対象はこの池を縄張りとしている翡翠である。森の宝石だ。私がその背後を通るときカメラマンが一斉に私に視線を送る。池の魚は微生物を追い、翡翠は魚を追い、カメラは翡翠を追う。そのとき私はカメラマンに追い払われるのだ。そっと生きるのは大変だ。
日本中にたくさんの名所旧跡があって、今ではいくらでも見学することは可能だ。それゆえたくさん見すぎて印象に残らない、ということもある。ときには3館セット券をお得な値段で買ってしまった日には場所がさらに二つ増えてしまうからたいへんだ。車のない時代は一日一か所、明日一か所・・。一か所の価値は今よりずっと高かったに違いない。
かつて函館は、はるばる来た所であった。今はすぐだ。来たとう実感はどちらが強く感じるかは別として、遠い道のりと思っていたことも以外にそこに着いてみるとさほどでもないということもある。先輩・上司との距離、難解な理論、手が届かないと思っていたモノ、地位、名誉ですらその位置に到着することは可能だ。大切なことは到着するという意志なのである。
私たちはたとえ大勢の中から家族や恋人を見つけ出す。外国に行っても同じ国の人を探しだし、同じ趣味の人をかぎ分けるように作られているのである。釣り好き、ゴルフ好き・・とどのつまり私は私自身を見いだしているのかもしれない。
通りがかりに耳にしたこと、とか、ふと目に飛び込んできた文字のことを私たちは話題にする。とっくの昔からある事柄なのにそのことを取り立てて口に出すのだ。それはもともとその人の心の中にあった事柄である。あるタレントの家庭での状態であったり、胃腸科病院の看板であったりする。それらはすべて無意識の語らいと言って差し支えがない重要な語らいなのである。
強い態度でこちらに迫ってくる人には恐怖を覚える。語気を強め、距離を縮めてくることで優位に立とうとしているのかもしれない。上からものを言う態度かもしれない。逆に、なよなよした態度でこちらに接することで優位に立ちたいということもある。なよなよした態度で相手を優位に立たせることに成功しているのだ。どちらが怖いか。
人は誰かからの命令によって動かされている。課題をこなせ、仕事をしろ、といった具合に。その指示に従っているかぎりにおいて私には一切責任はない。課題が出来ても出来なくても指示には従っているからだ。そうした命令に従わなくなったとき、私たちの未来は私たちの手に任されるのだ。それが大人になるということである。
「申し訳ない」の言葉が私たちに植え付けられた罪意識である。おのれを後にし、相手を優先する、自己を犠牲にして先方の気持ちを汲む、それが道徳心であり、それに背くことは罪として排斥されてきた。「自分を通したい」自分との葛藤を回避するには、自己を犠牲にする方を選んできた。お蔭で人から叩き出されることからは免れた。人生とはいつ、どんなときに相手を優先し、そのまた逆をするかの方法を学ぶ場所でもある。
誰かから、水泳をするといいよ、などと言われてもしたくないものはしたくない。相手の命令に従わなかった時に感じるのがもの悲しさではないか。罪意識でも相手を断った気持ちでもない、言うに言われぬ感情である。その相手とは親密と権威ではないか。息子、とか、警察の者などの名称につい心を開いてしまうことに気をつけなければならない。
社会は謎だらけである。レストランに入ればそこは正体不明の人たちで溢れている。道ですれ違う人、電車で乗り合わせる人たちも同様である。相手もよくぞこんな自分とすれ違ってくれるものと感心してしまう。人混みにいるという安心感と正体不明という不安との二つが私の中に混在している。
私が私であると感じるのはどんなときか。それは自分でしたいことをしているとき、自分で食べたいものを食べているとき、寝たいときに眠るときである。したいことが妨げられる、食べたいものが得られない、寝たいのに寝かせてもらえないとき、それが自己喪失である。消防士が寝ているのを起こされても喪失とはならない。それが役割だ。自分の役割があればよい。やりたいことを妨げられても自己喪失にならないことがある。それはどんなときか。
波乱万丈の人生を送った人たちは多い。私たちも波乱万丈な人生を送っている。人が行動においてそうしているのとは対照的に私たちは精神世界で波乱万丈を生きている。あなたの波乱万丈は何だったのか。昨日の波乱万丈な一日とはどのような24時間だったのか。
人は二つの自分を生きている。こうあらねばならない自分と、こうありたい自分の二つ。片方だけ生きるのは難しい。一方だけだと自分がなくなってしまうだろう。ありたいだけでは社会との摩擦が生じるかもしれない。どちらだけで生きても片方が失われるのだろうか。
社会学の専門書などを読むと、人との接し方などが書いてある。それはその道で成功した人の筆によるものである。一般にはその通りにはいくものではない。集まりには参加せざるを得ないし、習慣には従わなければならない。そうしたくない人たちもいるのである。だから人はしばしば小説や映画の世界に遊びたくなるのかもしれない。
人が安心を得るにはどうしたらよいか。それは義務を果たし、人からの誘いは断らず、目の前の仕事をこなすことである。今日は市報を20軒の家庭のポストに配布する日であることを思い出してしまった。
コートを着ることなく夏に突入した。風避け用の羽毛コートも押入れの一角を占領している。夏物に比べて冬のそれは家のなかで眠り続けている。本だって一度に何冊も読むわけではないのに棚で並び続けている。それらを無駄と呼ぶべきか、余裕と呼ぶべきか。そんなことを考えていること自体が無駄か余裕か判別することが難しい。
いっそのこと時計を外して暮らしたらどうなるのか。一日何もしなくてもよく、好きなことだけしていてもよいということである。すると人は不安にかられることだろう。そんなことをしていていいのか・・というかつて誰かから言われ続けてきた声が頭をよぎるからかもしれない。その声の源はいったい何なのか。
自分と同じ考えをもって欲しいと感じるのが自然であろう。暑ければ暑いと言って欲しいし、美味しければ美味しいと頷いて欲しい。しかし痛みとか考え方となるとそうはいかない。そこに対立や齟齬が生まれてくることになる。その隙間を埋めるにはどうすればよいのか。
人は常識の中で暮らしている。そうすることで周囲との円滑な関係を保ってくれているからである。今日の成功を勝ち取ることができたからでもある。しかしそれが本人の自由な生き方や発想の妨げになっていると感じる一群の人たちもいる。さらには、今までの生き方では対処できない事態にたちいたっている人にとっても同様である。そこで今までの常識をいったん外すことが求められるのだ。しかしことはそう簡単にはいかない。常識の外に出ることの困難さがここにある。
人は言葉に酔ってしまう傾向がある。私などは特にそうだ。レストランの壁に「当店オリジナルドレッシング○○円」と貼ってあると、まず文字にうっとりしてしまう。次に、長い時間をかけて開発された品に違いないと想像力が働く。うっとりしている私の目の先の厨房では、何種類かの液体をペットボトルに入れて上下に激しく振っているのを見た頃には現実世界にすっかり引き戻されている。綺麗な瓶に収まっている液体の向こうにペットボトルの影が見え隠れする。私はいったいどの世界にいるのか。
絵空ごとと思えることが実は現実ということがある。この男性化粧品を使うとイケメンになりますよ、その証拠はパッケージの写真です、などと書いてあったりすると、どちらが現実でどちらが絵空ごとなのか分からなくなる。そのとき私は違う世界の方に放り出してしまい、モデルになりきっている。絵空ごとのなかに安息している私がいる。私はいったい誰?
私たちが現実と思っていることが虚構だと気づかされることはよくある。立派な外見の建物の中に入って見ると空っぽだったり、豪華なケースに入っていたからといって中身とそぐわないということもある。人間はその境目を行ったり来たりしているのだ。
人は誰もが主人公である。あるときは王子・王女であり、またあるときは大統領、ヒーロー、スター、大歌手であったりする。夢の世界の話ではない。コンビニ、数人で酒場に行くとき、落とし物を拾ってあげたとき、ブティックでの私であり、鼻歌を口ずさんでいるときの私であったりする。そんなささやかな英雄気取りをしたいのが私たちではないだろうか。
ハサミ一つ買うにもくよくよする。こちらはドイツ製、隣のは一流ブランド、ひっそり置いてあるのは100円だ。くよくよ悩む。後になってからでも悩む。それは記憶が働いていることを意味する。いっそのこと記憶喪失になればよい。最初から一つだけ置いてあれば悩まない。残像を消すにはどうしたらよいのか。
日本人には日本人の伝統があり、外国人には外国人の伝統がこれまたある。例えばナイフとフォークの使い方はどうだろう。レストランでの外国人の使い方には惚れ惚れする。その違いが伝統だ。マナー然り、服の着こなし然り、どれだけよい環境の中で暮らすかがその差になるのであろう。
何歳ですか?と聞かれてつい正確に答えようとしてしまう。何歳と何ヵ月、あるいは、もうすぐ何歳といった具合に。誕生日を半年すぎていたら一歳加えるべきか悩んだりする。だいたいでよいのに、一歳サバ読んでは大変とばかりに一生懸命考えたりもする。正確な歳とはいったい何なのだろうか。